私立三駒高校は都内有数の進学校だ。
実力テストが終わると上位百名が公表されるため、結果発表の日には多くの生徒たちが掲示板前に集う。
夏の暑さが続いている九月上旬、午後一時過ぎ。
(……また負けた……今回も私が二位だ……)
夏休み明けテスト結果が貼り出された三階廊下の掲示板の前で、花守沙良《はなもりさら》はがっくりと項垂れた。
夏休みは実家の店の手伝いをし、何度か友達と遊びに出かけた。
それ以外の時間はほとんど自室に篭り、学年一位を目指してひたすら勉強していたのだが、沙良の夢は今回も叶うことなく終わってしまった。
「やったー、九位! 臨時収入《こづかい》ゲット!」
悄然と肩を落とす沙良とは対照的に、近くにいた男子生徒は歓喜の表情でガッツポーズした。
「九位とかすげーな、お前。てっきりただのサッカー馬鹿だとばかり思ってたわ、ごめん」
「お? やるか? やんのかコラ」
「やっばー、三十八位だって。夏休み遊びすぎたなー」
「ちょっと、それ、名前すら載ってない私への嫌味?」
「見て見て! 私、四位だよ!? 凄くない!? 偉くない!? 褒めて褒めて!!」
周りで色んな生徒の声がするが、負けたショックが大きすぎて耳に入ってこない。
「今回も不破《ふわ》くんが一位かー。さすが」
聞き覚えのある声がして、沙良は重たげに頭を動かして右手を見た。
いつの間にかクラスメイトの女子三人が沙良の傍に立っていた。
栗色の髪を高く結った石田歩美《いしだあゆみ》はクラスでも目立つ派手な女子で、ムードメーカー的存在。
沙良のクラスが来月の文化祭で喫茶店をやることになったのも、歩美がやりたいと強く主張したからだった。
「残念だったね。今回も『にいんちょ』の称号返上ならずだね」
『にいんちょ』とは『二位』と『クラス委員長』を組み合わせた造語だ。
二年一組のクラス委員長であり、入学してからこれまでずっと二位を取り続けている沙良は一部のクラスメイトからそう呼ばれている。
「……そうね」
「あー……そんなに落ち込まなくてもいいと思うよ?」
暗い顔をしている沙良を心配したらしく、歩美はひらひらと手を振った。
「不破くんは三駒中学でもずーっと学年トップだったもん」
「彼に敵う人なんていなかったよね。勉強だけじゃなく、ありとあらゆる分野で」
「うん。絵画コンクールでは美術部を差し置いて賞を取ってたし、校内合唱コンクールでは素晴らしい伴奏で皆を唸らせてたし、体育祭では大活躍してた。どんなイベントでも主役だったね」
歩美の所属グループの一人である遠坂茉奈《とおさかまな》が顔を向けると、海藤里帆《かいどうりほ》はショートボブを揺らして頷いた。
「私はバスケ部のマネージャーだったんだけど、彼は弱小チームを率いて全国まで行かせたんだよ。会場には彼目当ての女子がたっくさんいた。敵チームの学校の女子まで不破くんの応援してたのは笑っちゃったなあ」
「でも、その子たちの気持ちもわかるよねえ。あのルックスなら惚れるのも仕方ない。むしろ惚れるなってほうが無理」
「うんうん。あんなに格好良くて、おまけに勉強も運動も何でもできるなんて反則でしょ。天は二物を与えず、なんて言うけど、不破くんは例外だよね。天から与えられまくりだよね」
「にいんちょも凄いよねえ。あのパーフェクトヒューマンにいまだ一人果敢に挑み続けてるんだもの。あたし、本当に凄いと思う。普通の人ならとっくに心が折れてるよ。根本からぼっきり逝っちゃってるよ」
「うんうん。どれだけ負けても挫けない、その不屈の精神と根性には脱帽だよ。みんな、にいんちょに敬礼!」
「敬礼!」
「ガンバ、にいんちょ!」
「負けるな、にいんちょ!」
「Hang in there, Sara! Everything is gonna be all right!」
