1 嘘をトカシテ
「おや、起きたかい?」
意識が現実に戻ってくると、眩暈が襲ってきて、起き上がれないどころか目を開けていられない。仰向けになっているのも苦しくて、身体を横にしてみても、気持ち悪さはどこにもいってくれない。チェシャ猫の問いに応えられずにいると、背中をさすられる。
漂ってくる甘い紅茶の香りに胸焼けがするようで、鼻で息をするのも辛い。普段は心が踊る香りなのに。
「時間を越えてきたんだ。しばらく目を瞑るといいよ」
チェシャ猫が手をかざしてくれて、不快に感じていた外界の光が遮断される。匂いも光も、今は気分をかき乱すものでしかない。気分が悪い。でも、寝ていられない。一刻も無駄に出来ないのだから。
「チェシャ猫、ありがとう」
「アリス、無理をしてはいけないよ」
「平気だよ。急がないと、世界の崩壊が進んでしまうから」
まだ眩暈は治らないけれど、起き上がってみる。すると、チェシャ猫に止められた。
「君の気持ちは分かるよ。立つときは僕が身体を支えてあげる。でも今は姿勢を低くして座ってくれるかい? 隠れているんだ」
「隠れている? どうして?」
「ほら、あそこ」
チェシャ猫の視線を追うと、少し離れた先でお茶会が開かれている。その横では、クロッケーが行われていた。周囲を見渡すと、ここが小さな城の内側で、私達は木々の茂みにうまく隠れているらしいことが分かった。
小鳥のさえずりと、新緑の息吹。森の中にある、こじんまりとしたお城。
もう一度お茶会のテーブルに視線を戻すと、見慣れた姿が目にはいった。
「女王様!」
「しっ、静かに。この距離なら女王には聞こえないけれど、ウサギには聞こえてしまうかもしれないよ」
「ごめんね。あっ、ウサギもいるね。あれは、白ウサギ?」
白いウサギ耳を頭にはやした青年が、女王様の傍らに立ち、てきぱきとお茶会の準備をしている。女王様の隣には、冠を被った男性がいる。その人がダイヤの王子だと気付くまで、時間がかかった。
「もしかして、今は呪いがかけられる前の時間?」
「そうみたいだね」
女王様も王様も優雅にお茶を飲んでいて、テーブルに座る誰もが楽しそうだ。帽子屋と見惑うシルクハットを被った青年、テーブルで眠りこける眠りネズミ。そしてその中に、金髪の少女を見つけた。
落ち着いた雰囲気があるのに、笑った顔は快活そうで、聡明でいて無垢であるような、見る人の好奇心をくすぐる少女。彼女はチェシャ猫だろう幼い少年を撫でたり話したりしながら、会話とお茶を楽しんでいるように見えた。
白ウサギやビル達とみた、あの絵本で感じた穏やかな時間。幸せの時間。
クロッケーをしている中には、背中に羽をはやした少年がいて、人並み外れた腕力とスピードで、ボールを遠くまでとばしていく。
「公爵夫人」
「えっ」
クロッケーを終えた貴婦人が、お茶会の席へと座る。遠目から見ても優雅で気品がある仕草は、お茶会の雰囲気を上品なものへ変えていく。
少し物悲しそうなチェシャ猫の横顔に胸が痛くなって、今度は私がチェシャ猫の背中をさする。お互いこの場から動くことも、言葉さえも忘れて、幸せな時間をただただ見つめた。この時間がずっと続くものと信じて。
最初の異変は、女王様がティーカップを落としたことだった。女王様は気を失ったのか、崩れていく身体を隣にいた王様が抱き止める。公爵夫人は動揺したのか、席を立つ。王様や白ウサギが女王様を呼ぶ声が、ここまで聞こえてくる。
「女王様に何があったの? チェシャ猫、助けにいかなきゃ!」
「待って、アリス。僕らがここにいるのは、真実を知るためだよ。彼らを助けにきたんじゃない。それに、僕らには」
チェシャ猫の最後の言葉が、嵐によってかき消される。お茶会のティーカップもクッキーも、突如現れた竜巻に巻き込まれ、砕け散っていく。暗雲が空を覆い、辺りが暗くなった。空はどこまでも暗く、木々が悲鳴をあげる。
空気が重々しくなって、身体に人一人分の体重がのしかかっているみたいだ。私はこの感覚を知っている。
すぐに悲鳴があがって、血飛沫が散る。まだ人影を保っていない黒い影が人々を襲い、お茶会のテーブルをひっくり返す。突然のことに、誰も逃げることはできず、次々と切り裂かれていく。
「アリス君、逃げたまえ!」
「ダメよ、帽子屋!」
一代目を逃がそうとした帽子屋が、背中を切り裂かれた。一代目の悲鳴が、心を引き裂く。帽子屋の身体を抱き止めた一代目は、黒い影を睨んだ。
