世界から全ての音が消えるとき。
それはきっと、雪が降り積もった深夜みたいに静かなんだと思う。
そして、私の心の中には、二年前からずっと、雪が降り続けている――。
「紗綾(さあや)、おはよー! 今日も元気だね!」
「もちろん、私から元気を取ったら何も残らないよ! おっはよー、瑞紀(みずき)!」
私は友達の村井(むらい)瑞紀と笑顔でハイタッチを交わした。
――教室のドアをくぐった瞬間、私は嘘で作り上げた優等生・『雪渕(ゆきぶち)紗綾』のスイッチを入れる。
声のトーンを一段階高くして、口角をキュッと上げて、クラスの空気を明るくする。
それは、二年前のあの日から、私の義務になった。
二年前、太陽みたいに明るかった私の双子の姉・華音(かのん)が、突然の事故で亡くなった。
それから、私の家は壊れた。
母は心を病んでしまい、姉とよく似た私の顔を見るたび 「華音」と呼ぶようになった。
父はそんな家庭から逃げるように単身赴任の道を選び、ほとんど帰ってこなくなった。
私が『華音』にならなきゃ。
お姉ちゃんみたいに笑って、お姉ちゃんみたいに喋って、お姉ちゃんみたいにみんなに愛されなきゃ。
二年前まではお母さんに任せっきりだった家事をして。
家に帰ったら、洗濯ものを畳んで、掃除機をかけて、料理を作って。
大変でも、ニコニコ笑って、頑張らなきゃ。
――そうしないと、私の家は、本当のバラバラになってしまう。
「ねえ、紗綾? 聞いてる?」
「……え? ああ、ごめん! ちょっと考え事してた!」
瑞紀の声が、一瞬だけ、遠くの水中から響くようにボヤけた。
最近、こういうことが増えている。
耳に水が入ったときのように、耳の奥が詰まっているような感覚。
音が薄皮一枚隔てた向こう側にあるような感じ、っていえば伝わるだろうか。
病院では『心因性難聴』と言われた。
過度なストレスが原因で、脳が音を拒絶しているらしい。
でも、そんなこと言われても、困る。
だって、私は『お姉ちゃんのフリ』を止めるわけにはいかないもの。
素の私なんて、誰も望んでないもの。
「なんの話だったっけ?」
「だから、日曜日、リカたちと一緒にパンケーキ屋さん行かない? ほら、駅前に新しくできたパンケーキ屋さん! 開店記念で全品100円引きなんだって! いまだけの期間限定だよ、お得でしょ?」
瑞紀の興奮したような高い声が、ノイズ混じりに聞こえる。
パンケーキが100円引き。
甘いもの好きな女子高生なら、二つ返事で飛びつくような、魅力的なお誘い。
でも、いまの私にとって、大勢の人が集まるカフェは地獄でしかない。
複数の人の話し声。食器が触れ合う音。賑やかなBGM。
その騒音の嵐の中で瑞紀の声を正確に聞き取れるかどうか、自信がない。
「ごめんね、瑞紀。行きたいけど、日曜日は塾があるんだ。また今度、絶対誘って!」
胸の奥がチクリと痛む。
嘘をつくたび、心の中に薄暗い泥が溜まっていく。
本当は、塾なんて行っていない。
本当は、私もみんなと一緒に笑いたい。
でも、もし私が「耳が聞こえにくいんだ」と言ったら、みんなの顔はどう変わるだろう。
「大変だね」「可哀想に」「気をつけてあげなきゃ」――。
そんな『配慮』という名の壁が、私とみんなの間に築かれるのが何よりも怖かった。
特別な配慮なんていらない。
学校の中でくらい、私は、『普通』でいたい。
「そっか、塾なら仕方ないね。じゃあリカたちと行ってくるわ」
「うん、ごめんね。楽しんできて! 現地リポート、よろしく!」
――笑わなきゃ。もっと明るく、もっと元気に。お姉ちゃんみたいに。
唱え慣れた呪文のように、私は自分に言い聞かせる。
でも、笑えば笑うほど、私の世界から音は少しずつ、砂のようにこぼれ落ちていった。
放課後の喧騒に耐えられなくなり、私は旧校舎の図書室へ逃げ込んだ。
鍵のかかっていないドアを開くと、古いインクと紙の匂いが鼻をくすぐる。
部屋の隅に机と椅子が乱雑に積み重なったこの図書室には、誰も来ない。
埃を被り、昔のまま時が止まったようなこの図書室は、私が『私』でいてもいい、唯一の場所。
私は窓際の椅子に腰を下ろし、カバンから黒い表紙のノートを取り出した。
このノートには、クラスのみんなや両親には絶対に見せられない、真っ黒な本音が詰まっている。
「……お姉ちゃん。私、もう疲れちゃったよ」
呟いた自分の声は、ほとんど聞こえなかった。
――いま、私はちゃんと発音できていたのかな?
