――視界が暗転する。
私は地平線の向こう側に到達した。名も知れず光を放つ星と、砕けてなお余波を残す遊星。彼女達はそのどちらでもない。それでも、眩しかった。解散ライブの夜、彼女達が放つソウルシードは、砕けた光の名残のまま、天へ昇っていった。ステージ照明が落ち、数万の視線が一斉に闇へ沈む。その境界でReviewとバックダンサーの私はそうして終わる筈だった。
問題なく整えられた筈のセットが揺らぎ、不穏な何かを肌で感じ取った。気のせいだと割り切り、定位置に戻ろうとした。しかし、Reviewのリーダーが異変に気付いて振り返る。あっ……と緊迫して掠れた音をマイクが拾う。立場を気にする暇もなく、誰かがやる必要があると確信すると、身体が動いた。
大きく踏み込んだ瞬間、瓦礫が落ちてきた。けたたましく落下するプラスチックの音や、金属の金切り声が背に叩きつけられた。背中に瓦礫が重くのしかかり、肺から空気が押し出され、声にならない音だけが喉に詰まって苦しい。密集した熱が爆ぜるような感覚が連鎖して痛みとなり、私の意識が散りそうになる。
足首から膝下、肩から背中まで広く痛む私の身体よりも気にすべきことが沢山ある。抱き寄せたビジュアルメンバーは細かった。だが、確かに存在していてこの時にしっかりと同じ人間だと実感した。
私のせいで事態が急変し、忙しなく動き回る世界は中心人物を置き去りにしていく。バタバタとした足音が往復していくのを耳にして目を閉じる。少しだけ眠い。けれど、いつもライブが終わる時に感じる疲労とは質が違っていた。
そんな中、解散するというのに他人の心配をして覗き込むセンターのあの子の顔が忘れられない。悔いと言えばそうなのかもしれない。大怪我の中で微睡んでも、あの子の――海みたいに深い青い瞳だけは、忘れられなかった。端役のバックダンサーを気に掛ける彼女達の心の綺麗さをもっと世界に広めたい。もっと有名になって欲しかった。
「流石、センター……ばっちり見える」
そうして私の生涯は人知れず終わり、小さく空の天蓋に刻まれる――そう在るべき筈だった。
“ステータス画面……百目鬼舞羅……Dance:S……”
───
定刻になれば、持ち主の意思に従ってアラームが鳴り響く。スマホを確認した舞羅は飛び起きた。慌てて何かを確認するように洗面台へと向かっていく。鏡の前に立った彼女は身体を捻り、肩や脚に外傷がないか確認をした。顔を鏡面に近付けて潜んでいる異常がないか観察をした後に、寝ぼけていたのだろうかと言いたげに頭を掻いた。
「いや……でもあれは、夢じゃねえ。てか、なんだこの……“ステータス画面”?」
無機質なスクリーンが彼女の目の前に浮かぶ。彼女が指先で触れると詳細な項目が可視化される。それは昨今のソシャゲを模したような作りで感嘆とも困惑とも取れる声を上げた。
「うわっ、動いた……すげーな、色々と。……どれどれ、ボーカルがC-、ダンスは……これは当然か。ビジュアルがB+??うーん、項目が多いけどなんか強そうだ」
納得がいかない項目があるようだが、独り言を呟いてしげしげと画面を見つめる彼女は特性という項目にも気付く。しかし、ロックされているのかステータス表示部分にノイズが走っている。何度押しても『表示出来ません』と別のスクリーンが飛び出して警告されてしまう。奇妙な画面に気を取られていたが、今日は予定があったことを思い出す。慌てて画面を閉じようと命じれば薄青の光を放つそれは消えた。
「マズイ、予定があるからこれに構ってる暇はない!」
起きてから慌てっぱなしだ。洗面台に向き直って、バシャバシャと音を立てて顔を洗う。歯を磨いて大股で歩いてはクローゼットから服を引っ張り出した。動きやすい服を着て朝食も食べずに玄関に向かえば、スニーカーを履いて戸締りをする。冬の風が冷たいと思う暇もなくカンカンと鉄を鳴らしてアパートの階段を下った。
そのまま人波に紛れて黎元市の中心部へと繋がる駅へ向かう。無意識に身体が覚えている乗り換えと歩幅に任せて電車を降りる頃には、あのステータス画面も、死んだ筈の感覚も、明晰夢だった、と忘れかけた。そうして日常へと戻るべく、事務所の練習室へ向かっていた。
「おはざーす……」
間延びし、眠気を隠しきれない態度で事務所のドアをくぐり抜け、生体認証タグをかざす。やはり、朝の出来事は寝惚けていたのだろうと彼女は欠伸をしながら考える。忙殺されるだけの日々に刺激は欲しいが、さすがに物理的な幻覚まで歓迎する気はなかった。
