『一話」
「今日も女神の音、麗しいな〜……」
俺はストレッチをしながら、隣で同じように体を伸ばしている新太に聞こえるよう、わざと大きな声で嘆く。
放課後のグラウンドは騒がしい。
陸上部の俺らの他にも、グラウンドのあちこちで運動部がウォーミングアップをしている。どの部活も、ホイッスルに合わせて声を出しながらがんばっている。それに比べて陸上部は各々が好きに準備運動をして、個人練習を始められるから楽ちんだ。
……ってか野球部、もうちょっと静かにしてくんないかな。
掛け声のせいで女神の音がかき消されるだろ。
隊列になって大声を出しながら目の前を通り過ぎていく野球部員たちに内心毒付いた。
「毎日毎日、ご熱心だこと」
「最近、俺は走りたくて部活してるんじゃない。女神を見るために走ってる。女神の音がないと記録も出ない」
「そこまで行ったらもう、信仰の域だよ。マリア様かよ」
相変わらず顔を顰めた新太が興味なさげにそう言った。
「でも、今日はなんかいつもよりフルートの音ちっさい。風の向きかね?」
俺はそう言いながらストレッチの左右を入れ替えた。
だけど視線は、校舎の2階、左から3番目の教室の窓辺に立つ彼女を捉えている。
今日も彼女の横顔は、グラウンドの喧騒なんてまるで聞こえていないみたいに、穏やかな音色を奏でていた。
その時、教室のカーテンと彼女の長い黒髪が、風にふわりと舞うのが見えた。
「フルート?」
ようやく新太が俺の方を見る。
「そそ。あの楽器、フルートっていうらしい」
俺は得意げに新太にフルートの説明をした。フルートは木管楽器っていうらしい。
……木管楽器が何かは知らないけど。
「なんだよそのドヤ顔。昨日まであの子のこと『リコーダーの女神』って呼んでたくせに。リコーダーからどうやってたどり着いたんだよ」
「マジ俺の検索能力舐めんなよ。『笛 横に長い 銀色のやつ』で調べたら出てきた」
「バカの検索ワードじゃん。それはお前じゃなくて検索エンジンがすげーんだよ」
新太が呆れたように笑った。
……ゲームばっかしてる新太にはわかんねーよな。
これが“青春”ってやつだよ。
俺は、フ、と目を細めて新太を見た。
「……なんだよその腹立つ顔。やめろよ」
新太が俺のケツを軽く蹴った。
別に痛くないけど「いてぇ」とケツをさする。
俺が女神の信者……じゃなくて、音色の虜になったのは先月。俺が高2に進級してすぐの頃だった。
後輩が入部してきて先輩の仕草にも慣れてきた頃、風に乗って軽やかな楽器の音が聞こえてきた。それ自体は別に特別なことでは無かった。だけどその日は、これまで聴いたことのない澄んだ音色がいろんな楽器の音に混ざって聞こえてきた。その飛び抜けて綺麗な高音に、引き寄せられたみたいに校舎を見上げた時、俺は彼女を見つけた。
夕焼けがガラスに反射する教室で、黒い髪を風に揺らしながら、首を小さく傾げて、横に長い華奢な笛を吹いている女の子を。そのシルエットの優雅さに、俺は「女神だ」と思った。
その日以降、俺の頭から彼女の音色と横顔が離れなくなって、放課後になると俺の耳は無意識に彼女の音色を探してしまうようになった。
そして今日も、俺はいろんな音色の中から彼女の音に耳を澄ます。
だけどやっぱり今日は風が強いせいか、女神のフルートの音が遠くに感じる。
こういう日の部活はだるい。砂が巻き上がって目が痛くなるし、タイムに影響が出る。
今日はタイムよりフォーム練習とかの方がいいかもな。そんなふうに今日のメニューを組み立てながら空を仰いだ時、強く風が吹いた。
素足に砂が当たって、その不快さに眉を顰めた時、視界の端で白い何かがハラハラと舞った。
「……あ!」
俺は考えるよりも先に、走り出していた。
新太の「洸!?」と驚く声を置き去りに、グラウンドをかけ抜けながら、落ちてくる白い紙を目で追う。そして校舎の真下で、地面スレスレで紙を掴み取った。
「っしゃ、セーフ!」
無事に地面に落ちる前に掴んだ紙に視線を落とす。そこには五線譜に並ぶおたまじゃくしと、カラフルな書き込みが並んでいた。
これが、彼女の音色のレシピ……?
