RE:VIEW 周りに勧められてアイドルを目指すことになった

 通知が鳴った。画面の上に、見慣れないロゴが薄く浮かぶ。
 ――LITTLE ORBIT。
 指で開くより先に、心臓が一度だけ大きく跳ねた。

 『一次審査 仮通過』

 あの時の予感が文字になって戻ってきた。


『仮登録者向け・事前評価(振り分け)』
会場:───


 ――黎元市〇〇スタジオ。


「本日は事前評価にご参加いただき、ありがとうございます。この評価は順位には影響しません。本編収録前に、班や課題、指導枠を決めるためのものです。結果と初回収録の詳細は、後日ご登録の連絡先へお知らせします」

 マイク越しの声は丁寧だった。丁寧すぎるほど、角がない。だから余計に、内容だけが骨みたいに残る。配置。枠。――人を用途で分ける言葉だ。

「スタジオ内では一部、収録が入ります。撮影の妨げになる行為や、SNSでの発信は控えてください。受付では番号札で管理しますが、呼び出しはお名前で行います。呼ばれた方は荷物を持って、案内のある評価ゾーンへ移動してください。ボーカル、ダンスなど、項目ごとに場所が分かれています」

 会場の空気が、一段だけ薄くなる。私語を控えろと言われたわけじゃないのに、誰も声を上げない。返事の代わりに椅子が擦れる音と、服の布が触れる音が増えた。
 壁際のカメラがこちらを向いている。見られている、というより――記録されている。
 舞羅は無意識に出口の位置を確かめた。落ち着かないわけじゃない。身体が反射で動く。廊下幅、壁の位置、導線の端。

 ――何かあっても動けるように。

 マイクが短くノイズを噛み、スタッフが一度息を整える。

「それでは、お名前をお呼びします。呼ばれた方から、案内に従って評価ゾーンへお願いします」

 スクリーンの端で白いカーソルが一拍だけ瞬いた。スタッフが手元のタブレットを指でなぞる。紙ではない。
 呼び出し順も、係の都合も、全部あの中に入っている。名前の横に何かが並んでいるはずだ。点数か、印象か、タグみたいな短い言葉か。
 舞羅は視線を落としたまま、息を浅くした。

 ――人は、こうやって分類される。

「一ノ瀬桜さん」

 名前が空気を割った瞬間、椅子の脚が一斉に小さく鳴る。呼ばれた本人だけじゃない。周りまで、呼吸の置き場所を変える音だった。
 舞羅は顔を上げないまま、視界の端で動きを拾う。

 薄桃色が、人波の無彩を裂いた。

 桜は立ち上がる動きすら迷わない。背筋を伸ばして荷物を持ち、通路へ出るまでの数歩で、雰囲気がガラリと変わった。空気の取り方が、“呼ばれた側”のそれだ。そういう顔を作るのが上手い、と舞羅は感じた。
 それでも――通り過ぎる刹那、視線だけをほんの少し滑らせる。桜の唇が短く動いた。

『先に行ってくるわ』

 返事はない。頷きもない。それでも、葵と紫音の肩がほんの数ミリだけ緩んだように見えた。
 薄桃色が通路の向こうへ溶ける。残った無彩が、むしろ濃くなる――はずだった。

「イ・ユウォンさん」

 呼び名の響きだけで、場の視線が同じ方向へ揃った。
 彼女は、呼ばれた瞬間に立ち上がったわけではなかった。ほんの一拍、名前を受け取ってから、遅れもなく椅子を引く。急がなくても、間に合うと知っている動きだった。
 ピンクみのあるアッシュグレージュの髪が、光を吸って柔らかく沈む。派手ではないが、無難には見えない。選び抜いた静かな色が、彼女の肌を明るく見せる。ストレートの髪が背に沿って落ち、重めの前髪が目元に薄い陰影。サイドをまとめたハーフアップで、首筋がすっきりと映え、清楚な気配が際立つ。
 ローズピンクの瞳が上がると、視線が一列に揃う理由が分かった気がした。優しい瞳と、主張を抑えた眉。それなのに、輪郭はハッキリとしている。

「綺麗……」

 誰かの息が、言葉になった。小さくて、抑えた声。けれど、静かな室内では十分だった。言った本人が慌てて口を閉じる気配まで、音に混じって伝わってくる。
 ユウォンは一瞬だけ瞬きをして、唇の端が上がるのを押さえたみたいに見えた。すぐに表情を整える。その早さが、慣れと育ちを感じさせた。

「イ・ユウォンさん、まずボーカルの評価ゾーンへお願いします」

 スタッフの案内に頷いて、ユウォンは通路へ出た。歩幅は大きくない。けれど迷いがないから、道が彼女のために空く。椅子の脚がまた小さく鳴り、何人かが無意識に背筋を正した。――舞羅も、喉の奥が一度だけ乾くのを感じる。自分の番が来たら、同じ視線が落ちてくる。
 壁際のカメラが、滑るように彼女を追う。記録されているのは、評価だけじゃない。空気そのものだ。

