【プロローグ】
銀白色に輝くフルートをしっかりと握りしめ、屋上に続くリノリウムの階段を駆けのぼる。鋼鉄製の重厚なノブに手をかけ、腕に力を込めて扉を開いた。
澄み切った空から降り注ぐ光線で風景がまっしろに塗りつぶされる。手のひらで光を遮り視界を取り戻すと、目前に広がる屋上の床は普段よりも眩しく感じられた。空を見上げると先週まで浮かんでいたアイスクリームのような雲はすっかり見当たらない。夏は潔く過ぎていったみたいで、頭上は果てのないセレストブルーで覆われている。
秋の匂いの混ざった風がさらりと頬を撫でてゆく。いたずらっぽく髪を揺らしてから、不思議なほど軽やかに空へと還っていった。
んーっ、気持ちのいい朝。首筋に滲んだ汗もすぐに乾きそう。
視線を壁沿いの花壇に移すと、ビオラの花が鮮やかな色彩で咲き誇っている。
その花壇の縁には腰掛けた男子生徒の姿があった。今日は水曜日だから、やっぱり彼はそこにいた。京本和也くん、城西高校一年生、私のクラスメートのひとりだ。
彼は水曜日に限って、朝早く屋上に姿を見せるから、私のひとり朝練と鉢合わせになる。開いた本に視線を落とし、かすかに唇を揺らしている。読んでいる本は小型の文庫本で、あたかも朗読の練習をしているような雰囲気。自分の世界に没頭しているみたいで、読書をしているときの表情がとにかく真剣だ。
けれど、どうして彼は水曜日だけ読書をするのか、理由はよくわからない。
私の演奏を聴いているわけではないし、うっとうしく思っている様子もない。まるで耳に届いていないみたい。
水曜日以外は、たいていおっとりというか、なんとなく気の抜けた表情をしているのに。
ためらいを振り払って彼に声をかける。
「おはよう、気持ちのいい朝だね」
あたりさわりのない挨拶をすると、彼はわずかに顔を上げて私に視線を向けた。一瞬、ほんの一瞬だけ目を細めてちいさな作り笑いを見せると、すぐさま真剣な表情に戻り、手にした本へと向き直る。水曜日の彼が挨拶を返さないことを、私はとっくに承知していた。
フェンスに歩み寄り、広がる景色を一望する。今日は空気が澄んでいて、山々の辺縁と空の境界が明瞭だ。
山の麓に広がる平野に、駅から放射状に伸びる幾何学的なアスファルトの造形が、森林の間を縫うように広がっている。私はこの自然と調和した街並みがお気に入りだ。つくづく、この月ケ崎の街に生まれてよかったと思う。
気持ちが落ち着いたところで、手にしているフルートを掲げて唇にあてがう。胸いっぱいに大気を取り入れ、それからフルートに息を吹き込んだ。
銀白色のフルートが震え、やわらかな音色が青空に向けて解き放たれる。
私の演奏、京本君にはどんなふうに聞こえているのかな? 部活の先輩には、素直で憎めないところが魅力的だよ、って褒められた音色なんだよ。
でも、きみが答えてくれることは、きっとないと思う。
だって、水曜日のきみは絶対に喋らないのだから。
【第一話 「気になる彼の水曜日」――高円寺有紗】
「じゃあ聞くけど有紗、それが恋じゃないなら、いったいなんだって言うんだよ」
私の背後の席に鎮座するクラスメート、葉山陽一くんは腕を組んでふんぞり返り、そう断言する。
「そんなんじゃないよ、だって入学して半年近く経つのに、ほとんど口も聞いたことないんだから」
「ぶはっ! 恋に落ちるのに言葉なんかいらねえんだよ。俺に相談を持ちかける時点でフラグ立ちまくりじゃん」
「ちょっとやめてよ、どうして葉山君は思考のベクトルがそっちを向くのかなぁ」
あわてて両手を振って否定しつつ周囲を見回す。さいわい、教室の喧騒が葉山君の邪推をかき消してくれたので、誰にも聞かれることはなかったみたい。年頃のクラスメートは恋ってキーワードに過敏なんだから、うかつに恋バナ的発言をされるのは誤解のもとになる。
「京本君は水曜日だけ人が変わる、『ちょっと気になるクラスメート』なだけだよ」
「気になる、ねぇ……」
葉山君は両腕を頭の後ろに回し、上履きを脱いで両足を机の上に放りだす。
