事務所に戻り、社長室の前に立つ。いつもならノックをせず、ドアノブを回して入っていた。けれど、今日は緊張して掌に汗が滲む。握った銀色の取っ手は冷たく、心地いい。息を吸ってドアを三回叩いた。指先の震えごと押し込むように、部屋に入る。
室内に入った途端、暖かい空気が彼女の頬を撫でた。廊下の寒さと違い、過ごしやすい温度だ。彼女は肩の力をゆっくりと抜いた。
「挨拶をするとは珍しい」
「まあ…いつもとは訳が違うと思ったので」
「……ひとまず、座ってくれ。少し話が長くなるからな」
「分かりました」
返事の後、壁時計の秒針だけがやけに大きく響いた。紙の端が揃えられる音がする。社長の手元に、事務所のものじゃない封筒。角から覗いたのは「オーディション企画書」の太字だった。舞羅は眉ひとつ動かさず、視線だけを社長へ移した。首を僅かに傾げた。社長と目が合う。彼は目尻に皺を作り、一拍置いて微笑んだ。
社長は封筒を机上に置き、指先で軽く押して舞羅の方へ滑らせた。紙の擦れる音が、静けさの中で妙に鋭い。
「……うちの案件じゃない。LITTLE ORBITからの依頼だ」
「LITTLE ORBIT……?」
「新興事務所だから、聞いたことが無いだろう。新規のオーディション企画だ。主催は向こうだが、うちにも協力要請が来た。参加者を出来るだけ多く確保したいそうだ」
聞いたことがない名前。彼女は訝しんだが、社長はそれも折り込み済みだと、柔らかい笑みを浮かべたままだ。彼は封筒の口を開け、企画書の一枚目だけを抜き取る。太字の見出しと、薄いインクで刷られたロゴ。彼女の視界がそこに吸い寄せられた瞬間、喉の奥がきゅっと狭まった。
「……私は、ダンサーです。オーディションって、アイドルの方のですよね」
「そうだ。だが、参加者全員が“最初からアイドル”ってわけでもない。向こうが欲しいのは、今の舞台に立てる人間だ」
社長は言葉を選ぶように、一拍だけ間を置いた。
「今の舞台ってのは、“歌って踊る”って意味じゃない。――見せ物としての舞台だ。ここ数年、業界は似た型を回し続けてる。ウケるフォーマットが固まりすぎて、誰も冒険しない。結果、客も“新しい驚き”じゃなくて“安心できる既視感”を買うようになった」
それは彼女自身も何となく感じていた。退屈だ、と心の渇きを満たせる程のものを、ここ何年かは全く見聞きしなかった。
「数字が出る型があって、運営はそれをなぞる。客はそれを消費して、飽きる。――また別の型が出る。その繰り返しだ」
「……そういう空気は、ありますね」
思わず零れた声を拾って、社長は薄く笑った。停滞は嫌いだ。だが、参加するつもりはない。舞羅は背筋を伸ばし、社長の目を見た。誤魔化しが利かない相手だ。
「ソウルシードも、昔ほど“祭り”にならん。出ないわけじゃない。だが、発火点が鈍い。ひとつの夜で空気が変わる瞬間が、減ってきた。だから皆、火を起こすより、“燃えてるように見せる”方へ寄る。……退屈だろ」
「……退屈だとは思いますけど、それと私がオーディションに出ることは無関係、じゃないですか?」
社長は笑みを消さないまま、封筒の角を指で押さえた。
「無関係、か。……逆だよ」
「ソウルシードは“才能を生む”もんじゃない。元からある火種を、極限で選ばれた結果に沿って、増幅して表に出すだけだ」
舞羅は眉を寄せた。理解したいのに、納得したくない顔。
「火を起こせない舞台では、増幅が起きない。起きないから、みんな“燃えてるように見せる”に逃げる。だがそれは、見せ物としては成立しても……プロの仕事じゃない」
「……プロ?」
「“一晩で空気を変える”のが仕事だ。客の体温を変える。明日を少しだけ軽くする。本人の人生の火種を拾う。……それが出来て初めて、アイドルと名乗れる」
社長は改めて、封筒の中身を取り出して彼女の前へ差し出す。一目見ただけで、丁寧な仕事をしていると分かるデザインだった。このオーディションに対する熱量の凄まじさが伝わってくる。それをまじまじと見つめる彼女に、彼は話を続けた。
「LOは、それを取り戻したい。だから最初から“歌える顔”だけ集めてない。火を起こせる人間が要る。お前が入ると、同じ曲でも空気が変わる。客はそれを見てる。数字じゃ拾えない熱が、お前にはある。――だから候補に入ってる」
舞羅は企画書に触れそうで触れない。指が止まる。封筒に視線を落としたまま、笑いもしなかった。腹の底では、冷めたふりをした火がまだ燻っている。
「……買い被りです。私は表に立つ気はありません」
「出る気があるかどうかは、今は聞いてない」
社長は椅子の背にもたれず、まっすぐに座ったまま言った。
「見に行ってこい。今日は駅前だ。公開の一次審査――というより、選別の場に近い。熱気がもう出来てる。あれは本気だぞ」
彼女は返事をしなかった。肯定もしない。否定もしない。ただ、情報の一つとして社長の言葉を受け取った。「そういうことだ」とだけ言って、社長は封筒を閉じた。差し出された紙の重みを、舞羅は拒めずに受け取った。
社長室を出た瞬間、廊下の冷たさが頬を刺す。暖かさから引き剥がされた身体は、余計に現実を思い出す。
――Reviewがいない。それなのに私は、ここにいる。
そして、世界は何事もなかったように回っている。駅前へ向かう足取りは、軽いものではない。それでも引力があるかのように、足はそこへと向かった。社長の言う通りなら、見て確かめるに値する筈だ。それだけを見たら帰る。そう決めて、白い息を吐いた。
───
人波の隙間を縫って角を曲がると、騒がしさの質が変わった。
いつもの休日のざわめきではない。立ち止まる人、スマホを掲げる人がいる。輪の中心に簡易のセット――低い仮設ステージと受付テントが見えた。そこから色々な物音や人の声が聞こえてきた。
――綺麗な歌声だった。
癖がなく、過剰な装飾もない。なのに、言葉が形を持って届く。透明で、まっすぐで、喉を通らずに胸に落ちる声。上手い、というより隠しようがない。誰が聴いても分かる種類の上手さだった。
舞羅は、自分でも理由が分からないまま人の肩越しに覗き込む。そこで――視界の端に、薄青い光が滲んだ。
【反応:――検出】
【補助機能:共鳴/解析中───】
心臓が、一拍だけ遅れて跳ねる。
その声は最後のフレーズを、息でほどくように歌い切った。ざわめきが遅れて押し寄せ、拍手が波みたいに広がる。人前で歌っている姿は、堂々としていた。
少女は息を整え、テント側のスタッフを見るようにして頭を下げた。
――見間違える筈がない。“Review”の葵だ。
舞羅の視線は、水色の髪を風に揺らす彼女に釘付けだ。青色の瞳もあの時のままだ。まじまじと見ていたせいだろう。人の波に押されて、舞羅は半歩だけ前に出てしまう。彼女と視線が絡み合った。
すると、彼女はふっと微笑んだ。舞羅の方へ駆け寄る足取りは軽く、迷いがない。距離だけが、やけに近いと感じた。そして覗き込むように、舞羅の瞳――深い緑をまっすぐ見た。
「こんにちは!……あ、それ、関係者の人が持ってるやつだよね?」
舞羅はバツが悪そうに、手に持っていた関係者用のパスケースに視線を移した。「ああ……」と、質問の答えに曖昧な返事をすると、彼女は話を続けた。
「パスケース、首に掛けないの?落としたら大変だよ。それと!……さっきの歌、聴こえてた?」
「聴こえてたけど、次の審査……行かなくていいのか?」
舞羅の言葉に、彼女は一瞬だけ目を丸くした。すぐに、困ったような笑みになる。