俺は急に走ったせいなのか、それともこの楽譜の持ち主のせいなのか、速く打つ鼓動を抑えて教室を見上げた。不安そうな表情で軽く窓から身を乗り出して、俺を見ている彼女と目が合った。その瞬間、心臓が一段うるさくなった。
初めて彼女と目が合った。……女神と。
俺は息を整えながら、楽譜を掲げて片手を振った。
「今、そっちに届けに行く!」
そう叫んだ俺の声は思っていたより高くて、顔が一気に熱くなる。
俺は彼女の返事を聞く前に、再び地面を蹴った。大会前みたいに動悸がする。怖さと緊張と、たったの11秒で勝負が決まるドキドキ感。
俺は昇降口で上履きに履き替えて、彼女がいる西校舎の廊下を早足で歩いた。
女神──桜庭美音と話したことは一度もない。彼女は2組で俺は6組だから接点はなく、俺は彼女の存在すら知らなかった。彼女の音色を探すようになってしばらくして、女神の名前が「桜庭美音」だと知った時、名前まで音楽の女神なんだと感動した。
廊下を抜けて階段を1段飛ばしで登りながら、頭の中で「完璧な初会話」のシミュレーションをする。
きっと女神は、可憐で清らかで優雅で上品で──つまり、完璧な女の子なんだと思う。だから俺がどんなに変なことを言っても、にこって笑って「ありがとう」って言ってくれる、はず。
だけどどれもしっくりこなくて、何も思いつかないまま彼女がいる教室の、一つ手前の教室まで来てしまった。俺は一度足を止め、軽くユニフォームの裾を整えた。息を整え、意を決して開け放たれたままのドアの枠を軽く叩いた。
教室の窓際、夕暮れの光を背負って彼女が振り返った。
初めて近くで見る桜庭美音は、2.0の視力で遠くから眺めていた時よりも、ずっと、ずっと綺麗だった。
透き通るような白い肌、銀色のフルートを握る、繊細な指先。
そのあまりの眩しさに、考えていたセリフが一瞬で脳内から消し飛んだ。
「あ、これ……さっき、拾ったやつ」
なんとか出てきたのは、そんな言葉だった。
いや、何落とし物拾ったみたいなテンションで言ってんだよ。俺がキャッチしに行ったんだろ。
歯切れの悪いカッコ悪い第一声に絶望していると、彼女がスタスタと近づいてきた。
「……ありがと」
そう小さく呟いた彼女の声は、フルートみたいに清らかだった。だけどどこかそっけない、たった一言、それだけだった。
彼女は俺の手からするりと楽譜を抜き取ると、背を向けた。
……え、それだけ?
初めて話せたのに、これだけで終わっちゃうわけ?
そんな焦りから、俺は気付けば「あの」と彼女を呼び止めていた。だけど次の言葉は当然用意なんかできていない。だから咄嗟に出たのは俺の本心だった。
「あ……えっと、フルート!すごい上手だよね?俺、いつも下で聞いてて……あ、グラウンドでね?部活の時にきこえてくるからさ、めっちゃ綺麗な音だなーって」
自分でも何を言っているのかわからないまま、言葉を足してしまう。
「その……いつも、練習しながら見てて……」
口にした瞬間、やばい、と脳内で警報が鳴った。
本心、言いすぎた。「いつも見てる」とか俺、キモすぎる。
案の定、彼女は楽譜を手に、眉を寄せて俺をじっと見ていた。グラウンドから見上げていた、フルートを吹いている時の穏やかな表情とは別人だった。
「……それで?」
その一言に、俺は言葉を失う。
そもそも何も考えて喋っていなかったから、「それで?」と言われても、なにもない。
「他にないなら私、戻るから」
そう言って彼女は踵を返す。
俺の中で出来上がっていた「フルートの女神」が音もなく崩れた。
「じ、じゃあ、お互い部活がんばろーな」
なんとか当たり障りのない会話の終わりを口にした。
彼女の後ろ姿は何も言わなかったけれど、彼女の歩調に合わせて揺れる髪はやっぱり女神みたいに美しかった。
俺の中の、可憐で清らかで優雅なフルートの女神は消え去った。
代わりに「クールな女神」が爆誕した。
……あれ?