「じゃあ俺の立ち位置は?」
にかっと白い歯を見せて意気揚々と尋ねてきた。恥ずかしげもなくそう訊くことのできる彼はある意味、尊敬に値する。その鋼のメンタル、私にもおすそ分けしてほしい。
ちなみに今のひとことも、別段、恋人に立候補しているわけではなく、私のことをからかっているだけ。そうでなければ、堂々と足の裏を私の目の前に並べるはずがない。
「見た目二枚目、話すと三枚目? ひとことで言えばイケメン風味、かな」
「ひでっ!」
「あとね私、葉山君の足の裏を眺めるために生まれてきたわけじゃないんだけど。それから、この靴下はもうだめみたいね」
机の上に並んだ足の裏をシャーペンの先で突っつくと、当の本人は逃げるように足を引っ込め足裏を確認した。かかとのあたりは生地が擦り減り、地肌がすけて見えていた。
「そか、ついに殉死かよ、俺のアディダス。さんざん苦労かけたからなぁ」
「サッカー部ならしょうがないよね、上達の犠牲だと思おうよ。目標のエースどころか、スタメンもまだ遠いんでしょ」
「まあな、先輩方はやっぱうめぇよ。ポジション争い厳しいぜ」
葉山君はショートレイヤーの髪を無造作に掻いてみせる。多少手厳しいことを言っても後腐れがないから、『気さくな話し相手』としては最高だ。こういうのを男友達っていうのかな。
「でもさ、葉山君は一学期、京本君の隣の席だったし、よく話しかけていたじゃない? だから京本君の喋らない事情を知っているんじゃないかと思って」
葉山君なら、何食わぬ顔で尋問していてもおかしくはない。
「ああ、確かにあいつ、水曜日だけは人が変わったように無口になるよな」
葉山君はうって変わって真剣な顔で答えた。普段からこんな表情でいれば、お望み通りそれなりにモテるはずなのに、って思えなくもない。
「理由を知りたいんだったら、有紗が本人に直接聞いてみりゃいいじゃん」
そう言われたけれど、さすがにそれはご遠慮願いたい。話しかけられないというよりは、触れてはいけないことのような気がするから。
「訊きたいけど、そうそう訊けないよ」
「ああ? 俺には言いたいこと言うくせに、ほかのやつの前ではカマトトぶるのかよ」
「だって、水曜日の京本君は、どこか苦しそうなんだもん……」
教室の向こう側、窓際の席に座っている京本君に視線を向ける。朝の屋上に引き続き、一心不乱に本を読み込んでいる。
「そうか? 俺にはリア充してるように見えるけどな。ほら、あれって目的を持っているやつの顔じゃん。ああいう表情をするやつはなにかに夢中になっているはずだぜ」
葉山君は親指を立て、くいっと手首を返して京本君のほうに向けた。
確かに、夢中になっている表情と言えばそう捉えられなくもない。けれど、私には言葉では形容しがたい危うさがあるように感じられる。
私が彼のことを気になってしかたないのは、そんな漠然とした懸念を感じさせられるからだ。まるで表面張力のおかげで水面に浮いていられる一円玉のような、とても不安定な感覚。下手に触れると、いとも簡単に沈んでしまいそう。
葉山君は、私が考え込む表情を見て助け舟を出そうと思ったのか、いくぶん耳元に口を寄せてきた。誰にも聞こえないように気を遣うっていうことは、重要なことを伝えるつもりに違いない。私は喧噪に邪魔されないよう、耳元に神経を集中する。
「じつはな、あいつの水曜日の噂、断片的には聞いたことがあるんだ」
「えっ、知っていることがあるの?」
思わず葉山君を直視する。
「あくまで噂だけどな、それと有紗があいつに惚れているわけじゃないっていう前提だから教えるんだぞ」
その意味ありげな前置きに私の鼓動は早まった。京本君は浮いた話とは無縁に見えるのに、葉山君の言い草は女子の匂いを感じさせたからだ。
そして葉山君の放ったひとことに、私は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。
「深窓の令嬢と蜜月しているらしい」