「うん、行くよ。でもね、まだ私の番じゃないんだ。次はダンス審査でさ、上手く出来るかちょっと不安……」
「……まあ、上手く出来るんじゃないか?あれだけ歌が上手いなら、どこかの練習生なんだろ?」
「ふふ、まあね?だけど、緊張しちゃうよ〜」
彼女は笑いながら、舞羅の手元にあるパスケースを指先でちょん、と叩いた。
「名前、聞いてもいい?何となく、特別な雰囲気があるなって思った。……オーディション受けないの?」
「受けない」
舞羅は短く返した。少女は「そっか」と頷いて――そのまま、舞羅の手元を見た。
「でも、それ落としそう。掛けた方がいいよ」
遠慮をする間もなかった。彼女はそう呟くとパスケースに指をかけて、そっと受け取った。そのまま背伸びをして、舞羅の首に紐を掛けた。
「はい!これで安心だね。大事なものなら失くさないようにしないと」
紐が喉元を掠め、舞羅は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……慣れてるな」
「うん。こういうの落とす人多いし、お姉ちゃんといつも忘れ物がないか、確認してるんだ!」
お姉ちゃん。その単語だけが、舞羅の耳でひっかかった。
――紫音……? 違う。決めつけるな。舌が一瞬だけ乾く。指先の力が抜けるのを堪えるように、手を開き直した。
「……名前は?」
舞羅が聞くより早く、少女はにこっと笑った。
「藤崎葵。……えっと、あなたは?」
「百目鬼舞羅」
「舞羅ちゃん!ふふ、覚えたよ。……それでね――」
続きを言おうとしたが、葵の名前が呼ばれた。
「葵、次だってさ」
呼ばれた瞬間、葵は「はーい」と返して身を翻した。置いていかれたのは、舞羅の方だった。その背中を目で追うと、視界の端でシステムのウインドーが表示された。
【ログ更新:共鳴対象 確定】
対象:藤崎葵
状態:同期未完了
影響:未確定(解析中)
発生条件:音声/視線/距離:検証中
あなたの特性:[無限の可能性]
詳細:未開示(条件未達)
――干渉を確認
舞羅は感情を追いやるように、薄青い表示を指で払って消した。葵が離れていく背中から目を逸らし、半歩だけ人波の後ろへ下がった。喉元の紐に触れる。さっき掠めた感触が、妙に鮮明だ。
「……ったく」
吐き捨てるように言っても、胸の奥のザラつきは消えない。“Reviewがいない”。その事実を受け入れたはずなのに、今さら名前が出てくる。葵やその姉である紫音。もしかしたら、他のメンバーも……なんて、期待をしてしまう。
そこで、思考が止まった。――違う。会いたいわけじゃない。……はずだ。なのに目が追う。胸の奥が、勝手に「名前」を拾い直そうとする。舞羅は喉元の紐に触れ、さっきの感触を思い出した。
(システムの機能。共鳴の相手は葵だけか。他もいるのか?それに私は……何を理由に断るか。……考えることが多いな)
――考えすぎるな。舞羅は息を吐き、パスの位置を正した。
ふと、背後から控えめな声が落ちた。
「……さっき、葵と話してたよね?」
舞羅が緩やかに振り向くと、葵とよく似た水色の髪の女性が立っていた。けれど、同じ色なのに軽さがない。人波の中で、そこだけ空気が落ち着いて見えた。上品な紫の瞳が、舞羅を値踏みするでもなく、まっすぐ捉える。
「どうも」
舞羅の短い返事に、女性は小さく頷いた。
「驚かせたかな。……葵の姉です。藤崎紫音」
「……百目鬼舞羅」
名乗りは端的だった。舞羅は紫音の丁寧な所作から視線を外さないまま、無意識に左手を握り、開き直した。
「さっき、葵が楽しそうに話してたでしょう?あの子、初対面でも距離が近いの。ごめんなさいね」
「確かに近かったな……」
舞羅が呟くと、紫音はほんの少しだけ口元を和らげた。
「悪気はないから対応に困るの、よく分かるわ。……舞羅さん、背も高いし、芸能関係のお仕事をしているのでしょう?アイドルのオーディションじゃ、見ない系統の顔立ちと雰囲気だから、気になったのかも」
「ありがとう。まあ、そういうことは何回か言われたりはしたけど、……慣れないな」
「ふふ、自信を持って。……私は好きよ、そういう顔。つい目で追ってしまうの」
紫音は言い切ってから誤魔化すみたいに目を逸らし、また穏やかに笑った。そして、舞羅の胸元――首から下がるパスへ視線が滑る。目を留めたのは僅かな時間だった。けれど、その一瞬がやけに正確で、舞羅は思わず顔を背けた。
「……それ、関係者の方のパスよね。今日は見学?」
「社長から預かった。落とすなってさ」
舞羅は視線を外して、首のパスケースを見下ろした。胸元の重みがやけに目立つ。――どうして、私は“受ける側”の棚に入れられている?
「社長、というと……事務所の?」
「……まあ」
曖昧に濁すと、紫音はそれ以上踏み込まなかった。代わりに、視線だけで舞羅を確かめる。値踏みではない。けれど、“舞台に立つ人間”を見る目だった。
「舞羅さん、見に来ただけなの?」
「そうだ。受ける気はない」
言い切ると、紫音は「そう」と頷いた。
「分かった。……じゃあ、葵がまとわりついても、あまり気にしないで。あの子、気になると、どうしても声をかけたくなるの」
“気になると”。その言い方が、妙に引っかかる。舞羅は視線を泳がせずに、わざと淡々と返した。
「さっきも言ったけど、距離が近い」
「うん。だから謝ったの。……でも、あの子が誰かに興味を持つのは、大人になってからはあまり見ないかも……」
興味、という単語が耳の奥に残る。舞羅が言葉を返す前に、少し離れたところから声が飛んだ。
「紫音ー!葵、もうすぐで終わりそうや!」
「あら、じゃあ迎えに行かないとね」
「てか、この背が高いお姉ちゃんどしたん?」
薄桃色の髪が人波の色を割って目に刺さった。派手に巻いているわけでも、固めているわけでもない。重めの前髪が目元に落ち、顔まわりは短いレイヤーが頬をかすめる。飾ってないのに、抜く場所だけを知っている。襟足はほんの少し残り、動いた拍子に遅れて揺れた。いちばん長い横髪が頬の横から肩へ落ちていて、無造作なのに不思議と洗練されて見えた。
その髪が似合う顔で彼女は紫音の隣に並んだ。距離感だけは遠慮がなく、目だけがやたらとよく笑う。視界がふっと明るくなる。二人並ぶとそこだけ春みたいだった。人に見惚れるという感覚を初めて味わい、舞羅の肩が強張った。
その瞬間、視界の端に四角いシステムメッセージが表示された。
【ログ更新:共鳴対象 候補】
対象:藤崎紫音/一ノ瀬桜
状態:同期未完了
影響:未確定(解析中)
発生条件:音声/視線/距離:検証中
表示が消えるより早く、薄桃色の髪の彼女は舞羅へ視線を寄越した。視線の温度だけで距離を詰めてくるタイプだ、と舞羅は思う。
「紫音、この人が誰か教えてや。めっちゃかっこええやん」
紫音は困ったように笑って、舞羅と桜の間に、目に見えない線を一本引くみたいに声を落とした。
「ごめんなさい。紹介が先ね。――従姉の一ノ瀬桜。で、こちらが百目鬼舞羅さん。さっき、葵が話しかけてた方よ」
「へぇ〜、名前までかっこええの凄いな!……舞羅ちゃん、よろしゅう!」
「……舞羅ちゃん、か。その呼び方は二度目だな」
舞羅はどう対応したらいいか分からず、返事を探して、笑うとも言えない笑みを作って誤魔化した。すると、桜が一拍遅れて瞬きをして、紫音は堪えきれないみたいに笑った。
「ふふ、舞羅さんってそういう顔もするのね。ちょっと意外かも」
「あ〜……確かにそうかもしれんね。クールな感じなのに愛嬌もあるの強いわ」