上倉蓮(うえくられん)さん」

 返事は小さく、けれど早かった。椅子が引かれ、荷物が持ち上がる音が一つ増える。誰かが通路へ出ていくたび、座っている側の呼吸が少しだけ詰まる。
 舞羅は視線を上げないまま、音だけで位置を追った。――立つ。歩く。止まる。案内の声。カメラが追う。
 それが一度、二度、三度と繰り返される。

佳月(かづき)ユンニさん」
「キム・ジアさん」

 名が呼ばれるたび、空気が薄くなる。それでも場の均衡は保たれている。人の流れだけが淡々と整っていく。スタッフの足音も一定で、迷いがない。案内の声も、同じ高さ、同じ速さ。――ここでは感情の起伏すら、邪魔になる。

狐塚(こづか)ミコさん」
駒井蜜羽(こまいみつは)さん」

 椅子が鳴り、衣擦れが小さく響く。笑い声になり損ねた息が、どこかで引っかかって消える。
 舞羅は膝の上で指を組み直した。汗ではないのに、掌の内側だけが妙に温い。

鷺坂紅芭(さぎさかくれは)さん」
白金宵充(しろがねよみつ)さん」

 その名が響いた瞬間、音の質が変わった気がした。視線の移り変わりが、ほんの少し鈍る。
 舞羅は初めて顔を上げた。そこには、冷たい光沢を持つ“美形”がいた。物憂げな瞳の底に、火が灯っている。手脚は長く、無駄がない。健康的な輪郭が舞羅の好みに触れた。椅子から立つだけで、筋肉が起き上がる気配が伝わり、生気が動作の端々に滲む。均整の取れた身体は彫刻みたいで、周囲の視線を黙らせる――圧倒的な美。

 (“白金宵充”、名前負けしていないな……)

 宵充は立ち上がるとき、肩を軽く回した。たったそれだけだった。それでも何か惹かれるものを舞羅は感じた。だが、見惚れている暇は与えられない。

鷲嵜譜海(すざきふみ)さん」

 通路に影が流れ、席が一つ分だけ軽くなる。舞羅が息を入れ替えた、そのとき――

黄楊涼華(つげすずか)さん」

 名が落ちるのと同時に、視線が刺さった。

(見られてるな。……何かしたか?)

 涼華は席を立つ。すれ違いざまに柑橘のような甘さと、冷たい花の匂いが一瞬だけ残った。香水だ。わざわざ、近い距離を通ったのは偶然じゃない気がする。涼華の視線は、舞羅の横顔を確かめるみたいに滑っていった。
 金髪を襟足だけ流したポニーテールが揺れる。高い背丈と、均整の取れた輪郭。歩くたび、周りの視線が一拍遅れるのが分かった。――目立つ。誰が見てもそういう種類の人間だと、否応なくそう思わされる。
 舞羅は息を飲み込んで、背筋を正した。膝の上で指を組み直す。気を抜けば、こちらの粗だけが目立つ。あの視線が、次は欠点を数えに来るかもしれない。――評価をするのは主催者だけじゃない。
 涼華の背が、通路の向こうで光にほどけていく。残り香だけが遅れて席に戻り、舞羅の肺の奥に薄く刺さった。

「百目鬼舞羅さん」

 名前を呼ばれた瞬間、身体が強ばる。未知に対する緊張だった。
 舞羅は立ち上がる。椅子を引く音が、さっきよりも自分の耳に近い。

「ダンス評価ゾーン、こちらです」

 案内の声に頷いて通路へ出ると、すでに前方にユンニの背中が見えた。涼華は少し先を歩いている。歩幅も姿勢も、周囲の空気を引っ張るみたいに一定だ。
 ――ダンス評価ゾーン。四人一組。そういう区切りなのだろう。

 途中で、列がいったん止められた。スタッフが軽く手のひらを上げる。

「……最後の一人が来るまで、こちらでお待ちください」

 待つ、という言葉が妙に重い。舞羅は足を揃えたまま、視線だけを落とす。通路の奥から流れてくる音を拾う。遅れて響いた足音がひとつ。乾いた床を撫でるみたいに、静かで、迷いがない。

 白い妖精が、照明を飲み込むように視界の端を横切った。

 ――雪宮白穂(ゆきみやしほ)

 Reviewの元ビジュアルメンバー。――そんな肩書きが、遅れて刺さった。

 その白さは、雪みたいに柔らかいのに冷たさを放っていた。けれど単色じゃない。重なった淡い光が角度ひとつで乳白の絹になり、次の瞬間には氷へ変わる。肌は光を受け止める。髪は小さく煌めいて、影だけを薄く落とす。冷たいはずなのに――余韻が甘く残る。
 舞羅は喉の奥で小さく息を飲み込んだ。「Reviewの元ビジュアル」──言葉にした途端に安くなる気がして、胸の内でしか呼べなかった。
 白穂は場の空気に馴染むように、そっと舞羅達のそばに立った。最初からこの場の温度を知っているみたいだった。氷のような少女だと舞羅は思った。
 涼華が肩越しにちらりと舞羅を見る。ユンニは前を向いたまま、顎先だけをわずかに上げている。誰も口を開かない。四人の沈黙が、勝手に“チーム”の形を作っていく。