シャーペンを持つ手が、恐怖で少し震えた。
『また今日も声が遠ざかる。自分の声も、みんなの声も、気を抜けば風のように私の耳をすり抜けていく。いまの私は誰なんだろう。いまの私は私じゃない。お姉ちゃんの身代わり。空っぽの人形。お母さんとお父さんを繋ぎ止めるための道具。お願い。誰か、私の声を聴いて。世界から音が消える前に。誰か、本当の私を見つけて……』
夢中で文字を綴っていた、そのとき。
「……お前さ。そんな限界ギリギリなのに、よくあんなに笑えるな」
誰かの声が、聞こえた。
さっき自分が発した声はほとんど聞こえなかったのに、この耳は、気まぐれなラジオみたいにピタリと周波数を合わせることがある。
「っ……!?」
驚いて顔を上げると、冬の湖面のように静かな目がそこにあった。
窓際に立ってこちらを見下ろしているのは、クラスメイトの氷室透真(ひむろとうま)くんだ。
抜群に格好良くて、学年1位の秀才で、他人に関心を持たないはずの『氷の王子』。
「氷室、くん……。いつからそこに……」
さあっと顔面から血の気が引いていく。
彼は一体、いつからそこにいたんだろう。
視線をノートに落としていたせいで、気づかなかった。
――ああ、まともに音が聞こえていたら、近づいてくる足音に気づけたのに。
悔やんでも、もう遅い。
「最初から。お前がドアを開けて、ため息をついて、そのノートに言葉を書き殴り始めた時にはもうここにいた」
氷室くんは淡々と言って歩み寄り、私の目の前で足を止めた。
慌ててノートを隠そうとする私を無視して、彼は私の耳元に手を伸ばした。
彼の長い指先が私の耳を掠めて、耳を覆っている髪をかき分けた。
「補聴器はつけてないんだな。耳、あんまり聞こえてないのに」
「!!」
心臓が止まるかと思った。
耳が聞こえにくいことを、学校では隠してきた。
必死に、必死に、普通であろうとした。
なのに、なぜこの人は見抜いてしまったのか。
「……どうしてそう思うの?」
「教室でたまに耳を押さえてたり、友達の言葉を聞き返したりしてただろ。いまだって、俺が三回も話しかけたのに、一度もこっちを向かなかった。無視してるっていうより、本当に聞こえてないって感じで」
氷室くんはそう言いながら、私の隣に座った。
「病気なのか?」
普通なら聞きにくいはずのことを、氷室くんは顔色一つ変えずに聞いてきた。
「……どうかな。心因性難聴……つまり、ストレスが原因だって」
迷った末に、私は正直に答えた。
なんで補聴器をつけてないのかって言ったら、補聴器なんてつけたら、耳が聞こえにくいんだってひと目でバレちゃうから。
お医者さんには勧められたんだけど、私が拒否した。
それに、補聴器なんてつけたら、お母さんの調子がますます悪くなっちゃうかもしれないっていう心配もあったし。
二年前のあの日以来、お母さんは私が演じる『華音』に何かがあることを極端に恐れてる。
だから、私は元気でいなくちゃいけないんだ。
少なくとも、表面上は。絶対に。
「そうか。姉の身代わりなんてやってれば、ストレスもたまるよな」
氷室くんは同情するように、深刻なトーンで呟いた。
彼がノートを盗み見ていたことに気づき、一気に顔が熱くなった。
「やめて! 同情なんていらない! 私は、ちゃんとお姉ちゃんみたいにできるんだから! 私が頑張れば、お父さんもお母さんも、昔みたいに……っ」
叫んだ私の声が、耳の中でぐにゃりと歪んだ。
――キィィィィィィィィィン……。
激しい耳鳴りが私を襲う。
耳鳴りがすることは何度もあったけど、今回の耳鳴りはいままでの比じゃなかった。
「っ……う、あぁ……っ!!」
視界が白く弾ける。
耳の奥を熱い鉄棒でかき回されているような激痛。
私は両手で耳を抑え、椅子から転げ落ちるようにして床に蹲った。
止まって。お願い、止まって。
涙が溢れ、視界がぐちゃぐちゃになる。
ガタン! という椅子が倒れた音が、どこか遠い宇宙の彼方で響いた気がした。
氷室くんがしゃがんで、私の肩を掴む。
「おい、大丈夫か!?」
「……痛い。うるさい……っ!」
もう何も聞きたくない。
私に触らないで。
とにかく、放っておいて!
