帰宅部は存在しない

 桜ヶ丘高校の廊下は、部活勧誘のチラシと先輩たちの声で溢れていた。
 入学して二週間が経った四月中旬、私——楓は部活勧誘の波にうんざりしている。放課後になると、廊下のあちこちで先輩たちが新入生を捕まえて勧誘していて、私も例外ではなかった。昇降口に向かおうとするたびに声をかけられて、逃げるように適当な返事をして通り過ぎる日々が続いている。
「ねえ、楓ちゃん! 吹奏楽部どう?」
 クラスメイトの美咲が私の腕を引っ張ってくる。美咲は入学初日から社交的で、すでにクラス中の友達を作っていた。明るい性格で人当たりがよく、誰とでも仲良くなれるタイプだ。
「私、楽器とか無理だし」
「じゃあバレー部は? 初心者歓迎だって」
「運動も苦手」
 私は曖昧に笑って首を横に振る。美咲は少し残念そうな顔をするが、すぐにまた笑顔に戻った。
「楓ちゃん、何か興味ある部活ないの?」
「うーん……特には」
 本当のことを言えば、どの部活にも興味がなかった。運動部は体力的にきつそうだし、文化部も何かを作ったり発表したりするのが面倒に感じる。それに、放課後まで学校に残って活動するなんて考えただけで疲れてしまう。早く家に帰って、自分の部屋でスマホをいじったり動画を見たりしていたい。
 廊下を歩いていると、次々と先輩たちが声をかけてくる。
「文芸部、興味ない? 小説とか詩とか書くの好きな子、大歓迎だよ」
「演劇部、見学だけでも来てみない? 今度の公演、面白いよ」
「美術部なら初心者でも大丈夫だから! 絵を描くの好きでしょ?」
 私は全てに「考えておきます」と答えて逃げる。本当は考える気もないけど、断るのも面倒だった。先輩たちは熱心で、一度断っても何度も声をかけてくる。
 教室に戻ると、担任の田中先生が立っていた。三十代半ばくらいの男性教師で、普段は物静かで生徒との距離を保っているタイプだ。授業中も必要最低限のことしか話さず、生徒に対して妙に淡白な印象がある。
「おい、お前ら。部活希望調査票、明日までに出せよ」
 クラス中から不満の声が上がる。
「えー、まだ決めてないですー」
「もうちょっと考えさせてください」
「見学もまだ終わってないんですけど」
 田中先生は淡々とした口調で言う。
「部活に入らないなら、帰宅部になるからな」
 その言葉に、クラスがざわついた。何人かの生徒が顔を見合わせて、小声で話し始める。
「帰宅部って何ですか?」
「部活入らなくてもいいんですか?」
「帰宅部って、ただ帰るだけじゃないの?」
 田中先生は黒板にチョークで「帰宅部」と書いた。文字は少し歪んでいて、どこか不安定な印象を与える。
「帰宅部も正式な部活動だ。ただし、ルールがある」
 私は興味を持って顔を上げた。帰宅部——部活に入らずに帰れるなら、それが一番いい。ルールがあるって言っても、たぶん大したことじゃないだろう。
「ルール?」
 誰かが尋ねると、田中先生は黒板に書き足す。
「放課後は速やかに帰宅すること。それだけだ」
 クラスメイトたちは笑い声を上げた。
「それって部活じゃなくない?」
「楽勝じゃん」
「帰るだけでいいんでしょ? 余裕だよ」
 でも田中先生の表情は、どこか硬いままだった。いつもの淡白な様子とは違う、何か言いたげな雰囲気がある。私はその違和感を感じ取りながらも、深く考えることはしなかった。
 ◇
 翌日の昼休み、私は部活希望調査票を眺めていた。
 A4サイズの紙には、ずらりと部活名が並んでいる。運動部のリスト、文化部のリスト、そして「その他」という欄。チェックボックスが並んでいて、どれか一つに印をつけるようになっている。