身体を動かす仕事をしているにも関わらず、頭が疲れているのはストレスもあるかもしれない。彼女は小さく肩を回し、首のこわばりを確かめてから一度だけ深く息を吐いた。考えすぎだ、と自分に言い聞かせるように。思考を切り替えれば、掃除が行き届いた廊下の先にある練習室の扉を引いた。
室内にはまだ誰もおらず、今日も一番に入れた事実に頬が緩む。この特別な感覚に気分を良くしながら、荷物を壁の端において、壁一面に張られた大きな鏡と向き合う。スマホを取り出して動画サイトを開く。グループ名とヒット曲のタイトルを入力したが、目当てのものが出てこなかった。
「は?どういうことだよ……」
グループ名を検索すれば全く関連性の無い動画ばかりがおすすめされてくる。明確な異常を感知した彼女はスマホを開いてスケジュール管理のアプリを開いた。そこに書いてあった筈のReviewに関する記録や、他のアイドルグループの予定や存在そのものが白紙に戻されていた。動画サイトの方に戻ってReviewのヒット曲、デビュー曲を検索した。しかし、類似したタイトルや無関係なものが提示されるだけだった。
頭の中で再生される曲の歌詞が急にぼやけ、思い出せなくなった気がする。その感覚を加速させるように、朝の違和感が徐々に彼女の心にシミを作っていく。――やっぱり私は死んだんじゃないのか。そんな疑念が確信に変わる。そう考えた彼女は呆然と立ち尽くしていた。
「あれ、舞羅じゃん。どうしたんだよ」
静かなフロアに明るい声が響く。振り返れば仲の良い同僚だった。よく分からないまま、足元だけが一拍遅れているような感覚が残った。
「ああ、うん……何でもない。練習したかったんだけどさ、今日はやめとくわ」
「マジ?珍しいな。なんかあったん?」
「まあ、そんな感じ。だから作業したら帰ろうと思う」
「了解。じゃ、俺がここ使うからそのまんま行っていいぞ!」
元気よく答えてくれた彼に短くお礼を言う。リュックとスマホを手に持って事務所の記録が保管されている事務室へと向かった。すれ違うタレントやダンサー志望の練習生達に挨拶をする間もなく、早足で彼女は人の間を縫っていった。
事務室は穏やかな雰囲気に満ちているが、その落ち着きが彼女の冷静さを緩やかに奪う。空調の低い唸りと、紙が擦れる微かな音だけが残っている。いつも通りの光景が、今日は何故か、引っ掻き傷を残すように僅かな不快感を与えてきた。
彼女は壁際のキャビネットを開き、ラベルを一つずつ確認していった。案件名、日付、出演者。見慣れた形式だ。記載の順序も、書式も、過去に見た記憶と同じだった。だからこそ――
――あるはずだ。
解散ライブのリハーサル費、交通費、バックダンサー名義の記録。しかし、指先が止まった。紙はある。確かにあるのに肝心の名前だけが、焦点を失った写真のように滲んで読めなかった。喉がやたらと乾いていく。どう言葉にすべきか、彼女は分からなくなった。背後で椅子が軋む音がした。
「何探してんの?」
振り返ると、事務スタッフの一人が書類を抱えたまま立っていた。ダンサーがこの時間帯に立ち寄るのは珍しいのか、訝しげに舞羅を見詰めている。
「このライブの経費なんだけど」
彼女が差し出した紙に、相手は一瞬だけ視線を落とす。間違っていないのならば、そこに書かれているべき名前は、“Review”だ。
「え?……白紙だよ?」
彼女は反射的にもう一度紙を見た。紙が透けて、文字が剥がれていく。自分だけが持っている事実。それを証明する紙切れを背中で隠しながら、引き出しを手で押し戻した。
「そ、うか……分かった。ありがとう」
「よく分からないけど、何かあったら気軽に声を掛けてね」
彼女のぎこちない返事を気にしつつも仕事を優先し、事務員は仕事に戻る。手元にある紙は確かに何かが書いてあるのに目で文字を追えない。既視感のある、あの臨死体験。突如現れたステータス画面。関連する事象の先にあるべき存在が、無かったことにされている。
雪のように跡形もなく消えた紙に、舞羅は指先を伸ばしてやめた。空気をただ撫でただけだった。――まだ、夢の続きだ。そう思えば楽だった。だが、事務員の「白紙だよ」という声だけは、現実の重さで耳に残っている。逃げるように視線を彷徨わせ、事務室を出ようとした。視界の端に薄青い光が滲んだ。そこには、さっきまでなかった項目が一行だけ追加されていた。
【ログ更新:存在不一致】
“Review”――参照不能。
【記録機能:有効化】
“Review”についての記録を纏めますか?
