それなのに、心だけが追いついていない。
追いついていないことが、みじめだった。
一年も経って、見られることにも、声をかけられることにも、ある程度は慣れたはずなのに、心だけが昔の場所に取り残されている。置き去りにされたまま、こちらを見上げている。
みじめなのに、帰る気にはなれない。
帰れば、鏡がある。
鏡は嘘をつかない。
嘘をつかないものを、今は見たくなかった。
私は歩く。
行き先はない。
それでも、足は止まらない。
止まったら、考えてしまう。
考えたら、きっと立てなくなる。
交差点の大きなモニターが光っている。
化粧品の広告。
均一な肌、白い歯、大きすぎる目。
笑顔は完璧で、人間というより記号に近い。
——あっち側。
思考が、勝手に言葉を拾う。
誰に教えられたわけでもないのに、すぐ浮かぶ言葉。
あっち側って、何だ。
テレビの中か。
広告の中か。
それとも、“選ばれる側”。
その言葉に触れただけで、喉がきゅっと縮む。
選ばれる。
選ばれたい。
——違う。
違う。たぶん、違う。
選ばれたいんじゃない。
選ばれなくても、平気な顔をしたい。
「どっちでもいい」と言える場所に、立ってみたい。
それが何なのか分からない。
分からないのに、欲しがっている。
欲しがっている自分が、嫌だった。
嫌なのに、やめられない。
やめられないこと自体が、まだ自分が“外側”にいる証みたいで。
人の流れが、ふっと薄くなる場所に出る。
歩道が少し広がり、街路樹の影が伸びている。
コンビニの白い明かりが、夜を切り取るみたいに浮いていた。
そこで、不意に声がかかる。
「すみません」
呼吸が、一瞬止まる。
頭より先に、体が反応する。
勧誘。
ナンパ。
アンケート。
宗教。
断る言葉が、舌の先に並ぶ。
順番まで、はっきり分かる。
でも。
声の質が違った。
軽くない。
上からでもない。
妙に丁寧で、少し固い。
顔だけ向ける。
男が立っていた。
年は、私と同じか少し上。
背は高くないが、姿勢がいい。
肩がまっすぐで、靴がきちんと磨かれている。
服は地味だ。
ジャケットもズボンも、仕事帰りの人間の色。
それなのに、街に溶けきっていない。
浮いているのは、色じゃない。
緊張感だ。
場違いなほどの、真面目さ。
目が合う。
この男の目は、さっきまでの通行人と違う。
刺さない。
撫でない。
ただ、確認している。
確認しているのに、慣れていない。
——新人。
理由もないのに、そう思った。
場数を踏んだ人間が持つ、余裕の空白がない。
「驚かせたら、すみません」
男は距離を詰めない。
人混みの中でも、私との間に一線を残す。
逃げ道を塞がない距離。
その距離感が、逆に胸に触れる。
今まで寄ってきた男は、距離を詰めることで勝った気になる人ばかりだった。
近づくことが、選ぶことだと思っている人たち。
「少しだけ、お話……いいですか」
“いいですか”が、ちゃんと疑問だった。
断られる可能性を、最初から計算に入れた声。
私は口を開く。
「無理です」
「急いでます」
言える。
言えるはずだ。
一年間、何度も言ってきた。
言って、やり過ごして、帰って、鏡を見て。
でも。
胸の奥が、変にざわつく。
断れば、私は“元の私”に戻る。
何も選ばず、何も変えず、何も起こらなかった顔で歩き続ける。
戻るのは、楽だ。
楽だけど——今日は戻りたくない。
理由は分からない。
分からないのに、戻りたくなかった。
「……何の話ですか」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
揺れていない。
揺れていないことが、少し怖い。
まるで、他人が私の口を使って喋っているみたいだった。
男は、一瞬だけ息を吸ってから言う。
「芸能の仕事をしてまして」
頭の中で、何かが弾けたわけじゃない。
期待も、拒絶も、まだ湧かない。
ただ。
大きすぎる言葉が、
音も立てずに、私の目の前に置かれた。
触れたら、何かが変わってしまうかもしれない言葉。
私はまだ、
