鼻炎少女に体臭は関係ない

 「よ。草井(くさい)
 「その呼び方やめて」
 「じゃあ、井秀(いしゅう)?」
 「普通に呼べ」
 学校へと向かう電車の中。向かい側には両親と今まさに隣にいる幼なじみの清水爽太(しみずそうた)の両親。なんで両親がいるのか、それは。
 「えー、だって今日から高校生デビューだよ? ほら、芸能人がデビューのときに名前変えるとかあるじゃん」
 「やだよ、そんなデビュー」
 今日から高校生デビュー。つまり入学式。電車で登校なんて初めてだから新鮮な気持ちで乗っていたというのに、爽太のせいでそれも台無しだ。
 「まぁ、秀は土足で上がれるからわざわざこんな遠い高校を選んだんだもんな」
 「まぁな」
 そう、僕の家の周りにはいくつも高校がある。だからわざわざこんな遠い高校を選ぶ理由なんて本来はないのだ。だけど僕に限ってはあって。
 「どう、臭いは」
 「そういうの外で聞くのやめてくれる?」
 まったく、幼なじみなだけあってデリカシーというものが皆無だ。でも仕方ない。これこそが遠い高校を選んだ最大の理由だから。
 僕は体臭がひどい。それが今一番の悩み。
 「もったいよな。顔も成績も運動神経も悪くないのに」
 「うるさい」
 「ほんと昔からだよな」
 「いい加減にしろ」
 しつこいやつだ。でも確かに、体臭は昔からだ。
 臭いを消すために色々試してはみた。一日三回もお風呂に入ったり、香水をつけたり。でもどれも効果はなくて。むしろ香水なんてその香りと体臭が融合してさらに匂いが増して大変だった。
 「高校では上手く隠せるといいな。特に体育とか」
 別に隠せなくてもどうでもいい、みたいなノリの激励。
 「そうだな」
 僕も軽く返す。実際は軽くない問題だけど。
 電車を降りると、同じ制服を着た生徒が大勢いた。こんな体臭のことを考えてるの、僕だけなんだろうなと思ったら途端に恥ずかしくなってきた。
 「じゃあ、お母さんたち先に体育館行ってるからね」
 これから通う新しい学校に辿り着き、玄関で両親たちと別れる。
 「いや~まさかクラスまで一緒だったとはって……なににやついてるの?」
 「え、いや。靴脱がないで学校に上がれるって、こんなに幸せなんだって」
 中学までの記憶が蘇ると、背筋が凍る。靴を脱ぐたび臭いって言われていじられてたことに。
 だからこそ高校はここを選んだわけで。
 「まぁ、お互い頑張ろうな」
 「お互いって、お前はなにを頑張るんだよ」
 そもそも爽太はどうして同じこの高校に入学したのだろうか。すると彼は不適な笑みを浮かべて。
 「弁当作りだよ」
 「……まさか」
 背筋が凍りついてゆくのを感じる。考えたくないけれど、幼なじみだから次になにを言い出すのかも手に取るようにわかってしまう。
 「おれ特製の弁当を試食してくれる人がこの高校に入学するって聞いたからさ。だから俺もここに進学したってわけ。その人のために頑張らないと」
 「その人、まさかぼくじゃないよね?」
 「わかってるよね?」
 ああ、僕のことだ。まぁ、知ってたけど。どうりでおかしいと思ったんだ。こいつもわざわざ遠いこの高校に進学するなんて。
 体臭を隠すことも大変なのに、さらに大変なことが増えて彼にわざと聞こえるため息をついた。

 
 「え~、新入生の皆さんは靴を履き替えて体育館へ行くように」
 これから僕たちの担任の先生になる人がそう指示したとき、絶望する。そういえばこの学校、土足が認められている代わりに体育館専用の靴を履かなきゃいけないんだった。下駄箱がないことに浮かれすぎてすっかり忘れていた。
 とにかく履かないと。両親が用意してくれたのか、靴はちゃんと持っていた。
 「おい、どこ行くんだよ」
 履く場所を探そうと立ち上がると、当然ながら斜め後ろの幼なじみに声をかけられる。
 「いやちょっと、ね」
 例の靴を前に出すと察してくれたのか「もうすぐ始まるから早く終わらせろよ」とそれ以上追及するのをやめてくれた。こういうところはいい奴だ。
 廊下を出てきょろきょろと辺りを見回す。まだ入学式すら終えていないから、当然空いている教室がどこにあるのかなんてわからない。とにかく歩いて見つけ出すしかなさそう。
 廊下には体育館へ向かおうとする大勢の新入生とすれ違う。この辺りは僕と同じ学年の人たちの教室が集まっているようで、空き教室があるとは思えない。
 仕方なく二階や三階へ上がってみるも、今度はリボンの色が違う生徒たちが大勢いて先輩たちの階だとわかり、結局四階まで上ることになった。すると上がった甲斐あってそこには生徒が一人もいなくて、さらにすぐ空き教室らしき部屋を見つけることができた。
 中へ入ると長年使われていないのか、埃が所々積もっている。不清潔だけれど、僕も言える立場じゃないと思った。
 靴を脱ぐと嫌がらせかのようにすぐ匂いが漂い、自然とため息が出てしまう。
 がらがら
 誰もいないはずの室内にそんな音がして、肩がビクッと震えた。まさか。
 どうか爽太であってと願うも振り返ればそれは儚く散り、小柄な女子生徒が立っていた。しかも見覚えのある顔で、確か同じ教室にいた女子生徒。
 「あの……」
 鼻声のその生徒はなにかを尋ねているみたいだけど、今の僕の思考はそれどころじゃない。バレてしまった。しかも同じクラスの人に。
 「なにも言わないでください!」
 急いで靴を履き、それだけ伝えて逃げるように教室を出てゆく。きっと皆行ってるだろうからそのまま体育館へ。
 口止めは一応した。あとはあの女子生徒がなにも言わないことを願うだけ。