「では、ダンスの事前評価に入ります」

 スタッフが扉を押し開けた。白い光が流れ、四人の影が床に伸びる。中は広い。鏡とバー、床は傷の少ないリノリウム。空調の冷気が薄く肌を撫でた。

 ――ここから先は、逃げ場がない。

 白穂が立ち位置に着く。照明が同じ高さで降りているのに、彼女の輪郭だけが静かに浮いた。
 涼華が何でもないように舞羅の立つ場所を空けた。譲ったというより、最初からそこが舞羅の場所だと知っているみたいに。

「よかったらこっち来てよ。君の踊り、見てみたいんだ」

 ――見たい、は好意にも観察にもなる。
 柑橘の残り香が、まだ薄く肺に残っていた。

「……見るのは後。立ち位置を決めよう」
「了解。じゃ、舞羅はセンター寄り」
「……私は舞羅の隣がいい」

 ユンニの声で空気が締まり、涼華が舞羅を前へ押し出す。白穂は控えめに、けれど譲らない声で言った。

「では、事前評価に入ります。全員、同じ課題で見ています。この評価は順位には反映しません。初回課題のチーム編成に使います。実力が一方に偏らないように、こちらでバランスを取ります。――だから、見せたいものをそのまま出してください」

 トレーナーの視線が四人をなぞる。測るというより、分析する目だった。立ち位置、距離、肩の角度。まだ音が鳴っていないのに、採点は始まっている。舞羅はつま先の向きを揃え、鏡の中の自分から目を逸らさなかった。

「そのままの位置で。音が入ったら、まず一回だけ通してみましょう」


───

 スピーカーが小さく息を吸うみたいにノイズを立てる。次の瞬間、一定のテンポが床を叩き始めた。――旋律が乗る。甘く爽やかだが、間が短い。アイドルの曲らしい“明るさ”の裏で、息継ぎと重心の置き場が試される。

「……はい。カウント、入ります」

 トレーナーの声は柔らかいのに、余白がない。

「5、6、7、8――」

 トレーナーが先に動いた。鏡の前で、身体の芯だけが一拍早く立ち上がる。腕は大きく振らないのに、線がはっきり見えた。足音は軽い。けれど重心は沈まない。
 アイドルの振付らしい“可愛い”が、甘さに流れない。抜くところは抜いて、締めるところは鋭い。首の角度ひとつで表情が変わり、呼吸のタイミングひとつで空気が切り替わる。
 見本というより、基準だった。

「……今の振り付け覚えられたかな?一回だけ、通してみようか」

 返事は重ならなかった。頷きと、呼吸。つま先の向きだけが揃う。
 鏡の中で四人が同時に構える。同じ振りなのに、細部の磨き方が全く違った。
 ユンニは迷いがなく、最短距離で形を作る。スタンダードで癖のない動き出しだった。涼華はパーツを切り分けたかのように、静と動のメリハリのコントラストが美しい。止まる瞬間がいちばん強い。鏡の奥にカメラがある前提で、角度を作っている。スポットライトの当て方を変えるみたいだ。
 白穂は、その逆だった。動き出しが遅いわけじゃないのに、急いで見えない。腕は風みたいにほどけて、指先が最後に言葉を置く。足先は床を撫で、重心は静かに沈む。

 ――バレエの基礎が、骨として入っている。

 緩やかな踊りだが、細部までこだわり抜いている。間を作った次の瞬間だけ、切り替えが鋭い。その鋭さが何よりの証だ。その綺麗さは、見せるためじゃなく、崩れないための綺麗さだった。
 三人の動きが鏡の中で散っていく。その隙間に、舞羅は自分の呼吸を差し込んだ。
 耳の奥で何かが「始まる」音がした。大きい音じゃない。鍵が回るみたいな、乾いた小さな音だ。
カウントが流れ、身体が遅れずに追いつく。大振りだが雑味のない動き。大胆に見えるのは迷いがないからだ。重心が走らず、勢いがあるのに細く散らない。――目が逸らせない。舞羅の身体は音に追いつくのではなく、音のほうが遅れて触れてくるみたいだった。
 鏡の中で、トレーナーの目が一度だけ止まった。柔らかい笑みは崩さず、視線だけが外れない。肩の高さ、重心の戻り、ほんの小さな癖まで拾って見逃がさない。舞羅の背中に見えない線が引かれていた。

「はい。一回、音切りますね。お疲れ様でした」

 空気が軽くなる。トレーナーは続けて、柔らかい声のまま要点だけを置いた。

「ユンニさんは振り入れが早いから、立ち上がりがいちばん速かったです。覚えるのが早いぶん、末端の角度をもう一段だけ丁寧に。涼華さんは止めが武器。魅せ方が分かってる。白穂さんは手先と間が綺麗。緩急の切り替えはそのままで、重心の“戻り”だけ確認してください」

