すると、男の声が聞こえた。それは、普通の会話をしているような声ではない。
何やら、物騒な声が響いていた。
「…喧嘩?」
ようやく私は足を止めて踵を返すことを決めたが、突如、細い路地から男が飛んできた。
飛んできた、という表現は間違ってはいない。
本当に人間が飛んできたのだ。吹っ飛ばされたという表現の方が正しいような気もする。
「え、ちょっと、あなた…」
男は若く、口の端からは血が流れ、衣服はボロボロだ。殴られていたのだろうかと、すぐに推測したが、まるで映画のワンシーンのような状況に脳が付いていかない。
金髪のその男は、ごほごほと咳き込み、すぐに私に視線をやる。
耳にはピアス、金髪の男は顔が腫れていても美形だとわかるほどに目を引く見た目をしている。
「逃げなよ。早く」
男はそう言うと、私に逃げるように手で追い払うようなジェスチャーを見せる。
しかし、怪我をしている男を放っておくわけにもいかない。
「でも、あなた怪我してるよ。手当しないと」
「いいから」
強い口調でそう言われた時、
「おいおい、もうくたばってんのかよ」
という声とともに、ぞろぞろとガラの悪い男たちが出てきた。どうやら、私の目の前にいる怪我をした男をボコボコにしたのは、今この男を追ってきたであろう不良集団なのだろうが、どう見ても関ってはいけない人たちだ。
「なんだ、その女。お前の女か?」
「は?違うよ。たまたま通りかかった知らない子」
そう言うと、怪我をしている男が立ち上がる。手の甲で口の端から出ている血を拭うと、不良集団を睨みつける。
逃げるべきなのだが、このまま目の前の男を放っておくわけにはいかない。
何があったのかはわからないが、もしかしたらこの男は不良集団にやられて亡くなってしまうかもしれないという恐怖もあった。
「私、逃げます!」
行動するしかないと思った私は、そう大声で言うと走りだした。
一瞬男たちが見えなくなるまで全力で走ると、すぐに戻った。
そして、「お巡りさん!!!ここに喧嘩している人がいます!!」とわざと周囲に聞こえるように言って、手招きをした。
全て演技なのだが、これしか思い浮かばなかったのだ。
しかし、不良集団はクツクツと喉を鳴らして「お巡りさーん、いるならここに来てくださーい」と茶化すように言う。
「…バレてる…」
絶望する私は、もう自分が参戦するしかないのかと残された道がバッドエンドであることを悟る。
立ち止まっていたら膝ががくがくと震えてしまうから、私は戦闘態勢を取った。
と言っても、幼少期に少しだけ空手を習っていたという期待外れの手札しかないのだが。
構えのポーズをとると、私は少なくとも五人はいるであろう大男たちを相手に近づいた。
だが、その瞬間、先ほどまで殴られていたはずの男が立ち上がった。
「女に手出すのはなしだろ」
低く、抑えた声は大男たちがこちらへ向かってくる迫力よりも、ゾッとした。
「おい、お前はもう…―うっ、」
すると、ボコボコに殴られ、怪我をしているであろう金髪の男はどんどんと周囲にいる男たちを倒していく。
呆然としているうちに映画のような喧嘩は最後まで立っていた金髪の男が勝って終わった。
「…え、っと、」
「早く、こっち来て」
呼吸が乱れている金髪の男が私の手を取り、その場を離れる。
「あの人たちは?!」
「あのままでいいよ。それより、目覚まされたらさすがに俺もきついから」
と言って何度も後ろを気にする私の手を強引に握り、怪我をしているとは思えないほどに大股で進む。小走りになりながら、何とかついていく私は徐々に呼吸が浅くなっていく。
結歩いたように思う。
先ほどまでとは打って変わって、緩い空気が流れる公園にたどり着いた。
既に葉桜に変わった桜の木の近くにあったベンチに二人で腰かけた。