「キャー、里帆カッコイー!」
「さすが外交官の娘、素晴らしい発音!」
歩美たちは仲間内だけで盛り上がり、笑っている。
(他人事だと思って……)
黒縁眼鏡をかけた沙良のツリ目がちの瞳には悔し涙が浮かんでいたりする。
歩美たちは傍観者として楽しんでいるようだが、当事者である沙良にとって事態は深刻なのだ。
(今回こそはいけたと思ったのに……だって、500点満点中485点よ? 3位の人は462点よ? 20点以上も開きがあるのよ? なのになんで不破くんは一人だけ497点なんて化け物じみた点数取ってるの? 今回こそは勝てると、勝ったと思ったのに――)
感情を抑えきれず、両手のひらに爪を立てていたそのとき。
ぽん、と。
不意に背後から左肩を叩かれて、沙良の思考回路は停止した。
掲示板前にいた女子たちは一様にお喋りを止め、とろけんばかりの眼差しで沙良の背後を見つめている。
「………………」
「あ、不破くん」
熱い視線の交差点にいるその人物の名前を歩美が呼んだ。
冷や汗が頬を流れるのを感じながら、恐る恐る振り返れば、左頬を指で突かれた。
クラスメイトにして天敵である不破秀司《ふわしゅうじ》は沙良が振り返るタイミングに合わせて肩に置いた指のうち、人差し指だけを伸ばしてきたらしい。
「いまどんな気持ち?」
低く透き通った声が沙良の鼓膜を震わせた。
「『次こそは絶対に勝つ! ぎゃふんと言わせてみせるから覚悟しなさい!』なーんて公衆の面前で啖呵切っておきながら負けるってどんな気持ち? ねえねえ、教えてよ」
長い指が頬をグリグリ押してくる。
爪は当たっていないし、充分に手加減されているため痛くはない。
決して痛くはないのだが。
「…………っ!!」
屈辱のあまり、沙良は涙目になってプルプル震えた。
「あれだけ自信たっぷりに言うからには500点取る気満々なんだろうなって思ってたのに。いざ蓋を開けてみれば、あれ? なんか委員長の名前の隣に485点とか書いてあるような気がするんだけど、目の錯覚かな?」
「う、うるさいわねっ! 500点満点なんて取れるわけないでしょ!?」
沙良は頬をグリグリしている秀司の指を掴んで引っぺがし、身を反転させて彼と向き合った。
(くう……なんでこの人はこんなに格好良いの)
眩暈を覚えてしまうほど、秀司は恐ろしく綺麗な顔立ちをしている。
窓から差し込む陽光を浴びて輝く切り揃えた短髪。
くっきりとした二重に長い睫毛、通った鼻筋。
女子が夢中になり、アイドルだの王子様だのと持て囃すのも当然だ。
他校の女子生徒が彼を待ち伏せする光景は、もはや珍しくもないただの日常だった。
「そう? 俺は数Ⅱ担当の加藤が『解法が気に入らない』なんて理由で減点しなきゃ500点満点だったよ」
衝撃の事実は沙良の頭を思い切りぶん殴った。
(全教科満点……だと? 大学入試問題レベルの難問だってあったのに?)
「……。……マジで?」
震える声で問う。
品行方正な委員長であろうと心掛けている沙良は普段人前でこんな言葉遣いをしないのだが、それほど動揺していた。
「マジで」
秀司はあっさり顎を引いた後、
「それを踏まえた上で、さあ。いまのお気持ちをどうぞ」
にこにこしながら握った拳をマイクに見立てて沙良の口元に寄せた。
「~~っ、……悔しいです……」
俯き、蚊の鳴くような声で言う。
「え、なんて? 聞こえない」
意地悪く促す秀司の瞳はキラキラ輝いていた。
楽しくて楽しくて仕方ないらしい。
どういうわけか、秀司はテストで満点を取ったときでも、バスケでシュートを決めたときでもなく、こうして沙良をからかっているときにこそ最高の笑顔を見せる。
(このドS……っ!!)