「じゃあ……そろそろ、葵を迎えに行かない?」
「せやった!……けど、せっかくなら舞羅ちゃんも連れて行かへん?」
桜の言葉は軽いのに、背中を押す力だけは妙に強かった。舞羅は反射で断り文句を探して、見つからないことに気づく。不快でもない。面倒も増えない。なら、別にいいだろう――そう思えた。
「……迎えに行くのは構わないけど、私は関係者でも応募者でもないぞ」
「嘘やろ!?……こほん、失礼?迎え断られる思たからびっくりしたんや。そんで、応募者ちゃう言われて、またびっくりや」
「二人とも早くしてー」
間延びした返事をしながら、桜は人波を割っていく。紫音が肩をすくめるように続き、舞羅もその後ろへついた。
───
受付テントの奥から、拍手がひと波遅れて漏れてきた。
「……終わったみたい」
紫音が呟くより早く、スタッフの声が飛ぶ。
「藤崎葵さん、ありがとうございます。次、――」
「葵ー!こっちこっち!」
人波を割って葵が駆けてくる。頬が少し赤い。息を吸って、吐いて……笑う。
「お姉ちゃん!桜ちゃん!……あ、舞羅ちゃん!」
「お疲れ。……どうだった?」
「うん。……まだ分かんないけど、やれるだけはやった!」
言い切った後、葵は肩の力を抜く。息を整えてから笑った。
「桜ちゃんとお姉ちゃん、舞羅ちゃんと知り合いだったの?」
「違うよ」
「初めましてやったな〜」
四人の輪はいったん人波の中心から外れた。テント脇の柵沿い、スタッフが行き交う導線の端。歓声と拍手はまだ背中で鳴っているのに、ここの空気は穏やかだった。
葵は胸の前で指を組んだまま、息を整える。笑っているのに、目だけが落ち着かない。視線が何度も舞羅へ戻ってきて――最後は、首から下がるパスの位置で止まった。
「……舞羅ちゃん、そのパス、やっぱ関係者用?」
「社長に預かっただけだ。見学用」
「うーん……やっぱり、受けない?今日は見るだけ?」
――また始まった。
断る口実は並ぶ。けれど、今日はそのどれもが弱い。さっきより目が真剣で、それが厄介だった。
見学用――そう言った瞬間から、葵の視線がそこに絡みついて離れない。
「……なんで、そこまで言う」
「分かんない、はダメだよねぇ……でもさ、立ち方が綺麗。目立とうとしてないのに、目が行く。歩き方もかっこいいし、……こういう人、舞台で見たいって思っちゃった」
「確かにそうなのよね」
「ダンサーさんて、皆こんな感じなん?……ほな舞羅ちゃんだけ特別なん?」
「知らない……そう言われても、普通にしてるだけだから困る」
ふいに、ステージ側の歓声が跳ねた。
次の参加者が踊り始めたらしい。遠目でも、振りの輪郭だけは見える。揃わない足、抜ける重心、客の熱の“落ち方”。
――ああ、分かってしまう。
舞羅はパスケースの紐を外し、掌に落とした。小さな重みが、現実みたいに残る。目を閉じて息を吐く。逃げるためじゃない。決めるためだ。
「……当日枠って、あるのか」
言ってから気づく。自分がいちばん嫌う形で、舞台に足を踏み入れようとしている。準備不足、初見。――いくらでも言い訳は立つ。けれど、失敗すれば終わる。
その重さを知っているのに、口が先に動いた。
遠くから眺めるだけじゃ、届かない。仕事として、葵のそばに立つ資格があるか。共鳴が何を要求してくるか――逃げるためじゃない。この三人の傍に立つ条件を揃えるためだ。
舞羅の声に、三人が同時に瞬きをした。葵は一拍遅れて、ぱっと顔を明るくする。
「ある!……たぶん。えっとね、受付の人に聞けば……!」
「落ち着いて、葵。私が聞いてくる」
「うちも行くわ。舞羅ちゃん、逃げたらあかんで?」
桜が冗談みたいに言う。けれど、眩しい程、真剣な笑顔だった。
舞羅は返事をせず、掌のパスケースを握り直す。プラスチックの角が指の腹に当たる。その痛みが現実だと訴えてきた。
――アイドルって、何だ。
歌が上手いだけでも、踊れるだけでも足りない。可愛いだけでも、綺麗なだけでも足りない。舞台に立った瞬間、客の体温を一段上げて、今日を「意味のある日」に変える。そういう仕事だ。
それが出来るなら、嘘でも本物になる。出来ないなら、本物みたいに見えても、どこかで燃え尽きる。
ふと、雲の切れ間から陽が差した。冬の光は薄いはずなのに、頬の上だけが妙にあたたかい。吐いた息が白くほどけて、すぐ消える。――春が来る前の、気まぐれみたいな温度。
「……舞羅ちゃん?」
「……アイドルは、“本物”じゃないとダメだ」
舞羅がぽつりと言うと、葵は息を止めたみたいに目を見開いた。
「それに……人の心を動かすなら、本気じゃないと伝わらない。アイドルがファンと“いちばん”の時間を共有する。その一瞬で、明日が少し軽くなる」
言い終えたあと、舞羅は自分で自分の言葉が刺さったのを感じた。綺麗事みたいに聞こえるのが嫌で、喉の奥に残った余韻を噛み潰す。
けれど、葵はまっすぐに受け取って、頷いた。
「……うん。分かる!私も、そういうのがしたい」
「……したい、って気持ちは悪くない。ただ、舞台はそれを“証明”する場所だ。――だから、行ってくる」
舞羅の言葉に、葵は瞬きも忘れたみたいに固まって、それからゆっくり笑った。嬉しい、というより――安心した顔だった。
「じゃあ、私達は向こうの方でステージを見てるね」
ちょうどその時、桜と紫音が戻ってきた。
「当日受付の枠は空いてるみたい」
「せやから、早く行った方がええかもね」
舞羅は返事をしなかった。舞台で答えを示す。――それだけだ。
受付の列へ向かう足取りだけが、やけに静かだった。
【ログ更新:共鳴深度】
対象:藤崎葵
深度:22% → 40%
状態:同期未完了
影響:未確定(解析中)
───
受付で紙を受け取った瞬間、名前が呼ばれた。早すぎて舞羅は振り返る。受付の机には「当日枠:最終」の札が掛かっていた。
「舞羅さん。当日枠、最後です。――このままダンス審査、行けますか?」
「大丈夫です」
「ではこのまま、ステージ横の待機ラインへ。音源はスマホで出せますか? こちらのスピーカーに繋ぎます。尺は45秒、イントロ込みでワンコーラス手前まで。立ち位置は中央から。 合図で入ってください。……ジャンルは自由です。男性アイドルの曲なども可能です」
「……じゃあ、これでお願いします」
そう呟いて、舞羅はスマホを差し出した。画面には再生バーが止まったまま、曲名だけが静かに光っている。スタッフがケーブルを受け取り、手慣れた指で端子を繋いだ。
「確認します。……少しだけ鳴らしますね」
スピーカーから、薄く音が立ち上がった。輪郭だけをなぞるような低音と、息を溜めるみたいな間。舞羅はその数拍で、頭の中に線を引く。――ブリッジ。そこからサビへ。
「開始位置はどこからにしますか?サビ頭ですか?」
「ブリッジから、サビに入る手前の……ここです」
「分かりました。そこから四十五秒で切ります。音量、このくらいで大丈夫ですか」
「大丈夫です」
スタッフが再生を止め、波のようなざわめきが戻ってくる。
「音源とその他の荷物はこちらで一度、預かりますね。審査が終わったらお返しします」
舞羅は頷いてスマホとリュックを渡した。
スタッフが舞羅の荷物を足元に寄せる。待機ラインはステージの横、柵の内側。床の板がわずかに軋み、スピーカーの前では誰かが息を飲む音さえ聞こえた。
「舞羅さん。合図で入ってください。終わったら、右に抜けて戻ってきてください」
舞羅は「はい」とだけ返す。呼吸を一度、浅く切ってから深くする。肩を落として、首を回す。足首を鳴らさずに、床の感触だけ確かめる。
