わたしときみと、カピバラ人間

 教室はカピバラだらけだった。
 いや、正確にはカピバラのような生き物というべきか。
 なにをいっているのか、自分でもよくわからない。
 だってみんな頭がカピバラ、頭から下は人間の体をしている。
 そんなへんてこな生き物たちが、楽しくおしゃべりをしたり授業の準備をしたりしていた。
 みんな制服を着ているけど、こんな顔のクラスメイトたちは知らない。

杏樹(あんじゅ)~。消しゴム貸してぇ」 

 そういってセーラー服を着たカピバラ頭がやってくる。
 声は聞き覚えがあって、クラスメイトというか……友人だ。そこまで親しくはないけれど。
 わたしはペンケースから消しゴムを出して、カピバラに渡す。
 それから教室をじっくりと見渡す。どこを見てもカピバラ頭だらけ。
 まるで、カピバラのふれあいコーナーに放流された気分だ。
 だけど本来の癒し系動物であるカピバラとはちがい、ここにいるカピバラ頭たちは人間サイズだから、怖いを通り越して笑ってしまう。
 そもそも、なぜこんなことになったのか。わたしにもなにがなんだかさっぱりわからない。
 事の起こりは一時間前にさかのぼる。 

 ちょうど一時間前、わたしはいつものようにキッチンで朝食を作っていた。
 まだぼんやりした頭で、味噌汁に入れる長ネギを切る。包丁を使う手は、我ながら軽やか。
 両親は多忙だし、それに中学一年生ともなれば料理ぐらいできたほうが何かと便利だ、という理由で始めた料理はなかなか楽しかった。
 そんなことを考えていると、「おはよう、杏樹」と母の声が聞こえる。
「おはよう。お母さん」と返し、味噌を取り出そうと冷蔵庫を開けようとした手を止め、それから思考停止した。
 だって、目の前にいたのは……得体の知れない動物だったから。
 そりゃあ人間だってもちろん動物だよ。 そういうことじゃなくて。
 動物園にいるような生き物の顔が見える。目の前に立っている。
 一瞬、心臓が止まりかけた。
 寝ぼけているのかと思い、よーく目の前に立っている人物を見る。
 やっぱり人間じゃなくて、動物だ。
 え……? なにこれ? どういうこと?!
 人間は驚きすぎると叫び声すらあげられないと聞いたことがあるけど、それを実感することになるとは……。
 やけに冷静になってきた頭で、目の前の生き物を観察してみる。

 体は人間で、着ているのはパジャマ。これは母のだ。
 だけど視線を上げれば、その頭は母ではない。動物の頭がどん、と乗っている。なにこれ、どういうこと……?
 しかもこの動物、どこかで見たことがある。ええっと、なんだっけな……。
 いやいや、それよりもこのへんてこな生き物が家にいるってどういうこと?
 はっ、あれか! これ覆面? すごくリアルだけど最近の覆面はクオリティが高いのかもしれない。
 でも、なんで母がわざわざ覆面を? これをかぶる意味がわからない。普段からイタズラ好きというわけでもないし。
 じゃあこれは母じゃないとか? 侵入者? 泥棒?
 いやでもさっき聞こえた声は、確かに母のものだった。
 わたしがあれこれと考えていると、目の前の動物が言葉を発した。

「どうしたの? そんなにお母さんの顔をジロジロ見て」

 動物――謎の生き物がそういったのだ。
 お母さんって今いったよね。やっぱり声は母だけど……。 
 目の前の生き物が母かもしれないと思うと、恐怖よりも不安が胸に広がる。
 もしかしたら、母はなにか悪い病気なんじゃないだろうか。
 それから震える指で、母(らしき人)の頭をそっと掴んでみた。
 このゴワゴワの堅い毛、伝わる熱。
 これは覆面なんかじゃない、本物の動物の顔だ!