前言撤回。
この男のどこがアイドルだ。王子様だ。
「ああもうっ、認めればいいんでしょう!? 私の負けです完敗です!! 超天才の貴方様に勝負を挑むなんて、とんだ身の程知らずでしたごめんなさい!!」
やけになって叫ぶ。半泣きで。
「わかればよろしい」
「何したり顔で頷いてんのよおおお!!」
とうとう本格的に泣き出し、沙良は秀司の両肩を掴んで激しく揺さぶった。
秀司の艶やかな黒髪とストライプ柄の紺色のネクタイが動きに合わせて跳ねる。
沙良も周囲の生徒たちも同じネクタイをつけていた。
三駒高校は男女ともにネクタイ着用なのだ。
「お、始まったぞ」
「もはやテスト後の恒例行事だな」
周りの生徒が何か言っているが気にすることなく、感情のままに沙良は喚いた。
「勉強だけが冴えない私の唯一の取柄だったのに! 入学式で新入生代表挨拶をしたときは最高の気分だったのに、これから順風満帆な高校生活が始まるって信じて疑わなかったのに!! 後で先生に『実はトップ入学は不破くんだった』と明かされたときの私の気持ちがわかる!? 初めての中間テストでも涼しい顔で一位取っちゃってさあ!! 中学でトップだったらしいけど、私だってずっと、ずーっと西中《にしちゅう》でトップだったのよ!? それなのに負けっぱなし! いまじゃ『にいんちょ』なんて不名誉なあだ名までつけられて! 不破くんばっかり才能に満ち溢れててずるいわ! 勉強も運動も何でもできるなら学年一位の座にこだわる必要なんてないでしょ!? 一回くらい私に一位を譲りなさいよ! これ見よがしにつけてるそのバッジ寄越しなさいよ!」
秀司の胸元には校章入りの金バッジが輝いている。
欲しくて堪らない学年トップの証を、秀司は一向に手放してくれない。
「大体なんでここにいるの!? あなたがいるべきは学校《ここ》じゃなくて博物館でしょ!? 不破くんほど格好良い男なんて地球上に、いえ、宇宙に存在しないもの! 超貴重な国宝として一番目立つロビーにでも展示されてなさいよ!!」
彼の両肩から手を離し、ビシッと指差す。
眉間に指を突きつけられて、秀司は目をパチクリさせた。
「もし博物館に不破くんがいたら女子が殺到して経済が回るわ! お土産コーナーで不破くんを模した像なんか発売したらバカ売れ間違いなしよ! 少なくとも私は買う!!」
「買うんだ」
秀司はおかしそうに笑った。
「買うわよ! 四月に不破くんを初めて見たときは衝撃だったもの!! 疑うなら見なさいよ女子たちを! みんなあなたを見てるじゃない!!」
手のひら全体で示すと、こちらを見ていた女子たちは一斉に目を逸らした。
「ね、わかったでしょう!? それだけルックスが良ければ無理に一位を取る必要なんてないって! 不破くんなら立派なヒモになれるわ、私が保障する! たとえ一文無しのニートになったって世の女性が放っとかない、みんな喜んで養ってくれるわよ! だから安心して私にそのバッジを渡しなさい!!」
バッジに手を伸ばすが、秀司はさっと身をよけた。
それからバッジを外し、つまんで掲げる。
「そんなにこれが欲しい?」
「欲しい!!」
「じゃあ勉強しましょう。」
秀司はにっこり笑った。
「……………………」
笑顔でド正論を言われた沙良は石化した。
(……それはそうなんだけど……それを言ったらおしまいというか、身も蓋もないというか……勉強しても勝てないから苦労してるのであって……)
「大丈夫、やればできるよ。委員長ならいつか一位になれるって信じてるから。頑張って!」
バッジを手の内に握り込み、秀司は己の胸の前で拳を作ってみせた。
(くっ……このっ……白々しい笑顔で、心にもないことを……!!)
「……覚えてなさいよおおおお!!」
沙良は泣きながら逃亡した。
といっても、四階にある自分の教室に戻るだけだ。
「待ってよ、にいんちょー」
階段を上っていると、秀司が一段飛ばしで追いかけてきた。
「不破くんにだけはそのあだ名で呼ばれたくないっ!」
階段の途中で振り返り、キツい眼差しで秀司を睨みつける。
「まあまあ、そんな怖い顔しないで。それはそうと、俺、チョコレートケーキが食べたいな」
さきほどの騒動などなかったかのような、いつも通りの飄々とした態度で秀司は階段を上り、沙良の隣に並んでリクエストしてきた。
テストの敗者は勝者にケーキを贈り、その勝利を祝う。
高校に入って初めての実力テストで負けたその日、沙良は秀司に勝負を申し込み、二人でそんなルールを決めた。
ケーキを贈るとは言っても「手作りしろ」なんて指定はなかった。
でも、親からもらった小遣いで買った市販のケーキでは心がこもっていない気がして、沙良は悪戦苦闘しながらケーキを作った。
イチゴを乗せた不恰好なホイップケーキを秀司に渡すのには勇気が必要だった。
秀司の家は金持ちだ。
父親は大企業の重役で、母親はサロンの経営者。
そんな裕福な家庭で育ったのだから、当然舌も肥えている。
少しでも彼が嫌そうな顔をしたらすぐに取り替えるつもりで、一応市販のケーキも用意していた。
けれど、予想に反して秀司は嬉しそうに沙良の手作りケーキを食べてくれた。
それから沙良はテストで負ける度にケーキを作っている。
「了解」
多少冷静さを取り戻した沙良は人差し指で眼鏡を押し上げた。
「いくつか試作品を作るから少し待ってて。金曜日には用意するわ」
そう言って、彼と共に階段を上っていく。
「試作品ねえ。ほんと委員長って真面目だよね」
「まずいケーキなんて食べたくないでしょ? 下手なものを作ってお腹を壊されても困るわ」
「楽しみにしてる」
微笑まれたら悪い気はしない。
「……そう」
なんだか目を合わせているのが気恥ずかしくなり、沙良はさりげなく顔を背けた。
(また負けたのは悔しいけれど仕方ない、やってやるか。今回も『美味しい』って言わせてみせるんだから!)