はい いいえ
一体何のことか分からなかった。はいを選択すると、薄青い光が滲み、文字が並び始めた。だが、どれも彼女にとっては目新しい情報ではなかった。
知っている。覚えている。全部。なのに、それが「記録」として並んでいる事実だけが、胸の奥をじわりと冷やした。
しかし、奇妙な点もある。Reviewの楽曲や活動記録だけは生成されなかった。もしかすると、あの時の事故に関することしか、覚えていられないのかもしれない。
事務室を出て、廊下を歩きながらスマホで調べてみるが、出てこない。検索履歴を見て彼女は確信した。Reviewは、確かに存在していた。ただし――この世界には、いない。
「まだ気になることが多いな……」
そう呟きながら、事務所の出入口へと向かう。本来ならばダンスの振り入れをして練習していた。異変が多すぎた。
────
図書館の利用者は疎らで、一息つくには丁度よさそうに見えた。けれど、足を踏み入れた瞬間、舞羅はわずかに歩調を落とした。
静かすぎる。音楽も、カウントも、床を踏んで鳴らす感触もない。ダンススタジオとは正反対の空間だった。
背の高い書架を前にして、彼女は首を傾げる。タイトルだけで圧がある本ばかりで、どれも自分の世界から遠く見えた。どうにも落ち着かない感覚を抱えたまま、舞羅は雑な手つきで目に付いた本を手に取る。
静まり返った閲覧室で、ページを捲る音だけが、やけに大きく響いていた。目は文字を追うのに、頭が置いていかれる。彼女は同じ段落を何度も撫でるように見返した。
『ソウルシードと生体エネルギー変換理論』『エネルギー化された魂の挙動』――手当たり次第にページを追ってみた。けれど、欲しい答えはどこにも落ちていない。普段なら一つの振りを覚えるより早く身体が反応するのに、文字は踏んでも踏んでも前へ進まない。
見慣れない語が視界を埋めるたび、頭の奥に重りが重なり、鈍くなる感覚が強くなった。
――違う、こんな説明が欲しいんじゃない。
残りの三冊にも指を伸ばしかけて、彼女は止めた。期待じゃない。焦りだ。ここで掴まなきゃ、また全部が「なかったこと」にされる気がした。読まない理由はいくらでもある。タイトルが好みじゃない、単純に本を読みたくない。要するに、難しい。だるい。
――私の世界じゃない。そう決めつけて、今読んでいた本を卓上に置く。けれど視線だけは、一冊の背表紙に吸い寄せられた。近寄って、そっと触れる。すると本は、肌に吸い付くみたいに手の中へ収まった。
『ソウルシード――魂に作用するエネルギー』
――これだ。
直感的に彼女は棚からその本を引き抜いて、パラパラとページを捲った。空想として片付けられがちな現象を、起こりうる手順として整えている。舞羅は息を詰めて、行を追う。気づけば指が、次のページを急かしていた。
“ソウルシードは現象を引き起こすのではない。対象の魂が、極限状態で選択した結果を増幅するに過ぎない。”
この言葉が胸に刺さったまま、熱を失わずに残った。あの夜、彼女の身体が動いたのは「助けたい」と感じたからだ。
「熱は冷えない。冷えたふりをするだけだ……」
昔、振付ノートの端に書き写した一行が、背中を抜けていった。意味より先に、身体が反応する。――ならば、これは“もしも”の続きなんじゃないか?