「今日も女神の音、麗しいな〜……」
俺はストレッチをしながら、隣で同じように体を伸ばしている新太に聞こえるよう、わざと大きな声で嘆く。
放課後のグラウンドは騒がしい。
陸上部の俺らの他にも、グラウンドのあちこちで運動部がウォーミングアップをしている。どの部活も、ホイッスルに合わせて声を出しながらがんばっている。それに比べて陸上部は各々が好きに準備運動をして、個人練習を始められるから楽ちんだ。
……ってか野球部、もうちょっと静かにしてくんないかな。
掛け声のせいで女神の音がかき消されるだろ。
隊列になって大声を出しながら目の前を通り過ぎていく野球部員たちに内心毒付いた。
「毎日毎日、ご熱心だこと」
「最近、俺は走りたくて部活してるんじゃない。女神を見るために走ってる。女神の音がないと記録も出ない」
「そこまで行ったらもう、信仰の域だよ。マリア様かよ」
相変わらず顔を顰めた新太が興味なさげにそう言った。
「でも、今日はなんかいつもよりフルートの音ちっさい。風の向きかね?」
俺はそう言いながらストレッチの左右を入れ替えた。
だけど視線は、校舎の2階、左から3番目の教室の窓辺に立つ彼女を捉えている。
今日も彼女の横顔は、グラウンドの喧騒なんてまるで聞こえていないみたいに、穏やかな音色を奏でていた。
その時、教室のカーテンと彼女の長い黒髪が、風にふわりと舞うのが見えた。
「フルート?」
ようやく新太が俺の方を見る。
「そそ。あの楽器、フルートっていうらしい」
俺は得意げに新太にフルートの説明をした。フルートは木管楽器っていうらしい。
……木管楽器が何かは知らないけど。
「なんだよそのドヤ顔。昨日まであの子のこと『リコーダーの女神』って呼んでたくせに。リコーダーからどうやってたどり着いたんだよ」
「マジ俺の検索能力舐めんなよ。『笛 横に長い 銀色のやつ』で調べたら出てきた」
「バカの検索ワードじゃん。それはお前じゃなくて検索エンジンがすげーんだよ」
新太が呆れたように笑った。
……ゲームばっかしてる新太にはわかんねーよな。
これが“青春”ってやつだよ。
俺は、フ、と目を細めて新太を見た。
「……なんだよその腹立つ顔。やめろよ」
新太が俺のケツを軽く蹴った。
別に痛くないけど「いてぇ」とケツをさする。
俺が女神の信者……じゃなくて、音色の虜になったのは先月。俺が高2に進級してすぐの頃だった。
後輩が入部してきて先輩の仕草にも慣れてきた頃、風に乗って軽やかな楽器の音が聞こえてきた。それ自体は別に特別なことでは無かった。だけどその日は、これまで聴いたことのない澄んだ音色がいろんな楽器の音に混ざって聞こえてきた。その飛び抜けて綺麗な高音に、引き寄せられたみたいに校舎を見上げた時、俺は彼女を見つけた。
夕焼けがガラスに反射する教室で、黒い髪を風に揺らしながら、首を小さく傾げて、横に長い華奢な笛を吹いている女の子を。そのシルエットの優雅さに、俺は「女神だ」と思った。
その日以降、俺の頭から彼女の音色と横顔が離れなくなって、放課後になると俺の耳は無意識に彼女の音色を探してしまうようになった。
そして今日も、俺はいろんな音色の中から彼女の音に耳を澄ます。
だけどやっぱり今日は風が強いせいか、女神のフルートの音が遠くに感じる。
こういう日の部活はだるい。砂が巻き上がって目が痛くなるし、タイムに影響が出る。
今日はタイムよりフォーム練習とかの方がいいかもな。そんなふうに今日のメニューを組み立てながら空を仰いだ時、強く風が吹いた。
素足に砂が当たって、その不快さに眉を顰めた時、視界の端で白い何かがハラハラと舞った。
「……あ!」
俺は考えるよりも先に、走り出していた。
新太の「洸!?」と驚く声を置き去りに、グラウンドをかけ抜けながら、落ちてくる白い紙を目で追う。そして校舎の真下で、地面スレスレで紙を掴み取った。
「っしゃ、セーフ!」
無事に地面に落ちる前に掴んだ紙に視線を落とす。そこには五線譜に並ぶおたまじゃくしと、カラフルな書き込みが並んでいた。
これが、彼女の音色のレシピ……?
