忘却の果てに


「普通になりたいなぁ……」

 金曜日の午後、私は夕暮れに照らされる住宅街を一人でとぼとぼ歩いていた。

 私の名前は夏目遥香、一八歳の高校三年生だ。
 容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、完璧超人。
 よくそんな言葉で評価される。

 そう聞けば、大抵の人が私のことを羨ましがるかもしれない。
 だけど、実際はそんなにおいしい立場ではない。
 クラスでは高嶺の花扱いされて遊びにも誘ってもらえないし、親友もいない。
 何もかも持っているようで本当は何も持っていない空っぽ人間、それが私なのだ。

「はぁ……」

 本日何度目かの溜め息をついたところで 見慣れた我が家の前に到着した。
 インターホンを鳴らすと『はーい』と明るい声が返ってきた。
 それから数秒置いて、扉が開かれた。


「おかえり、遥香」

 その顔を見た瞬間、肩の力がふっと抜けた。

「ただいま、美津子さん」


 私は靴を脱ぎ、玄関にカバンを置くと、居間へと向かった。
 そして、両親の遺影が飾られた仏壇で足を止める。


「お母さん、お父さん。帰って来たよ」
「もう十年か、早いわね」


 私の横で美津子さんが小さく呟いた。
 そう、十年前、首都を襲った大災害で私の両親は帰らぬ人となったのだ。
 正直、当時のことは私自身もあまりよく覚えていない。
 そして、唯一生き残った私は、当時まだ新婚だった叔母・美津子さんとその夫・潤さんに引き取られたのだ。
 二人は私を本当の娘のように大事に育て、日々たっぷりの愛情を注いでくれている。
 私もまた、そんな二人のことが大好きだった。

 ◇


「実は私たち、明日から出張に行くことになったの」

 そんな話を聞かされたのは、その日の夕食時。

「出張?」

 好物のカレーライスを食べ進める手も思わず止まった。

「そう、明日から二週間」
「本当に急遽決まったことで、僕たちも昨日知らされたんだ」
「そう。だから、その間遥香には留守番を頼みたいの」
「……うん、分かった」


 口ではそう答えたものの、心は不安で押し潰されそうだった。
 今までどちらか一人が出張に行くことはあっても、二人同時は今回が初めてだったから。
 家事は一通り身に着けているので、その点は何とかなるだろう。
 私が何より気がかりなのは、孤独の時間が増えることだ。
 今でさえ、学校で孤立状態に陥っているというのに唯一の居場所だった家でもひとりぼっちで過ごさなければいけないなんて……。
 私はきっと二週間もしないうちに音を上げるだろう。

「はぁ……」
「遥香? 心配事でもあるのかい?」

 潤さんが不安げな表情で私の方を見ていた。
 きっと知らず知らずのうちに溜め息が漏れてしまっていたのだろう。

「ううん、大丈夫」

 明るく笑って見せるけど、不安は依然としてあった。
 そして、夜が明けあっという間に別れの時がやって来た。


「二人とも気をつけてね」


 スーツケースを持ち、靴も履き終え、あとは出るだけとなった二人に声をかける。

「それじゃあ、二週間よろしくね」

 身支度を終えた二人の姿を見たら、ひとりぼっちの生活が唐突に現実味を帯び始めて……。

「遥香⁉」
「どうしたんだい?」

 二人が私の顔を覗き込んでくる。
 その直後、頬を冷たい何かが伝った。
 あぁ、私泣いているんだ。
 そう気づいた瞬間、堰を切ったように涙が溢れだした。

「行かないで、私を一人にしないでよ……」

 あぁ、こんなはずじゃなかったのにな。

「もうそんな顔しないで。遥香なら大丈夫。私が保証するわ」

 そう言いながら、美津子さんは私の背中を優しくさすってくれた。

「心配ないさ」

 潤さんもにっこり微笑んでいる。

「だってあの子が来てくれるんですもの」

 ……あの子??