ベビーカーを押しているお母さんと子供が目に入る。明らかに何かがあったであろう顔の腫れた男はこの場には不釣り合いである。
「ありがとうね。助けてくれて」
「助けたというか、助けられたというか…。それより!病院に!」
「あー、いいよ。面倒なことになるから病院には行かない」
「じゃあ…警察も?」
うん、と頷く金髪の男は真横から見ると、眉目秀麗という言葉がぴったりと当てはまると思うほどに綺麗な顔立ちをしている。これだけ顔が腫れていてそう思うのだ、よほど美形なのだろうと平凡な自分の顔を思い浮かべて神様は皆に平等ではないと少し落ち込む。
「でも、このままって…」
「いいよ。慣れてるから」
「慣れている?!」
「うん。喧嘩して去年学校退学になったから四月から別の学校に転校する」
「…学校?もしかして高校生?」
二十歳くらいかと想像していたが、どうやら違うようだ。
「そうだよ。君もでしょ。俺は高校二年になるよ、四月から」
「え!同い年だ…」
衝撃を感じながら、私は曖昧に頷いた。
あまり喋ると失礼なことまで話してしまいそうになるから。
横目で私を見ながら、彼がクスクスと笑った。
「まー、君とは正反対の世界で生きているだろうからね。でも驚いたよ。まさか、あんな場面で戦おうとする子がいるって」
「…あれは…もう、選択肢がなくて…」
思い出したように彼が笑い出し、私は恥ずかしくなって視線を地面に移した。
「でも、さすがに女の子に手を出そうとするやつらを放っておけないし、君のお陰で力が出たよ」
口調は丁寧だ。あれほどまでに派手な喧嘩をしていた人物とは思えないほどに、丁寧なのだ。
そこに少しだけ、違和感がある。
「だけど、約束ね。君のいい面ではあるんだろうけど、あの場での正解は俺を置いて逃げることだよ」
「……」
そう言うと、彼は視線を正面へ向けた。
正解かぁ、と心の中で復唱してから彼の言いたいことはよくわかると思った。
確かに、あの場面での正解の選択は彼の言う通り逃げることだろう。
彼の怪我がもっとひどくて、私一人であの場をどうにかはできないだろう。
そうなれば、私はどうなっていただろう。
「ごめんなさい。そうだね、私はあの場で逃げるべきだった。それはそうだと思う」
「うん、でしょ?」
「だけど…私、昔空手をね、習っていたの。だから、全く太刀打ちできないかと言われたら…分からないと思うんだよね」
そう言うと、金髪の男は目を丸くして固まって、それから大笑いをした。
「なんで笑うの?」
「いや、だって…。そんな回答くると思ってなかったから。へぇ、君、じゃあちょっと強いかもしれないんだ?」
「まぁそうだね。“かも”しれない」
名前も知らない美男子とどうでもいい話をして、何故かこうして笑い合っている。
だが、この空気感は嫌いじゃなかった。
初めて会ったのに、居心地がいい。
「あ!!!」
と、ここで鞄の中に入れていたスマートフォンが鳴りだして、ようやくここで思い出したように立ち上がった。
「ちょっと、ごめん。もしもし?!ごめん!あの、ちょっと…いろいろあって…え?!あ、うん。渋谷にはいるよ。ごめんね、今いく」
太陽のことをすっかり忘れていた私は慌てて、スマートフォンを切ると金髪の男に頭を軽く下げて
「ごめんね。私、予定あったの忘れてた」
と言った。
「こちらこそ、ありがとう。じゃあ、気を付けてね」
「それはこっちのセリフだよ!」
「あはは、そうだった。あ、名前聞いていい?」
「名前?」
もう会うことはないだろう。
住んでいる世界の違うような人だから、二度目はないと思った。
しかし、自然に口から名前が出ていた。
「私、伊吹って言います」
「伊吹?いい名前だね。俺は千尋。じゃあね」
「千尋ね。うん、また会えたらいいね」
