バカな男に騙された私が本当の自分を手に入れるまで

「……どうして、私に?」

 思ったより、低い声が出た。
 疑うより先に、確かめたかった。否定するためじゃない。ただ、足元を確認するみたいに。

 男――朝霧は、すぐには答えなかった。

 言葉が出ない、というより、出していい言葉を選んでいる間だった。
 視線が一度だけ地面に落ち、それから戻ってくる。

「……正直に言うと」

 前置きの声が、わずかに固い。

「理由をちゃんと説明できるほど、僕、慣れてなくて」

 逃げでも、照れでもない。
 取り繕わない人の、正直な顔だった。

「ただ……」

 短く息を吸う。

「歩いてるのを見て、引っかかったんです」

 一拍、置いてから。

 私は瞬きをする。

「……引っかかった?」

 自分の声が、少し乾いて聞こえた。

「はい」

 朝霧は、小さく頷いた。

「目立ってたわけじゃないです。
 派手だったとか、綺麗だったとか、そういうのでもなくて」

 そこで、言葉に詰まる。
 眉がわずかに寄る。考えるより先に、感覚を掴もうとしている顔。

「……説明しづらいんですけど」

 その言い方が、妙に人間らしい。

「ちゃんと前を見て歩いてるのに、
 途中で、何度も立ち止まりそうな感じがして」

 胸の奥が、きゅっと縮んだ。

「立ち止まりそう?」

「はい。でも、止まらない」

 朝霧は、自分の足で一歩だけ前に出る。
 ほんの一歩。それだけで、意味が伝わる。

「こう……無理にじゃないけど、
 行き先が決まってないのに、歩くのをやめない人の感じです」

 私は、言葉を失う。

 当たっている。
 あまりにも。

「顔を見た、というより……」

 朝霧は、少しだけ間を置いた。

「“今、声をかけなかったら、
 このままどこかに行ってしまいそうだな”って思った」

 それは判断じゃない。
 予測でもない。

 ただの直感。
 だからこそ、誤魔化しが効かない。

「それだけです」

 言い切る声に、誇らしさはない。
 確信も、自己主張もない。

 私は名刺を握る。
 紙が、わずかに歪む。

「……そんな理由で?」

 自分でも驚くほど、弱い声だった。

 朝霧は、申し訳なさそうに口角を下げる。

「すみません。
 ちゃんとした理由じゃないですよね」

 否定しない。
 正当化もしない。

「でも、仕事柄……
 “理由が分からないまま残る違和感”を、
 見逃すな、ってだけは教わってて」

 教わった言葉。
 まだ、自分の血肉になりきっていない言葉。

 私は視線を外す。
 ガラスに映る女を見る。

 知らない顔。
 でも、立ち止まれない歩き方。

 ――この人は、私の過去を知らない。
 この顔が、どんな経緯でここにあるのかも知らない。

 それでも、今の私だけを見ている。

「……そんな顔、してました?」

 確かめるような声。
 縋るより先に、怖さが混じる。

 朝霧は、少し考えてから答えた。

「はい。
 ……でも、悪い意味じゃないです」

 言い切ってから、一度だけ口を閉じる。
 言い足りない。けれど、足せば壊れる。
 その迷いが、そのまま残る。

 私は名刺の角を指でなぞる。
 紙の硬さが、今の空気には不釣り合いに現実的だ。

「悪い意味じゃないって……」

 自分で言っておきながら、言葉がほどける。
 何を確認したいのか、私にも分からない。

 朝霧は、小さく首を振った。
 急に、丁寧に。

「……上手く言えないんですけど」

 そして、やっと出てきた言葉は、驚くほど生活の温度だった。

「“顔”っていうより……」
「顔の下の、表情っていうか……」

 言い直して、また詰まる。
 言葉は追いつかないのに、視線だけは逸れない。

「……困ってる人の顔、でした」

 胸の奥が、きゅっと鳴る。

 困っている。
 そんなふうに見えるのは、嫌だ。

 嫌なのに、否定できない。

「困ってる……?」

 問い返すと、声が少しだけ尖った。
 尖らせたくないのに、勝手に尖る。

 守ろうとしているのは、たぶんプライドじゃない。
 崩れかけた、自分の輪郭だ。