“増幅するに過ぎない。”
反響が胸の奥で鳴り、ようやく一本の線が繋がった。あの夜、助けたいと願った。その熱が、私をここへ押し戻した。なのにReviewは「いない」だけじゃない。記録も、名前も、曲も。世界の方が、先に削られている。
確かめるには、まだ足りない。最後の章だ。その瞬間、尻ポケットの中でスマホが短く震えた。
身体に直接くる振動が、静けさを内側から叩く。舞羅は反射で腰に手を当て、次の震えを押さえ込むように息を殺した。――嘘だろ。マナーモードになってない。
指先で側面ボタンを探り当て、震えを黙らせた。なのに今度は、心臓の音の方がうるさい。彼女は背もたれに身を預けたまま、ゆっくりスマホを抜き取った。通知欄を開くと、一番上に社長からのメッセージ。
“大事な話がある。社長室で待っている”
何の話かは分からない。それでも社長が社長室を指定する時点で、事務所の核心に触れる用件だ。経験が、そう告げていた。しかし、そこへ呼ばれるほどの“何か”を、今の彼女は持っていない。疑問が答えの形にならないまま、舞い込んできた。
社長室。軽い話のはずがない。舞羅は本を閉じ、抜き出した本を腕に抱えた。使ったものは元に戻す。どんな場所でも守ってきた癖だった。背表紙の列に隙間を埋めるように、その本を差し戻す。腕が軽くなった瞬間、霧が晴れたように彼女の思考が前を向く。その勢いのまま出口へと向かった。
駅前の人波が視界を埋めた。笑い声、足音、吐く息の白さ。その中をすり抜けるように歩く。ふと、誰かの視線とすれ違った瞬間、薄青い光が走った。“青い瞳”がこちらを覗いた――そんな気がした。
【反応:――検出】
彼女は歩幅を変えない。ただ、世界が脈動を始めたように、胸の内側がざわついた。
【補助機能:共鳴/解析中───】
私は地平線の向こう側に到達した。名も知れず光を放つ星と、砕けてなお余波を残す遊星。彼女達はそのどちらでもない。それでも、眩しかった。解散ライブの夜、彼女達が放つソウルシードは、砕けた光の名残のまま、天へ昇っていった。ステージ照明が落ち、数万の視線が一斉に闇へ沈む。その境界でReviewとバックダンサーの私はそうして終わる筈だった。
問題なく整えられた筈のセットが揺らぎ、不穏な何かを肌で感じ取った。気のせいだと割り切り、定位置に戻ろうとした。しかし、Reviewのリーダーが異変に気付いて振り返る。あっ……と緊迫して掠れた音をマイクが拾う。立場を気にする暇もなく、誰かがやる必要があると確信すると、身体が動いた。
大きく踏み込んだ瞬間、瓦礫が落ちてきた。けたたましく落下するプラスチックの音や、金属の金切り声が背に叩きつけられた。背中に瓦礫が重くのしかかり、肺から空気が押し出され、声にならない音だけが喉に詰まって苦しい。密集した熱が爆ぜるような感覚が連鎖して痛みとなり、私の意識が散りそうになる。
足首から膝下、肩から背中まで広く痛む私の身体よりも気にすべきことが沢山ある。抱き寄せたビジュアルメンバーは細かった。だが、確かに存在していてこの時にしっかりと同じ人間だと実感した。
私のせいで事態が急変し、忙しなく動き回る世界は中心人物を置き去りにしていく。バタバタとした足音が往復していくのを耳にして目を閉じる。少しだけ眠い。けれど、いつもライブが終わる時に感じる疲労とは質が違っていた。
そんな中、解散するというのに他人の心配をして覗き込むセンターのあの子の顔が忘れられない。悔いと言えばそうなのかもしれない。大怪我の中で微睡んでも、あの子の――海みたいに深い青い瞳だけは、忘れられなかった。端役のバックダンサーを気に掛ける彼女達の心の綺麗さをもっと世界に広めたい。もっと有名になって欲しかった。