 言い終えると、トレーナーは舞羅へと向き合った。

「舞羅さん、上手いです。上手いから言うね。ダンサーなだけあって、全部が丁寧。アイドルの振り付けだけど、出力が少し“男性的”に寄ってる。力強くてダイナミックな曲なら無敵。だけど、この曲だと強さが先に立って硬く見える瞬間がある。サビ前だけ、息を抜く場所を一個作って。強いまま、ちゃんと“明るく”見せられるから」

 言葉が、胸の奥の硬いところに当たった。痛い、というより――正確だった。
 舞羅は反射で否定しかけて、飲み込む。上手い、と言われた直後に欠点を指されるのは、よくある。けれど彼女のは貶すためじゃない。武器の形を整えるための言い方だった。
 舞羅はつま先の向きを変えずに、肩だけをひとつ軽く落とした。力を半拍だけほどく。次に入るサビ前を思い浮かべ、口角だけをほんの少し上げてみた。
 鏡の中の自分が、ほんの少しだけ“違う顔”をした。
 涼華が小さく笑う気配がした。ユンニは無言で頷き、白穂は舞羅の横顔を見て、そっと視線を下ろした。

「今の感覚、忘れないで。……じゃあ次、ボーカルの評価に移ります。同じ四人で行きましょう」

 トレーナーが端末を軽く操作し、扉の方へ視線を流す。舞羅は息を一つだけ整えて、足を出した。――まだ、始まったばかりだ。
 扉が閉まる音で、ダンスの熱が切れた。


 廊下は白くて、やけに明るかった。足音が一定に反響して、さっきまでの音楽の余韻を押し流していく。ダンススタジオの熱が、急に嘘みたいに薄くなる。舞羅は無意識に、掌を握って開いた。指先が少しだけ痺れている。さっきトレーナーに言われた“息を抜く場所”――そこへ意識を向けたせいで、体の奥の固さが浮き彫りになったのだと思った。
 ボーカル室はダンススタジオよりも静かだった。防音材の壁が空気を吸って、足音すら柔らかく潰す。天井のライトは白く、マイクスタンドの影だけが床に長く伸びていた。ガラス越しのブースの向こうに、譜面台と水のペットボトルが置かれている。隅に置かれた小型のモニターには、波形を映すソフトが立ち上がっている。
 空気が静かすぎて、息の音が自分に返ってくる。舞羅は喉の奥を一度だけ鳴らし、唾を飲み込んだ。ダンス以外の自信がなかった。来るべきじゃなかった、と思う。その判断を一瞬だけ後悔した。

「今から見るのは、音程の取り方と、息の入れ方。……要は歌い方です」

 ボイストレーナーは淡々と告げて、端末の画面を一度だけ確認した。声のトーンは少し淡白だ。舞羅は言葉を選んで話してくれる人だと思った。

「上手い下手より先に、“どう歌う人か”を見ます。声の癖、リズムの癖、苦手な場所。そこが分かれば、初回課題の編成で偏りを抑えられるはずです。制作側もその前提で組んでいくと聞いています」

 視線が四人を順番に撫でて、最後に舞羅の位置で止まる。

「短いですが、指定のフレーズを歌ってください。立って、一度息を整えて。……誰から行きます?」

 舞羅は息を吐いた。平らにしようとして、失敗した声音で呟いた。

「……誰からでも」
「嘘。顔が硬い」

 白穂の声は透き通っているのに、刃物みたいに正確だった。

「白穂ちゃんだったよね。中々強く言うじゃん」
「涼華さん、言い方」
「じゃあ……私が先に行く」

 白穂が静かに宣言をして、ヘッドホンに手を掛けた。深く息を吸って整える。喉に空気が通ったのを確かめるみたいに一度瞬きして、それから舞羅をじっと見た。

「……歌わないのか?」
「ううん、なんでもない」

 白穂はそう言って、視線をふっと外した。何気ないふりをしたまま、彼女はマイクの前に立つ。足を揃え、肩を落とし、顎を少し引く。歌う準備が整ったらしい。

「……準備ができたら、合図します」

 ボイストレーナーが短く頷いた。端末の画面が切り替わり、歌詞の一行だけが表示される。

「フレーズはここ。キーはこのままで。――じゃ、いきましょう」

 小さく息を吸って、丁寧に音をなぞる。祈るみたいな静けさ――そう錯覚するほど、天使の歌声がまっすぐに落ちてきた。甘い声が周囲の緊張に微笑んだ。
 繊細な声なのにしっかりとした芯がある。音程は正確で、揺れが起きそうな箇所ほど、滑らかに支えられている。羽のように軽やかに歌い上げる様は、鳥が風に乗る瞬間に似ていた。高音はすんなりと出て、どこまでも透き通っている。
 歌い終わった瞬間、室内の空気が一拍遅れて動いた。
 歌手、という言葉が浮かんだ。――アイドル志望でも、練習生でもない。あれは“歌う”ことを前提に生きてきた人間の、息の使い方だった。
 舞羅は喉の奥がきゅっと縮むのを感じて、唾を飲み込んだ。さっきまでの緊張とは別の種類だ。自分の番が迫っている、という現実が輪郭を持って迫ってくる。