「雪渕。俺を見ろ」
その声は、耳を通さず、私の脳に直接響いた気がした。
氷室くんは私の両手を掴み、力ずくで耳から引き剥がした。
「いいか。当たり前のことを言うぞ。お前は雪渕華音じゃない。雪渕紗綾だ」
彼は私の目をじっと見つめて、力強く言葉を紡いだ。
「音が聞こえなくなるのは、お前の心が『もうこれ以上、嘘を聴きたくない』って言ってるからじゃないのか。もう姉を演じるのは限界だって、心が悲鳴を上げているんじゃないのか」
「……っ……」
「ずっと気になってたんだ。お前は人形みたいに笑うから、なんだか危なっかしくて、放っとけなかった。お前の世界に音が戻るまで――お前が元の自分に戻れるまで、俺が付き合ってやる。だから、もう無理に笑うな」
『氷の王子』なんて呼ばれているのが嘘のように、氷室くんの瞳は、熱を帯びていた。
「……なんで、そんなこと言うの。氷室くんには関係ないでしょう。関係ないくせに、他人の事情に土足でずかずか踏み込んでこないでよ」
私は俯いて、怨嗟のような言葉を吐き出した。
熱い涙が頬を伝い落ちていく。
こんなの八つ当たりだ。
わかってるのに、言葉が止まらない。
「お姉ちゃんは、私のせいで死んだの。二年前の雨の日、部活で居残ってた私に傘を届けようとして、その途中で、車にはねられて死んだの! お母さんは自分がお姉ちゃんに傘を届けるように言ったせいだって自分を責めて、心が壊れた! お父さんは家に帰ってこなくなった! 全部、全部、私のせいなの! あの日、私が早く帰ってればお姉ちゃんは事故に遭わずに済んだ! 本当は部活なんてとっくに終わってたのに、私は教室に居残って、友達と馬鹿みたいに笑ってたの!」
私は俯いて涙に濡れた顔を隠しながら、彼から逃げるように後ずさった。
「だからこれは罰なの! 私は『華音』として頑張らなきゃいけないの!」
「そんなことない」
――と。
温かい手が、私の肩に触れた。
驚いて顔を上げると、すぐそこに氷室くんの綺麗な顔があった。
「そんなことない。華音さんが亡くなったのは、お前のせいじゃないよ」
氷室くんは、まっすぐに私の目を見つめて、見たことがないほど真剣な顔で繰り返した。
私のせいじゃない――それは、ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。
「…………」
これまで一人で抱えてきた孤独、絶望。
爆発寸前まで膨れ上がっていたそれらの負の感情が、氷室くんの言葉を受けて、どろどろに溶けていく。
それはさながら、雪が溶けるように。
「だから、もう華音さんのフリなんてするな。見てるこっちが苦しくなる」
「……無理だよ。だって、現実をつきつけたら、お母さんがどうなってしまうかわからない」
「じゃあ、せめて俺の前でだけは、ありのままのお前でいろ。我慢なんてしなくていい。無理に笑う必要なんてない。怒りたい時は怒ればいいし、泣きたい時は泣けばいいんだ」
私の頬を伝う涙を、氷室くんがそっと指先で拭う。
私を見つめる彼の眼差しは、意外なほど優しくて、思いやりに満ちていた。
「――――」
その瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
私は幼い子どもみたいに、声を上げて泣いた。
二年前、お姉ちゃんのお葬式のときに泣けなかった分を、取り返すように――。
それはきっと、雪が降り積もった深夜みたいに静かなんだと思う。
そして、私の心の中には、二年前からずっと、雪が降り続けている――。
「紗綾(さあや)、おはよー! 今日も元気だね!」
「もちろん、私から元気を取ったら何も残らないよ! おっはよー、瑞紀(みずき)!」
私は友達の村井(むらい)瑞紀と笑顔でハイタッチを交わした。
――教室のドアをくぐった瞬間、私は嘘で作り上げた優等生・『雪渕(ゆきぶち)紗綾』のスイッチを入れる。