 まず運動部のリストを見る。サッカー部、バスケ部、テニス部、陸上部、水泳部、バレーボール部、卓球部、剣道部、柔道部、バドミントン部……ずらりと並ぶ部活名を眺めながら、私はどれも自分には縁がないと感じた。中学の時も運動部には入らなかったし、体を動かすことが特別好きなわけでもない。体育の授業ですら面倒に感じるのに、放課後まで汗を流す気にはなれなかった。
 次に文化部のリストを見る。吹奏楽部、美術部、文芸部、演劇部、茶道部、華道部、書道部、科学部、コンピュータ部、放送部……こちらも種類が豊富だ。どの部活も真面目に活動していて、文化祭や発表会で成果を披露している。でも、そういう「何かを作る」「誰かに見せる」という活動が、私には重荷に感じられた。
 美咲が隣の席から身を乗り出してくる。
「楓ちゃん、まだ悩んでるの?」
「うん……どれがいいかわかんなくて」
「私は吹奏楽部にしたよ。中学の時もやってたし」
 美咲は嬉しそうに自分の調査票を見せてくる。吹奏楽部の欄にチェックが入っていて、楽器の希望欄には「フルート」と丁寧な文字で書かれている。
「楓ちゃんも一緒にやろうよ。楽器、初めてでも大丈夫だって先輩が言ってたし」
「でも、私音楽とか全然できないし……」
「大丈夫だって! 最初はみんな初心者なんだから」
 美咲は本気で誘ってくれている。でも、私には無理だとわかっていた。吹奏楽部は練習が厳しいって聞いたことがあるし、放課後だけじゃなくて朝練もあるらしい。それに、大勢の前で演奏するなんて考えただけで緊張してしまう。
「ごめん、やっぱり無理」
「そっか……残念」
 美咲は少ししょんぼりするが、すぐにまた明るい表情に戻った。
「じゃあ、他の部活は? 文芸部とか美術部とか」
「うーん……」
「運動部は? テニス部とかバレー部とか、楽しそうだよ」
「運動も苦手だし」
「じゃあ、帰宅部?」
 美咲は冗談めかして言ったが、私はその言葉に反応した。そうだ、帰宅部という選択肢がある。
 私は調査票の一番下を見る。そこには、他の部活とは違う書式で、赤い文字で書かれている。
【帰宅部】
 ※帰宅部も正式な部活動です
 ※入部後の活動は各自の責任において行うこと
 ※ルールを守れない場合、退部処理を行います
 私は違和感を覚えた。なぜ「帰宅部」が最初から選択肢として印刷されているんだろう? 普通、部活に入らない生徒は「所属なし」とか「未定」じゃないのか? それに、注意書きが妙に具体的だ。「各自の責任において」「退部処理」——まるで本当に部活動であるかのような書き方だ。
 でも、考えてみれば帰宅部が一番楽だ。放課後は速やかに帰宅すればいい。それだけ。練習もないし、先輩との人間関係もないし、発表会もない。ただ、学校が終わったら帰る。それだけで「部活動」として認められるなら、こんなに楽なことはない。
「楓ちゃん、本当に帰宅部にするの?」
 美咲が心配そうに聞いてくる。
「うん……他に入りたい部活ないし」
「でも、帰宅部って寂しくない? 放課後、一人で帰るんでしょ?」
「別に。一人でも平気だし」
 美咲は少し困ったような顔をするが、それ以上は何も言わなかった。きっと、美咲には理解できないのだろう。一人でいることの気楽さ。誰にも気を遣わなくていい自由さ。それが私には心地よかった。
 私はペンを取って、「帰宅部」の欄にチェックを入れた。
 その瞬間——。
 紙が、重くなった気がした。
 ほんの一瞬。0.1秒にも満たない時間。でも確かに、手に持っている紙が、まるで鉛のように重くなった。心臓が一瞬だけ大きく跳ねて、手のひらに汗が滲む。ペンを持つ手が震えて、チェックマークが少し歪んでしまった。