「流石、センター……ばっちり見える」
そうして私の生涯は人知れず終わり、小さく空の天蓋に刻まれる――そう在るべき筈だった。
“ステータス画面……百目鬼舞羅……Dance:S……”
───
定刻になれば、持ち主の意思に従ってアラームが鳴り響く。スマホを確認した舞羅は飛び起きた。慌てて何かを確認するように洗面台へと向かっていく。鏡の前に立った彼女は身体を捻り、肩や脚に外傷がないか確認をした。顔を鏡面に近付けて潜んでいる異常がないか観察をした後に、寝ぼけていたのだろうかと言いたげに頭を掻いた。
「いや……でもあれは、夢じゃねえ。てか、なんだこの……“ステータス画面”?」
無機質なスクリーンが彼女の目の前に浮かぶ。彼女が指先で触れると詳細な項目が可視化される。それは昨今のソシャゲを模したような作りで感嘆とも困惑とも取れる声を上げた。
「うわっ、動いた……すげーな、色々と。……どれどれ、ボーカルがC-、ダンスは……これは当然か。ビジュアルがB+??うーん、項目が多いけどなんか強そうだ」
納得がいかない項目があるようだが、独り言を呟いてしげしげと画面を見つめる彼女は特性という項目にも気付く。しかし、ロックされているのかステータス表示部分にノイズが走っている。何度押しても『表示出来ません』と別のスクリーンが飛び出して警告されてしまう。奇妙な画面に気を取られていたが、今日は予定があったことを思い出す。慌てて画面を閉じようと命じれば薄青の光を放つそれは消えた。
「マズイ、予定があるからこれに構ってる暇はない!」
起きてから慌てっぱなしだ。洗面台に向き直って、バシャバシャと音を立てて顔を洗う。歯を磨いて大股で歩いてはクローゼットから服を引っ張り出した。動きやすい服を着て朝食も食べずに玄関に向かえば、スニーカーを履いて戸締りをする。冬の風が冷たいと思う暇もなくカンカンと鉄を鳴らしてアパートの階段を下った。
そのまま人波に紛れて黎元市の中心部へと繋がる駅へ向かう。無意識に身体が覚えている乗り換えと歩幅に任せて電車を降りる頃には、あのステータス画面も、死んだ筈の感覚も、明晰夢だった、と忘れかけた。そうして日常へと戻るべく、事務所の練習室へ向かっていた。
「おはざーす……」
間延びし、眠気を隠しきれない態度で事務所のドアをくぐり抜け、生体認証タグをかざす。やはり、朝の出来事は寝惚けていたのだろうと彼女は欠伸をしながら考える。忙殺されるだけの日々に刺激は欲しいが、さすがに物理的な幻覚まで歓迎する気はなかった。
身体を動かす仕事をしているにも関わらず、頭が疲れているのはストレスもあるかもしれない。彼女は小さく肩を回し、首のこわばりを確かめてから一度だけ深く息を吐いた。考えすぎだ、と自分に言い聞かせるように。思考を切り替えれば、掃除が行き届いた廊下の先にある練習室の扉を引いた。
室内にはまだ誰もおらず、今日も一番に入れた事実に頬が緩む。この特別な感覚に気分を良くしながら、荷物を壁の端において、壁一面に張られた大きな鏡と向き合う。スマホを取り出して動画サイトを開く。グループ名とヒット曲のタイトルを入力したが、目当てのものが出てこなかった。
「は?どういうことだよ……」
グループ名を検索すれば全く関連性の無い動画ばかりがおすすめされてくる。明確な異常を感知した彼女はスマホを開いてスケジュール管理のアプリを開いた。そこに書いてあった筈のReviewに関する記録や、他のアイドルグループの予定や存在そのものが白紙に戻されていた。動画サイトの方に戻ってReviewのヒット曲、デビュー曲を検索した。しかし、類似したタイトルや無関係なものが提示されるだけだった。