「やだ、顔つかまないでよ」

 母がそういって驚くので、わたしは恐る恐る口を開く。

「……ねぇ、お母さん。自分の顔、鏡で見た?」
「ついさっき洗面所で見たけど」
「じゃあ、おかしいの、わかるよね?」
「ええっ? お母さん今日、おかしい? もしかして寝癖すごい?」
「そういう話じゃない」
 わたしが首を横に振ると、「おはよう」と背後から父の声がした。
「あっ! お父さん! 大変、お母さんが――」

 わたしは振り返ってそういいかけて、気絶しそうになる。
 だって、父の頭も動物だったから。母と同じ生き物の頭がくっついていた。

 外を歩けば両親と同じように、頭だけが動物になった人間が歩いていた。
 どの動物も同じ種類で、その動物の名前が思い出せない。驚きすぎて、そこまで頭が回らない。
 外だけではない、ダイニングのテレビに映っていたのも頭が動物の人間ばかりだった。
 ただ、アナウンサーとかアイドルとか、人間の顔ままの人もたまにいた。
 ちなみにわたしの顔も、人間のまま。そこはホッとした。
 だけど安心している場合ではない。世界がおかしくなったかもしれないのだ。
 そのわりには、朝のトップニュースは『アイドル、全国ツアー中に骨折』だった。
 ネットでも騒ぎになっている様子もなく、外で慌てている人もいなかった。
 普通、こんなに動物頭だらけの人ばかりなら今頃は大騒ぎになるはずだ。
 それなのに、外にいる人たちも、テレビの中の人も、普段通りの日常を送っているようにしか見えない。
 これは一体、どういうことなんだろう……。

 そして学校に着いても、頭が動物の生徒や先生ばかりだった。
 ああ、そういえば思い出した。この動物はカピバラだ。
 だけど、なんで頭だけがカピバラになってるの?
 教室に入ってみると、挨拶をしてくるのはカピバラ人間ばかり。そのせいで、クラスメイトは誰が誰なのか区別がつかない。
 だけど、その中に唯一、人間がいた。よかった! 人間がいた!
 わたしはものすごくホッとしてうれしくなって、クラスで唯一の人間である田中くんに話しかける。

「田中くん! 大変なことになってるよね」

 わたしは田中くんに話しかけてみる。

(くすのき)さん。おはよう。大変なことってなに?」
「あっ。おはよう。あの、今日さ、なんだかみんな、おかしくない? 主に顔が」

 田中くんは眼鏡を人差し指でぐいっと上げて、それからじっくりと周囲を見渡す。
 それからこういった。

「……別にいつも通りだけど。顔がどうかしたの?」
「そう……。それならいいや」

 わたしはとぼとぼと自分の席に戻ろうとした。
 じゃあ、周囲がカピバラに見えているのは、わたしだけってこと?
 おかしいのは周囲じゃなくて、わたしってことになるよね……。

「まだ寝ぼけてるのかな? それともストレス……ああ、心当たりは山ほどある。でも、もしかしたら悪い病気かも……」 

 そのつぶやいていると、誰かとぶつかって反射的に、「ごめんなさい」と謝る。
 ぶつかった男子は、「ああ、ああ、うん」と心ここにあらずのような返事をした。
 それから男子は、わたしを二度見してから、勢いよく聞いてくる。

「お前! 人間じゃないか!」
「え? ああ、うん。そうだけど」

 首をかしげるわたしをよそに、男子はぐるりとわたしの周りを回って大きくうなずく。
 そして、目をキラキラと輝かせた。

「カピバラじゃない! 人間のままだ!」

 男子はそういってわたしの肩を強く揺さぶって、「やった! 人間発見ー!」と大きな声で叫んだ。

「なーんで昼休みなんだよ。授業なんてサボってもいいじゃん」

 屋上に着くなり、男子は不満そうにいった。
 今朝わたしに、「人間発見ー!」と騒いだのは、朝日奈理人(あさひなりひと)くん。
 彼は、わたしから見れば人間にしか見えない。
 そして朝日奈くんから見れば、わたしは人間に見えているらしい。