「……うん。息がきれい。ブレスの使い方もそうだけど、高音の伸びがいいですね。細い声質なのにしっかり聞き取れる。……じゃあ次。涼華さん、行けますか?」

 涼華が笑って手を挙げる。舞羅の横でシトラスの香りがわずかに動いた。ヘッドホンをかけた瞬間、涼華の表情が切り替わる。力強く、光が滲むような微笑みを浮かべていた。

「……はい。じゃ、同じフレーズで」

 厚みがあるのに、重たくならない。光沢だけ残して抜けていく。最初の音は力強く、床を踏むみたいに安定していた。けれど強さは押しつけにならない。音量で殴るんじゃなく、息の圧で押す。
 強弱はなだらかなのに、境目だけがくっきりしている。言葉の頭が立って、語尾がほどける。ひとつひとつの音が“意味”を連れて落ちてくるから、歌詞が勝手に耳へ届く。
 母音は艶やかに伸び、子音は迷いなく切れる。甘さがあるのに媚びず、明るいのに軽くならない。――涼華の声は、光をまとったまま前へ出た。

「同じ歌詞なのに印象が違うね」

 舞羅は頷くしかなくて、喉の奥で乾いた音が鳴った。

「……歌い方で、別のものになるんだな」

 涼華がヘッドホンを外すと、残響が一拍遅れて消えた。室内はまた白く静かで、マイクスタンドだけがまっすぐ立っている。

「そう。歌い方で、別のものになる」

 ユンニが淡々と受けて、視線を舞羅へ戻した。励ましじゃない。順番を示す目だった。

「次、舞羅でいい?」
「……ああ」

 ボイストレーナーが端末を一度タップする。画面の一行が切り替わる。

「舞羅さん。まず一回、普通に。上手くやろうとしなくていいです」

 舞羅はマイクの前に立った。足幅を揃えた瞬間、身体のほうが先に“正解”を出した。踊るときの起点。重心の置き場だったり、肩の落とし方や視線の高さ。考えるより早く整ってしまう。

 (でも、歌う時もこれでいいのか)

 背筋を伸ばすほど、喉が固くなる気がした。息を支えるつもりが、息を閉じてしまいそうで。舞羅は一度だけ指先を握って、ほどく。踊りの正しさを一枚ずつ剥がして、声のための余白を探した。

 口を開く。最初の音が出る前に、小さな葛藤を自覚する。正しくやるほど、間違いに近づくかもしれない――そんな気配が、薄く滲んでいた。
 予想に反して、歌い出しは順調だった。音程が外れる怖さより先に、声が前へ出る。低い音域は舞羅の呼吸と相性が良かったのか、喉が変に掠れない。言葉も、崩れずに並んだ。

 ――問題はあの高音のパートだ。白穂と涼華が、空気ごと持ち上げた場所。

 舞羅は一拍だけ迷い、判断を落とした。高音へ登らない。代わりに、同じ旋律を低音のオクターブ下で支える。逃げたというより、落とした。崩すくらいなら、形を守る方を選んだ。
 音の輪郭は保たれた。呼吸も切れない。それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。

 (アイドルに向いていないんじゃないか)

 そんな考えが浮かんだ。そう思えば楽になるはずなのに、何処か表情が硬いままだった。

 最後の音が消える前に、ボイストレーナーが片手を上げた。

「はい、ここまで。今の判断、悪くないと思う。高音で崩して“弱点”を見せるより、音程とリズムを守った。制作側はそういう処理の仕方も見ています。それと、あなたの声は“前に出る”より“刺さる”タイプだから、母音で伸ばすより子音とタイミングで勝負したほうが映えるんじゃないかな。個人的にラップの練習をしてみてほしい」

 ボイストレーナーは頷いて、視線を次へ移した。

「じゃあ次。ユンニさん、お願いします」

 ユンニは短く「はい」とだけ返して前に出た。迷いのない歩幅。マイクの高さを一度見て、自分の身長に合わせてから前を見据えた。
 ユンニの声は派手じゃない。しかし、涼しげな声が室温を一段だけ下げたみたいにすっと通る。冷たい水に触れているのに、指先が痛くならない――ちょうどいい温度感。それでいて、寄り添う距離が心地よい。歌詞が“意味”として残るのは、言葉の置き方に深みがあるからだ。
 白穂みたいに空気を変える声でも、涼華みたいに光で押す声でもない。けれど、聴いている側の呼吸が整っていく。

(バラードが似合うのは、きっとこういう人だ)

 舞羅はそう感じ取ってしまう。だから余計に、自分の手札がダンスしかない気がして、気分が僅かに沈む。
 ボイストレーナーは端末を一度閉じ、四人を見回す。採点の目が、“進行”の目に切り替わるのが分かった。

