《「先生~っ! 今日もよろしくお願いします」》
《朝の5時半。8月の朝は、明るくなるのが早い。》
《「あっ、智子さん! おはようございます」》
《わたしは、たった5段の階段を駆け下りると、笑顔で智子さんをお迎えする。》
《「先生、今日もお願いしますね」》
《「いえいえ、こちらこそです。……智子さん、少し痩せました?」》
《「そうですか? 毎日食べてばっかですよ」》
《小声で笑う智子さんを、サロンの中へとご案内する。》
小説から目を上げると、電車は、横浜駅を出発したところだった。「どうりで賑やかだったはずだ」と思い、再び本に目を落とす。
ガタンガタンと左右に激しく揺れながら、次の桜木町駅へと最終電車は向かっていく。
(……あぁ、もうそろそろか)
「はぁ」と小さくため息をついて、読んでいた小説に栞を挟み込む。
泥のように眠っているサラリーマン。かじりつくようにスマホを眺める女性。
毎日同じ終電に乗っていると、顔ぶれもほぼ変わらない。恐らくそれは、向こうも同じことを思っているはず。
先頭から数えて、3両目の2番目のドア付近。いつも同じ場所に乗っているから。
深夜0時30分を、少し回っていた。
わたし――北川若葉は、東京の御茶ノ水で働いている。今年の春に大学を卒業し、小さなマーケティング会社の正社員として働き始めた。
自分達でやりたいことはできない。いわゆる下請けの零細マーケティング会社。ただ、老舗の企業ということもあり、各省庁や大手企業からの案件は多い。現在わたしは、その中の1つ、とある省庁の全国調査を請け負うチームに配属されている。
「1年間だけだから。君にも良い経験になると思う」
部長の言葉の意味も分からずに、スタートしたプロジェクト。
「なるほど、そういうことだったのか」と理解できたのは、帰りが毎日終電になりだした頃からだった。
新卒で何とか滑り込むことができた会社。
それなりに会社の歴史も長く、信用もある。
女手1つで育ててくれたお母さんも、もの凄く喜んでくれていた。
「1年だけだから」
部長の言葉を盲目的に信じるように、わたしは毎日を過ごしている。
すでに季節は6月。過ごしやすかった陽気も終わりを迎え、空気がわずかに湿気を帯びるようになっていた。
情け程度ではあるけれど、フレックスで朝の11時までに会社に行けば良いのが、せめてもの救い。
御茶ノ水の会社を出て、東京駅まで。東京駅からは京浜東北線に乗り、終点の磯子駅まで。入社してから毎日同じルート。理由は簡単。東京駅から磯子駅までずっと座っていられるからだった。
(……何冊目よ、これ)
膝の上に置いたままの小説を、まじまじと見つめる。東京駅から磯子駅まで、小説を読んで過ごすことが増えた。
自分が新社会人になったからなのか、『お仕事小説』ばかり読んでいる。ライト文芸が多い。今は東京の生活に疲れ切り、田舎へと移住したアラサー女性の作品だ。細々とサロンを運営しているらしく、読んでいて共感を覚えるようになり始めていた。
(……どっか行きたいな)
桜木町を出発した終電は、石川町駅、山手駅、根岸駅と進み、終点の磯子駅へと10分ほどかけて到着する。
「今から読むのもな」と思い、わたしは少し、目を閉じた。
――
《次は、磯子、磯子。終点です》
《本日の最終列車になります》
《お降りの方は、お忘れものに――》
(……!)
目を閉じたまま、すっかり眠ってしまっていた。車内アナウンスが、心地良い世界から、一気にわたしを現実に引き戻す。
(危な)
電車が磯子駅のホームに入る。乗客は少しずつ重い腰を上げて、ゆっくりドアに近づく。本当だったら、わたしもドア付近で待っていた方が良いのだけれど、もう諦めた。
《磯子―、磯子―》
ドアが開くと、一斉に改札口に向かって走り出す。ホームから改札までの上り階段、1段飛ばしで駆け上がっていく。
初めて終電に乗った時、異様な光景に目を奪われてしまった。
大の大人が……必死に階段を駆け上がっていく姿。深夜0時50分。いったい何が起きているのか……理解ができなかった。
「そういうことか……」と腑に落ちたのは、改札口を出た後だった。
タクシーに乗るためだ。
磯子駅から徒歩圏内に住んでいる人は、歩いて自宅まで帰る。わたしも徒歩圏内ではあるけれど、深夜1時前は一切の灯りが点っていないエリア。
「昼と全然違う……」と、最初は驚いた。とても歩く気にはなれず、タクシーを使って帰っている。深夜料金といっても、ぎりぎり1メーターで帰ることができる範囲だったから。
ドアが開いた時から、走っていたのは……順番を待つこと無く、タクシーに乗るためだった。
「なるほどな」とタクシー乗り場で、列に並ぶ。先頭の10人くらいは、待つこと無く乗れる。わたし達は、地域を巡回しているタクシーを待つしかない。
「1年だけだから」
深夜1時。列の中で煌々とスマホの画面を見つめる。「はあ」とため息をついて、部長の言葉を思い出す。
「毎日……深夜まで、わたしは何をしてるんだろう?」
4月に胸の奥で湧き上がっていた違和感は、6月に入るとすっかり麻痺していて、感じることは無くなっていた――。