「委員長って、ケーキ作るの好きなの?」
「どうして?」
教室に入る直前に声を掛けられた沙良は足を止め、左隣にいる秀司を見た。
「なんか横顔が楽しそうに見えたから」
「……そんなことないわよ」
そっけなく答えて教室に入り、窓際にある自分の席に座る。
秀司の席は廊下側の前方なので、用件がない限りわざわざこっちまで来ることはない。
彼の前の席の女子が身体ごと振り返り、秀司に話しかけていた。
また一位なんて凄い、話の内容としてはそんなところだろうか。
視線を外し、沙良は鞄からスマホを取り出した。
(楽しいなんて、そんなわけないじゃない。それがルールだから、敗者の私は勝者の彼のためにケーキを作る。それだけよ。いまだってそう、リクエストされたからチョコレートケーキのレシピを調べてるだけで――このチョコレートケーキ美味しそう。ブックマークしとこ。あ、こっちのケーキも素敵。うーん、これも捨てがたい……迷うなあ……どれが不破くんの好みかな? いっそどれがいいか本人に聞いてみ――って、馬鹿! 『どれが食べたい?』なんて聞けるわけないでしょ! そんなことしたら、まるで私がものすっごく張り切ってるみたいじゃない!!)
左手はスマホを握ったまま机に右腕を置き、その上に顔を伏せて身悶える。
(私は負けたから! 仕方なく! ケーキを作るの! それだけなの!!)
そう。
間違っても、あの日「美味しい」と言ってくれた秀司の笑顔を夢見てケーキを作るわけではないのだ。
……多分。きっと。
◆ ◆ ◆
秀司と沙良がいなくなった三階廊下、掲示板前にて。
「いやー、見せつけてくれたな」
「花守さんも凄いこと言うよね。『不破くんほど格好良い男なんて宇宙に存在しない』なんて。もう好きですって告白してるようなものじゃん。聞いてるこっちが恥ずかしくなるような台詞を照れもせず、真顔で言い放つんだから、ほんと凄いわ」
「不破くん、嬉しそうだったね」
「ねー。他人にはあんな顔しないのにね」
「本来なら500点満点かぁ。不破の頭の中ってどうなってんだろ。夏休みに遊び呆けてすっかり気を緩ませた生徒にガツンと喝を入れるためだろうけど、今回のテストめちゃくちゃ難しかったよな?」
「全く勉強してるようには見えないのにな。毎回当たり前みたいな顔で一位取っちまうんだから、花守も大変だよなあ。同情するわ」
「あー、それなんだけど」
控えめに手を挙げて発言したのは、秀司の幼馴染であり親友でもある戸田大和《とだやまと》だった。
「秀司って何の苦労もせずにさらっと毎回一位取ってるように見えるだろ?」
「うん」
「違うんだ。プライドが高くて人に努力してる姿を見せるのが嫌いなだけで、実はあいつ、裏で超~勉強してるから。夏休みも一緒に花火大会行かないかって聞いたら『勉強するから無理』ってソッコー断られたし」
「え、そうなの?」
「ああ。あいつはこれまでずっと真面目に勉強してたけど、花守さんに勝負を申し込まれた後の勉強量は桁違いだよ。全ては花守さんに『凄い』って思われたい一心なんだろうな。男としてのプライドってやつ」
「えー、そうなんだ」
「知らなかった。天才だとばかり思ってたけど、並々ならぬ努力でそう見せてるだけなんだね」
「全てはにいんちょのため、か。いやあ、恋の力は偉大だねえ」
「早く付き合えばいいのにね」
「じれったいよなー」
その場にいる生徒たちは口々に言い合い、頷き合った。
秀司のファンは大勢いるが、本気で彼を射止めようとする女子はいない。
『開校以来の秀才』と呼ばれた秀司に白昼堂々沙良が勝負を挑んだ逸話は広く浸透しており、誰もが彼に相応しいのは沙良しかいないと思っているからだ。
互いに好意を抱いているのは一目瞭然。
横恋慕など野暮の極み。