「はい、ここまでで大丈夫。休憩三十分入れます。次は宣材撮影に移るので、メイク直ししたい人は今のうちに。呼ばれたら順番に移動してください」



───


「お疲れ様〜!」

 桜の声がロビーで弾む。張っていた空気が一枚、剥がれた。

「疲れたね〜!」
「葵、水あるよ。飲む?」
「貰おっかな?お姉ちゃん、ありがとう!」

 桜、葵、紫音と見知った顔が、舞羅を見つけると駆け寄った。

「舞羅ちゃんもお疲れやんな」
「ああ、そっちもお疲れ」
「舞羅ちゃん、まだ慣れてない?疲れた〜って顔してるよ」
「ん、まあな。慣れないことだらけだった」

 桜が笑って、葵が肩を揺らす。紫音も口元をやわらげて、少し先の予定を話題に出した。

「このあと宣材撮影らしいわ。呼ばれた順に移動になるって」
「どうせなら連絡先交換せえへん?これからも関わりあるやろうし、ええと思うんやけど」

 桜がスマホを掲げる。軽いのに、拒みにくい手際だった。舞羅にとっても悪くない提案だ。大人になってから、こんなふうに誰かと繋がることがあるとは思わなかった。

「いいね!舞羅ちゃんといつでも話せるの、嬉しい」
「私も。よかったら、交換してもらえる?」
「じゃ、決まりやね」

 桜の言葉に押されるみたいに、皆がスマホを取り出した。画面の光が掌に反射して、ロビーの白さが一瞬だけ温度を持つ。ピッ、という短い音。QRが読み取られて、名前が増えていく。その作業が思っていたよりあっさりしていた。けれど、悪くない心地だった。
 舞羅は自分の端末に並んだ新しい表示を見て、息をひとつ落とす。繋がった事実が、先程からの不安や緊張を和らげる気がした。
 そのとき、葵がふいに視線を泳がせた。ロビーの奥――人の流れの外側を、何度か確かめるみたいに見てから、舞羅の袖を軽く引く。

「ねえ、舞羅ちゃん。……さっきから、あの子……見てるよ」

 囁く声なのに、言葉だけははっきりしていた。桜も同じ方向をちらりと見て、口元だけで笑う。

「ほんまや。……あの白い子。さっきからずっと、舞羅ちゃんのこと目で追ってるで。……ほら、来た」

 白穂は輪の手前で一拍だけ止まり、呼吸を整えるみたいに唇を結んだ。
 それから、舞羅を見た。

「あの……ダンス、上手かった。……それで気になってた」
「舞羅ちゃん、凄いね……!」

 小声で葵がつついてきた。
 舞羅は目だけで「分かった」と返して、白穂に向き直った。

「どうせならお前も入ろうぜ。ずっと、私のこと気にしてたみたいだし」

 白穂が瞬きをする。輪の中の空気を測るみたいに、視線が一度だけ泳いだ。

「……邪魔じゃないなら」
「邪魔なわけないやん。な?みんな」

 桜が即答して、スマホをもう一度ひらひらさせた。紫音も静かに頷く。葵が笑って、距離を詰めすぎないように気をつけながら、手招きする。
 白穂は一拍遅れて輪に入った。

「……雪宮白穂」
「百目鬼舞羅」
「藤崎葵!」
「藤崎紫音よ」
「一ノ瀬桜やで」

「交換、するか?」
「……うん」

 白穂が小さく頷いてスマホを出す。その手元は静かで、やけに丁寧だった。
 舞羅は画面に映る新しい名前を見た。さっきまでの硬さが、少しだけほどける。――こういうのは、悪くない。



化粧室・洗面所前――


「……ここ、意外と混むね」
「そら宣材撮影前やしな。全員、顔の最終調整したいんやろ」

 桜が言って、先に扉を押した。中からふわっと香りが漏れる。ヘアオイル、ミスト、パウダー。白い照明に反射して、鏡の前の人影が忙しなく動いていた。

「舞羅ちゃん、来て来て。ここ空いてる」
「ありがと」

 葵が鏡の前を確保して、舞羅を手招きする。紫音はその隣で、もうメイクの手直しを始めている。必要なものだけを取り出して、静かに並べる。手順まで整って見える。――手慣れている。

「白穂ちゃんも、こっち」
「……うん」

 白穂は一歩だけ遅れて入ってきて、壁際の鏡の前に立った。
 ――音がしない。ファスナーの擦れる音、ケースの中身がぶつかる音も。
 葵がちらりと覗き込んで、目を丸くする。

「え……白穂ちゃん、それだけ?」
「うん」

 白穂の手元にあるのは、小さなチューブの下地と、ペン型のコンシーラー。薄いパウダーのコンパクトに、眉用の細いペンシルとスクリューブラシ。あとはリップと綿棒。
 ブラシの束も、派手なパレットもない。色を足すための道具じゃなくて、全体を整えるための最低限だけ――そんな並びだった。
 ……ただ、リップだけは例外みたいに揃っている。細いチューブが二本、スティックが一本、透明なグロス。それぞれ形も質感も違って、色味も微妙にずれていた。