つい、反射的におおきくのけぞり、椅子が傾いた。倒れそうになりあわてて机にしがみつく。かろうじてひっくり返らずに済んだ。
体勢を立て直して葉山君に詰問する。
「ちょっ、ちょっと待ってくれない葉山君! それって、あの京本君には付き合っている人がいるってこと?」
もしそうなら、世の中どうかしている。ちょっと変わり者の彼が異性とお付き合いという、未知の領域に踏み込んでいるなんて。
しかも、深窓の令嬢とか、蜜月とか、表現が妙になまめかしい。
私は思わず想像をたくましくした。高価なアンティークが飾られた洋風の部屋を思い浮かべる。香水の匂いと優雅なクラシックが部屋を特別な空間に仕立て上げる。そこで見つめ合う京本君と深窓の令嬢。ふたりは手を取り合って距離を詰め……そのまま……。
だめだってば私、そんなイケナイことを想像しちゃ!
「おい、どうしたんだ有紗、フリーズしているぞ。もしかしてショックだったのか」
声をかけられて我を取り戻した。私は想像の世界に迷い込むと表情が固まってしまうらしいので、今もそうなっていたに違いない。またもやあわてて否定する。
「ショックなんか受けてないよっ! あと、いかがわしいことなんか想像していないからねっ!」
「なるほど、脳内はただいま妄想暴走中ってことだな」
「うっ……」
冷静さと警戒心を忘れて失言してしまった。でも、いとも簡単に相手の本心をあらわにしてしまうところが葉山君のすごいところであり、ずるいところでもある。私にそんな能力があれば、京本君との会話に苦労することなんてないのに。
「でもその深窓の令嬢って、いったいどんな人なの?」
かく言う私だって、どうせ恋愛過敏症だ。クラスメートの恋バナに、いやおうなしに好奇心が刺激される。
葉山君は視線を鋭くしてにやりと笑った。並びの良い白い歯が自信の証のように見える。
「じゃあ、直接自分の目で確かめればいいじゃん。水曜日、こっそり後をつけてさ」
「ええっ、それじゃあストーカーみたいじゃない。私、そんな悪どいことはできないよ」
心の底から引いた態度を取ると、葉山君は露骨に不服そうな顔をし、こう言い切った。
「おいおい、だいたい有紗はいつも良い子でいようとしすぎて、結局なんにも踏みだせていねえんじゃねえか? 俺にあれこれ聞いたところで自分から動こうとはしねえし、フルートの音色だってつまんねえ教科書通りだしよ」
「ちょっ……!」
葉山君の上から目線の言い分はひどく非難的で横柄だった。けれど、そんな葉山君に対して、私はなにも言い返せない。
だって、彼の言うひとことは、驚くほどに的を射ていたのだから。
私だって、このままの自分じゃだめだと思っている。けれど、変われるきっかけなんて、日常の中にそうそう転がっているものじゃない。
だから、京本君の水曜日を知ろうと決心したのは、私のささいな反抗だったのかもしれない。
私のことをまるで気に留めていない京本君と、狭い檻の中から飛びだせないでいる、この私自身に対しての。
★
その日の学校帰り、私はこっそりと京本君の後を追う。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、京本君はそそくさと荷物をまとめて足早に教室を後にした。人目を避けるように見えたのは、ほんとうに避けているのかもしれないし、「蜜月」という二文字が私の脳裏で悶々としているから、そう感じるのかもしれない。
京本君は、電車で二十分ほどの、すこし離れた街に住んでいる。葉山君の話によると、部活には所属していなくて、毎日アルバイトに勤しんでいる。地元の本屋さんの手伝いをしているらしい。
けれど学校の帰り道、京本君が向かったのは駅とは違う方角だった。やっぱり不自然だと直感する。
京本君は通学路の国道を脇にそれて坂道を登ってゆく。その先には丘陵の上に開発された見晴らしの良いホームタウンがある。閑静で落ち着いた雰囲気は抜群に住み心地が良いのだと、ポストに入っていた住宅販売の広告で見たことがある。
蜜月――ほんとうにそうなのだろうか?