準備不足。初見。言い訳は立つ。それでも、舞台に上がった瞬間だけは、失敗の居場所がなくなる。
スタッフが手を挙げた。
「……いきます。三、二、――」
舞羅は中央へ出た。立つべき場所で重心を落とし、視線だけを上げる。その瞬間、スピーカーが息を吸うみたいに低く唸り、腹の底で弾け飛ぶ。
それと同時に、身体が音に噛みつく。細部まで喰らい、バチッと空気を切る。緩急の切り替えに観客の視線が刺さり、照明が届くよりも早く皮膚が先にそれを感じた。
一振りの動作すら、黄金比の曲線で描かれる。鋭い剣を突きつけられた緊張感が場を包み込んだ。舞羅が腕を引けば空気が引き絞られ、戻せば縫い直される。それに合わせて脚が音を刻む。研ぎ澄まされた感覚は聴衆を惹き付けた。
舞羅の動きが、視界の中心に置かれる。
葵は、瞬きを忘れていた。忘れたまま、胸の奥だけが早鐘を打つ。
――舞台って、こういうことだ。
たった一人で皆の視線を奪ってしまう。
「かっこいい……!」
隣で桜が息を呑む。紫音は何も言わない。ただ、視線だけは逸らせなかった。
一分にも満たない。四十五秒。なのに、舞羅が一拍動くたび、場の空気が別物に塗り替えられていく。さっき舞羅が言っていた“いちばん”が、今、目の前で形になっている。
力強くしなやかな線が音の上を滑る。重心は沈んでいるのに、足だけが軽い。肩、肘、指先――末端ほど正確で、視線だけが吸い寄せられた。
最後のアクセントが鋭く入る。腕が弧を描き、指先で空気を切って、そこで止まった。
一瞬の空白。――遅れて拍手が弾けて、歓声が波みたいに押し寄せる。
舞羅は深く頭を下げない。ただ、呼吸を整えるみたいに小さく頷いて、右へ抜ける。背中が遠ざかるほど、残った熱だけが濃くなった。
葵はやっと瞬きをした。涙は出ないのに目の奥が熱い。
「舞羅ちゃん、すごい……」
声が震えた。葵はどんな言葉を贈ればいいか探した。浮かんだはずの言葉が、喉の手前でほどけて音にならない。唇を噛みそうになって、飲み込んだ。
四十五秒。一分未満でこれだけのものを刻める。舞羅の踊りは技術じゃなくて、刃そのものだった。
触れたら危ないのに、目が離せない。
――もっと、近くで見たい。
葵の視線はまだ、舞羅の背中に縫い付けられたままだった。
スタッフが観客の前を横切り、動線を作り直す。その隙間を縫うようにして、舞羅が戻ってきた。
「お疲れさん!舞羅ちゃん、かっこよかったわ!」
「凄かったよ!かっこいいしか言えなかった……」
「私も見惚れてた。お疲れ様」
スタッフが舞台袖で合図をし、舞羅に荷物を返しに来た。手のひらに戻ったスマホが、さっきより重い。――現実に引き戻す重みだ。
「端末とお荷物、お返しします。お疲れさまでした。今後のご案内は、登録の連絡先へお送りします」
「……ありがとうございます」
舞羅が受け取った瞬間、葵がようやく息を吐いたみたいに笑って――腹を押さえた。
「……ねえ、私、今になってお腹すいたかも」
「出たな。緊張解けたやつや」
桜が声を弾ませる。
「ほな、温いもん食べに行こ。舞羅ちゃんも一緒に」
「いや、私は――」
「ええ〜!これから一緒に頑張る仲間同士、仲良くしようよ」
「今回は私も一緒にご飯したいかも」
「……分かったから、お前ら落ち着け」
「やった!」
葵が短く喜ぶ。
その一言で、場の空気がほどけた。さっきまで舞台の方に張り付いていた熱が、今度は現実の方へ流れてくる。拍手の余韻、スピーカーの低音、視線の刺さり方――全部がまだ皮膚の上に残っているのに、胃の底だけが正直に空腹を訴えた。
「で、どこ行くん?」
桜がどこで食べるか聞いた。葵は待ってましたとばかりに手を挙げる。
「焼肉!駅の裏にね、煙もくもくのとこあるの。あそこ、あったかいし!」
「ほな決まりやな。……舞羅ちゃん、肉いける?」
「……普通に食う」
「“普通に”って何。好きな部位とかある?」
「今聞くなよ」
舞羅が短く言うと、桜が笑って、紫音もほんの少しだけ口元を和らげた。
───
駅前の喧騒を抜けると、空気が冷たくなる。冬の匂いが肺に刺さって、吐く息が白い。なのに、四人で歩く足音だけは不思議と軽かった。葵は前を歩きながら何度も振り返って、舞羅がちゃんとついてきているか確認する。迷子を連れてるみたいな目だ。
「……見なくてもいるから、ちゃんと前見て歩け」
舞羅の声はぶっきらぼうなのに、葵は怒らなかった。むしろ、少しだけ肩の力が抜けたみたいに笑う。
「うん。……でも、いなくなったらやだもん」
「は?」
「なんでもない!前見る!」
葵は慌てて向き直る。歩幅が一段軽くなって、髪が揺れた。桜が横から口を挟む。
「舞羅ちゃん、意外と面倒見ええよな」
「見てへんとコケそうやし」
「舞羅さん、優しいのよ。言い方が損してるだけで」
「損とか知らねー」
吐き捨てたはずの言葉が、白い息と一緒にほどけて消えた。冷たい夜風が頬を撫でる。なのに、さっき舞台で感じた熱とは別の温度が、足元からゆっくり上がってくる。
路地を一本入ると、赤い提灯が揺れていた。扉の隙間から煙とタレの匂いが漏れてくる。
「ここ!ここだよ!」
葵が振り返って笑う。その笑顔に、舞羅の胸の奥が一拍だけ遅れた。
引き戸を開けた瞬間、熱が顔に当たった。煙が目に刺さる。肉の脂とタレの甘さが混じって、喉の奥に残る。
「四名様ですね。こちらどうぞー」
狭い通路を抜けて、奥の卓へ通される。鉄板の上で何かが弾ける音がして、誰かの笑い声が跳ねた。外の寒さが一枚、背中から剥がれていく。
舞羅は壁側に腰を下ろした。癖で出口の位置を一度だけ確認する。落ち着かないわけじゃない。ただ、身体がそういうふうに出来ている。
「舞羅ちゃん、そこ寒くない?ストーブ近い方がよくない?」
「平気」
葵は返事を聞くと安心したみたいに頷いて、自分の席に座る。桜がメニューを開いたまま言う。
「ほな、最初は盛り合わせやろ。タンいく?」
「タン……!タン好き!」
「舞羅さんは?」
「……任せる」
「それ一番困るやつやん」
桜が笑って、紫音が小さく咳払いをした。
「じゃあ、タンとロース、カルビ。野菜も少し。葵、冷たいものは控えた方がいいわよ」
「えー……でも、今日は特別!」
「特別だからこそ。――温かいお茶も頼むわ」
紫音の声が落ちると、テーブルの空気がふわっと整う。舞羅はその手際を見て、また一拍だけ遅れて息を吐いた。こういう“整え方”が出来る人間が、身近にいるのは久しぶりだ。
注文を通した途端、店の熱が卓の上に降りてきた。金属の皿が置かれる音。脂の匂い。白い湯気。
「お待たせしましたー。盛り合わせです。タン、ロース、カルビ。あと、お茶もどうぞ」
皿の端に盛られた肉が、照り返しみたいに光った。葵が目を輝かせる。
「わ、おいしそう……!」
「ほな焼こ。紫音、火どっち?」
「強すぎると焦げるわ。最初は中火で……タンからね」
紫音がトングを取ると、迷いがなかった。音もなく網に肉が置かれて、次の瞬間、じゅっと短い鳴き声みたいな音が立つ。舞羅の指先が、無意識に揺れた。リズムを取る動きに似ている。
――誰かと食事を摂るのは数年ぶりかもしれない。
それを“寂しい”と思ったことはない。なのに今だけ、思い出してしまう。
じゅっ、と脂がはぜた音が、胸の奥の硬いところを一枚だけ剥がした。
【ログ更新:共鳴深度】
対象:藤崎葵
深度:40% → 46%
状態:同期未完了
備考:感情同調(安心/憧憬)を検出
【ログ更新:共鳴深度】