そんな空気の中、生徒たちは生温かく二人を見守っているのだった。
実力テストが終わると上位百名が公表されるため、結果発表の日には多くの生徒たちが掲示板前に集う。
夏の暑さが続いている九月上旬、午後一時過ぎ。
(……また負けた……今回も私が二位だ……)
夏休み明けテスト結果が貼り出された三階廊下の掲示板の前で、花守沙良《はなもりさら》はがっくりと項垂れた。
夏休みは実家の店の手伝いをし、何度か友達と遊びに出かけた。
それ以外の時間はほとんど自室に篭り、学年一位を目指してひたすら勉強していたのだが、沙良の夢は今回も叶うことなく終わってしまった。
「やったー、九位! 臨時収入《こづかい》ゲット!」
悄然と肩を落とす沙良とは対照的に、近くにいた男子生徒は歓喜の表情でガッツポーズした。
「九位とかすげーな、お前。てっきりただのサッカー馬鹿だとばかり思ってたわ、ごめん」
「お? やるか? やんのかコラ」
「やっばー、三十八位だって。夏休み遊びすぎたなー」
「ちょっと、それ、名前すら載ってない私への嫌味?」
「見て見て! 私、四位だよ!? 凄くない!? 偉くない!? 褒めて褒めて!!」
周りで色んな生徒の声がするが、負けたショックが大きすぎて耳に入ってこない。
「今回も不破《ふわ》くんが一位かー。さすが」
聞き覚えのある声がして、沙良は重たげに頭を動かして右手を見た。
いつの間にかクラスメイトの女子三人が沙良の傍に立っていた。
栗色の髪を高く結った石田歩美《いしだあゆみ》はクラスでも目立つ派手な女子で、ムードメーカー的存在。
沙良のクラスが来月の文化祭で喫茶店をやることになったのも、歩美がやりたいと強く主張したからだった。
「残念だったね。今回も『にいんちょ』の称号返上ならずだね」
『にいんちょ』とは『二位』と『クラス委員長』を組み合わせた造語だ。
二年一組のクラス委員長であり、入学してからこれまでずっと二位を取り続けている沙良は一部のクラスメイトからそう呼ばれている。
「……そうね」
「あー……そんなに落ち込まなくてもいいと思うよ?」
暗い顔をしている沙良を心配したらしく、歩美はひらひらと手を振った。
「不破くんは三駒中学でもずーっと学年トップだったもん」
「彼に敵う人なんていなかったよね。勉強だけじゃなく、ありとあらゆる分野で」
「うん。絵画コンクールでは美術部を差し置いて賞を取ってたし、校内合唱コンクールでは素晴らしい伴奏で皆を唸らせてたし、体育祭では大活躍してた。どんなイベントでも主役だったね」
歩美の所属グループの一人である遠坂茉奈《とおさかまな》が顔を向けると、海藤里帆《かいどうりほ》はショートボブを揺らして頷いた。
「私はバスケ部のマネージャーだったんだけど、彼は弱小チームを率いて全国まで行かせたんだよ。会場には彼目当ての女子がたっくさんいた。敵チームの学校の女子まで不破くんの応援してたのは笑っちゃったなあ」
「でも、その子たちの気持ちもわかるよねえ。あのルックスなら惚れるのも仕方ない。むしろ惚れるなってほうが無理」
「うんうん。あんなに格好良くて、おまけに勉強も運動も何でもできるなんて反則でしょ。天は二物を与えず、なんて言うけど、不破くんは例外だよね。天から与えられまくりだよね」
「にいんちょも凄いよねえ。あのパーフェクトヒューマンにいまだ一人果敢に挑み続けてるんだもの。あたし、本当に凄いと思う。普通の人ならとっくに心が折れてるよ。根本からぼっきり逝っちゃってるよ」
「うんうん。どれだけ負けても挫けない、その不屈の精神と根性には脱帽だよ。みんな、にいんちょに敬礼!」
「敬礼!」
「ガンバ、にいんちょ!」
「負けるな、にいんちょ!」