《朝の5時半。8月の朝は、明るくなるのが早い。》
《「あっ、智子さん! おはようございます」》
《わたしは、たった5段の階段を駆け下りると、笑顔で智子さんをお迎えする。》
《「先生、今日もお願いしますね」》
《「いえいえ、こちらこそです。……智子さん、少し痩せました?」》
《「そうですか? 毎日食べてばっかですよ」》
《小声で笑う智子さんを、サロンの中へとご案内する。》
小説から目を上げると、電車は、横浜駅を出発したところだった。「どうりで賑やかだったはずだ」と思い、再び本に目を落とす。
ガタンガタンと左右に激しく揺れながら、次の桜木町駅へと最終電車は向かっていく。
(……あぁ、もうそろそろか)
「はぁ」と小さくため息をついて、読んでいた小説に栞を挟み込む。
泥のように眠っているサラリーマン。かじりつくようにスマホを眺める女性。
毎日同じ終電に乗っていると、顔ぶれもほぼ変わらない。恐らくそれは、向こうも同じことを思っているはず。
先頭から数えて、3両目の2番目のドア付近。いつも同じ場所に乗っているから。
深夜0時30分を、少し回っていた。
わたし――北川若葉は、東京の御茶ノ水で働いている。今年の春に大学を卒業し、小さなマーケティング会社の正社員として働き始めた。
自分達でやりたいことはできない。いわゆる下請けの零細マーケティング会社。ただ、老舗の企業ということもあり、各省庁や大手企業からの案件は多い。現在わたしは、その中の1つ、とある省庁の全国調査を請け負うチームに配属されている。
「1年間だけだから。君にも良い経験になると思う」
部長の言葉の意味も分からずに、スタートしたプロジェクト。
「なるほど、そういうことだったのか」と理解できたのは、帰りが毎日終電になりだした頃からだった。
新卒で何とか滑り込むことができた会社。
それなりに会社の歴史も長く、信用もある。
女手1つで育ててくれたお母さんも、もの凄く喜んでくれていた。
「1年だけだから」
部長の言葉を盲目的に信じるように、わたしは毎日を過ごしている。
すでに季節は6月。過ごしやすかった陽気も終わりを迎え、空気がわずかに湿気を帯びるようになっていた。
情け程度ではあるけれど、フレックスで朝の11時までに会社に行けば良いのが、せめてもの救い。
御茶ノ水の会社を出て、東京駅まで。東京駅からは京浜東北線に乗り、終点の磯子駅まで。入社してから毎日同じルート。理由は簡単。東京駅から磯子駅までずっと座っていられるからだった。
(……何冊目よ、これ)
膝の上に置いたままの小説を、まじまじと見つめる。東京駅から磯子駅まで、小説を読んで過ごすことが増えた。
自分が新社会人になったからなのか、『お仕事小説』ばかり読んでいる。ライト文芸が多い。今は東京の生活に疲れ切り、田舎へと移住したアラサー女性の作品だ。細々とサロンを運営しているらしく、読んでいて共感を覚えるようになり始めていた。
(……どっか行きたいな)
桜木町を出発した終電は、石川町駅、山手駅、根岸駅と進み、終点の磯子駅へと10分ほどかけて到着する。
「今から読むのもな」と思い、わたしは少し、目を閉じた。
――
《次は、磯子、磯子。終点です》
《本日の最終列車になります》
《お降りの方は、お忘れものに――》
(……!)
目を閉じたまま、すっかり眠ってしまっていた。車内アナウンスが、心地良い世界から、一気にわたしを現実に引き戻す。
(危な)
電車が磯子駅のホームに入る。乗客は少しずつ重い腰を上げて、ゆっくりドアに近づく。本当だったら、わたしもドア付近で待っていた方が良いのだけれど、もう諦めた。
《磯子―、磯子―》
ドアが開くと、一斉に改札口に向かって走り出す。ホームから改札までの上り階段、1段飛ばしで駆け上がっていく。
初めて終電に乗った時、異様な光景に目を奪われてしまった。
大の大人が……必死に階段を駆け上がっていく姿。深夜0時50分。いったい何が起きているのか……理解ができなかった。
「そういうことか……」と腑に落ちたのは、改札口を出た後だった。
タクシーに乗るためだ。
磯子駅から徒歩圏内に住んでいる人は、歩いて自宅まで帰る。わたしも徒歩圏内ではあるけれど、深夜1時前は一切の灯りが点っていないエリア。
「昼と全然違う……」と、最初は驚いた。とても歩く気にはなれず、タクシーを使って帰っている。深夜料金といっても、ぎりぎり1メーターで帰ることができる範囲だったから。
ドアが開いた時から、走っていたのは……順番を待つこと無く、タクシーに乗るためだった。
「なるほどな」とタクシー乗り場で、列に並ぶ。先頭の10人くらいは、待つこと無く乗れる。わたし達は、地域を巡回しているタクシーを待つしかない。
「1年だけだから」
深夜1時。列の中で煌々とスマホの画面を見つめる。「はあ」とため息をついて、部長の言葉を思い出す。
「毎日……深夜まで、わたしは何をしてるんだろう?」
4月に胸の奥で湧き上がっていた違和感は、6月に入るとすっかり麻痺していて、感じることは無くなっていた――。