 
 土足が認められていることだけを理由にこの学校へ進学した。もちろん近い高校はいくらでもあったし、僕の成績だともっと偏差値の高い学校へ進学できたみたい。だからか、この高校では首席だったらしく新入生の挨拶をせざるを得なくなってしまい。
 「新入生代表、草井秀(くさいしゅう)
 「はい」
 あぁ、どうしよう。すごく緊張してきた。立ち上がった瞬間視線が矢のように刺さって。クラスの代表とかなったことないから、こういうのは初めてだった。
 滑らかじゃない足の動き。不自然なのはわかっている。人前で発表するからなのか……。
 あっ。
 気づけば身体の前方が軽い痛みで少し痺れていた。手をついて立ち上がり、ようやく自分の失態を目の当たりにする。
 これから関わってゆく新入生たちが歪んだ表情をして。
 「え、なにこの臭い」
 「あの人の靴脱げたからじゃない」
 あちこちでそんな囁きが聞こえてきた。こそこそと。
 高校ではバレないように過ごそうって決めてたのに。体臭という名のコンプレックスを。でもそれも終わり。
 それからは記憶がない。新入生の挨拶をしたはずだけど。
 

 「あーあ。まさか初日でバレちゃうとは」
 「うるさい」
 「だいたい、どうしてあそこで転んじゃうかな」
 「緊張したんだよ」
 体育館から教室へ戻ってくるなり、爽太がいじってくる。だって仕方ないじゃないか。人前で発表すること、今まであんまりしてこなかったから。
 まだクラスも馴染んでいないはずなのに、いつの間に仲良くなったのか、みんななにか話している。そして時々聞こえた。僕の体臭の話が。
 もう誰の声も聞きたくなくて、目の前に幼なじみがいるにも関わらず机に突っ伏した。
 「じゃあ、とりあえずトイレ行ってくる」
 落ち込んでいるのがわかったのか、爽太が離れてくれる。
 「あの……」
 高校生活が終わった。そう心の底から嘆いていたら、今にも消えてしまいそうな声がかかる。
 ついに直接言いにくる人が現れた。お前体臭めっちゃきついよなって。いや、女性っぽい声だったからもう少し言葉遣いは上品かもしれない。いずれにしてもなにか言われるのは確定している。
 「大丈夫ですか?」
 予想外のセリフに顔を上げると、見覚えのある顔があって。そしてもっと引き込まれたのは、彼女の持っている靴。
 「靴、置きっぱなしだったから……」
 「あ、ありがとう」
 そうだ。この人、さっきの空き教室で出会った女子生徒だ。逃げることに意識が向きすぎて、靴の存在をすっかり忘れていた。
 それからすぐにどこかへ行こうとして、待ってと僕は彼女を呼び止める。とりあえず。
 「ごめん、さっきのこと忘れてほしい」
 「さっきのこと?」
 「僕が臭いこと!」
 なかなかわかってくれなくて、つい強く言ってしまった。自虐にもほどがある。
 「臭い? どういうこと?」
 「いや、えっと……」
 さらに不思議そうに首を傾げるその女子生徒に、僕が逆にそうしたくなる。てっきり体臭いんだけどって言われるものだと思っていたから。
 「よくわからないけど、草井さんはすごい人だよね」
 「へ?」
 褒められてる? え、どういう……。
 「新入生代表って、首席ってことだよね。それって、勉強がこの学年で一番できるってことで」
 「あ、う、うん……」
 真正面から褒められて、素直に頷くのが難しい。そもそもどうしてこの人は皆みたいな反応をしないの?
 「じゃあ、わたしはこれで」
 あれ、どうしてだろう。目の前を去ってゆく彼女の足音がやけにぼやけて聞こえる。
 体臭がひどい。そう言われることが当たり前だった。
 なのに彼女は決してそれを口にしなくて。
 「瑠乃(るの)、いきなりどうしたの。初対面の男子としゃべるなんて」
 「花妻(はなつま)さんって、積極的なんだね」
 「いや、さっき空き教室で会った人で」
 少し離れた場所でその女子生徒は友だちと話し始めた。花妻瑠乃(はなつまるの)って名前なんだ、あの女子生徒。離れているのに、どうしてか彼女たちの声ははっきりと聞こえてきて。
 「あぁ、臭いきつかった人だよね」
 友だちの、多分まだ今日会ったばかりのほうの言葉が深く心に突き刺さる。言われ慣れているけれど、瑠乃さんに言われなかったから、今は余計に。
 「ちょっと、そんなこと言わないでよ」
 「まぁ、瑠乃は鼻炎持ちだもんね。今日も耳鼻科行くんでしょ」
 今度は瑠乃さんと親しそうな友だちのほうの発言。
 「あ、そうだった。急いで帰らないと!」
 そうして彼女たちは去っていった。鼻炎。そっか、だから臭いのこと言わなかったんだ。少しでも舞い上がった自分が馬鹿みたい。
 でも、それでも嬉しかった。たとえそれが鼻炎で言わなかっただけだとしても。
 ううん、鼻炎だからこそ、チャンスなのではないか。
 勉強も運動も自信あるし、顔も幼なじみには悪くないと言われている。体臭が唯一のコンプレックスなのだとしたら。
 一度終わったと思った僕の高校生活は、再び始まろうとしていた。