「どうして、こんなことするのよ。貴女は何なの! どうして」
「アリス!」
チェシャ猫の呼び掛けに振り向くと、視界が回り始める。暗雲の流れが激流のように流れ、木々は恐ろしい早さで葉を揺らす。まるで時間が狂ってしまったかのようだ。
チェシャ猫が私の手をとり、私も手が離れないように強く繋ぐ。なんとなく、離れてはいけない気がした。
「ねぇ女王、起きて。ここは悪夢に、ならないはずでしょう」
一代目の言葉を最後に、身体が何かに弾かれたように思い切り飛ばされる。二度目の浮遊感に、頭がおかしくなりそう。
「これは、なかなか辛いね。アリス、大丈夫かい?」
「う、ん。何とか」
眩暈が落ち着くまで目を閉じながら、肌をさする。冷気が肌を冷やし、呼吸をすれば肺が凍る。
「寒いね」
「チェシャ猫、近いような気がするのだけど!」
「猫は寒いのが嫌いだからね。暖をとっているだけだよ」
「暖をとるって!」
身を寄せてきたチェシャ猫と距離をとろうとすると、腕をあっさりと捕まえられて、抱き締められる。
暖かいけど、恥ずかしい。
「此処、どこだろうね」
宝石のような氷が、壁と床一面を覆い隠している。奇跡や魔法が起こりそうな、神秘的な雰囲気があって、冷たい息をのんだ。
「誰かくる。アリス、隠れよう」
チェシャ猫に誘導され、柱の陰に隠れる。チェシャ猫の言った通り、誰かが階段を降りてくる足音が、私の耳にも聞こえてきた。ヒールの音だ。
足音は私達に気づくことなく通りすぎて、奥へと進んでいく。陰から足音の方を覗くと、女王様の後ろ姿が見えて、声をあげそうになってしまった。
女王様。女王様がいるってことは、ここは城? でも、私はこの部屋を知らない。城にこんな所があったなんて。今はどこの時間で、此処はどこなのだろう。
女王様の後ろ姿を追うと、更に声をあげそうになってしまった。思わず口に手をあてる。
――鏡。
全身をうつすほどの大きな鏡が、奥に飾れている。女王様は鏡に触れ、ため息をつく。密閉された空間なのか、そのため息が反響した。
「この鏡を割れば、罪を背負わずに済む。あの子も、家に帰れるのでしょう?」
女王様は近くに立て掛けてあった剣を抜くと、鏡に向かって剣を振りかざす。
「おや、起きたかい?」
意識が現実に戻ってくると、眩暈が襲ってきて、起き上がれないどころか目を開けていられない。仰向けになっているのも苦しくて、身体を横にしてみても、気持ち悪さはどこにもいってくれない。チェシャ猫の問いに応えられずにいると、背中をさすられる。
漂ってくる甘い紅茶の香りに胸焼けがするようで、鼻で息をするのも辛い。普段は心が踊る香りなのに。
「時間を越えてきたんだ。しばらく目を瞑るといいよ」
チェシャ猫が手をかざしてくれて、不快に感じていた外界の光が遮断される。匂いも光も、今は気分をかき乱すものでしかない。気分が悪い。でも、寝ていられない。一刻も無駄に出来ないのだから。
「チェシャ猫、ありがとう」
「アリス、無理をしてはいけないよ」
「平気だよ。急がないと、世界の崩壊が進んでしまうから」
まだ眩暈は治らないけれど、起き上がってみる。すると、チェシャ猫に止められた。
「君の気持ちは分かるよ。立つときは僕が身体を支えてあげる。でも今は姿勢を低くして座ってくれるかい? 隠れているんだ」
「隠れている? どうして?」
「ほら、あそこ」
チェシャ猫の視線を追うと、少し離れた先でお茶会が開かれている。その横では、クロッケーが行われていた。周囲を見渡すと、ここが小さな城の内側で、私達は木々の茂みにうまく隠れているらしいことが分かった。
小鳥のさえずりと、新緑の息吹。森の中にある、こじんまりとしたお城。
もう一度お茶会のテーブルに視線を戻すと、見慣れた姿が目にはいった。
「女王様!」
「しっ、静かに。この距離なら女王には聞こえないけれど、ウサギには聞こえてしまうかもしれないよ」
「ごめんね。あっ、ウサギもいるね。あれは、白ウサギ?」
白いウサギ耳を頭にはやした青年が、女王様の傍らに立ち、てきぱきとお茶会の準備をしている。女王様の隣には、冠を被った男性がいる。その人がダイヤの王子だと気付くまで、時間がかかった。
「もしかして、今は呪いがかけられる前の時間?」
「そうみたいだね」
女王様も王様も優雅にお茶を飲んでいて、テーブルに座る誰もが楽しそうだ。帽子屋と見惑うシルクハットを被った青年、テーブルで眠りこける眠りネズミ。そしてその中に、金髪の少女を見つけた。