俺は急に走ったせいなのか、それともこの楽譜の持ち主のせいなのか、速く打つ鼓動を抑えて教室を見上げた。不安そうな表情で軽く窓から身を乗り出して、俺を見ている彼女と目が合った。その瞬間、心臓が一段うるさくなった。
初めて彼女と目が合った。……女神と。
俺は息を整えながら、楽譜を掲げて片手を振った。
「今、そっちに届けに行く!」
そう叫んだ俺の声は思っていたより高くて、顔が一気に熱くなる。
俺は彼女の返事を聞く前に、再び地面を蹴った。大会前みたいに動悸がする。怖さと緊張と、たったの11秒で勝負が決まるドキドキ感。
俺は昇降口で上履きに履き替えて、彼女がいる西校舎の廊下を早足で歩いた。
女神──桜庭美音と話したことは一度もない。彼女は2組で俺は6組だから接点はなく、俺は彼女の存在すら知らなかった。彼女の音色を探すようになってしばらくして、女神の名前が「桜庭美音」だと知った時、名前まで音楽の女神なんだと感動した。
廊下を抜けて階段を1段飛ばしで登りながら、頭の中で「完璧な初会話」のシミュレーションをする。
きっと女神は、可憐で清らかで優雅で上品で──つまり、完璧な女の子なんだと思う。だから俺がどんなに変なことを言っても、にこって笑って「ありがとう」って言ってくれる、はず。
だけどどれもしっくりこなくて、何も思いつかないまま彼女がいる教室の、一つ手前の教室まで来てしまった。俺は一度足を止め、軽くユニフォームの裾を整えた。息を整え、意を決して開け放たれたままのドアの枠を軽く叩いた。
教室の窓際、夕暮れの光を背負って彼女が振り返った。
初めて近くで見る桜庭美音は、2.0の視力で遠くから眺めていた時よりも、ずっと、ずっと綺麗だった。
透き通るような白い肌、銀色のフルートを握る、繊細な指先。
そのあまりの眩しさに、考えていたセリフが一瞬で脳内から消し飛んだ。
「あ、これ……さっき、拾ったやつ」
なんとか出てきたのは、そんな言葉だった。
いや、何落とし物拾ったみたいなテンションで言ってんだよ。俺がキャッチしに行ったんだろ。
歯切れの悪いカッコ悪い第一声に絶望していると、彼女がスタスタと近づいてきた。
「……ありがと」
そう小さく呟いた彼女の声は、フルートみたいに清らかだった。だけどどこかそっけない、たった一言、それだけだった。
彼女は俺の手からするりと楽譜を抜き取ると、背を向けた。
……え、それだけ?
初めて話せたのに、これだけで終わっちゃうわけ?
そんな焦りから、俺は気付けば「あの」と彼女を呼び止めていた。だけど次の言葉は当然用意なんかできていない。だから咄嗟に出たのは俺の本心だった。
「あ……えっと、フルート!すごい上手だよね?俺、いつも下で聞いてて……あ、グラウンドでね?部活の時にきこえてくるからさ、めっちゃ綺麗な音だなーって」
自分でも何を言っているのかわからないまま、言葉を足してしまう。
「その……いつも、練習しながら見てて……」
口にした瞬間、やばい、と脳内で警報が鳴った。
本心、言いすぎた。「いつも見てる」とか俺、キモすぎる。
案の定、彼女は楽譜を手に、眉を寄せて俺をじっと見ていた。グラウンドから見上げていた、フルートを吹いている時の穏やかな表情とは別人だった。
「……それで?」
その一言に、俺は言葉を失う。
そもそも何も考えて喋っていなかったから、「それで?」と言われても、なにもない。
「他にないなら私、戻るから」
そう言って彼女は踵を返す。
俺の中で出来上がっていた「フルートの女神」が音もなく崩れた。
「じ、じゃあ、お互い部活がんばろーな」
なんとか当たり障りのない会話の終わりを口にした。
彼女の後ろ姿は何も言わなかったけれど、彼女の歩調に合わせて揺れる髪はやっぱり女神みたいに美しかった。
俺の中の、可憐で清らかで優雅なフルートの女神は消え去った。
代わりに「クールな女神」が爆誕した。
……あれ?