 私は慌てて紙を持ち上げる。でも、もう普通の重さに戻っている。A4の紙特有の軽さで、風が吹けば飛んでいきそうなくらいだ。周囲を見回すが、誰も私の異変に気づいていない。美咲は自分の調査票を見直していて、他のクラスメイトたちも普通に会話している。
「……気のせいか」
 私は首を傾げながら、調査票をもう一度見つめた。チェックマークは普通に紙に書かれていて、何も変わったところはない。ただの紙だ。でも、さっきの感覚は確かにあった。紙が重くなって、まるで何かに引っ張られるような——。
「楓ちゃん、出すの?」
 美咲の声で我に返る。
「あ、うん」
 私は調査票を持って立ち上がった。教室の後ろに置かれた青いプラスチックのボックスに向かって歩く。既に何人かの生徒が調査票を提出していて、ボックスの中には紙が重なっている。
 私は調査票を投げ入れた。他の生徒たちの調査票と一緒になって、私のチェックは埋もれていく。これで決まった。私は帰宅部だ。
 ◇
 放課後、六時間目の授業が終わってホームルームが始まる。
 担任の田中先生が教壇に立って、出席を取っている。いつもと同じ淡々とした口調で、生徒の名前を呼んでいく。
「じゃあ、部活希望調査票、全員出したな?」
 クラス中が頷く。何人かは「はい」と声を出して答えている。
「よし。じゃあ、今日から部活動開始だ。各自、指定された場所に集合しろ」
 田中先生の言葉に、生徒たちが立ち上がり始める。運動部に入った生徒は体育館や校庭へ、文化部に入った生徒は各部室へと向かっていく。美咲も楽譜を抱えて音楽室へ向かう準備をしていた。
「楓ちゃん、また明日ね!」
「うん、また明日」
 私は笑顔で手を振る。美咲は友達数人と一緒に教室を出ていって、廊下で楽しそうに話しながら歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、私は少しだけ羨ましいと思った。美咲にはもう居場所がある。仲間がいて、目標があって、放課後を一緒に過ごす友達がいる。
 教室には、私ともう数人の生徒だけが残っていた。窓際に座っている男子生徒、後ろの方で本を読んでいる女子生徒、廊下側の席でスマホをいじっている生徒——彼らも「帰宅部」を選んだのだろうか。でも誰も話しかけてこないし、私も話しかける気はなかった。お互いに存在を認識しているけど、関わろうとはしない。そんな微妙な距離感が教室に漂っている。
 私は鞄を持って教室を出た。廊下には誰もいなくて、部活動に向かう生徒たちの声が遠くから聞こえてくる。体育館の方からはバスケ部のボールを弾ませる音、音楽室の方からは楽器の音が聞こえてくる。学校全体が活気に満ちていて、私だけが取り残されているような気分になった。
 昇降口に向かって階段を降りていると——。
 校内放送が流れた。
『本日付で、帰宅部に新入部員が入りました』
 私は足を止める。昇降口の手前で立ち止まって、天井のスピーカーを見上げた。廊下を歩く他の生徒たちは、誰も気にしていない様子だ。部活に向かう生徒たちは会話を続けているし、下駄箱で靴を履き替えている生徒も何も反応していない。
『1年A組、田村楓さん』
 自分の名前が呼ばれた。
 心臓が大きく跳ねる。まさか、校内放送で名前を呼ばれるなんて思っていなかった。しかも「帰宅部」の入部を、わざわざ全校生徒に知らせるなんて。
『1年A組、伊藤由依さん』
『1年B組、柊壮介さん』
『1年C組、山田椿さん』
『1年D組、佐藤良樹さん』
 次々と名前が読み上げられる。全部で五人。私を含めて、今日から帰宅部に入部した生徒の名前だ。でも、私以外の四人は誰なのかわからない。同じクラスの伊藤由依という生徒は見覚えがあるような気もするけど、はっきりとは思い出せない。