「授業サボるのはダメだよ」

 わたしはそういって、ため息をつく。

「カピバラ教師がする授業や、カピバラのクラスメイトたちとやる体育が授業なのか?」

 朝日奈くんはそういって鼻で笑う。この人ちょっと苦手なんだよね……。
 彼がクラスの人気者だから妬んでいるわけでなく、いつも自由にふるまっていて、なんだか自分とちがう世界にいる人みたいだから。

「それよりも、楠とおれしかあのクラスには人間がいないほうがよほど問題だ」
「田中くんは人間に見えたけど、田中くん本人は周囲がカピバラには見えてないみたい」
「そうか。しかもカピバラ頭の奴らは、お互いが人間に見えてるみたいだし」
「そうなんだ。もし、お互いの顔がカピバラに見えてたら、今頃は大変なことになってるんだろうね」
「つーことはさ、おれらしか周りがカピバラに見えてないわけだろ? 異常があるとしたら、おれらのほうだよな」
「異常って……。たとえばなに?」
「えー? 知らねーよ、んなもん」

 自分で話を振ったくせに……と思いつつ、わたしはお弁当の卵焼きを箸でつつく。
 朝日奈くんは、メンチカツパンの袋を開けながらいう。

「そうだなあ。たとえば……病気、とか?」
「他人がカピバラに見える病気? わたしと朝日奈くんだけが、しかも同時にかかったってこと?」
「可能性がないわけじゃないだろ」
「そうだけど、わたしひとりだったら病気かもって思うけど、朝日奈くんも同じってことは病気以外もあり得る気がするんだよね」
「まあ、それもそうか」

 朝日奈くんはそうつぶやいてから、何かを思いついたらしく勢いよく顔をあげる。

「とりあえず、おれら以外にも周囲がカピバラに見えてる人間を探そう!」
「確かにそれが一番いいかもね。なにか理由がわかりそう」
「だろ? やっぱおれ、頭いいな~」
「うん。そうだね」
「なーに本気にしてんだよ! 冗談に決まってんじゃん!」

 朝日奈くんはそういって笑って、わたしの背中をバシンと叩いた。
 痛くはないけど、馴れ馴れしいな……やっぱ苦手だなあ……。

「じゃあ、放課後は仲間探しだな。今日は部活、サボれよ」
「え? わたしもいっしょにやるの?」
「あったりまえだろ! なんでおれだけやるんだよ」
「そうじゃなくて……別々にやればいいじゃないの」
「二人で声かけたほうが早いだろ。情報共有もすぐにできるし」
「まあ、それもそうだね……」

 なんだか一気に気が重くなってきた。朝日奈くんといっしょに行動するの、疲れそう……。
 ちなみにわたしはサボるもなにも部活に入っていないので、時間があるにはあるのだけど。

「ねーねー、杏樹。朝日奈くんと屋上行ってたって本当?」
「わたし見たんだから。なに話してたのよ?」

 教室に戻ると、クラスメイトふたりがそういってわたしに話しかけてきた。
 制服と声からして女子なのだろう。そして聞きおぼのある声から察するに友人たちなのだろう。
 でも、ふたりともカピバラの顔になっている今は、友人かどうかさえ判別できない。
 しかもカピバラの表情はまったく変わらず、会話の雰囲気は口調で察するしかないようだ。
 この雰囲気だと、からかわれているだけだろうな。

「うん。ちょっと大事な話があって……」
「え、やだまさか告白でもした?」
「そういうんじゃないって。もっとこう、深刻な話」
「へえ。ってゆーか、杏樹と朝日奈くんって仲いいんだ」
「ねー。てっきり話しすらしないのかと思ってた」

 友人たち(たぶん)は、そういって驚いたような声をあげる。
「朝日奈くんみたいな人気者は、杏樹を相手にしないのかと思ってた」

 友人たち(たぶん)のひとりがそういった。
 その言葉に胸がズキリ、と痛んだ気がした。まあ、事実だけどさ。
 すると、もうひとりの友人(たぶん)が「ちょっと失礼すぎー」と笑う。
 失礼だと思うなら、なんで笑うんだろうな。
 わたしはなんだかどっと疲れて口を開く。