対象:一ノ瀬桜/藤崎紫音
深度:37%/24%
状態:同期未完了
備考:感情同調(高揚/親和)/(安堵/信頼)を検出
室内に入った途端、暖かい空気が彼女の頬を撫でた。廊下の寒さと違い、過ごしやすい温度だ。彼女は肩の力をゆっくりと抜いた。
「挨拶をするとは珍しい」
「まあ…いつもとは訳が違うと思ったので」
「……ひとまず、座ってくれ。少し話が長くなるからな」
「分かりました」
返事の後、壁時計の秒針だけがやけに大きく響いた。紙の端が揃えられる音がする。社長の手元に、事務所のものじゃない封筒。角から覗いたのは「オーディション企画書」の太字だった。舞羅は眉ひとつ動かさず、視線だけを社長へ移した。首を僅かに傾げた。社長と目が合う。彼は目尻に皺を作り、一拍置いて微笑んだ。
社長は封筒を机上に置き、指先で軽く押して舞羅の方へ滑らせた。紙の擦れる音が、静けさの中で妙に鋭い。
「……うちの案件じゃない。LITTLE ORBITからの依頼だ」
「LITTLE ORBIT……?」
「新興事務所だから、聞いたことが無いだろう。新規のオーディション企画だ。主催は向こうだが、うちにも協力要請が来た。参加者を出来るだけ多く確保したいそうだ」
聞いたことがない名前。彼女は訝しんだが、社長はそれも折り込み済みだと、柔らかい笑みを浮かべたままだ。彼は封筒の口を開け、企画書の一枚目だけを抜き取る。太字の見出しと、薄いインクで刷られたロゴ。彼女の視界がそこに吸い寄せられた瞬間、喉の奥がきゅっと狭まった。
「……私は、ダンサーです。オーディションって、アイドルの方のですよね」
「そうだ。だが、参加者全員が“最初からアイドル”ってわけでもない。向こうが欲しいのは、今の舞台に立てる人間だ」
社長は言葉を選ぶように、一拍だけ間を置いた。
「今の舞台ってのは、“歌って踊る”って意味じゃない。――見せ物としての舞台だ。ここ数年、業界は似た型を回し続けてる。ウケるフォーマットが固まりすぎて、誰も冒険しない。結果、客も“新しい驚き”じゃなくて“安心できる既視感”を買うようになった」
それは彼女自身も何となく感じていた。退屈だ、と心の渇きを満たせる程のものを、ここ何年かは全く見聞きしなかった。
「数字が出る型があって、運営はそれをなぞる。客はそれを消費して、飽きる。――また別の型が出る。その繰り返しだ」
「……そういう空気は、ありますね」
思わず零れた声を拾って、社長は薄く笑った。停滞は嫌いだ。だが、参加するつもりはない。舞羅は背筋を伸ばし、社長の目を見た。誤魔化しが利かない相手だ。
「ソウルシードも、昔ほど“祭り”にならん。出ないわけじゃない。だが、発火点が鈍い。ひとつの夜で空気が変わる瞬間が、減ってきた。だから皆、火を起こすより、“燃えてるように見せる”方へ寄る。……退屈だろ」
「……退屈だとは思いますけど、それと私がオーディションに出ることは無関係、じゃないですか?」
社長は笑みを消さないまま、封筒の角を指で押さえた。
「無関係、か。……逆だよ」
「ソウルシードは“才能を生む”もんじゃない。元からある火種を、極限で選ばれた結果に沿って、増幅して表に出すだけだ」
舞羅は眉を寄せた。理解したいのに、納得したくない顔。
「火を起こせない舞台では、増幅が起きない。起きないから、みんな“燃えてるように見せる”に逃げる。だがそれは、見せ物としては成立しても……プロの仕事じゃない」
「……プロ?」
「“一晩で空気を変える”のが仕事だ。客の体温を変える。明日を少しだけ軽くする。本人の人生の火種を拾う。……それが出来て初めて、アイドルと名乗れる」
社長は改めて、封筒の中身を取り出して彼女の前へ差し出す。一目見ただけで、丁寧な仕事をしていると分かるデザインだった。このオーディションに対する熱量の凄まじさが伝わってくる。それをまじまじと見つめる彼女に、彼は話を続けた。
「LOは、それを取り戻したい。だから最初から“歌える顔”だけ集めてない。火を起こせる人間が要る。お前が入ると、同じ曲でも空気が変わる。客はそれを見てる。数字じゃ拾えない熱が、お前にはある。――だから候補に入ってる」
舞羅は企画書に触れそうで触れない。指が止まる。封筒に視線を落としたまま、笑いもしなかった。腹の底では、冷めたふりをした火がまだ燻っている。
「……買い被りです。私は表に立つ気はありません」
「出る気があるかどうかは、今は聞いてない」
社長は椅子の背にもたれず、まっすぐに座ったまま言った。
「見に行ってこい。今日は駅前だ。公開の一次審査――というより、選別の場に近い。熱気がもう出来てる。あれは本気だぞ」
彼女は返事をしなかった。肯定もしない。否定もしない。ただ、情報の一つとして社長の言葉を受け取った。「そういうことだ」とだけ言って、社長は封筒を閉じた。差し出された紙の重みを、舞羅は拒めずに受け取った。
社長室を出た瞬間、廊下の冷たさが頬を刺す。暖かさから引き剥がされた身体は、余計に現実を思い出す。
――Reviewがいない。それなのに私は、ここにいる。
そして、世界は何事もなかったように回っている。駅前へ向かう足取りは、軽いものではない。それでも引力があるかのように、足はそこへと向かった。社長の言う通りなら、見て確かめるに値する筈だ。それだけを見たら帰る。そう決めて、白い息を吐いた。
───
人波の隙間を縫って角を曲がると、騒がしさの質が変わった。
いつもの休日のざわめきではない。立ち止まる人、スマホを掲げる人がいる。輪の中心に簡易のセット――低い仮設ステージと受付テントが見えた。そこから色々な物音や人の声が聞こえてきた。
――綺麗な歌声だった。
癖がなく、過剰な装飾もない。なのに、言葉が形を持って届く。透明で、まっすぐで、喉を通らずに胸に落ちる声。上手い、というより隠しようがない。誰が聴いても分かる種類の上手さだった。
舞羅は、自分でも理由が分からないまま人の肩越しに覗き込む。そこで――視界の端に、薄青い光が滲んだ。
【反応:――検出】
【補助機能:共鳴/解析中───】
心臓が、一拍だけ遅れて跳ねる。
その声は最後のフレーズを、息でほどくように歌い切った。ざわめきが遅れて押し寄せ、拍手が波みたいに広がる。人前で歌っている姿は、堂々としていた。
少女は息を整え、テント側のスタッフを見るようにして頭を下げた。
――見間違える筈がない。“Review”の葵だ。
舞羅の視線は、水色の髪を風に揺らす彼女に釘付けだ。青色の瞳もあの時のままだ。まじまじと見ていたせいだろう。人の波に押されて、舞羅は半歩だけ前に出てしまう。彼女と視線が絡み合った。
すると、彼女はふっと微笑んだ。舞羅の方へ駆け寄る足取りは軽く、迷いがない。距離だけが、やけに近いと感じた。そして覗き込むように、舞羅の瞳――深い緑をまっすぐ見た。
「こんにちは!……あ、それ、関係者の人が持ってるやつだよね?」
舞羅はバツが悪そうに、手に持っていた関係者用のパスケースに視線を移した。「ああ……」と、質問の答えに曖昧な返事をすると、彼女は話を続けた。
「パスケース、首に掛けないの?落としたら大変だよ。それと!……さっきの歌、聴こえてた?」
「聴こえてたけど、次の審査……行かなくていいのか?」
舞羅の言葉に、彼女は一瞬だけ目を丸くした。すぐに、困ったような笑みになる。
「うん、行くよ。でもね、まだ私の番じゃないんだ。次はダンス審査でさ、上手く出来るかちょっと不安……」