声のトーンを一段階高くして、口角をキュッと上げて、クラスの空気を明るくする。
それは、二年前のあの日から、私の義務になった。
二年前、太陽みたいに明るかった私の双子の姉・華音(かのん)が、突然の事故で亡くなった。
それから、私の家は壊れた。
母は心を病んでしまい、姉とよく似た私の顔を見るたび 「華音」と呼ぶようになった。
父はそんな家庭から逃げるように単身赴任の道を選び、ほとんど帰ってこなくなった。
私が『華音』にならなきゃ。
お姉ちゃんみたいに笑って、お姉ちゃんみたいに喋って、お姉ちゃんみたいにみんなに愛されなきゃ。
二年前まではお母さんに任せっきりだった家事をして。
家に帰ったら、洗濯ものを畳んで、掃除機をかけて、料理を作って。
大変でも、ニコニコ笑って、頑張らなきゃ。
――そうしないと、私の家は、本当のバラバラになってしまう。
「ねえ、紗綾? 聞いてる?」
「……え? ああ、ごめん! ちょっと考え事してた!」
瑞紀の声が、一瞬だけ、遠くの水中から響くようにボヤけた。
最近、こういうことが増えている。
耳に水が入ったときのように、耳の奥が詰まっているような感覚。
音が薄皮一枚隔てた向こう側にあるような感じ、っていえば伝わるだろうか。
病院では『心因性難聴』と言われた。
過度なストレスが原因で、脳が音を拒絶しているらしい。
でも、そんなこと言われても、困る。
だって、私は『お姉ちゃんのフリ』を止めるわけにはいかないもの。
素の私なんて、誰も望んでないもの。
「なんの話だったっけ?」
「だから、日曜日、リカたちと一緒にパンケーキ屋さん行かない? ほら、駅前に新しくできたパンケーキ屋さん! 開店記念で全品100円引きなんだって! いまだけの期間限定だよ、お得でしょ?」
瑞紀の興奮したような高い声が、ノイズ混じりに聞こえる。
パンケーキが100円引き。
甘いもの好きな女子高生なら、二つ返事で飛びつくような、魅力的なお誘い。
でも、いまの私にとって、大勢の人が集まるカフェは地獄でしかない。
複数の人の話し声。食器が触れ合う音。賑やかなBGM。
その騒音の嵐の中で瑞紀の声を正確に聞き取れるかどうか、自信がない。
「ごめんね、瑞紀。行きたいけど、日曜日は塾があるんだ。また今度、絶対誘って!」
胸の奥がチクリと痛む。
嘘をつくたび、心の中に薄暗い泥が溜まっていく。
本当は、塾なんて行っていない。
本当は、私もみんなと一緒に笑いたい。
でも、もし私が「耳が聞こえにくいんだ」と言ったら、みんなの顔はどう変わるだろう。
「大変だね」「可哀想に」「気をつけてあげなきゃ」――。
そんな『配慮』という名の壁が、私とみんなの間に築かれるのが何よりも怖かった。
特別な配慮なんていらない。
学校の中でくらい、私は、『普通』でいたい。
「そっか、塾なら仕方ないね。じゃあリカたちと行ってくるわ」
「うん、ごめんね。楽しんできて! 現地リポート、よろしく!」
――笑わなきゃ。もっと明るく、もっと元気に。お姉ちゃんみたいに。
唱え慣れた呪文のように、私は自分に言い聞かせる。
でも、笑えば笑うほど、私の世界から音は少しずつ、砂のようにこぼれ落ちていった。
放課後の喧騒に耐えられなくなり、私は旧校舎の図書室へ逃げ込んだ。
鍵のかかっていないドアを開くと、古いインクと紙の匂いが鼻をくすぐる。
部屋の隅に机と椅子が乱雑に積み重なったこの図書室には、誰も来ない。
埃を被り、昔のまま時が止まったようなこの図書室は、私が『私』でいてもいい、唯一の場所。
私は窓際の椅子に腰を下ろし、カバンから黒い表紙のノートを取り出した。
このノートには、クラスのみんなや両親には絶対に見せられない、真っ黒な本音が詰まっている。
「……お姉ちゃん。私、もう疲れちゃったよ」
呟いた自分の声は、ほとんど聞こえなかった。
――いま、私はちゃんと発音できていたのかな?