それを拾うかどうかも、決めていない。
追いついていないことが、みじめだった。
一年も経って、見られることにも、声をかけられることにも、ある程度は慣れたはずなのに、心だけが昔の場所に取り残されている。置き去りにされたまま、こちらを見上げている。
みじめなのに、帰る気にはなれない。
帰れば、鏡がある。
鏡は嘘をつかない。
嘘をつかないものを、今は見たくなかった。
私は歩く。
行き先はない。
それでも、足は止まらない。
止まったら、考えてしまう。
考えたら、きっと立てなくなる。
交差点の大きなモニターが光っている。
化粧品の広告。
均一な肌、白い歯、大きすぎる目。
笑顔は完璧で、人間というより記号に近い。
——あっち側。
思考が、勝手に言葉を拾う。
誰に教えられたわけでもないのに、すぐ浮かぶ言葉。
あっち側って、何だ。
テレビの中か。
広告の中か。
それとも、“選ばれる側”。
その言葉に触れただけで、喉がきゅっと縮む。
選ばれる。
選ばれたい。
——違う。
違う。たぶん、違う。
選ばれたいんじゃない。
選ばれなくても、平気な顔をしたい。
「どっちでもいい」と言える場所に、立ってみたい。
それが何なのか分からない。
分からないのに、欲しがっている。
欲しがっている自分が、嫌だった。
嫌なのに、やめられない。
やめられないこと自体が、まだ自分が“外側”にいる証みたいで。
人の流れが、ふっと薄くなる場所に出る。
歩道が少し広がり、街路樹の影が伸びている。
コンビニの白い明かりが、夜を切り取るみたいに浮いていた。
そこで、不意に声がかかる。
「すみません」
呼吸が、一瞬止まる。
頭より先に、体が反応する。
勧誘。
ナンパ。
アンケート。
宗教。
断る言葉が、舌の先に並ぶ。
順番まで、はっきり分かる。
でも。
声の質が違った。
軽くない。
上からでもない。
妙に丁寧で、少し固い。
顔だけ向ける。
男が立っていた。
年は、私と同じか少し上。
背は高くないが、姿勢がいい。
肩がまっすぐで、靴がきちんと磨かれている。
服は地味だ。
ジャケットもズボンも、仕事帰りの人間の色。
それなのに、街に溶けきっていない。
浮いているのは、色じゃない。
緊張感だ。
場違いなほどの、真面目さ。
目が合う。
この男の目は、さっきまでの通行人と違う。
刺さない。
撫でない。
ただ、確認している。
確認しているのに、慣れていない。
——新人。
理由もないのに、そう思った。
場数を踏んだ人間が持つ、余裕の空白がない。
「驚かせたら、すみません」
男は距離を詰めない。
人混みの中でも、私との間に一線を残す。
逃げ道を塞がない距離。
その距離感が、逆に胸に触れる。
今まで寄ってきた男は、距離を詰めることで勝った気になる人ばかりだった。
近づくことが、選ぶことだと思っている人たち。
「少しだけ、お話……いいですか」
“いいですか”が、ちゃんと疑問だった。
断られる可能性を、最初から計算に入れた声。
私は口を開く。
「無理です」
「急いでます」
言える。
言えるはずだ。
一年間、何度も言ってきた。
言って、やり過ごして、帰って、鏡を見て。
でも。
胸の奥が、変にざわつく。
断れば、私は“元の私”に戻る。
何も選ばず、何も変えず、何も起こらなかった顔で歩き続ける。
戻るのは、楽だ。
楽だけど——今日は戻りたくない。
理由は分からない。
分からないのに、戻りたくなかった。
「……何の話ですか」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
揺れていない。
揺れていないことが、少し怖い。
まるで、他人が私の口を使って喋っているみたいだった。
男は、一瞬だけ息を吸ってから言う。
「芸能の仕事をしてまして」
頭の中で、何かが弾けたわけじゃない。
期待も、拒絶も、まだ湧かない。
ただ。
大きすぎる言葉が、
音も立てずに、私の目の前に置かれた。
触れたら、何かが変わってしまうかもしれない言葉。
私はまだ、
それを拾うかどうかも、決めていない。