頭の中で再生される曲の歌詞が急にぼやけ、思い出せなくなった気がする。その感覚を加速させるように、朝の違和感が徐々に彼女の心にシミを作っていく。――やっぱり私は死んだんじゃないのか。そんな疑念が確信に変わる。そう考えた彼女は呆然と立ち尽くしていた。
「あれ、舞羅じゃん。どうしたんだよ」
静かなフロアに明るい声が響く。振り返れば仲の良い同僚だった。よく分からないまま、足元だけが一拍遅れているような感覚が残った。
「ああ、うん……何でもない。練習したかったんだけどさ、今日はやめとくわ」
「マジ?珍しいな。なんかあったん?」
「まあ、そんな感じ。だから作業したら帰ろうと思う」
「了解。じゃ、俺がここ使うからそのまんま行っていいぞ!」
元気よく答えてくれた彼に短くお礼を言う。リュックとスマホを手に持って事務所の記録が保管されている事務室へと向かった。すれ違うタレントやダンサー志望の練習生達に挨拶をする間もなく、早足で彼女は人の間を縫っていった。
事務室は穏やかな雰囲気に満ちているが、その落ち着きが彼女の冷静さを緩やかに奪う。空調の低い唸りと、紙が擦れる微かな音だけが残っている。いつも通りの光景が、今日は何故か、引っ掻き傷を残すように僅かな不快感を与えてきた。
彼女は壁際のキャビネットを開き、ラベルを一つずつ確認していった。案件名、日付、出演者。見慣れた形式だ。記載の順序も、書式も、過去に見た記憶と同じだった。だからこそ――
――あるはずだ。
解散ライブのリハーサル費、交通費、バックダンサー名義の記録。しかし、指先が止まった。紙はある。確かにあるのに肝心の名前だけが、焦点を失った写真のように滲んで読めなかった。喉がやたらと乾いていく。どう言葉にすべきか、彼女は分からなくなった。背後で椅子が軋む音がした。
「何探してんの?」
振り返ると、事務スタッフの一人が書類を抱えたまま立っていた。ダンサーがこの時間帯に立ち寄るのは珍しいのか、訝しげに舞羅を見詰めている。
「このライブの経費なんだけど」
彼女が差し出した紙に、相手は一瞬だけ視線を落とす。間違っていないのならば、そこに書かれているべき名前は、“Review”だ。
「え?……白紙だよ?」
彼女は反射的にもう一度紙を見た。紙が透けて、文字が剥がれていく。自分だけが持っている事実。それを証明する紙切れを背中で隠しながら、引き出しを手で押し戻した。
「そ、うか……分かった。ありがとう」
「よく分からないけど、何かあったら気軽に声を掛けてね」
彼女のぎこちない返事を気にしつつも仕事を優先し、事務員は仕事に戻る。手元にある紙は確かに何かが書いてあるのに目で文字を追えない。既視感のある、あの臨死体験。突如現れたステータス画面。関連する事象の先にあるべき存在が、無かったことにされている。
雪のように跡形もなく消えた紙に、舞羅は指先を伸ばしてやめた。空気をただ撫でただけだった。――まだ、夢の続きだ。そう思えば楽だった。だが、事務員の「白紙だよ」という声だけは、現実の重さで耳に残っている。逃げるように視線を彷徨わせ、事務室を出ようとした。視界の端に薄青い光が滲んだ。そこには、さっきまでなかった項目が一行だけ追加されていた。
【ログ更新:存在不一致】
“Review”――参照不能。
【記録機能:有効化】
“Review”についての記録を纏めますか?