「……まあ、上手く出来るんじゃないか?あれだけ歌が上手いなら、どこかの練習生なんだろ?」
「ふふ、まあね?だけど、緊張しちゃうよ〜」
彼女は笑いながら、舞羅の手元にあるパスケースを指先でちょん、と叩いた。
「名前、聞いてもいい?何となく、特別な雰囲気があるなって思った。……オーディション受けないの?」
「受けない」
舞羅は短く返した。少女は「そっか」と頷いて――そのまま、舞羅の手元を見た。
「でも、それ落としそう。掛けた方がいいよ」
遠慮をする間もなかった。彼女はそう呟くとパスケースに指をかけて、そっと受け取った。そのまま背伸びをして、舞羅の首に紐を掛けた。
「はい!これで安心だね。大事なものなら失くさないようにしないと」
紐が喉元を掠め、舞羅は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……慣れてるな」
「うん。こういうの落とす人多いし、お姉ちゃんといつも忘れ物がないか、確認してるんだ!」
お姉ちゃん。その単語だけが、舞羅の耳でひっかかった。
――紫音……? 違う。決めつけるな。舌が一瞬だけ乾く。指先の力が抜けるのを堪えるように、手を開き直した。
「……名前は?」
舞羅が聞くより早く、少女はにこっと笑った。
「藤崎葵。……えっと、あなたは?」
「百目鬼舞羅」
「舞羅ちゃん!ふふ、覚えたよ。……それでね――」
続きを言おうとしたが、葵の名前が呼ばれた。
「葵、次だってさ」
呼ばれた瞬間、葵は「はーい」と返して身を翻した。置いていかれたのは、舞羅の方だった。その背中を目で追うと、視界の端でシステムのウインドーが表示された。
【ログ更新:共鳴対象 確定】
対象:藤崎葵
状態:同期未完了
影響:未確定(解析中)
発生条件:音声/視線/距離:検証中
あなたの特性:[無限の可能性]
詳細:未開示(条件未達)
――干渉を確認
舞羅は感情を追いやるように、薄青い表示を指で払って消した。葵が離れていく背中から目を逸らし、半歩だけ人波の後ろへ下がった。喉元の紐に触れる。さっき掠めた感触が、妙に鮮明だ。
「……ったく」
吐き捨てるように言っても、胸の奥のザラつきは消えない。“Reviewがいない”。その事実を受け入れたはずなのに、今さら名前が出てくる。葵やその姉である紫音。もしかしたら、他のメンバーも……なんて、期待をしてしまう。
そこで、思考が止まった。――違う。会いたいわけじゃない。……はずだ。なのに目が追う。胸の奥が、勝手に「名前」を拾い直そうとする。舞羅は喉元の紐に触れ、さっきの感触を思い出した。
(システムの機能。共鳴の相手は葵だけか。他もいるのか?それに私は……何を理由に断るか。……考えることが多いな)
――考えすぎるな。舞羅は息を吐き、パスの位置を正した。
ふと、背後から控えめな声が落ちた。
「……さっき、葵と話してたよね?」
舞羅が緩やかに振り向くと、葵とよく似た水色の髪の女性が立っていた。けれど、同じ色なのに軽さがない。人波の中で、そこだけ空気が落ち着いて見えた。上品な紫の瞳が、舞羅を値踏みするでもなく、まっすぐ捉える。
「どうも」
舞羅の短い返事に、女性は小さく頷いた。
「驚かせたかな。……葵の姉です。藤崎紫音」
「……百目鬼舞羅」
名乗りは端的だった。舞羅は紫音の丁寧な所作から視線を外さないまま、無意識に左手を握り、開き直した。
「さっき、葵が楽しそうに話してたでしょう?あの子、初対面でも距離が近いの。ごめんなさいね」
「確かに近かったな……」
舞羅が呟くと、紫音はほんの少しだけ口元を和らげた。
「悪気はないから対応に困るの、よく分かるわ。……舞羅さん、背も高いし、芸能関係のお仕事をしているのでしょう?アイドルのオーディションじゃ、見ない系統の顔立ちと雰囲気だから、気になったのかも」
「ありがとう。まあ、そういうことは何回か言われたりはしたけど、……慣れないな」
「ふふ、自信を持って。……私は好きよ、そういう顔。つい目で追ってしまうの」
紫音は言い切ってから誤魔化すみたいに目を逸らし、また穏やかに笑った。そして、舞羅の胸元――首から下がるパスへ視線が滑る。目を留めたのは僅かな時間だった。けれど、その一瞬がやけに正確で、舞羅は思わず顔を背けた。
「……それ、関係者の方のパスよね。今日は見学?」
「社長から預かった。落とすなってさ」
舞羅は視線を外して、首のパスケースを見下ろした。胸元の重みがやけに目立つ。――どうして、私は“受ける側”の棚に入れられている?
「社長、というと……事務所の?」
「……まあ」
曖昧に濁すと、紫音はそれ以上踏み込まなかった。代わりに、視線だけで舞羅を確かめる。値踏みではない。けれど、“舞台に立つ人間”を見る目だった。
「舞羅さん、見に来ただけなの?」
「そうだ。受ける気はない」
言い切ると、紫音は「そう」と頷いた。
「分かった。……じゃあ、葵がまとわりついても、あまり気にしないで。あの子、気になると、どうしても声をかけたくなるの」
“気になると”。その言い方が、妙に引っかかる。舞羅は視線を泳がせずに、わざと淡々と返した。
「さっきも言ったけど、距離が近い」
「うん。だから謝ったの。……でも、あの子が誰かに興味を持つのは、大人になってからはあまり見ないかも……」
興味、という単語が耳の奥に残る。舞羅が言葉を返す前に、少し離れたところから声が飛んだ。
「紫音ー!葵、もうすぐで終わりそうや!」
「あら、じゃあ迎えに行かないとね」
「てか、この背が高いお姉ちゃんどしたん?」
薄桃色の髪が人波の色を割って目に刺さった。派手に巻いているわけでも、固めているわけでもない。重めの前髪が目元に落ち、顔まわりは短いレイヤーが頬をかすめる。飾ってないのに、抜く場所だけを知っている。襟足はほんの少し残り、動いた拍子に遅れて揺れた。いちばん長い横髪が頬の横から肩へ落ちていて、無造作なのに不思議と洗練されて見えた。
その髪が似合う顔で彼女は紫音の隣に並んだ。距離感だけは遠慮がなく、目だけがやたらとよく笑う。視界がふっと明るくなる。二人並ぶとそこだけ春みたいだった。人に見惚れるという感覚を初めて味わい、舞羅の肩が強張った。
その瞬間、視界の端に四角いシステムメッセージが表示された。
【ログ更新:共鳴対象 候補】
対象:藤崎紫音/一ノ瀬桜
状態:同期未完了
影響:未確定(解析中)
発生条件:音声/視線/距離:検証中
表示が消えるより早く、薄桃色の髪の彼女は舞羅へ視線を寄越した。視線の温度だけで距離を詰めてくるタイプだ、と舞羅は思う。
「紫音、この人が誰か教えてや。めっちゃかっこええやん」
紫音は困ったように笑って、舞羅と桜の間に、目に見えない線を一本引くみたいに声を落とした。
「ごめんなさい。紹介が先ね。――従姉の一ノ瀬桜。で、こちらが百目鬼舞羅さん。さっき、葵が話しかけてた方よ」
「へぇ〜、名前までかっこええの凄いな!……舞羅ちゃん、よろしゅう!」
「……舞羅ちゃん、か。その呼び方は二度目だな」
舞羅はどう対応したらいいか分からず、返事を探して、笑うとも言えない笑みを作って誤魔化した。すると、桜が一拍遅れて瞬きをして、紫音は堪えきれないみたいに笑った。
「ふふ、舞羅さんってそういう顔もするのね。ちょっと意外かも」
「あ〜……確かにそうかもしれんね。クールな感じなのに愛嬌もあるの強いわ」
「じゃあ……そろそろ、葵を迎えに行かない?」
「せやった!……けど、せっかくなら舞羅ちゃんも連れて行かへん?」