いくばくかの罪悪感がつきまとうけれど、それ以上に好奇心が私の背中を後押ししていた。
――あんなにおとなしそうな人が会いに行く女性って、どんな人なんだろう?
ブロック塀の陰に身を隠し、見失わないように彼の姿を追う。京本君は細い路地を抜け、ちいさな一戸建ての家の前で足を止めた。
その家に向かって白いワンボックスカーが近づいてきた。停車すると、ゆっくりとバックをして車庫に収まる。京本君は車の運転を見守りながら、運転席に向かって一度、深々と頭を下げた。
運転席から降りてきたのは、見た目が四十代くらいの女性だった。買い物に出かけるようなカジュアルな服装で、京本君を見て笑顔を浮かべる。声質が明瞭で、「いらっしゃい、いつもありがとう」と言っているのが遠くからでも聞こえた。私は気づかれないように壁際から様子をうかがう。
――誰だろう、親戚の人かな。
やわらかな物腰のその女性は、車の後部座席の扉を開け、中に手を差し入れた。もうひとり、誰かが乗っているみたい。
手を取って降り立ったのは、私と同年代の女の子だった。
トイプードルのようなふわくしゅのくせっ毛、やわらかな輪郭の丸顔、にきびひとつない、陽射しに映えるきれいな素肌。同級生に比べて雰囲気があどけなく感じられる。
私の高校からさほど遠くない自宅だというのに、その女の子は見たことのない臙脂色のブレザーをまとっている。
私はその女の子の挙動に違和感を覚えた。探るように手のひらを家の外壁に当てていて、足の運びもやけに慎重だ。しかも、その子の両眼はかたくなに閉じられている。
運転手の女性が車から白い棒のようなものを取りだして女の子に渡す。女の子はそれを握って地面を突いた。
女の子が握っていたのは、「白杖」だと気づいた。
――まさか、目が見えない子なの?
でも、それ以上に驚いたことは、京本君が運転手の女性から女の子の手を受け取り、そっと握りしめたことだった。女の子はまぶたを閉じたまま京本君の顔を見上げ、花が咲いたような笑顔を浮かべる。ふたりの息が合っていることに、私の胸がひどくざわついた。
女の子は無邪気に京本君に話しかける。
「和也くん、来てくれたんだね。ありがとう」
「当然だって。今日は水曜日だからな」
――えっ?
今、信じられなかったけれど、私は確かに京本君の声を聞いた。水曜日は絶対に喋らないはずの京本君は、彼女に対してだけは言葉を発していた。その声は格別に優しい音調に感じられた。
女の子は目を閉じたまま、嬉しそうに首を縦に振っている。京本君も口元を緩めているように見えるけれど、やっぱりどこか辛そうだ。その不自然さは朝、屋上で見かけるときよりも、はるかに色を濃くしている。
葉山君は彼がリア充をしているように見えるって言っていたけれど、私からすれば彼は息苦しくなるような痛みを伴っているように感じる。いったいどうしてなんだろう?