シャーペンを持つ手が、恐怖で少し震えた。
『また今日も声が遠ざかる。自分の声も、みんなの声も、気を抜けば風のように私の耳をすり抜けていく。いまの私は誰なんだろう。いまの私は私じゃない。お姉ちゃんの身代わり。空っぽの人形。お母さんとお父さんを繋ぎ止めるための道具。お願い。誰か、私の声を聴いて。世界から音が消える前に。誰か、本当の私を見つけて……』
夢中で文字を綴っていた、そのとき。
「……お前さ。そんな限界ギリギリなのに、よくあんなに笑えるな」
誰かの声が、聞こえた。
さっき自分が発した声はほとんど聞こえなかったのに、この耳は、気まぐれなラジオみたいにピタリと周波数を合わせることがある。
「っ……!?」
驚いて顔を上げると、冬の湖面のように静かな目がそこにあった。
窓際に立ってこちらを見下ろしているのは、クラスメイトの氷室透真(ひむろとうま)くんだ。
抜群に格好良くて、学年1位の秀才で、他人に関心を持たないはずの『氷の王子』。
「氷室、くん……。いつからそこに……」
さあっと顔面から血の気が引いていく。
彼は一体、いつからそこにいたんだろう。
視線をノートに落としていたせいで、気づかなかった。
――ああ、まともに音が聞こえていたら、近づいてくる足音に気づけたのに。
悔やんでも、もう遅い。
「最初から。お前がドアを開けて、ため息をついて、そのノートに言葉を書き殴り始めた時にはもうここにいた」
氷室くんは淡々と言って歩み寄り、私の目の前で足を止めた。
慌ててノートを隠そうとする私を無視して、彼は私の耳元に手を伸ばした。
彼の長い指先が私の耳を掠めて、耳を覆っている髪をかき分けた。
「補聴器はつけてないんだな。耳、あんまり聞こえてないのに」
「!!」
心臓が止まるかと思った。
耳が聞こえにくいことを、学校では隠してきた。
必死に、必死に、普通であろうとした。
なのに、なぜこの人は見抜いてしまったのか。
「……どうしてそう思うの?」
「教室でたまに耳を押さえてたり、友達の言葉を聞き返したりしてただろ。いまだって、俺が三回も話しかけたのに、一度もこっちを向かなかった。無視してるっていうより、本当に聞こえてないって感じで」
氷室くんはそう言いながら、私の隣に座った。
「病気なのか?」
普通なら聞きにくいはずのことを、氷室くんは顔色一つ変えずに聞いてきた。
「……どうかな。心因性難聴……つまり、ストレスが原因だって」
迷った末に、私は正直に答えた。
なんで補聴器をつけてないのかって言ったら、補聴器なんてつけたら、耳が聞こえにくいんだってひと目でバレちゃうから。
お医者さんには勧められたんだけど、私が拒否した。
それに、補聴器なんてつけたら、お母さんの調子がますます悪くなっちゃうかもしれないっていう心配もあったし。
二年前のあの日以来、お母さんは私が演じる『華音』に何かがあることを極端に恐れてる。
だから、私は元気でいなくちゃいけないんだ。
少なくとも、表面上は。絶対に。
「そうか。姉の身代わりなんてやってれば、ストレスもたまるよな」
氷室くんは同情するように、深刻なトーンで呟いた。
彼がノートを盗み見ていたことに気づき、一気に顔が熱くなった。
「やめて! 同情なんていらない! 私は、ちゃんとお姉ちゃんみたいにできるんだから! 私が頑張れば、お父さんもお母さんも、昔みたいに……っ」
叫んだ私の声が、耳の中でぐにゃりと歪んだ。
――キィィィィィィィィィン……。
激しい耳鳴りが私を襲う。
耳鳴りがすることは何度もあったけど、今回の耳鳴りはいままでの比じゃなかった。
「っ……う、あぁ……っ!!」
視界が白く弾ける。
耳の奥を熱い鉄棒でかき回されているような激痛。
私は両手で耳を抑え、椅子から転げ落ちるようにして床に蹲った。
止まって。お願い、止まって。
涙が溢れ、視界がぐちゃぐちゃになる。
ガタン! という椅子が倒れた音が、どこか遠い宇宙の彼方で響いた気がした。
氷室くんがしゃがんで、私の肩を掴む。
「おい、大丈夫か!?」
「……痛い。うるさい……っ!」
もう何も聞きたくない。
私に触らないで。
とにかく、放っておいて!