桜の言葉は軽いのに、背中を押す力だけは妙に強かった。舞羅は反射で断り文句を探して、見つからないことに気づく。不快でもない。面倒も増えない。なら、別にいいだろう――そう思えた。
「……迎えに行くのは構わないけど、私は関係者でも応募者でもないぞ」
「嘘やろ!?……こほん、失礼?迎え断られる思たからびっくりしたんや。そんで、応募者ちゃう言われて、またびっくりや」
「二人とも早くしてー」
間延びした返事をしながら、桜は人波を割っていく。紫音が肩をすくめるように続き、舞羅もその後ろへついた。
───
受付テントの奥から、拍手がひと波遅れて漏れてきた。
「……終わったみたい」
紫音が呟くより早く、スタッフの声が飛ぶ。
「藤崎葵さん、ありがとうございます。次、――」
「葵ー!こっちこっち!」
人波を割って葵が駆けてくる。頬が少し赤い。息を吸って、吐いて……笑う。
「お姉ちゃん!桜ちゃん!……あ、舞羅ちゃん!」
「お疲れ。……どうだった?」
「うん。……まだ分かんないけど、やれるだけはやった!」
言い切った後、葵は肩の力を抜く。息を整えてから笑った。
「桜ちゃんとお姉ちゃん、舞羅ちゃんと知り合いだったの?」
「違うよ」
「初めましてやったな〜」
四人の輪はいったん人波の中心から外れた。テント脇の柵沿い、スタッフが行き交う導線の端。歓声と拍手はまだ背中で鳴っているのに、ここの空気は穏やかだった。
葵は胸の前で指を組んだまま、息を整える。笑っているのに、目だけが落ち着かない。視線が何度も舞羅へ戻ってきて――最後は、首から下がるパスの位置で止まった。
「……舞羅ちゃん、そのパス、やっぱ関係者用?」
「社長に預かっただけだ。見学用」
「うーん……やっぱり、受けない?今日は見るだけ?」
――また始まった。
断る口実は並ぶ。けれど、今日はそのどれもが弱い。さっきより目が真剣で、それが厄介だった。
見学用――そう言った瞬間から、葵の視線がそこに絡みついて離れない。
「……なんで、そこまで言う」
「分かんない、はダメだよねぇ……でもさ、立ち方が綺麗。目立とうとしてないのに、目が行く。歩き方もかっこいいし、……こういう人、舞台で見たいって思っちゃった」
「確かにそうなのよね」
「ダンサーさんて、皆こんな感じなん?……ほな舞羅ちゃんだけ特別なん?」
「知らない……そう言われても、普通にしてるだけだから困る」
ふいに、ステージ側の歓声が跳ねた。
次の参加者が踊り始めたらしい。遠目でも、振りの輪郭だけは見える。揃わない足、抜ける重心、客の熱の“落ち方”。
――ああ、分かってしまう。
舞羅はパスケースの紐を外し、掌に落とした。小さな重みが、現実みたいに残る。目を閉じて息を吐く。逃げるためじゃない。決めるためだ。
「……当日枠って、あるのか」
言ってから気づく。自分がいちばん嫌う形で、舞台に足を踏み入れようとしている。準備不足、初見。――いくらでも言い訳は立つ。けれど、失敗すれば終わる。
その重さを知っているのに、口が先に動いた。
遠くから眺めるだけじゃ、届かない。仕事として、葵のそばに立つ資格があるか。共鳴が何を要求してくるか――逃げるためじゃない。この三人の傍に立つ条件を揃えるためだ。
舞羅の声に、三人が同時に瞬きをした。葵は一拍遅れて、ぱっと顔を明るくする。
「ある!……たぶん。えっとね、受付の人に聞けば……!」
「落ち着いて、葵。私が聞いてくる」
「うちも行くわ。舞羅ちゃん、逃げたらあかんで?」
桜が冗談みたいに言う。けれど、眩しい程、真剣な笑顔だった。
舞羅は返事をせず、掌のパスケースを握り直す。プラスチックの角が指の腹に当たる。その痛みが現実だと訴えてきた。
――アイドルって、何だ。
歌が上手いだけでも、踊れるだけでも足りない。可愛いだけでも、綺麗なだけでも足りない。舞台に立った瞬間、客の体温を一段上げて、今日を「意味のある日」に変える。そういう仕事だ。
それが出来るなら、嘘でも本物になる。出来ないなら、本物みたいに見えても、どこかで燃え尽きる。
ふと、雲の切れ間から陽が差した。冬の光は薄いはずなのに、頬の上だけが妙にあたたかい。吐いた息が白くほどけて、すぐ消える。――春が来る前の、気まぐれみたいな温度。
「……舞羅ちゃん?」
「……アイドルは、“本物”じゃないとダメだ」
舞羅がぽつりと言うと、葵は息を止めたみたいに目を見開いた。
「それに……人の心を動かすなら、本気じゃないと伝わらない。アイドルがファンと“いちばん”の時間を共有する。その一瞬で、明日が少し軽くなる」
言い終えたあと、舞羅は自分で自分の言葉が刺さったのを感じた。綺麗事みたいに聞こえるのが嫌で、喉の奥に残った余韻を噛み潰す。
けれど、葵はまっすぐに受け取って、頷いた。
「……うん。分かる!私も、そういうのがしたい」
「……したい、って気持ちは悪くない。ただ、舞台はそれを“証明”する場所だ。――だから、行ってくる」
舞羅の言葉に、葵は瞬きも忘れたみたいに固まって、それからゆっくり笑った。嬉しい、というより――安心した顔だった。
「じゃあ、私達は向こうの方でステージを見てるね」
ちょうどその時、桜と紫音が戻ってきた。
「当日受付の枠は空いてるみたい」
「せやから、早く行った方がええかもね」
舞羅は返事をしなかった。舞台で答えを示す。――それだけだ。
受付の列へ向かう足取りだけが、やけに静かだった。
【ログ更新:共鳴深度】
対象:藤崎葵
深度:22% → 40%
状態:同期未完了
影響:未確定(解析中)
───
受付で紙を受け取った瞬間、名前が呼ばれた。早すぎて舞羅は振り返る。受付の机には「当日枠:最終」の札が掛かっていた。
「舞羅さん。当日枠、最後です。――このままダンス審査、行けますか?」
「大丈夫です」
「ではこのまま、ステージ横の待機ラインへ。音源はスマホで出せますか? こちらのスピーカーに繋ぎます。尺は45秒、イントロ込みでワンコーラス手前まで。立ち位置は中央から。 合図で入ってください。……ジャンルは自由です。男性アイドルの曲なども可能です」
「……じゃあ、これでお願いします」
そう呟いて、舞羅はスマホを差し出した。画面には再生バーが止まったまま、曲名だけが静かに光っている。スタッフがケーブルを受け取り、手慣れた指で端子を繋いだ。
「確認します。……少しだけ鳴らしますね」
スピーカーから、薄く音が立ち上がった。輪郭だけをなぞるような低音と、息を溜めるみたいな間。舞羅はその数拍で、頭の中に線を引く。――ブリッジ。そこからサビへ。
「開始位置はどこからにしますか?サビ頭ですか?」
「ブリッジから、サビに入る手前の……ここです」
「分かりました。そこから四十五秒で切ります。音量、このくらいで大丈夫ですか」
「大丈夫です」
スタッフが再生を止め、波のようなざわめきが戻ってくる。
「音源とその他の荷物はこちらで一度、預かりますね。審査が終わったらお返しします」
舞羅は頷いてスマホとリュックを渡した。
スタッフが舞羅の荷物を足元に寄せる。待機ラインはステージの横、柵の内側。床の板がわずかに軋み、スピーカーの前では誰かが息を飲む音さえ聞こえた。
「舞羅さん。合図で入ってください。終わったら、右に抜けて戻ってきてください」
舞羅は「はい」とだけ返す。呼吸を一度、浅く切ってから深くする。肩を落として、首を回す。足首を鳴らさずに、床の感触だけ確かめる。
準備不足。初見。言い訳は立つ。それでも、舞台に上がった瞬間だけは、失敗の居場所がなくなる。