もしかすると、あの女の子が京本君の苦しみの原因になっているんじゃないだろうか。あの女の子が彼の水曜日を縛っているからじゃないだろうか。彼が音のない水曜日を過ごす理由が彼女にあることは間違いないのだから。
次々と水曜日の疑問が湧いてきたけれど、私はそれ以上どうすることもできなくて。
結局、京本君が「蜜月の相手」と家の中へ消えていくの、息をひそめて見届けることしかできなかった。
銀白色に輝くフルートをしっかりと握りしめ、屋上に続くリノリウムの階段を駆けのぼる。鋼鉄製の重厚なノブに手をかけ、腕に力を込めて扉を開いた。
澄み切った空から降り注ぐ光線で風景がまっしろに塗りつぶされる。手のひらで光を遮り視界を取り戻すと、目前に広がる屋上の床は普段よりも眩しく感じられた。空を見上げると先週まで浮かんでいたアイスクリームのような雲はすっかり見当たらない。夏は潔く過ぎていったみたいで、頭上は果てのないセレストブルーで覆われている。
秋の匂いの混ざった風がさらりと頬を撫でてゆく。いたずらっぽく髪を揺らしてから、不思議なほど軽やかに空へと還っていった。
んーっ、気持ちのいい朝。首筋に滲んだ汗もすぐに乾きそう。
視線を壁沿いの花壇に移すと、ビオラの花が鮮やかな色彩で咲き誇っている。
その花壇の縁には腰掛けた男子生徒の姿があった。今日は水曜日だから、やっぱり彼はそこにいた。京本和也くん、城西高校一年生、私のクラスメートのひとりだ。
彼は水曜日に限って、朝早く屋上に姿を見せるから、私のひとり朝練と鉢合わせになる。開いた本に視線を落とし、かすかに唇を揺らしている。読んでいる本は小型の文庫本で、あたかも朗読の練習をしているような雰囲気。自分の世界に没頭しているみたいで、読書をしているときの表情がとにかく真剣だ。
けれど、どうして彼は水曜日だけ読書をするのか、理由はよくわからない。
私の演奏を聴いているわけではないし、うっとうしく思っている様子もない。まるで耳に届いていないみたい。
水曜日以外は、たいていおっとりというか、なんとなく気の抜けた表情をしているのに。
ためらいを振り払って彼に声をかける。
「おはよう、気持ちのいい朝だね」
あたりさわりのない挨拶をすると、彼はわずかに顔を上げて私に視線を向けた。一瞬、ほんの一瞬だけ目を細めてちいさな作り笑いを見せると、すぐさま真剣な表情に戻り、手にした本へと向き直る。水曜日の彼が挨拶を返さないことを、私はとっくに承知していた。
フェンスに歩み寄り、広がる景色を一望する。今日は空気が澄んでいて、山々の辺縁と空の境界が明瞭だ。
山の麓に広がる平野に、駅から放射状に伸びる幾何学的なアスファルトの造形が、森林の間を縫うように広がっている。私はこの自然と調和した街並みがお気に入りだ。つくづく、この月ケ崎の街に生まれてよかったと思う。
気持ちが落ち着いたところで、手にしているフルートを掲げて唇にあてがう。胸いっぱいに大気を取り入れ、それからフルートに息を吹き込んだ。
銀白色のフルートが震え、やわらかな音色が青空に向けて解き放たれる。
私の演奏、京本君にはどんなふうに聞こえているのかな? 部活の先輩には、素直で憎めないところが魅力的だよ、って褒められた音色なんだよ。
でも、きみが答えてくれることは、きっとないと思う。
だって、水曜日のきみは絶対に喋らないのだから。
【第一話 「気になる彼の水曜日」――高円寺有紗】
「じゃあ聞くけど有紗、それが恋じゃないなら、いったいなんだって言うんだよ」
私の背後の席に鎮座するクラスメート、葉山陽一くんは腕を組んでふんぞり返り、そう断言する。
「そんなんじゃないよ、だって入学して半年近く経つのに、ほとんど口も聞いたことないんだから」
「ぶはっ! 恋に落ちるのに言葉なんかいらねえんだよ。俺に相談を持ちかける時点でフラグ立ちまくりじゃん」
「ちょっとやめてよ、どうして葉山君は思考のベクトルがそっちを向くのかなぁ」
あわてて両手を振って否定しつつ周囲を見回す。さいわい、教室の喧騒が葉山君の邪推をかき消してくれたので、誰にも聞かれることはなかったみたい。年頃のクラスメートは恋ってキーワードに過敏なんだから、うかつに恋バナ的発言をされるのは誤解のもとになる。