 朝霧は、すぐに首を振る。

「違います。あの、弱いとか、そういうことじゃなくて」

 言葉を探す。
 探しながらも、逃げない。

「……なんて言えばいいんだろ」

 小さく呟く。
 誰に向けたわけでもない、その声が、妙に信用できた。

「街って、みんな“帰る顔”して歩いてるじゃないですか」

 この一文だけは、淀みなく出た。
 経験から来た言葉だ。

「仕事終わりの顔とか、買い物帰りの顔とか。
 疲れてても、機嫌悪くても、ちゃんと“行き先の顔”」

 喉の奥が、熱くなる。

 行き先の顔。
 そんなものが、自分にあっただろうか。

「でも、あなたは……」
「行き先があるのに、ないみたいで」

 言葉が、胸に落ちる。
 音はしない。でも、確かに重い。

「帰る場所はあるのに、
 そこに戻りたくない人の顔」

 息が止まる。

 どうして分かるの、と言いたい。
 分かるはずがない。
 この人は何も知らない。

 それでも――
 今の私の中心だけを、指で押されたみたいに当たっている。

「すみません。勝手に決めつけて」

 朝霧は、慌てて言い直す。

「でも……そう見えたんです」

 見えた。
 それだけ。

 確かめようのない言葉なのに、嘘には聞こえない。

 私は名刺を握り直す。
 紙が、かすかに鳴る。

「……私、そんな顔してたんだ」

 声が、薄く震えた。
 確かめる声。縋る声に似ていて、嫌になる。

 朝霧は、申し訳なさそうに眉を寄せる。

「はい。……でも」
「だからこそ、っていうか」

 また言葉が止まる。
 彼の中で、“仕事”と“個人”がぶつかっているのが見える。

「僕、スカウトって、正直怖い仕事だと思ってて」

 意外だった。
 自分を守るための強がりが、ひとつも混じらない。

「相手の人生に、
 変なきっかけを置いてしまうかもしれないから」

 きっかけ。
 置かれる。

 その言い方が、妙に優しい。

「それでも……」
「今日のあなたは、見過ごしたらダメな気がした」

 また“気がした”。

 朝霧は、確信の形にしない。
 できないのではなく、しない。

 新人なりの、慎重さ。

 私は視線を外す。
 街灯の橙が、歩道の影を長く引く。
 コンビニの白い光が、夜を切り取るみたいに浮いている。

 帰る場所はある。
 でも、帰ったら鏡がある。

 鏡は嘘をつかない。
 嘘をつかないものを、今は見たくない。

 その気持ちを、この人は知らない。
 知らないのに、当ててくる。

 私は息を吸う。
 油と香水と排気ガスの匂いが、肺の奥に重く溜まる。

「……名刺、だけでいいって言いましたよね」

 自分の口から出た言葉に、私自身が驚いた。

 朝霧は、少しだけ目を見開き、それから頷く。

「はい」
「名刺だけで、十分です」

 “十分”が、押しつけじゃない。
 期限を切る言い方でもない。

 だから、逆に残る。

 私は名刺を見下ろす。
 会社名。住所。電話番号。

 文字の並びが、急に現実の重さを持つ。

——芸能。

 欲しいのは、芸能界じゃない。
 アイドルでもない。

 分かっているのに、言葉だけが離れない。

 私は名刺をバッグにしまう。
 しまった瞬間、胸の内側に紙が入り込んだみたいな重さが残った。

「……考えます」

 逃げの言葉だと分かっている。
 でも今日は、逃げきれない。

 朝霧は頷いた。
 喜びも、落胆もない。

 仕事が一歩進んだときの顔。

「ありがとうございます」
「連絡、もし良かったら……いつでも」

 “いつでも”が、軽くない。
 営業の常套句には聞こえなかった。

 だから、余計に怖い。

 私は歩き出す。
 朝霧は追ってこない。
 背中に視線を刺さない。

 その距離が、優しさなのか、仕事なのか。
 まだ判別できない。

 歩道沿いのガラスに、また女が映る。
 知らない顔。

 けれど、その顔が、ほんの少しだけ、私の足を前に出させている。

——この顔で、私は何になれる?

 問いが、喉の奥に残る。
 答えは出ない。

 出ないまま、胸の奥がかすかに熱い。

 その熱が、希望なのか、恐怖なのか。

 私は、まだ知らない。