「相手にされてるってわけじゃないから」
「え、もしかして杏樹、怒った?」
「別に怒ってないよ。本当にその通りだし」
「だよね。杏樹は天使だから絶対に怒らないよね」

 友人(たぶん)の言葉に、胸がチクリと痛む。
 杏樹は天使、か……。
 悪気はないのだろうけど、嫌味っぽいな。
 いやいや、勝手に嫌味だと決めつけちゃダメだよね。
 わたしはそう思い直して、無理やり口角を上げて笑った。

 放課後は朝日奈くんと、仲間探しをした。
 わたしたちと同じような人がいないか、と思って校内をうろついたのだ。
 とはいえ、自分たちから声をかけてなくても、「朝日奈くーん、どうしたの?」と女子のほうから寄ってくる。
 今まで気づかなかったけど、朝日奈くんは見た目も恵まれているというか、イケメンの部類らしい。
 それであの図々しい――もといコミュ力なら、人気者でもおかしくはないか。
 そんなことを思いながら、わたしは朝日奈くんと少し離れて歩いた。
 だって、「なにあの子? もしかして彼女? えー、朝日奈くんとぜんぜん釣り合わなーい。地味ー」とかいわれそうで。
 被害妄想なのはわかっているけれど、どちらにしても朝日奈くんと仲良くしているだけで絡まれる可能性大。
 しかも、あのカピバラ顔の女子に囲まれるのは、もうホラーでしかない。
 むしろその中に、人間がいてほしいところだけど。

「人間、ほとんどいないな」

 朝日奈くんがポツリとつぶやいた頃には、窓の外がオレンジ色に染まっていた。
 校舎に残っている生徒はもうほとんどいないし、グラウンドの運動部も帰り支度を始めている。
 校舎を見回って仲間を探すどころか、九割方カピバラ人間としか遭遇しなかった。
 そして、たまーに人間の生徒がいると心底ホッとする。
 その人間に話を聞いてみると、「え? みんな人間に見えてるけど? 見えないの? ……大丈夫?」と心配される始末。
 やっぱりおかしいのはおれらなのかな、と朝日奈くんがため息まじりにいった。
 わたしは窓の外を眺めつつ、口を開く。

「大丈夫。おかしくないよ」
「えっ? なんで? なんかわかったのか?」

 期待の眼差しで朝日奈くんがこちらを見るので、わたしは少しだけ笑っていう。

「きっと、これは夢だから。わたしたち、寝てるんだよ」
「……なるほど。妙にリアルな夢だけど、でも、このシチュエーションが現実なはずないよな!」
「でしょ? 夢の中で起きたことはどんなに変でも矛盾してても現実だと思い込むし、なんにも疑わないでしょ」
「そうだな。確かに。うん、夢だ。絶対に夢だ」
「うん、夢だよ。目が覚めたら、ぜんぶ元通りになってる」

 わたしは祈るようにそういった。

 目が覚めた。
 カーテンの隙間からまぶしい光が見えたとき、ようやく朝だと思った。
 こんなに朝がうれしいと感じたのは、生まれてはじめてだよ。
 いつもなら気が重い平日の朝も、まるで夏休み初日の軽やかさ。
 だって、あの悪夢――自分と朝日奈くんとほんの一部の人以外はカピバラに見える。そんな夢からようやく目が覚めたのだ。
 わたしは身支度を整え、まだ眠っているであろう両親を起こさないように静かに階段を降り、キッチンで朝食をつくる。
 朝食をつくり終えた頃、まるで示し合わせたかのように両親がダイニングへ来た。ふたりの声だけが聞こえてきた。
 妙にドキドキしながら両親の顔を確認する。
 どうか人間でありますように、どうか人間でありますように。
 心の中で祈りながら、両親の顔を確認する。
 ふたりとも、カピバラだった。

