桃色のアリス ~暗黒の魔女とアリスの想い~

 身体のバランスを崩したかと思うと、水しぶきを上げて浴槽の中へと落ちた白ウサギ。水しぶきが勢いよくはねて、私とチェシャ猫も頭から水を被る。まるで最初に出会った時のようだ。白ウサギのおっちょこちょいは、もうお約束なのかもしれない。
「ぶはっ! 意外と熱いんですね」
 ウサギ耳が水面から出てきたと思うと、白ウサギが顔を出す。
「相変わらず呑気なウサギだね」
「ぼくも混ぜて混ぜてー!」
 チェシャ猫とビルがあまりにも普通の反応なので、込み上げてきた感情が爆発する前におさまっていく。けど、涙は抑えられるわけがなくて。さっきは笑顔になれたのに。
「本当に、無事で良かった!」
「わわわわ! 泣かないでくださいっ」
 慌ててバシャバシャと水面をかき分け、白ウサギは私の元へ来ると、私の涙を指で拭う。
 そして泣き虫な私を宥めるように、チェシャ猫がぽんぽんと撫でてくれている。
「泣かないで、お姉ちゃん」
 ビルも、小さな身体を一生懸命に伸ばし、頭を撫でてくれた。
「皆、無事です。メアリーもグリフォンも海ガメも。だから泣かないでください」
「うん、三人共、ありがとう」
 自分でも涙を拭うと、気合いを入れるため顔にお湯をかける。暖かいお湯は逆にリラックスしてしまいそうだけど、気合いには負けたようで、炎が胸の内で燃えるように、身体の奥からやる気が湧いてきた。
「よしっ!」
 元気を取り戻した私は、目の前にいる白ウサギに、にっこりと微笑んでみせる。
「もう大丈夫! 心配かけてごめんね!」
 泣いている暇なんてない。きっと王子様が待ちくたびれている。
 ビルと手を繋いでお湯から上がる。あれだけ水浸しになったのにエプロンドレスは空気に触れた途端、水分をなくして完全に乾いていく。
「失礼。アリス、用意出来たかな?」
「ハンプティ!」
 お風呂の扉からそっと顔を出したのは、さっき別れたばかりのハンプティ。今は柔らかい雰囲気のハンプティだ。その後ろには付き添うように、時計屋さんが入ってきた。
「貴女方が入浴して五分七秒。ダイヤの王子は待ちぼうけをくらっています。その間、女王のトランプ兵が城へ招かれました」
「女王様のトランプ兵が? こんなに早く追ってくるなんて!」
「アリス、一体どういうことですか?」
 事情の知らない白ウサギとビルは、困惑する私を見て不安そうな顔をする。白ウサギにとって、トランプ兵は注意すべき存在だけど、まさか私まで注意しているなんて思いもしないはず。
「女王と僕ら、意見のすれ違いで対立しているんだ。僕らと呪いを解く鍵になる君達二人、白ウサギ、黒ウサギは追われているんだよ」
「ダイヤの王子が足止めしてくださっているおかげで、まだ貴女方が城にいるのは知られていません。ですが、このままでは確実に捕まります。王子は、嘘をつくのがド下手ですから」
 時計屋さんはベルトに巻き付いていた懐中時計を外すと、胸元まで持って時計に視線を送る。
「よって、貴女方を今より千四百年前へ送ります。異論はないですね?」
「は、はいっ!」
 急な展開に戸惑うけれど、そんなの今更だ。旅に出てから起こること全てが突然で、突発的だった。
 千四百年前、呪いを解く可能性のある時間。
「僕も、行って良いのですよね」
「白ウサギ」
 私の横に並んだ白ウサギは、時計屋を真っ直ぐ見据える。白ウサギの真剣な横顔には覚悟があって、凛としたその横顔は、黒ウサギを思わせた。
「呪いを解く魔法は僕らも探していたところです。僕も行きます」
「ぼくもぼくもー!」
「王子はアリス様一人でと仰っています。これは彼女の試練。アリス様にしか出来ないことです」
「案内人は僕だ。僕は行くよ」
 チェシャ猫は強気に言うと、時計屋さんの氷を覗いたような瞳が不快感を顕にした。
 時計屋さんが時計の秒針を巻き戻す素振りを見せると、辺りに紫色の光が溢れる。有無を言わせないようだった。チェシャ猫もそれを察すると、私に視線を向ける。
「アリス、平気かい?」
「平気。怖くないよ」
 いつものように手を握ってほしい。言葉よりも鮮明に伝わってきたチェシャ猫の感情が、まだ忘れられないから。
 悲しい、寂しい、怖い。
 チェシャ猫の呪いは白ウサギや黒ウサギにかけられた呪いとは違うけど、チェシャ猫がどこかに行ってしまう気がして。
 不安になりチェシャ猫の手をとる。チェシャ猫はいつものように優しく握ってくれた。
 離れないで、離さないで。このまま、ずっと――
 光は私を飲み込んで、ゆっくりと意識を沈ませた。淡い光が温かみを持って、魂を運んでいく。身体を駆け巡る血液がふと遠くなって、身体の感覚がなくなる。
 行こう、長い長い時空の向こうへ。