「白穂ちゃん、それだけで足りるの?」

 紫音が思わず声を落とす。驚きというより、信じられないといったトーンだ。

「少な……。てか、リップ多ない?」
「唇は命」

 白穂は鏡から目を逸らさずに言って、細いチューブの一本を指先で転がした。

「てか、ほんまに肌きれいやな。下地だけでいけるって何……?」
「肌が生まれつき白いから、それに合うファンデーションがなくて、下地だけで頑張ってる」

 白穂は言い切って、コンシーラーを指先じゃなく綿棒でちょんと取った。目の下の影を一筋だけほどく。手数は少ないのに、仕上がりだけが変わっていく。

「え、白いのって最強ちゃうん?」
「そんなことないよ。写真で浮かないようにしたり、色々大変なことはある」

 白穂が鏡の中で自分の首筋を指し示す。

「首の色も白いから、結局ファンデが使えない。合うのがない」
「え、じゃあ下地って何使ってるの?」

 葵が純粋に聞くと、白穂は迷わず小さなチューブを持ち上げた。――それは日焼け止めだった。
 舞羅は鏡越しに自分の顔を見た。やることは、もうほとんど残っていない。ファンデを薄く伸ばして、境目を指で馴染ませたくらいだ。リップを足すほどの余裕もない。

(何を足せばいいのか分からない……)

「……舞羅ちゃん、もう終わったんか?」

 桜が振り向いて、鏡の中で舞羅を見つける。

「終わりっていうか……元から、やることがない」
「嘘やろ。撮影やで?せっかく綺麗な顔しとるんやから、もっとやったらええのに」

 桜の言葉は軽いのに、逃げ道だけは塞いでくる。
 舞羅は鏡の中の自分を見た。確かに、素材がどうこうと言われれば――否定はしにくい。けれど“足す”という行為に慣れていない。何を足せば、どこが変わるのか。その地図がない。

「……撮影って言っても、盛りすぎるのは違うだろ」
「盛らんでもええ。ちょい整えるだけや」

 桜が言い切って、肩越しに葵へ視線を投げる。

「葵、何かある?」
「あるある!舞羅ちゃん、こっち向いて」

 葵は言いながら、舞羅の頬をじっと見た。視線が肌の表面じゃなく、光の乗り方を確かめている。
 舞羅は少しだけ身構えた。触られるのは慣れていない。けれど葵の手は優しく触れてきた。

「一回“整える”ね。撮影用は、足す前にムラ消すの大事」

 葵はクレンジングシートを一枚取り出し、拭き取るというより“押さえる”ように当てた。こすらない。額と小鼻、口元だけを軽くさらって、余分な油分と粉を落とす。
 その上から、ミストを一吹き。手のひらでふわっと押さえて、肌の温度を戻す。

「まずは下地の塗り直しだね。すこ〜しだけ取って、クルクルって馴染ませるように塗ってね」

 指先に取った量は驚くほど少ない。葵はそれを頬に“伸ばす”のではなく、まず面で置く。
 そして小鼻と頬の内側、毛穴が目立つ場所だけ――指の腹で、小さく円を描くようにやさしく“くるくる”となじませた。強く押さない。けれど手を止めない。肌の凹凸に沿って、下地が勝手に落ち着くまで回す。

「これ、トントンよりここはくるくるの方が、早く馴染むこと多いよ。撮るときに毛穴の影が消えやすい」

 舞羅は鏡の中で、自分の頬の“光の粒”が均一になっていくのを見た。足したのは薄い膜だけなのに、情報量だけが減っていく。

「……こんなんで、変わるもんなんだな」
「変わるよ。足すんじゃなくて、乱れを揃える感じ。撮影って、そういうのが一番バレるから」

 葵はそう言って、舞羅のスポンジを借りた。水気をきちんと絞った硬さで、頬の外側を軽く押しながら、境目を外へ逃がす。叩くというより、薄い膜を押し込むような圧。境目だけが馴染んでいった。

「はい!次はちっちゃなムラを消してくね〜」

 ペン型のコンシーラーは、舞羅の顔に直接触れなかった。葵は手の甲に一度だけ線を引いて、そこからほんの少しを拾う。
 目の下、口角の影、小鼻の赤み。気になる箇所に点で置いて、境目だけを小さくタップする。広げずに馴染ませてくれた。

「写真は“塗った感”が出ると一気に古く見えるのよ。整えるのが正解」
「……プロみたいなこと言うな」
「事務所にいたら、嫌でも覚えるわ」

 紫音の声は柔らかく、不慣れな後輩に手解きをする先輩のようだった。

「で、次は目元ね。盛らないけど、輪郭は作るの」

 葵の次は紫音が舞羅の前に立つ。黒じゃないライナーを取り出して、手の甲に軽く引き、色味を確かめた。灰色のように少しくすんだ色で柔らかい。線の縁が強く出ないタイプのものだと話してくれた。
 そのまま、舞羅の目尻を指で少しだけ支え、まつ毛の隙間を埋めるように“影”を置く。引くというより、ちょんちょんと点を置くみたいな描き方だった。
 紫音は続けて、ライナーの先を一度だけティッシュに当てた。余分な油分を抜いて、線の主張をさらに薄くする。撮影ライトで“黒”だけが浮くのを避けるためだ。