「京本君は水曜日だけ人が変わる、『ちょっと気になるクラスメート』なだけだよ」
「気になる、ねぇ……」
葉山君は両腕を頭の後ろに回し、上履きを脱いで両足を机の上に放りだす。
「じゃあ俺の立ち位置は?」
にかっと白い歯を見せて意気揚々と尋ねてきた。恥ずかしげもなくそう訊くことのできる彼はある意味、尊敬に値する。その鋼のメンタル、私にもおすそ分けしてほしい。
ちなみに今のひとことも、別段、恋人に立候補しているわけではなく、私のことをからかっているだけ。そうでなければ、堂々と足の裏を私の目の前に並べるはずがない。
「見た目二枚目、話すと三枚目? ひとことで言えばイケメン風味、かな」
「ひでっ!」
「あとね私、葉山君の足の裏を眺めるために生まれてきたわけじゃないんだけど。それから、この靴下はもうだめみたいね」
机の上に並んだ足の裏をシャーペンの先で突っつくと、当の本人は逃げるように足を引っ込め足裏を確認した。かかとのあたりは生地が擦り減り、地肌がすけて見えていた。
「そか、ついに殉死かよ、俺のアディダス。さんざん苦労かけたからなぁ」
「サッカー部ならしょうがないよね、上達の犠牲だと思おうよ。目標のエースどころか、スタメンもまだ遠いんでしょ」
「まあな、先輩方はやっぱうめぇよ。ポジション争い厳しいぜ」
葉山君はショートレイヤーの髪を無造作に掻いてみせる。多少手厳しいことを言っても後腐れがないから、『気さくな話し相手』としては最高だ。こういうのを男友達っていうのかな。
「でもさ、葉山君は一学期、京本君の隣の席だったし、よく話しかけていたじゃない? だから京本君の喋らない事情を知っているんじゃないかと思って」
葉山君なら、何食わぬ顔で尋問していてもおかしくはない。
「ああ、確かにあいつ、水曜日だけは人が変わったように無口になるよな」
葉山君はうって変わって真剣な顔で答えた。普段からこんな表情でいれば、お望み通りそれなりにモテるはずなのに、って思えなくもない。
「理由を知りたいんだったら、有紗が本人に直接聞いてみりゃいいじゃん」
そう言われたけれど、さすがにそれはご遠慮願いたい。話しかけられないというよりは、触れてはいけないことのような気がするから。
「訊きたいけど、そうそう訊けないよ」
「ああ? 俺には言いたいこと言うくせに、ほかのやつの前ではカマトトぶるのかよ」
「だって、水曜日の京本君は、どこか苦しそうなんだもん……」
教室の向こう側、窓際の席に座っている京本君に視線を向ける。朝の屋上に引き続き、一心不乱に本を読み込んでいる。
「そうか? 俺にはリア充してるように見えるけどな。ほら、あれって目的を持っているやつの顔じゃん。ああいう表情をするやつはなにかに夢中になっているはずだぜ」
葉山君は親指を立て、くいっと手首を返して京本君のほうに向けた。
確かに、夢中になっている表情と言えばそう捉えられなくもない。けれど、私には言葉では形容しがたい危うさがあるように感じられる。
私が彼のことを気になってしかたないのは、そんな漠然とした懸念を感じさせられるからだ。まるで表面張力のおかげで水面に浮いていられる一円玉のような、とても不安定な感覚。下手に触れると、いとも簡単に沈んでしまいそう。
葉山君は、私が考え込む表情を見て助け舟を出そうと思ったのか、いくぶん耳元に口を寄せてきた。誰にも聞こえないように気を遣うっていうことは、重要なことを伝えるつもりに違いない。私は喧噪に邪魔されないよう、耳元に神経を集中する。
「じつはな、あいつの水曜日の噂、断片的には聞いたことがあるんだ」
「えっ、知っていることがあるの?」
思わず葉山君を直視する。
「あくまで噂だけどな、それと有紗があいつに惚れているわけじゃないっていう前提だから教えるんだぞ」
その意味ありげな前置きに私の鼓動は早まった。京本君は浮いた話とは無縁に見えるのに、葉山君の言い草は女子の匂いを感じさせたからだ。
そして葉山君の放ったひとことに、私は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。