はい いいえ
一体何のことか分からなかった。はいを選択すると、薄青い光が滲み、文字が並び始めた。だが、どれも彼女にとっては目新しい情報ではなかった。
知っている。覚えている。全部。なのに、それが「記録」として並んでいる事実だけが、胸の奥をじわりと冷やした。
しかし、奇妙な点もある。Reviewの楽曲や活動記録だけは生成されなかった。もしかすると、あの時の事故に関することしか、覚えていられないのかもしれない。
事務室を出て、廊下を歩きながらスマホで調べてみるが、出てこない。検索履歴を見て彼女は確信した。Reviewは、確かに存在していた。ただし――この世界には、いない。
「まだ気になることが多いな……」
そう呟きながら、事務所の出入口へと向かう。本来ならばダンスの振り入れをして練習していた。異変が多すぎた。
────
図書館の利用者は疎らで、一息つくには丁度よさそうに見えた。けれど、足を踏み入れた瞬間、舞羅はわずかに歩調を落とした。
静かすぎる。音楽も、カウントも、床を踏んで鳴らす感触もない。ダンススタジオとは正反対の空間だった。
背の高い書架を前にして、彼女は首を傾げる。タイトルだけで圧がある本ばかりで、どれも自分の世界から遠く見えた。どうにも落ち着かない感覚を抱えたまま、舞羅は雑な手つきで目に付いた本を手に取る。
静まり返った閲覧室で、ページを捲る音だけが、やけに大きく響いていた。目は文字を追うのに、頭が置いていかれる。彼女は同じ段落を何度も撫でるように見返した。
『ソウルシードと生体エネルギー変換理論』『エネルギー化された魂の挙動』――手当たり次第にページを追ってみた。けれど、欲しい答えはどこにも落ちていない。普段なら一つの振りを覚えるより早く身体が反応するのに、文字は踏んでも踏んでも前へ進まない。
見慣れない語が視界を埋めるたび、頭の奥に重りが重なり、鈍くなる感覚が強くなった。
――違う、こんな説明が欲しいんじゃない。
残りの三冊にも指を伸ばしかけて、彼女は止めた。期待じゃない。焦りだ。ここで掴まなきゃ、また全部が「なかったこと」にされる気がした。読まない理由はいくらでもある。タイトルが好みじゃない、単純に本を読みたくない。要するに、難しい。だるい。
――私の世界じゃない。そう決めつけて、今読んでいた本を卓上に置く。けれど視線だけは、一冊の背表紙に吸い寄せられた。近寄って、そっと触れる。すると本は、肌に吸い付くみたいに手の中へ収まった。
『ソウルシード――魂に作用するエネルギー』
――これだ。
直感的に彼女は棚からその本を引き抜いて、パラパラとページを捲った。空想として片付けられがちな現象を、起こりうる手順として整えている。舞羅は息を詰めて、行を追う。気づけば指が、次のページを急かしていた。
“ソウルシードは現象を引き起こすのではない。対象の魂が、極限状態で選択した結果を増幅するに過ぎない。”
この言葉が胸に刺さったまま、熱を失わずに残った。あの夜、彼女の身体が動いたのは「助けたい」と感じたからだ。
「熱は冷えない。冷えたふりをするだけだ……」
昔、振付ノートの端に書き写した一行が、背中を抜けていった。意味より先に、身体が反応する。――ならば、これは“もしも”の続きなんじゃないか?
“増幅するに過ぎない。”
反響が胸の奥で鳴り、ようやく一本の線が繋がった。あの夜、助けたいと願った。その熱が、私をここへ押し戻した。なのにReviewは「いない」だけじゃない。記録も、名前も、曲も。世界の方が、先に削られている。
確かめるには、まだ足りない。最後の章だ。その瞬間、尻ポケットの中でスマホが短く震えた。
身体に直接くる振動が、静けさを内側から叩く。舞羅は反射で腰に手を当て、次の震えを押さえ込むように息を殺した。――嘘だろ。マナーモードになってない。
指先で側面ボタンを探り当て、震えを黙らせた。なのに今度は、心臓の音の方がうるさい。彼女は背もたれに身を預けたまま、ゆっくりスマホを抜き取った。通知欄を開くと、一番上に社長からのメッセージ。
“大事な話がある。社長室で待っている”
何の話かは分からない。それでも社長が社長室を指定する時点で、事務所の核心に触れる用件だ。経験が、そう告げていた。しかし、そこへ呼ばれるほどの“何か”を、今の彼女は持っていない。疑問が答えの形にならないまま、舞い込んできた。
社長室。軽い話のはずがない。舞羅は本を閉じ、抜き出した本を腕に抱えた。使ったものは元に戻す。どんな場所でも守ってきた癖だった。背表紙の列に隙間を埋めるように、その本を差し戻す。腕が軽くなった瞬間、霧が晴れたように彼女の思考が前を向く。その勢いのまま出口へと向かった。
駅前の人波が視界を埋めた。笑い声、足音、吐く息の白さ。その中をすり抜けるように歩く。ふと、誰かの視線とすれ違った瞬間、薄青い光が走った。“青い瞳”がこちらを覗いた――そんな気がした。
【反応:――検出】
彼女は歩幅を変えない。ただ、世界が脈動を始めたように、胸の内側がざわついた。
【補助機能:共鳴/解析中───】