「少し色を薄くした方が目尻は綺麗にまとまるの。舞羅ちゃんも今度から試してみて」

 そう言いながら、紫音は目尻の終点を決めた。長く引かず、跳ねさせない。目の形の延長に、ほんの数ミリだけ締めの色を置く。
 次に、下まぶたへ視線が落ちる。

「下は、線を引くより“影を置く”の。ここを締めると、目の形が写真でぼやけない」

 紫音が指先で示したのは、黒目の外側から目尻にかけての“薄い三角”――いわゆる目尻下のくぼみ、“三角ゾーン”だ。その三角の“底”に線を入れると、囲んだ感じにならないまま、目尻だけが締まる。最後に紫音が綿棒で端をなぞって、線の角だけ消す。
 舞羅は鏡の中で、自分の目が急に“意思”を持ったのを感じ取った。黒目の輪郭が、前を向く形になった。大きくしたわけじゃない。派手にしたわけでもない。ただ、生命力、躍動感――そんなものが滲み出ている気がした。

「お前ら凄いな、ありがとう」
「どういたしまして」

 自分の顔が自分のものではない感覚もする。でも嫌じゃない。洗練されて美しくなった。誰が見てもメイクを直す前よりずっといい。――少しだけ自分に自信が戻ってきた。

「まだまだ終わらんよ」
「まだ上があるのか……もう、お前らも自分の顔に向き合えよ」
「私達はいいの。舞羅が綺麗になる方がいい」

 白穂の言い切りは静かなのに、逃げ道をあっという間に塞ぐ。舞羅は鏡の中で眉をひとつ上げた。

「……何だそれ」
「事実」

 桜が肩を揺らして笑う。洗面所の白い光が、さっきより少しだけ柔らかく見えた。

「舞羅、リップ持ってる?濃いめの……似合うと思う」
「あるけど、これ以上は要らないだろ」
「要る。撮影は唇の血色が飛ぶから。私がリップたくさん持ってるの分かるでしょ」

 ――納得してしまった。確かに白穂は色白で唇の色も薄い。
 白穂は舞羅の持っていた暗めのローズを受け取ると、直塗りはしなかった。綿棒で先を撫でて、唇の“内側”にだけ色を置く。そこから輪郭へ向かって、色を薄く薄く引きのばす。線で囲わない。滲んだ血色だけを残す。
 最後にもう一度、何もついていない側で口角の端を軽くなぞり、角だけを消した。――形は整うのに、塗った感じは出ない。

「舞羅、ティッシュ噛んで」
「分かった」

 素直に柔らかい紙を噛むと、余分な色だけが移り、唇の内側に薔薇色がきれいに残った。
 隣で桜が肩を揺らして笑う。

「お〜!綺麗になったやん。さすが舞羅ちゃんや」

 桜が褒めると同時に、視界の端で青い画面が現れた。
 瞬きの裏に薄く重なって、現実の鏡像の上に“文字”だけが浮く。

『STATUS UPDATE』
対象:百目鬼舞羅

Visual:B+ → A-

矢印の先で、A-が静かに点滅した。強調するでもなく、ただ“決定事項”としてそこにいる。

 舞羅は反射で笑いそうになって、喉の奥で止めた。

(……今の、反映されたのか)

 鏡の中の自分は、さっきよりも“ちゃんと人前に出る顔”をしている。整えられたのは色だけじゃない。輪郭の曖昧な場所が減って、光が迷わず頬の上を滑る。目尻は締まって、唇は血色だけが残る。
 ――他人の手で作られたのに、不思議と「借り物」には見えなかった。

「……これで、完成だね!今日いち可愛い!」

 葵が弾むように言う。

「“今日いち”ってなんだ」
「今この瞬間の最高値ってことや。更新していこ」

 桜が朗らかに笑い、舞羅の肩を叩く。
 舞羅のメイクが終わると、皆が鏡越しに覗き込む。

「あら、とっても綺麗」

 紫音が落ち着いた声で言い、

「うん、綺麗」

 白穂が短く頷く。

「私らの舞羅ちゃんがべっぴんになって、手強いライバルになったらどないしよか」

 最後に桜が、冗談みたいに言い切った。それを“嬉しい”と呼ぶのは、まだ早い。
 舞羅は鏡の中の目を見返して、視線だけで呼吸を整えた。
 慣れない。人の手で整えられた輪郭にも、褒め言葉が落ちる温度にも。
 ――それでも、嫌じゃない。
 嫌じゃない、と気づいた瞬間がいちばん厄介だ。

 青い画面が、また視界の端に滑り込んだ。瞬きの裏に貼り付いて、文字だけが淡く浮く。


【ログ更新:共鳴深度】
対象:藤崎葵/藤崎紫音
深度:46% → 52%/24% → 38%
状態:同期未完了
備考:感情同調(高揚/親和)を検出

【ログ更新:共鳴深度】
対象:一ノ瀬桜
深度:37% → 41%
状態:同期未完了
備考:感情同調(愉悦/庇護)を検出

【ログ更新:共鳴深度】
対象:雪宮白穂
深度:24% → 31%
状態:同期未完了
備考:感情同調(憧憬)を検出


 舞羅は頬が緩みそうになるのを我慢した。

(……増えるな。今、このタイミングで)

 誰にも見えないログが、誰より正直に“今”を刻む。