「あああああ……夢じゃないいいい」

 わたしはそういって、膝からくずれ落ちた。

「杏樹、どうしたの? 具合でも悪いの?」

 ちょっと背が小さいほうのカピバラが声をかけてくる。
 頭から下と声は母だから、こっちが母なんだろう。

「なんだ? いじめられたか? 杏樹をいじめるような奴がいるなら父さんはバットを持って学校に乗り込むからな!」

 そういったのは、背が大きいほうのカピバラ。こちらも頭から下、それから声は父のままだ。

「それはやめて……。そしていじめられているわけじゃないから」

 わたしはゆっくりと立ち上がって、それからため息。

「病院に行ったほうがいいのかな、わたし」

 わたしがそういった途端に、両親が黙りこんだ。
 先に口を開いたのは、背が高いほうのカピバラ(父)だった。

「なんだ? 具合が悪いのか?」
「それなら先生に電話しなきゃね」

 母が自分のスマホを取りにいこうとしたのを、わたしは手でそれを制止する。

「あっ、べつにそこまでじゃないんだけど」
「そう? でも、先生はあのときから診察してくれているのだから、相談するだけしてもいいかも」
「とにかく、大丈夫だから」

 わたしがそういうと母は、「そう?」となぜかホッとしたようにダイニングの椅子に腰かける。

「具合が悪いなら、我慢しないでいうんだぞ」

 父がそういったので、わたしは「うん、大丈夫」とだけ答えた。
 両親は、わたしに対して過保護なところがある。
 その理由は、母がいう「あのとき」に関係していた。

 一年前、わたしは事故にあった。
 居眠り運転のトラックに轢かれて、大けがをした。
 そのせいで数日間だけ意識不明だったのだけど、後遺症が残らなかったのは不幸中の幸い。
 そのときに診察してくれた医者に、今も定期的に診察してもらっているのだ。

 母はその先生に電話をかけようとしたのだけど、そこまでする必要はないと思った。
 うーん。もしかしたら相談してみてもいいかもしれないけど……。
 そもそも信じてもらえるのかな? というか、これって病気なの?
 もしも病気だとしたら、朝日奈くんも同じ症状になるってどういうこと?
 聞いたこともない病気に、クラスメイトということぐらいしか共通点のない人と同じタイミングでかかるものなの?
 昨日も朝日奈くんと話したけど、病気とはなんだかちがうような気もする。
 たとえばインフルエンザみたいな空気感染でうつるとしたら、わたしと朝日奈くん以外にも同じ症状の人がいそうだし。
 空気感染とかじゃなく、たとえば珍しい病気だとしたら、わたしと朝日奈くんが同時にかかるのも、タイミングが良すぎておかしいというか。
 だけど、わたしと朝日奈くんは周囲がカピバラに見えているのは事実としてあるわけで……。
 そこでわたしはふと気づく
 朝日奈くん、今日はどうなんだろう? 相変わらず周囲がカピバラに見えているのだろうか?
 もしかしたら、彼はもうちがうかもしれない。

「そしたら、わたしひとりきりになっちゃう……」

 わたしはそうつぶやいて、学校へと急いだ。
 外を歩いているのは、今日もやっぱりカピバラ頭のサラリーマンや高校生だった。
 こうして家の外でもカピバラ頭の人間たちを見ると、夢ではないことを実感してしまう。
 あーあ……。悪夢だったらどんなに良かったか……。

 教室に行っても朝日奈くんの姿はなかった。
 まだ学校に来てないのかな、と思って自分の席につく。
 教室にはどんどん生徒が集まってくる。
 でも、やっぱり顔はみんなカピバラだった。