「Hang in there, Sara! Everything is gonna be all right!」
「キャー、里帆カッコイー!」
「さすが外交官の娘、素晴らしい発音!」
歩美たちは仲間内だけで盛り上がり、笑っている。
(他人事だと思って……)
黒縁眼鏡をかけた沙良のツリ目がちの瞳には悔し涙が浮かんでいたりする。
歩美たちは傍観者として楽しんでいるようだが、当事者である沙良にとって事態は深刻なのだ。
(今回こそはいけたと思ったのに……だって、500点満点中485点よ? 3位の人は462点よ? 20点以上も開きがあるのよ? なのになんで不破くんは一人だけ497点なんて化け物じみた点数取ってるの? 今回こそは勝てると、勝ったと思ったのに――)
感情を抑えきれず、両手のひらに爪を立てていたそのとき。
ぽん、と。
不意に背後から左肩を叩かれて、沙良の思考回路は停止した。
掲示板前にいた女子たちは一様にお喋りを止め、とろけんばかりの眼差しで沙良の背後を見つめている。
「………………」
「あ、不破くん」
熱い視線の交差点にいるその人物の名前を歩美が呼んだ。
冷や汗が頬を流れるのを感じながら、恐る恐る振り返れば、左頬を指で突かれた。
クラスメイトにして天敵である不破秀司《ふわしゅうじ》は沙良が振り返るタイミングに合わせて肩に置いた指のうち、人差し指だけを伸ばしてきたらしい。
「いまどんな気持ち?」
低く透き通った声が沙良の鼓膜を震わせた。
「『次こそは絶対に勝つ! ぎゃふんと言わせてみせるから覚悟しなさい!』なーんて公衆の面前で啖呵切っておきながら負けるってどんな気持ち? ねえねえ、教えてよ」
長い指が頬をグリグリ押してくる。
爪は当たっていないし、充分に手加減されているため痛くはない。
決して痛くはないのだが。
「…………っ!!」
屈辱のあまり、沙良は涙目になってプルプル震えた。
「あれだけ自信たっぷりに言うからには500点取る気満々なんだろうなって思ってたのに。いざ蓋を開けてみれば、あれ? なんか委員長の名前の隣に485点とか書いてあるような気がするんだけど、目の錯覚かな?」
「う、うるさいわねっ! 500点満点なんて取れるわけないでしょ!?」
沙良は頬をグリグリしている秀司の指を掴んで引っぺがし、身を反転させて彼と向き合った。
(くう……なんでこの人はこんなに格好良いの)
眩暈を覚えてしまうほど、秀司は恐ろしく綺麗な顔立ちをしている。
窓から差し込む陽光を浴びて輝く切り揃えた短髪。
くっきりとした二重に長い睫毛、通った鼻筋。
女子が夢中になり、アイドルだの王子様だのと持て囃すのも当然だ。
他校の女子生徒が彼を待ち伏せする光景は、もはや珍しくもないただの日常だった。
「そう? 俺は数Ⅱ担当の加藤が『解法が気に入らない』なんて理由で減点しなきゃ500点満点だったよ」
衝撃の事実は沙良の頭を思い切りぶん殴った。
(全教科満点……だと? 大学入試問題レベルの難問だってあったのに?)
「……。……マジで?」
震える声で問う。
品行方正な委員長であろうと心掛けている沙良は普段人前でこんな言葉遣いをしないのだが、それほど動揺していた。
「マジで」
秀司はあっさり顎を引いた後、
「それを踏まえた上で、さあ。いまのお気持ちをどうぞ」
にこにこしながら握った拳をマイクに見立てて沙良の口元に寄せた。
「~~っ、……悔しいです……」
俯き、蚊の鳴くような声で言う。
「え、なんて? 聞こえない」
意地悪く促す秀司の瞳はキラキラ輝いていた。
楽しくて楽しくて仕方ないらしい。
どういうわけか、秀司はテストで満点を取ったときでも、バスケでシュートを決めたときでもなく、こうして沙良をからかっているときにこそ最高の笑顔を見せる。
(このドS……っ!!)