『帰宅部の皆さんは、本日より活動開始です。速やかに帰宅してください』
 放送が終わる。私は周囲を見回したが、誰も反応していない。まるで、放送が聞こえていなかったかのように、みんな普通に行動している。私の隣を通り過ぎた女子生徒は友達と笑いながら話していて、放送のことなんて気にしていない様子だった。
「……聞こえなかったのかな」
 私は首を傾げながら、昇降口へ向かった。下駄箱で上履きから靴に履き替えて、校門へ向かう。外はもう夕方で、オレンジ色の光が校庭を照らしている。
 校門を出た瞬間、私のスマホが振動した。
 ポケットからスマホを取り出すと、通知が表示されている。見覚えのない通知で、アイコンも見たことがないものだった。家の形をしたシンプルなアイコンで、色は青と白。
《帰宅部:本日の活動開始》
「え?」
 私は立ち止まってスマホを見つめる。通知をタップすると、見覚えのないアプリが開いた。ホーム画面を確認すると、いつの間にか「帰宅部」というアプリが追加されている。私はこんなアプリをインストールした覚えはない。
 アプリを開くと、シンプルな画面が表示される。白い背景に黒い文字で、必要最低限の情報だけが書かれている。
【本日の活動目標】
無事に帰宅すること
【帰宅経路】
桜ヶ丘高校 → 自宅
推定所要時間:18分
【注意事項】
・指定経路から逸脱しないこと
・寄り道は原則禁止
・帰宅成功後、自動で報告されます
 画面の下には、地図が表示されている。GPSで現在地が追跡されていて、青い点が私の位置を示している。そこから自宅までの経路が青い線で描かれていて、まるでナビゲーションアプリのようだ。でも、私は自宅の住所を登録した覚えがない。どうしてこのアプリは、私の自宅を知っているんだろう。
「何これ……」
 私はアプリを閉じようとするが、画面が固まって閉じられない。ホームボタンを押してもアプリが最小化されるだけで、通知は消えない。画面の上部には、ずっと通知が表示されたままだった。
《帰宅経路を表示中》
 私は不安になりながらも、いつも通りの道を歩き始めた。校門から商店街へ向かう道で、毎日通っている慣れた道だ。両側には古い商店が並んでいて、八百屋、魚屋、薬局、文房具屋——昔ながらの店が軒を連ねている。平日の夕方だから、買い物客も多くて、すれ違う人たちの会話が聞こえてくる。
 商店街を抜けて、住宅街に入る。静かな道で、街灯が等間隔に並んでいる。この時間帯はまだ明るいけど、冬になると暗くなるから街灯の明かりが頼りになる。
 途中、コンビニの前を通りかかる。私はいつもここで飲み物を買ってから帰るのだが——。
 スマホが振動した。
《警告:帰宅経路から逸脱しています》
「え?」
 私は驚いてスマホを見る。画面には赤い警告文が点滅していて、音も鳴り始めた。ピピピという電子音が、周囲に響く。
《指定経路に戻ってください》
《制限時間:30秒》
 画面にカウントダウンが表示される。赤い数字が、一秒ずつ減っていく。
30……29……28……
 私は慌ててコンビニから離れた。足を速めて、元の道に戻る。すると、すぐに警告が消えた。
《帰宅経路に復帰しました》
 私は息を呑む。これは一体何なんだ? ただのアプリが、こんなに正確に位置を追跡して、警告まで出すなんて。しかも、制限時間まで設定されている。もし30秒以内に戻らなかったら、何が起きるんだろう。
 私は足早に家へ向かった。もうコンビニに寄る気にはなれなかった。このアプリが何なのかわからないけど、ルールを破ったら何か悪いことが起きる気がする。そんな予感が、胸の奥で膨らんでいく。