「深窓の令嬢と蜜月しているらしい」
つい、反射的におおきくのけぞり、椅子が傾いた。倒れそうになりあわてて机にしがみつく。かろうじてひっくり返らずに済んだ。
体勢を立て直して葉山君に詰問する。
「ちょっ、ちょっと待ってくれない葉山君! それって、あの京本君には付き合っている人がいるってこと?」
もしそうなら、世の中どうかしている。ちょっと変わり者の彼が異性とお付き合いという、未知の領域に踏み込んでいるなんて。
しかも、深窓の令嬢とか、蜜月とか、表現が妙になまめかしい。
私は思わず想像をたくましくした。高価なアンティークが飾られた洋風の部屋を思い浮かべる。香水の匂いと優雅なクラシックが部屋を特別な空間に仕立て上げる。そこで見つめ合う京本君と深窓の令嬢。ふたりは手を取り合って距離を詰め……そのまま……。
だめだってば私、そんなイケナイことを想像しちゃ!
「おい、どうしたんだ有紗、フリーズしているぞ。もしかしてショックだったのか」
声をかけられて我を取り戻した。私は想像の世界に迷い込むと表情が固まってしまうらしいので、今もそうなっていたに違いない。またもやあわてて否定する。
「ショックなんか受けてないよっ! あと、いかがわしいことなんか想像していないからねっ!」
「なるほど、脳内はただいま妄想暴走中ってことだな」
「うっ……」
冷静さと警戒心を忘れて失言してしまった。でも、いとも簡単に相手の本心をあらわにしてしまうところが葉山君のすごいところであり、ずるいところでもある。私にそんな能力があれば、京本君との会話に苦労することなんてないのに。
「でもその深窓の令嬢って、いったいどんな人なの?」
かく言う私だって、どうせ恋愛過敏症だ。クラスメートの恋バナに、いやおうなしに好奇心が刺激される。
葉山君は視線を鋭くしてにやりと笑った。並びの良い白い歯が自信の証のように見える。
「じゃあ、直接自分の目で確かめればいいじゃん。水曜日、こっそり後をつけてさ」
「ええっ、それじゃあストーカーみたいじゃない。私、そんな悪どいことはできないよ」
心の底から引いた態度を取ると、葉山君は露骨に不服そうな顔をし、こう言い切った。
「おいおい、だいたい有紗はいつも良い子でいようとしすぎて、結局なんにも踏みだせていねえんじゃねえか? 俺にあれこれ聞いたところで自分から動こうとはしねえし、フルートの音色だってつまんねえ教科書通りだしよ」
「ちょっ……!」
葉山君の上から目線の言い分はひどく非難的で横柄だった。けれど、そんな葉山君に対して、私はなにも言い返せない。
だって、彼の言うひとことは、驚くほどに的を射ていたのだから。
私だって、このままの自分じゃだめだと思っている。けれど、変われるきっかけなんて、日常の中にそうそう転がっているものじゃない。
だから、京本君の水曜日を知ろうと決心したのは、私のささいな反抗だったのかもしれない。
私のことをまるで気に留めていない京本君と、狭い檻の中から飛びだせないでいる、この私自身に対しての。
★
その日の学校帰り、私はこっそりと京本君の後を追う。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、京本君はそそくさと荷物をまとめて足早に教室を後にした。人目を避けるように見えたのは、ほんとうに避けているのかもしれないし、「蜜月」という二文字が私の脳裏で悶々としているから、そう感じるのかもしれない。
京本君は、電車で二十分ほどの、すこし離れた街に住んでいる。葉山君の話によると、部活には所属していなくて、毎日アルバイトに勤しんでいる。地元の本屋さんの手伝いをしているらしい。
けれど学校の帰り道、京本君が向かったのは駅とは違う方角だった。やっぱり不自然だと直感する。
京本君は通学路の国道を脇にそれて坂道を登ってゆく。その先には丘陵の上に開発された見晴らしの良いホームタウンがある。閑静で落ち着いた雰囲気は抜群に住み心地が良いのだと、ポストに入っていた住宅販売の広告で見たことがある。
蜜月――ほんとうにそうなのだろうか?