「雪渕。俺を見ろ」
その声は、耳を通さず、私の脳に直接響いた気がした。
氷室くんは私の両手を掴み、力ずくで耳から引き剥がした。
「いいか。当たり前のことを言うぞ。お前は雪渕華音じゃない。雪渕紗綾だ」
彼は私の目をじっと見つめて、力強く言葉を紡いだ。
「音が聞こえなくなるのは、お前の心が『もうこれ以上、嘘を聴きたくない』って言ってるからじゃないのか。もう姉を演じるのは限界だって、心が悲鳴を上げているんじゃないのか」
「……っ……」
「ずっと気になってたんだ。お前は人形みたいに笑うから、なんだか危なっかしくて、放っとけなかった。お前の世界に音が戻るまで――お前が元の自分に戻れるまで、俺が付き合ってやる。だから、もう無理に笑うな」
『氷の王子』なんて呼ばれているのが嘘のように、氷室くんの瞳は、熱を帯びていた。
「……なんで、そんなこと言うの。氷室くんには関係ないでしょう。関係ないくせに、他人の事情に土足でずかずか踏み込んでこないでよ」
私は俯いて、怨嗟のような言葉を吐き出した。
熱い涙が頬を伝い落ちていく。
こんなの八つ当たりだ。
わかってるのに、言葉が止まらない。
「お姉ちゃんは、私のせいで死んだの。二年前の雨の日、部活で居残ってた私に傘を届けようとして、その途中で、車にはねられて死んだの! お母さんは自分がお姉ちゃんに傘を届けるように言ったせいだって自分を責めて、心が壊れた! お父さんは家に帰ってこなくなった! 全部、全部、私のせいなの! あの日、私が早く帰ってればお姉ちゃんは事故に遭わずに済んだ! 本当は部活なんてとっくに終わってたのに、私は教室に居残って、友達と馬鹿みたいに笑ってたの!」
私は俯いて涙に濡れた顔を隠しながら、彼から逃げるように後ずさった。
「だからこれは罰なの! 私は『華音』として頑張らなきゃいけないの!」
「そんなことない」
――と。
温かい手が、私の肩に触れた。
驚いて顔を上げると、すぐそこに氷室くんの綺麗な顔があった。
「そんなことない。華音さんが亡くなったのは、お前のせいじゃないよ」
氷室くんは、まっすぐに私の目を見つめて、見たことがないほど真剣な顔で繰り返した。
私のせいじゃない――それは、ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。
「…………」
これまで一人で抱えてきた孤独、絶望。
爆発寸前まで膨れ上がっていたそれらの負の感情が、氷室くんの言葉を受けて、どろどろに溶けていく。
それはさながら、雪が溶けるように。
「だから、もう華音さんのフリなんてするな。見てるこっちが苦しくなる」
「……無理だよ。だって、現実をつきつけたら、お母さんがどうなってしまうかわからない」
「じゃあ、せめて俺の前でだけは、ありのままのお前でいろ。我慢なんてしなくていい。無理に笑う必要なんてない。怒りたい時は怒ればいいし、泣きたい時は泣けばいいんだ」
私の頬を伝う涙を、氷室くんがそっと指先で拭う。
私を見つめる彼の眼差しは、意外なほど優しくて、思いやりに満ちていた。
「――――」
その瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
私は幼い子どもみたいに、声を上げて泣いた。
二年前、お姉ちゃんのお葬式のときに泣けなかった分を、取り返すように――。