 住宅街を抜けて、私の家がある通りに入る。古い一軒家が並ぶ静かな通りで、夕方になると人通りも少なくなる。私の家は通りの奥にあって、二階建ての古い木造住宅だ。外壁は少し色褪せていて、門の前には母親が植えた花が咲いている。
 ◇
 家の前に着くと、玄関のドアを開ける。鍵は開いていて、母親が先に帰ってきているようだ。
「……ただいま」
 誰も返事はない。リビングからテレビの音が聞こえてくるけど、母親の声はしない。父親はまだ仕事から帰っていないだろう。いつも通りの、静かな帰宅だ。
 私は靴を脱いで、そのまま二階の自分の部屋に直行する。階段を上がりながら、リビングの様子が少しだけ見える。母親がソファに座ってテレビを見ていて、テーブルには洗濯物が畳まれて積まれている。母親は私が帰ってきたことに気づいているはずだけど、何も言わない。私も何も言わない。
 部屋に入ってドアを閉めると、ようやく一息つける。自分だけの空間に戻ってきた安心感が、全身を包む。鞄をベッドに放り投げて、制服のブレザーを脱ぐ。
 スマホが振動した。
《本日の活動:成功》
《帰宅時刻:17:42》
《所要時間:17分38秒》
 画面に、緑色のチェックマークが表示される。そして、短いメッセージ。
《お疲れ様でした》
《明日も無事に帰宅してください》
 私はスマホを放り投げてベッドに倒れ込んだ。天井を見つめながら、今日一日のことを思い返す。部活希望調査票に「帰宅部」とチェックを入れた瞬間の違和感。校内放送で名前を呼ばれたこと。そして、このアプリ。
「……何なんだよ、これ」
 私はスマホを拾い上げて、アプリをアンインストールしようとする。設定画面を開いて、アプリ一覧を見る。でも、「帰宅部」アプリには削除ボタンが表示されない。長押ししても、アプリを削除する選択肢が出てこない。このアプリだけが、削除不可になっている。
 私はため息をついた。明日、学校で先生に相談しようか。それとも、同じ帰宅部の生徒に聞いてみようか。でも、誰に相談すればいいのかわからない。田中先生は何か知っているような雰囲気だったけど、聞いても教えてくれるかどうか。
 時計を見ると、まだ六時前だった。夕食にはまだ早い。私はベッドに横になって、スマホをいじり始める。SNSをチェックして、友達の投稿を眺める。美咲が吹奏楽部の写真を投稿していて、楽器を持った笑顔の写真が並んでいる。「初日から楽しかった!」というコメントと一緒に、部室の様子や先輩たちとの集合写真が載っている。みんな楽しそうで、充実した放課後を過ごしているようだ。
 私は何をしているんだろう。ただ家に帰っただけ。それだけで「活動成功」なんて表示されて、まるで何かを成し遂げたかのように扱われる。でも、私は何も成し遂げていない。ただ、いつも通り帰っただけだ。
 階下から母親の声が聞こえてくる。
「ご飯できたわよ」
 私は返事をせずに起き上がる。部屋を出て階段を降りると、ダイニングテーブルに夕食が並んでいた。母親が作った料理——焼き魚、味噌汁、サラダ、ご飯。いつもと同じメニューだ。
 テーブルに座ると、母親がキッチンから出てくる。
「お帰り。部活、決めた?」
「うん……帰宅部」
「帰宅部?」
 母親は少し驚いた顔をする。
「部活に入らないの?」
「入らない。帰宅部も部活だから」
「そう……」
 母親はそれ以上何も言わず、自分の席に座った。父親はまだ帰っていないから、二人だけの夕食だ。テレビがついていて、ニュース番組が流れている。母親はテレビを見ながら食事をしていて、私も黙々と食べる。
 会話はない。いつもこうだ。母親と二人きりの食事でも、話すことがない。何を話せばいいのかわからないし、母親も特に話しかけてこない。ただテレビの音だけが、静かな食卓を満たしている。