 それについて質問する前に、潤さんが壁時計を見て言った。

「美津子、そろそろ時間だよ」
「まぁ本当だわ! それじゃあ、私たちはもう出るわね」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけてね」

 玄関を出ていく二人を見送る。
 扉が閉じられ、少し間を置いてガチャと鍵のかかる音が聞こえた。
 あぁ、今度こそひとりぼっちだ。
 玄関を離れると、私はひとまず居間のソファに腰を下ろした。
 二人のいなくなった部屋はしんと静まりかえっていて、空調の音だけが響いている。
 この状態で二週間……か。

「よし、お菓子つくろ」

 私は再び沸き上がってきた不安を取り払うようにそう呟いて、ソファから勢いよく立ち上がった。
 そして、その足でキッチンへと向かった。
 私はお菓子づくりが大好きだ。お菓子の甘さは全てを忘れさせてくれるから。
 私にとってお菓子づくりはある種の救済措置といっても過言ではない。
 冷蔵庫の中身を確認し、「うーん」と唸る。
 よし。リンゴが余っているし今日はアップルパイにしよう。
 そう決めると、私はお気に入りのエプロンを身に着け、早速パイづくりに取り掛かった。

 ◇


 オーブンを開け、パイ生地を乗せたトレイを取り出そうと手を伸ばしたその時。


 ――ピンポーン。


「はーい!」

 慌ててインターホンに駆け寄り応答すると、聞こえてきたのは若い男性の声だった。

「夏目遥香さんはいらっしゃいますか?」

 その声を聞いた瞬間、全身にぶわっと鳥肌が立つのが分かった。
 聞き覚えのない声のはずなのに何故か知っている。そんな気がした。
 かすかな胸のざわめきを感じながら、私は玄関へと向かった。

「はーい」

 扉を開けると、そこにいたのは背の高い制服姿の少年だった。
 片手には赤いスーツケースを持っている。
 歳は私と同じくらいだろうか。
 柔らかそうな黒髪に、切れ長の瞳。通った鼻筋に、形の良い薄い唇。
 まるで、漫画の登場人物のように整った容姿だ。
 彼の制服は確か、都内トップクラスの進学校・永琳学院のものだったはず……。

「久しぶり」

 彼の全身をまじまじと観察していると、頭上からそんな声が降ってきた。

「えっ?」

 思わず顔を上げると、優しく微笑む彼と目が合った。
 愛おしいものを見つめるような、その眼差しが自分に向けられたものだなんて、到底信じられなかった。それに久しぶり……って。

「私たち、どこかで会ったことありましたっけ?」

 彼は久しぶりと言ったけど、私は彼の顔に全くと言っていいほど見覚えがない。
 でも、彼と一度でも会ったことがあるのだとすれば、こんなイケメン忘れるわけがないし……。
 顎に手を当て考え込んでいると、彼が意味ありげに笑った。

「今はそれでいいよ」

 ますます意味が分からない。

「それよりさ、最近寂しくない?」

 そう問われ、家を出ていく二人の姿・一人きりの部屋、それらが次々と脳裏をよぎった。

「まぁ、寂しいといえば寂しいですけど」

 素直にそう答えると、彼は笑みを深めた。

「じゃあさ、俺と一緒に暮らそうよ。ここで」
「え?」

 今なんて……?

「俺は遥香を一人にしないよ。だから……」

 不意に彼がズボンのポケットから何かを取り出した。
 そして、それを私の前に掲げて見せた。
 ジャラジャラと金属音を響かせながら揺れるそれは……鍵だった。


「一緒に暮らそう、遥香」


 その瞬間、強い風が彼の髪をなびかせた。
 余りにもドラマチックな光景に、私は目を奪われた。
 そして、

「はい」

 気づけばそう答えていた。
 自分でも何故だか分からない。だけれど、自然と口が動いていた。

 こうして、私と彼の、期間限定の二人暮らしが幕を開けた。