そう言って私は手を振り、待ち合わせ場所へと駆け出した。
何やら、物騒な声が響いていた。
「…喧嘩?」
ようやく私は足を止めて踵を返すことを決めたが、突如、細い路地から男が飛んできた。
飛んできた、という表現は間違ってはいない。
本当に人間が飛んできたのだ。吹っ飛ばされたという表現の方が正しいような気もする。
「え、ちょっと、あなた…」
男は若く、口の端からは血が流れ、衣服はボロボロだ。殴られていたのだろうかと、すぐに推測したが、まるで映画のワンシーンのような状況に脳が付いていかない。
金髪のその男は、ごほごほと咳き込み、すぐに私に視線をやる。
耳にはピアス、金髪の男は顔が腫れていても美形だとわかるほどに目を引く見た目をしている。
「逃げなよ。早く」
男はそう言うと、私に逃げるように手で追い払うようなジェスチャーを見せる。
しかし、怪我をしている男を放っておくわけにもいかない。
「でも、あなた怪我してるよ。手当しないと」
「いいから」
強い口調でそう言われた時、
「おいおい、もうくたばってんのかよ」
という声とともに、ぞろぞろとガラの悪い男たちが出てきた。どうやら、私の目の前にいる怪我をした男をボコボコにしたのは、今この男を追ってきたであろう不良集団なのだろうが、どう見ても関ってはいけない人たちだ。
「なんだ、その女。お前の女か?」
「は?違うよ。たまたま通りかかった知らない子」
そう言うと、怪我をしている男が立ち上がる。手の甲で口の端から出ている血を拭うと、不良集団を睨みつける。
逃げるべきなのだが、このまま目の前の男を放っておくわけにはいかない。
何があったのかはわからないが、もしかしたらこの男は不良集団にやられて亡くなってしまうかもしれないという恐怖もあった。
「私、逃げます!」
行動するしかないと思った私は、そう大声で言うと走りだした。
一瞬男たちが見えなくなるまで全力で走ると、すぐに戻った。
そして、「お巡りさん!!!ここに喧嘩している人がいます!!」とわざと周囲に聞こえるように言って、手招きをした。
全て演技なのだが、これしか思い浮かばなかったのだ。
しかし、不良集団はクツクツと喉を鳴らして「お巡りさーん、いるならここに来てくださーい」と茶化すように言う。
「…バレてる…」
絶望する私は、もう自分が参戦するしかないのかと残された道がバッドエンドであることを悟る。
立ち止まっていたら膝ががくがくと震えてしまうから、私は戦闘態勢を取った。
と言っても、幼少期に少しだけ空手を習っていたという期待外れの手札しかないのだが。
構えのポーズをとると、私は少なくとも五人はいるであろう大男たちを相手に近づいた。
だが、その瞬間、先ほどまで殴られていたはずの男が立ち上がった。
「女に手出すのはなしだろ」
低く、抑えた声は大男たちがこちらへ向かってくる迫力よりも、ゾッとした。
「おい、お前はもう…―うっ、」
すると、ボコボコに殴られ、怪我をしているであろう金髪の男はどんどんと周囲にいる男たちを倒していく。
呆然としているうちに映画のような喧嘩は最後まで立っていた金髪の男が勝って終わった。
「…え、っと、」
「早く、こっち来て」
呼吸が乱れている金髪の男が私の手を取り、その場を離れる。
「あの人たちは?!」
「あのままでいいよ。それより、目覚まされたらさすがに俺もきついから」
と言って何度も後ろを気にする私の手を強引に握り、怪我をしているとは思えないほどに大股で進む。小走りになりながら、何とかついていく私は徐々に呼吸が浅くなっていく。
結歩いたように思う。
先ほどまでとは打って変わって、緩い空気が流れる公園にたどり着いた。
既に葉桜に変わった桜の木の近くにあったベンチに二人で腰かけた。
