バカな男に騙された私が本当の自分を手に入れるまで

駅前の空気は、夕方になると舌触りが変わる。

昼の埃っぽさに、店の油、香水、排気ガスが重なり、甘さを帯びた刺激になって鼻の奥を突く。人が増え、音も増えているはずなのに、耳に届くそれらはどこか遠い。遠いのに、神経の柔らかい部分だけを、正確に刺してくる。

一年前も、同じ匂いを嗅いでいた。
でも、同じではない。

歩道のタイルが、やけに整って見える。
白線も、ガラスも、看板の光も。
世界全体が新品みたいで、私のほうが、後から置かれた部品みたいに浮いている。

私は人の流れに身を預けるように歩く。
紛れたい、という衝動はまだ残っている。
ただ、以前ほど必死ではない。
紛れられない日があることを、身体がもう知ってしまった。

すれ違った男が、ふと目を上げる。

ぶつからないための確認じゃない。
視線が一瞬、私の顔に留まり、わずかに遅れて逸れる。
逸れる瞬間、口角がほんの少しだけ上がった。

——今、見られた。

その認識が、遅れて胸に落ちる。
驚きはない。
もう何度も経験した。

次にすれ違う女は、私を上から下まで見ない。
逆だ。
顔だけを見る。

眉が、ほんのわずかに動く。
何かを測る人の目。
値踏みでも、嫉妬でもない、判断の前の視線。

それから、何もなかったみたいにスマホに視線を戻す。

見られている。
でも、それは一年前の「無視」とは違う。
存在を確認される視線だ。

その事実が、嬉しさに辿り着く前に、
条件反射みたいに恐怖を連れてくる。

私は反射的に肩をすくめる。
人とぶつからないためじゃない。
殴られないように、みたいな動き。

もう殴られることなんてないと、分かっている。
それでも、身体は覚えている。
世界は、突然こちらを殴ってくる場所だった、という記憶を。

——もう、いい。

頭の中ではそう命じる。
でも、足の運びも、視線の置き方も、完全には変わらない。
「前の私」は、まだ身体の奥に棲みついている。

ガラス張りのビルの外壁に、女が映る。

夕方の薄い光に輪郭を切り取られて、妙に整って見える。
知らない人みたいだ。
それが、自分だと分かるまでに、ほんの一拍遅れる。

私は横目でそれを確認し、すぐに視線を逸らした。

逸らす癖だけは、直らない。
一年経っても、直らない。

正面から見たら、現実になる。
現実になった瞬間、今の私は、どんな顔をすればいいのか分からない。

「可愛くなったね」
「綺麗になったね」

言われることは、もう珍しくない。
それでも、その言葉はいつも、私の手前で止まる。

もし言われたら、どうする。
笑う?
礼を言う?
——その前に、喉が詰まるかもしれない。

胸の奥が落ち着かない。
空腹じゃない。寒さでもない。
なのに、何かが欠けている。

足りない。
でも、何が足りないのか、もう分からない。

この感覚は、覚えがある。

誰かの期待に応え終えたあと、
役割を脱いだ瞬間にだけ現れる、空洞。

——私は、何が欲しいんだ。

答えは出ない。
一年考えても、出なかった。
それでも、欲しさだけは消えない。

もう一度、視線が刺さる。

今度は、駅の改札を出てきた高校生の集団。
笑いながら歩いていて、その中の一人が私に気づき、言葉を飲み込む。

目が合う。
彼女は笑うのを止める。

悪意じゃない。
驚きだ。

それから、友達の腕を引いて、小声で何かを言う。
私は聞こえないふりをして、視線を落とす。

——ほら。結局こうなる。

心が先に冷える。
上がりかけたものを、自分で引き下げる。
自分の扱いを、勝手に元に戻す。

でも今日は、戻らないものがある。

視線。
世界との距離。

私が下を向いても、視線は消えない。
消えないから、怖い。

怖いのに——
どこかで、ほんのわずかに、満ちる。

こんなふうに見られるのは、もう初めてじゃない。
でも、慣れたとも言えない。

「……気持ち悪い」

思わず、声が漏れる。
誰に向けたわけでもない、独り言の形をした吐き気。

自分の顔が、他人の目を引く。
その事実が、私の中の何かを、静かに削る。

“この顔”は、私の顔じゃない。
一年経っても、その感覚は消えない。

でも。

“私の顔”は、もう戻らない。

その事実だけが、
逃げ場を塞ぐみたいに、胸の奥に残っている。