前言撤回。
この男のどこがアイドルだ。王子様だ。
「ああもうっ、認めればいいんでしょう!? 私の負けです完敗です!! 超天才の貴方様に勝負を挑むなんて、とんだ身の程知らずでしたごめんなさい!!」
やけになって叫ぶ。半泣きで。
「わかればよろしい」
「何したり顔で頷いてんのよおおお!!」
とうとう本格的に泣き出し、沙良は秀司の両肩を掴んで激しく揺さぶった。
秀司の艶やかな黒髪とストライプ柄の紺色のネクタイが動きに合わせて跳ねる。
沙良も周囲の生徒たちも同じネクタイをつけていた。
三駒高校は男女ともにネクタイ着用なのだ。
「お、始まったぞ」
「もはやテスト後の恒例行事だな」
周りの生徒が何か言っているが気にすることなく、感情のままに沙良は喚いた。
「勉強だけが冴えない私の唯一の取柄だったのに! 入学式で新入生代表挨拶をしたときは最高の気分だったのに、これから順風満帆な高校生活が始まるって信じて疑わなかったのに!! 後で先生に『実はトップ入学は不破くんだった』と明かされたときの私の気持ちがわかる!? 初めての中間テストでも涼しい顔で一位取っちゃってさあ!! 中学でトップだったらしいけど、私だってずっと、ずーっと西中《にしちゅう》でトップだったのよ!? それなのに負けっぱなし! いまじゃ『にいんちょ』なんて不名誉なあだ名までつけられて! 不破くんばっかり才能に満ち溢れててずるいわ! 勉強も運動も何でもできるなら学年一位の座にこだわる必要なんてないでしょ!? 一回くらい私に一位を譲りなさいよ! これ見よがしにつけてるそのバッジ寄越しなさいよ!」
秀司の胸元には校章入りの金バッジが輝いている。
欲しくて堪らない学年トップの証を、秀司は一向に手放してくれない。
「大体なんでここにいるの!? あなたがいるべきは学校《ここ》じゃなくて博物館でしょ!? 不破くんほど格好良い男なんて地球上に、いえ、宇宙に存在しないもの! 超貴重な国宝として一番目立つロビーにでも展示されてなさいよ!!」
彼の両肩から手を離し、ビシッと指差す。
眉間に指を突きつけられて、秀司は目をパチクリさせた。
「もし博物館に不破くんがいたら女子が殺到して経済が回るわ! お土産コーナーで不破くんを模した像なんか発売したらバカ売れ間違いなしよ! 少なくとも私は買う!!」
「買うんだ」
秀司はおかしそうに笑った。
「買うわよ! 四月に不破くんを初めて見たときは衝撃だったもの!! 疑うなら見なさいよ女子たちを! みんなあなたを見てるじゃない!!」
手のひら全体で示すと、こちらを見ていた女子たちは一斉に目を逸らした。
「ね、わかったでしょう!? それだけルックスが良ければ無理に一位を取る必要なんてないって! 不破くんなら立派なヒモになれるわ、私が保障する! たとえ一文無しのニートになったって世の女性が放っとかない、みんな喜んで養ってくれるわよ! だから安心して私にそのバッジを渡しなさい!!」
バッジに手を伸ばすが、秀司はさっと身をよけた。
それからバッジを外し、つまんで掲げる。
「そんなにこれが欲しい?」
「欲しい!!」
「じゃあ勉強しましょう。」
秀司はにっこり笑った。
「……………………」
笑顔でド正論を言われた沙良は石化した。
(……それはそうなんだけど……それを言ったらおしまいというか、身も蓋もないというか……勉強しても勝てないから苦労してるのであって……)
「大丈夫、やればできるよ。委員長ならいつか一位になれるって信じてるから。頑張って!」
バッジを手の内に握り込み、秀司は己の胸の前で拳を作ってみせた。
(くっ……このっ……白々しい笑顔で、心にもないことを……!!)
「……覚えてなさいよおおおお!!」
沙良は泣きながら逃亡した。
といっても、四階にある自分の教室に戻るだけだ。
「待ってよ、にいんちょー」
階段を上っていると、秀司が一段飛ばしで追いかけてきた。
「不破くんにだけはそのあだ名で呼ばれたくないっ!」
階段の途中で振り返り、キツい眼差しで秀司を睨みつける。
「まあまあ、そんな怖い顔しないで。それはそうと、俺、チョコレートケーキが食べたいな」
さきほどの騒動などなかったかのような、いつも通りの飄々とした態度で秀司は階段を上り、沙良の隣に並んでリクエストしてきた。
テストの敗者は勝者にケーキを贈り、その勝利を祝う。
高校に入って初めての実力テストで負けたその日、沙良は秀司に勝負を申し込み、二人でそんなルールを決めた。
ケーキを贈るとは言っても「手作りしろ」なんて指定はなかった。
でも、親からもらった小遣いで買った市販のケーキでは心がこもっていない気がして、沙良は悪戦苦闘しながらケーキを作った。
イチゴを乗せた不恰好なホイップケーキを秀司に渡すのには勇気が必要だった。
秀司の家は金持ちだ。
父親は大企業の重役で、母親はサロンの経営者。
そんな裕福な家庭で育ったのだから、当然舌も肥えている。
少しでも彼が嫌そうな顔をしたらすぐに取り替えるつもりで、一応市販のケーキも用意していた。
けれど、予想に反して秀司は嬉しそうに沙良の手作りケーキを食べてくれた。
それから沙良はテストで負ける度にケーキを作っている。
「了解」
多少冷静さを取り戻した沙良は人差し指で眼鏡を押し上げた。
「いくつか試作品を作るから少し待ってて。金曜日には用意するわ」
そう言って、彼と共に階段を上っていく。
「試作品ねえ。ほんと委員長って真面目だよね」
「まずいケーキなんて食べたくないでしょ? 下手なものを作ってお腹を壊されても困るわ」
「楽しみにしてる」
微笑まれたら悪い気はしない。
「……そう」
なんだか目を合わせているのが気恥ずかしくなり、沙良はさりげなく顔を背けた。
(また負けたのは悔しいけれど仕方ない、やってやるか。今回も『美味しい』って言わせてみせるんだから!)