いくばくかの罪悪感がつきまとうけれど、それ以上に好奇心が私の背中を後押ししていた。
――あんなにおとなしそうな人が会いに行く女性って、どんな人なんだろう?
ブロック塀の陰に身を隠し、見失わないように彼の姿を追う。京本君は細い路地を抜け、ちいさな一戸建ての家の前で足を止めた。
その家に向かって白いワンボックスカーが近づいてきた。停車すると、ゆっくりとバックをして車庫に収まる。京本君は車の運転を見守りながら、運転席に向かって一度、深々と頭を下げた。
運転席から降りてきたのは、見た目が四十代くらいの女性だった。買い物に出かけるようなカジュアルな服装で、京本君を見て笑顔を浮かべる。声質が明瞭で、「いらっしゃい、いつもありがとう」と言っているのが遠くからでも聞こえた。私は気づかれないように壁際から様子をうかがう。
――誰だろう、親戚の人かな。
やわらかな物腰のその女性は、車の後部座席の扉を開け、中に手を差し入れた。もうひとり、誰かが乗っているみたい。
手を取って降り立ったのは、私と同年代の女の子だった。
トイプードルのようなふわくしゅのくせっ毛、やわらかな輪郭の丸顔、にきびひとつない、陽射しに映えるきれいな素肌。同級生に比べて雰囲気があどけなく感じられる。
私の高校からさほど遠くない自宅だというのに、その女の子は見たことのない臙脂色のブレザーをまとっている。
私はその女の子の挙動に違和感を覚えた。探るように手のひらを家の外壁に当てていて、足の運びもやけに慎重だ。しかも、その子の両眼はかたくなに閉じられている。
運転手の女性が車から白い棒のようなものを取りだして女の子に渡す。女の子はそれを握って地面を突いた。
女の子が握っていたのは、「白杖」だと気づいた。
――まさか、目が見えない子なの?
でも、それ以上に驚いたことは、京本君が運転手の女性から女の子の手を受け取り、そっと握りしめたことだった。女の子はまぶたを閉じたまま京本君の顔を見上げ、花が咲いたような笑顔を浮かべる。ふたりの息が合っていることに、私の胸がひどくざわついた。
女の子は無邪気に京本君に話しかける。
「和也くん、来てくれたんだね。ありがとう」
「当然だって。今日は水曜日だからな」
――えっ?
今、信じられなかったけれど、私は確かに京本君の声を聞いた。水曜日は絶対に喋らないはずの京本君は、彼女に対してだけは言葉を発していた。その声は格別に優しい音調に感じられた。
女の子は目を閉じたまま、嬉しそうに首を縦に振っている。京本君も口元を緩めているように見えるけれど、やっぱりどこか辛そうだ。その不自然さは朝、屋上で見かけるときよりも、はるかに色を濃くしている。
葉山君は彼がリア充をしているように見えるって言っていたけれど、私からすれば彼は息苦しくなるような痛みを伴っているように感じる。いったいどうしてなんだろう?
もしかすると、あの女の子が京本君の苦しみの原因になっているんじゃないだろうか。あの女の子が彼の水曜日を縛っているからじゃないだろうか。彼が音のない水曜日を過ごす理由が彼女にあることは間違いないのだから。
次々と水曜日の疑問が湧いてきたけれど、私はそれ以上どうすることもできなくて。
結局、京本君が「蜜月の相手」と家の中へ消えていくの、息をひそめて見届けることしかできなかった。