スタッフが手を挙げた。
「……いきます。三、二、――」
舞羅は中央へ出た。立つべき場所で重心を落とし、視線だけを上げる。その瞬間、スピーカーが息を吸うみたいに低く唸り、腹の底で弾け飛ぶ。
それと同時に、身体が音に噛みつく。細部まで喰らい、バチッと空気を切る。緩急の切り替えに観客の視線が刺さり、照明が届くよりも早く皮膚が先にそれを感じた。
一振りの動作すら、黄金比の曲線で描かれる。鋭い剣を突きつけられた緊張感が場を包み込んだ。舞羅が腕を引けば空気が引き絞られ、戻せば縫い直される。それに合わせて脚が音を刻む。研ぎ澄まされた感覚は聴衆を惹き付けた。
舞羅の動きが、視界の中心に置かれる。
葵は、瞬きを忘れていた。忘れたまま、胸の奥だけが早鐘を打つ。
――舞台って、こういうことだ。
たった一人で皆の視線を奪ってしまう。
「かっこいい……!」
隣で桜が息を呑む。紫音は何も言わない。ただ、視線だけは逸らせなかった。
一分にも満たない。四十五秒。なのに、舞羅が一拍動くたび、場の空気が別物に塗り替えられていく。さっき舞羅が言っていた“いちばん”が、今、目の前で形になっている。
力強くしなやかな線が音の上を滑る。重心は沈んでいるのに、足だけが軽い。肩、肘、指先――末端ほど正確で、視線だけが吸い寄せられた。
最後のアクセントが鋭く入る。腕が弧を描き、指先で空気を切って、そこで止まった。
一瞬の空白。――遅れて拍手が弾けて、歓声が波みたいに押し寄せる。
舞羅は深く頭を下げない。ただ、呼吸を整えるみたいに小さく頷いて、右へ抜ける。背中が遠ざかるほど、残った熱だけが濃くなった。
葵はやっと瞬きをした。涙は出ないのに目の奥が熱い。
「舞羅ちゃん、すごい……」
声が震えた。葵はどんな言葉を贈ればいいか探した。浮かんだはずの言葉が、喉の手前でほどけて音にならない。唇を噛みそうになって、飲み込んだ。
四十五秒。一分未満でこれだけのものを刻める。舞羅の踊りは技術じゃなくて、刃そのものだった。
触れたら危ないのに、目が離せない。
――もっと、近くで見たい。
葵の視線はまだ、舞羅の背中に縫い付けられたままだった。
スタッフが観客の前を横切り、動線を作り直す。その隙間を縫うようにして、舞羅が戻ってきた。
「お疲れさん!舞羅ちゃん、かっこよかったわ!」
「凄かったよ!かっこいいしか言えなかった……」
「私も見惚れてた。お疲れ様」
スタッフが舞台袖で合図をし、舞羅に荷物を返しに来た。手のひらに戻ったスマホが、さっきより重い。――現実に引き戻す重みだ。
「端末とお荷物、お返しします。お疲れさまでした。今後のご案内は、登録の連絡先へお送りします」
「……ありがとうございます」
舞羅が受け取った瞬間、葵がようやく息を吐いたみたいに笑って――腹を押さえた。
「……ねえ、私、今になってお腹すいたかも」
「出たな。緊張解けたやつや」
桜が声を弾ませる。
「ほな、温いもん食べに行こ。舞羅ちゃんも一緒に」
「いや、私は――」
「ええ〜!これから一緒に頑張る仲間同士、仲良くしようよ」
「今回は私も一緒にご飯したいかも」
「……分かったから、お前ら落ち着け」
「やった!」
葵が短く喜ぶ。
その一言で、場の空気がほどけた。さっきまで舞台の方に張り付いていた熱が、今度は現実の方へ流れてくる。拍手の余韻、スピーカーの低音、視線の刺さり方――全部がまだ皮膚の上に残っているのに、胃の底だけが正直に空腹を訴えた。
「で、どこ行くん?」
桜がどこで食べるか聞いた。葵は待ってましたとばかりに手を挙げる。
「焼肉!駅の裏にね、煙もくもくのとこあるの。あそこ、あったかいし!」
「ほな決まりやな。……舞羅ちゃん、肉いける?」
「……普通に食う」
「“普通に”って何。好きな部位とかある?」
「今聞くなよ」
舞羅が短く言うと、桜が笑って、紫音もほんの少しだけ口元を和らげた。
───
駅前の喧騒を抜けると、空気が冷たくなる。冬の匂いが肺に刺さって、吐く息が白い。なのに、四人で歩く足音だけは不思議と軽かった。葵は前を歩きながら何度も振り返って、舞羅がちゃんとついてきているか確認する。迷子を連れてるみたいな目だ。
「……見なくてもいるから、ちゃんと前見て歩け」
舞羅の声はぶっきらぼうなのに、葵は怒らなかった。むしろ、少しだけ肩の力が抜けたみたいに笑う。
「うん。……でも、いなくなったらやだもん」
「は?」
「なんでもない!前見る!」
葵は慌てて向き直る。歩幅が一段軽くなって、髪が揺れた。桜が横から口を挟む。
「舞羅ちゃん、意外と面倒見ええよな」
「見てへんとコケそうやし」
「舞羅さん、優しいのよ。言い方が損してるだけで」
「損とか知らねー」
吐き捨てたはずの言葉が、白い息と一緒にほどけて消えた。冷たい夜風が頬を撫でる。なのに、さっき舞台で感じた熱とは別の温度が、足元からゆっくり上がってくる。
路地を一本入ると、赤い提灯が揺れていた。扉の隙間から煙とタレの匂いが漏れてくる。
「ここ!ここだよ!」
葵が振り返って笑う。その笑顔に、舞羅の胸の奥が一拍だけ遅れた。
引き戸を開けた瞬間、熱が顔に当たった。煙が目に刺さる。肉の脂とタレの甘さが混じって、喉の奥に残る。
「四名様ですね。こちらどうぞー」
狭い通路を抜けて、奥の卓へ通される。鉄板の上で何かが弾ける音がして、誰かの笑い声が跳ねた。外の寒さが一枚、背中から剥がれていく。
舞羅は壁側に腰を下ろした。癖で出口の位置を一度だけ確認する。落ち着かないわけじゃない。ただ、身体がそういうふうに出来ている。
「舞羅ちゃん、そこ寒くない?ストーブ近い方がよくない?」
「平気」
葵は返事を聞くと安心したみたいに頷いて、自分の席に座る。桜がメニューを開いたまま言う。
「ほな、最初は盛り合わせやろ。タンいく?」
「タン……!タン好き!」
「舞羅さんは?」
「……任せる」
「それ一番困るやつやん」
桜が笑って、紫音が小さく咳払いをした。
「じゃあ、タンとロース、カルビ。野菜も少し。葵、冷たいものは控えた方がいいわよ」
「えー……でも、今日は特別!」
「特別だからこそ。――温かいお茶も頼むわ」
紫音の声が落ちると、テーブルの空気がふわっと整う。舞羅はその手際を見て、また一拍だけ遅れて息を吐いた。こういう“整え方”が出来る人間が、身近にいるのは久しぶりだ。
注文を通した途端、店の熱が卓の上に降りてきた。金属の皿が置かれる音。脂の匂い。白い湯気。
「お待たせしましたー。盛り合わせです。タン、ロース、カルビ。あと、お茶もどうぞ」
皿の端に盛られた肉が、照り返しみたいに光った。葵が目を輝かせる。
「わ、おいしそう……!」
「ほな焼こ。紫音、火どっち?」
「強すぎると焦げるわ。最初は中火で……タンからね」
紫音がトングを取ると、迷いがなかった。音もなく網に肉が置かれて、次の瞬間、じゅっと短い鳴き声みたいな音が立つ。舞羅の指先が、無意識に揺れた。リズムを取る動きに似ている。
――誰かと食事を摂るのは数年ぶりかもしれない。
それを“寂しい”と思ったことはない。なのに今だけ、思い出してしまう。
じゅっ、と脂がはぜた音が、胸の奥の硬いところを一枚だけ剥がした。
【ログ更新:共鳴深度】
対象:藤崎葵
深度:40% → 46%
状態:同期未完了
備考:感情同調(安心/憧憬)を検出
【ログ更新:共鳴深度】
対象:一ノ瀬桜/藤崎紫音
深度:37%/24%
状態:同期未完了
備考:感情同調(高揚/親和)/(安堵/信頼)を検出