落ち着いた雰囲気があるのに、笑った顔は快活そうで、聡明でいて無垢であるような、見る人の好奇心をくすぐる少女。彼女はチェシャ猫だろう幼い少年を撫でたり話したりしながら、会話とお茶を楽しんでいるように見えた。
白ウサギやビル達とみた、あの絵本で感じた穏やかな時間。幸せの時間。
クロッケーをしている中には、背中に羽をはやした少年がいて、人並み外れた腕力とスピードで、ボールを遠くまでとばしていく。
「公爵夫人」
「えっ」
クロッケーを終えた貴婦人が、お茶会の席へと座る。遠目から見ても優雅で気品がある仕草は、お茶会の雰囲気を上品なものへ変えていく。
少し物悲しそうなチェシャ猫の横顔に胸が痛くなって、今度は私がチェシャ猫の背中をさする。お互いこの場から動くことも、言葉さえも忘れて、幸せな時間をただただ見つめた。この時間がずっと続くものと信じて。
最初の異変は、女王様がティーカップを落としたことだった。女王様は気を失ったのか、崩れていく身体を隣にいた王様が抱き止める。公爵夫人は動揺したのか、席を立つ。王様や白ウサギが女王様を呼ぶ声が、ここまで聞こえてくる。
「女王様に何があったの? チェシャ猫、助けにいかなきゃ!」
「待って、アリス。僕らがここにいるのは、真実を知るためだよ。彼らを助けにきたんじゃない。それに、僕らには」
チェシャ猫の最後の言葉が、嵐によってかき消される。お茶会のティーカップもクッキーも、突如現れた竜巻に巻き込まれ、砕け散っていく。暗雲が空を覆い、辺りが暗くなった。空はどこまでも暗く、木々が悲鳴をあげる。
空気が重々しくなって、身体に人一人分の体重がのしかかっているみたいだ。私はこの感覚を知っている。
すぐに悲鳴があがって、血飛沫が散る。まだ人影を保っていない黒い影が人々を襲い、お茶会のテーブルをひっくり返す。突然のことに、誰も逃げることはできず、次々と切り裂かれていく。
「アリス君、逃げたまえ!」
「ダメよ、帽子屋!」
一代目を逃がそうとした帽子屋が、背中を切り裂かれた。一代目の悲鳴が、心を引き裂く。帽子屋の身体を抱き止めた一代目は、黒い影を睨んだ。
「どうして、こんなことするのよ。貴女は何なの! どうして」
「アリス!」
チェシャ猫の呼び掛けに振り向くと、視界が回り始める。暗雲の流れが激流のように流れ、木々は恐ろしい早さで葉を揺らす。まるで時間が狂ってしまったかのようだ。
チェシャ猫が私の手をとり、私も手が離れないように強く繋ぐ。なんとなく、離れてはいけない気がした。
「ねぇ女王、起きて。ここは悪夢に、ならないはずでしょう」
一代目の言葉を最後に、身体が何かに弾かれたように思い切り飛ばされる。二度目の浮遊感に、頭がおかしくなりそう。
「これは、なかなか辛いね。アリス、大丈夫かい?」
「う、ん。何とか」
眩暈が落ち着くまで目を閉じながら、肌をさする。冷気が肌を冷やし、呼吸をすれば肺が凍る。
「寒いね」
「チェシャ猫、近いような気がするのだけど!」
「猫は寒いのが嫌いだからね。暖をとっているだけだよ」
「暖をとるって!」
身を寄せてきたチェシャ猫と距離をとろうとすると、腕をあっさりと捕まえられて、抱き締められる。
暖かいけど、恥ずかしい。
「此処、どこだろうね」
宝石のような氷が、壁と床一面を覆い隠している。奇跡や魔法が起こりそうな、神秘的な雰囲気があって、冷たい息をのんだ。
「誰かくる。アリス、隠れよう」
チェシャ猫に誘導され、柱の陰に隠れる。チェシャ猫の言った通り、誰かが階段を降りてくる足音が、私の耳にも聞こえてきた。ヒールの音だ。
足音は私達に気づくことなく通りすぎて、奥へと進んでいく。陰から足音の方を覗くと、女王様の後ろ姿が見えて、声をあげそうになってしまった。
女王様。女王様がいるってことは、ここは城? でも、私はこの部屋を知らない。城にこんな所があったなんて。今はどこの時間で、此処はどこなのだろう。
女王様の後ろ姿を追うと、更に声をあげそうになってしまった。思わず口に手をあてる。
――鏡。
全身をうつすほどの大きな鏡が、奥に飾れている。女王様は鏡に触れ、ため息をつく。密閉された空間なのか、そのため息が反響した。
「この鏡を割れば、罪を背負わずに済む。あの子も、家に帰れるのでしょう?」
女王様は近くに立て掛けてあった剣を抜くと、鏡に向かって剣を振りかざす。