「委員長って、ケーキ作るの好きなの?」
「どうして?」
教室に入る直前に声を掛けられた沙良は足を止め、左隣にいる秀司を見た。
「なんか横顔が楽しそうに見えたから」
「……そんなことないわよ」
そっけなく答えて教室に入り、窓際にある自分の席に座る。
秀司の席は廊下側の前方なので、用件がない限りわざわざこっちまで来ることはない。
彼の前の席の女子が身体ごと振り返り、秀司に話しかけていた。
また一位なんて凄い、話の内容としてはそんなところだろうか。
視線を外し、沙良は鞄からスマホを取り出した。
(楽しいなんて、そんなわけないじゃない。それがルールだから、敗者の私は勝者の彼のためにケーキを作る。それだけよ。いまだってそう、リクエストされたからチョコレートケーキのレシピを調べてるだけで――このチョコレートケーキ美味しそう。ブックマークしとこ。あ、こっちのケーキも素敵。うーん、これも捨てがたい……迷うなあ……どれが不破くんの好みかな? いっそどれがいいか本人に聞いてみ――って、馬鹿! 『どれが食べたい?』なんて聞けるわけないでしょ! そんなことしたら、まるで私がものすっごく張り切ってるみたいじゃない!!)
左手はスマホを握ったまま机に右腕を置き、その上に顔を伏せて身悶える。
(私は負けたから! 仕方なく! ケーキを作るの! それだけなの!!)
そう。
間違っても、あの日「美味しい」と言ってくれた秀司の笑顔を夢見てケーキを作るわけではないのだ。
……多分。きっと。
◆ ◆ ◆
秀司と沙良がいなくなった三階廊下、掲示板前にて。
「いやー、見せつけてくれたな」
「花守さんも凄いこと言うよね。『不破くんほど格好良い男なんて宇宙に存在しない』なんて。もう好きですって告白してるようなものじゃん。聞いてるこっちが恥ずかしくなるような台詞を照れもせず、真顔で言い放つんだから、ほんと凄いわ」
「不破くん、嬉しそうだったね」
「ねー。他人にはあんな顔しないのにね」
「本来なら500点満点かぁ。不破の頭の中ってどうなってんだろ。夏休みに遊び呆けてすっかり気を緩ませた生徒にガツンと喝を入れるためだろうけど、今回のテストめちゃくちゃ難しかったよな?」
「全く勉強してるようには見えないのにな。毎回当たり前みたいな顔で一位取っちまうんだから、花守も大変だよなあ。同情するわ」
「あー、それなんだけど」
控えめに手を挙げて発言したのは、秀司の幼馴染であり親友でもある戸田大和《とだやまと》だった。
「秀司って何の苦労もせずにさらっと毎回一位取ってるように見えるだろ?」
「うん」
「違うんだ。プライドが高くて人に努力してる姿を見せるのが嫌いなだけで、実はあいつ、裏で超~勉強してるから。夏休みも一緒に花火大会行かないかって聞いたら『勉強するから無理』ってソッコー断られたし」
「え、そうなの?」
「ああ。あいつはこれまでずっと真面目に勉強してたけど、花守さんに勝負を申し込まれた後の勉強量は桁違いだよ。全ては花守さんに『凄い』って思われたい一心なんだろうな。男としてのプライドってやつ」
「えー、そうなんだ」
「知らなかった。天才だとばかり思ってたけど、並々ならぬ努力でそう見せてるだけなんだね」
「全てはにいんちょのため、か。いやあ、恋の力は偉大だねえ」
「早く付き合えばいいのにね」
「じれったいよなー」
その場にいる生徒たちは口々に言い合い、頷き合った。
秀司のファンは大勢いるが、本気で彼を射止めようとする女子はいない。
『開校以来の秀才』と呼ばれた秀司に白昼堂々沙良が勝負を挑んだ逸話は広く浸透しており、誰もが彼に相応しいのは沙良しかいないと思っているからだ。
互いに好意を抱いているのは一目瞭然。
横恋慕など野暮の極み。
そんな空気の中、生徒たちは生温かく二人を見守っているのだった。