「ねーねー、杏樹~。昨日の数学のノート貸してくれないかなあ」

 ひとりのカピバラ女子が、そういって両手を顔の前で合わせる。
 表情はまったく変わらないけど、口調から察するに申し訳なさそうにはしているようだ。

「うん。いいよ」

 わたしがそういってノートを貸すと、カピバラ女子は「ありがとー」といってノートを受け取る。

「ねーねー、杏樹。今日さ、わたし日直なんだけど代わりにやっておいてくれない?」

 ひょいと顔を出した別の女子カピバラが、そんなことを頼んでくる。

「え? 日直?」
「うん。ちょっと宿題忘れてきちゃってさあ、今からやらなきゃいけなくて」
「あー。そういうことね」
「それとも宿題代わりにやってくれる?」

 カピバラ女子がそういって笑った。

「わかった、日直の仕事、代わるよ」

 わたしはそういって席を立つ。
 正直なところ、なんでわたしが代わりにやらなきゃいけないのか納得いかない。でも頼まれたら嫌だといえない。
 すると背後からこんな声が聞こえた。

「さすが杏樹、天使さまだよね~」
「本当、本当。なんでもやってくれるんだから」
「えー、じゃあわたし、ジュース買ってきてもらっちゃおうかな」
「なにそれパシリじゃん! ひっど!」

 ゲラゲラと下品な笑い声が、耳障りだった。

 わたしは職員室に日直日誌を取りに行き、廊下を歩きながら思う。
 なんでわたしが日直の仕事なんかやらなきゃいけないの?
 宿題忘れたほうが悪いんでしょ? それなら自分でどっちもやればいいじゃないの。  
 そういいたいのに、いえない。
 ハッキリそう主張して、あの子たちに文句をいわれたくない。仲間はずれにされたくない。
 でも、こんなの本当の友だち関係だなんていえないから、きっぱりと断ったほうがいい。
 そんなことわかってるのに……。
 クラスメイトたちがわたしのことを、「天使」と嫌味のようにいっているのもモヤモヤする。
 だけどそれでも、「天使だなんて嫌味にしか聞こえないからやめて」なんていえない。
 ああ……こんなふうになにもいえない自分が、一番きらい。
 はあ、と特大のため息をついたところで、肩をたたかれる。
 驚いてそちらを見れば朝日奈くんが立っていた。
 彼の顔――というか、人間の顔を見て安心する。

「おはよう、朝日奈くん」
「おう、おはよう。それより大事な話がある。サボり……は嫌なんだっけ。じゃあ昼休みに屋上来てくれ」
「え? 大事な話?」
 わたしは驚いてオウム返しに聞き返す。
「うん。ここではちょっといいにくい……」
「そっか。わかった」

 わたしがそういってうなずくと、朝日奈くんは階段を上がっていってしまう。
 大事な話って、なんだろう?
 カピバラに見える原因がわかった、とか?
 でも朝日奈くんの表情と口調からすると、いい話ではなさそうだなあ。
 しかも屋上とか人のいないところで話したいってことは……もっと深刻なこと?
 わたしのこともカピバラに見えはじめたとか? それとも、朝日奈くんはもう元通りになって周囲が人間にしか見えなくなってるとか?
 ああ、なんだか嫌な想像しか浮かばない。
 気になるけど、お昼休みにっていわれてるんだからそれまで我慢。

 教室に戻ってもさっきの「大事な話」が気になって気になって、チラチラと朝比奈くんを見てしまう。
 朝日奈くんは、男女さまざまなカピバラに囲まれている。
 さすが人気者だけど、今はその光景もカピバラの飼育員にしか見えない。
 朝日奈くんはさぞかし戸惑っているのだろうと思って、彼の表情をうかがう。
 すると、朝日奈くんも周囲といっしょに笑っている。
 え、大丈夫なの?! カピバラにしか見えないクラスメイト相手に、笑って話できるの?
 さすがコミュ力おばけはちがうな。

 ……いや、ちがうかもしれないとふと思う。
 朝比奈くんには、周囲が今はもうカピバラに見えてないのかもしれない。
 元通りになったから、あんなに笑えるのかも……。
 そうだとしたら、お昼の話はなんだろう? おれ、元に戻ったんだ、とか?
 わざわざ、それを教えてくれるために屋上に呼び出すのかも……。
 そうだとしたら唯一の仲間が減って寂しい。
 でも、もしも朝日奈くんが元に戻ったのだとしたらわたしも元に戻る可能性があるってことか。
 なんだか希望の光が見えた気がする!