 食事を終えて、私は部屋に戻った。ベッドに倒れ込んで、天井を見つめる。時計を見ると、まだ七時だった。こんなに早く一日が終わってしまうなんて。
 私はスマホを手に取って、また帰宅部アプリを開く。画面には、今日の活動記録が表示されている。
【活動記録】
・4/15 帰宅成功
・帰宅時刻:17:42
・所要時間:17分38秒
【部員数】
5名
 部員数が表示されている。私を含めて五人。校内放送で呼ばれた名前と一致する。でも、他の四人がどんな人なのかわからない。明日、学校で会えるだろうか。
 時計を見ると、もう夜の九時を過ぎていた。時間が経つのが早い。夕食を食べてから、ずっとスマホをいじっていたらしい。動画を見たり、SNSをチェックしたり、ゲームをしたり——気づいたら二時間以上経っていた。
 ふと、スマホに通知が来る。ニュースアプリからの速報だ。
《速報:市内で高校生が行方不明》
 私は何気なくニュースを開く。
 記事には、こう書かれていた。
「本日夕方、市内在住の高校生・伊藤由依さん(16)が行方不明になっています。伊藤さんは本日午後5時頃、自宅付近で目撃されたのを最後に連絡が取れなくなっています。警察は情報提供を呼びかけています」
 写真には、見覚えのある制服を着た女子生徒が写っている。桜ヶ丘高校の制服だ。丸顔で、少し太り気味の体型。メガネをかけていて、カメラに向かって少し恥ずかしそうに笑っている。
 私は息を呑む。
 伊藤由依——。
 それは、今日の校内放送で聞いた名前だった。
「1年A、伊藤由依さん」
 帰宅部の、新入部員。
 私は慌ててアプリを開く。手が震えて、スマホを落としそうになる。画面をタップして、設定画面を探す。
 アプリのメニューを開くと、いくつかの項目が表示される。「活動記録」「帰宅経路」「設定」——そして「部員一覧」。
 私は「部員一覧」をタップした。
 画面が切り替わって、リストが表示される。
【帰宅部部員】
1年A組 田村楓
1年B組 柊壮介
1年C組 山田椿
1年D組 佐藤良樹
 伊藤由依の名前は、消えていた。
 今日の放送では確かに「1年A組、伊藤由依さん」と呼ばれていたはずだ。五人の名前が読み上げられて、私はそれを確かに聞いた。でも、今はもうリストにない。まるで、最初からいなかったかのように。
 私は記事をもう一度読み返す。「本日午後5時頃、自宅付近で目撃されたのを最後に」——つまり、下校中に行方不明になったということだ。帰宅途中に、何かがあった。
 私は自分の活動記録を見る。「帰宅成功」と表示されている。でも、伊藤由依は——。
 胸が冷たくなる。もしかして、彼女は帰宅に失敗したのだろうか。アプリのルールを守れなくて、何かが起きたのだろうか。
 でも、それは考えすぎだ。ただのアプリが、現実に影響を与えるわけがない。伊藤由依の行方不明と、帰宅部アプリは関係ない。たまたまタイミングが重なっただけだ。
 そう自分に言い聞かせながらも、不安は消えなかった。
 私は部屋の電気を消して、ベッドに潜り込んだ。でも、眠れない。伊藤由依のことが頭から離れない。彼女は本当に行方不明になったのか。それとも——。
 スマホの画面を見つめながら、私は考え続けた。帰宅部アプリ。削除できないアプリ。GPSで追跡されて、寄り道すら許されない。そして、部員リストから消えた名前。
 全てが繋がっているような気がする。でも、どう繋がっているのかわからない。
 答えは出ないまま、夜は更けていった。窓の外からは虫の鳴き声が聞こえてきて、遠くで車の音がする。普通の夜だ。何も変わらない、いつもと同じ夜。
 でも、私の中で何かが変わり始めていた。