ベビーカーを押しているお母さんと子供が目に入る。明らかに何かがあったであろう顔の腫れた男はこの場には不釣り合いである。
「ありがとうね。助けてくれて」
「助けたというか、助けられたというか…。それより!病院に!」
「あー、いいよ。面倒なことになるから病院には行かない」
「じゃあ…警察も?」
うん、と頷く金髪の男は真横から見ると、眉目秀麗という言葉がぴったりと当てはまると思うほどに綺麗な顔立ちをしている。これだけ顔が腫れていてそう思うのだ、よほど美形なのだろうと平凡な自分の顔を思い浮かべて神様は皆に平等ではないと少し落ち込む。
「でも、このままって…」
「いいよ。慣れてるから」
「慣れている?!」
「うん。喧嘩して去年学校退学になったから四月から別の学校に転校する」
「…学校?もしかして高校生?」
二十歳くらいかと想像していたが、どうやら違うようだ。
「そうだよ。君もでしょ。俺は高校二年になるよ、四月から」
「え!同い年だ…」
衝撃を感じながら、私は曖昧に頷いた。
あまり喋ると失礼なことまで話してしまいそうになるから。
横目で私を見ながら、彼がクスクスと笑った。
「まー、君とは正反対の世界で生きているだろうからね。でも驚いたよ。まさか、あんな場面で戦おうとする子がいるって」
「…あれは…もう、選択肢がなくて…」
思い出したように彼が笑い出し、私は恥ずかしくなって視線を地面に移した。
「でも、さすがに女の子に手を出そうとするやつらを放っておけないし、君のお陰で力が出たよ」
口調は丁寧だ。あれほどまでに派手な喧嘩をしていた人物とは思えないほどに、丁寧なのだ。
そこに少しだけ、違和感がある。
「だけど、約束ね。君のいい面ではあるんだろうけど、あの場での正解は俺を置いて逃げることだよ」
「……」
そう言うと、彼は視線を正面へ向けた。
正解かぁ、と心の中で復唱してから彼の言いたいことはよくわかると思った。
確かに、あの場面での正解の選択は彼の言う通り逃げることだろう。
彼の怪我がもっとひどくて、私一人であの場をどうにかはできないだろう。
そうなれば、私はどうなっていただろう。
「ごめんなさい。そうだね、私はあの場で逃げるべきだった。それはそうだと思う」
「うん、でしょ?」
「だけど…私、昔空手をね、習っていたの。だから、全く太刀打ちできないかと言われたら…分からないと思うんだよね」
そう言うと、金髪の男は目を丸くして固まって、それから大笑いをした。
「なんで笑うの?」
「いや、だって…。そんな回答くると思ってなかったから。へぇ、君、じゃあちょっと強いかもしれないんだ?」
「まぁそうだね。“かも”しれない」
名前も知らない美男子とどうでもいい話をして、何故かこうして笑い合っている。
だが、この空気感は嫌いじゃなかった。
初めて会ったのに、居心地がいい。
「あ!!!」
と、ここで鞄の中に入れていたスマートフォンが鳴りだして、ようやくここで思い出したように立ち上がった。
「ちょっと、ごめん。もしもし?!ごめん!あの、ちょっと…いろいろあって…え?!あ、うん。渋谷にはいるよ。ごめんね、今いく」
太陽のことをすっかり忘れていた私は慌てて、スマートフォンを切ると金髪の男に頭を軽く下げて
「ごめんね。私、予定あったの忘れてた」
と言った。
「こちらこそ、ありがとう。じゃあ、気を付けてね」
「それはこっちのセリフだよ!」
「あはは、そうだった。あ、名前聞いていい?」
「名前?」
もう会うことはないだろう。
住んでいる世界の違うような人だから、二度目はないと思った。
しかし、自然に口から名前が出ていた。
「私、伊吹って言います」
「伊吹?いい名前だね。俺は千尋。じゃあね」
「千尋ね。うん、また会えたらいいね」
そう言って私は手を振り、待ち合わせ場所へと駆け出した。



