バカな男に騙された私が本当の自分を手に入れるまで

駅前の通りを外れると、空気の手触りがわずかに変わった。

人の数はまだ多い。それなのに、音だけが削がれていく。
怒鳴り声は消え、急ぐ足音も減り、代わりにガラスに反射した光だけが、やけに強く主張してくる。輪郭のはっきりしない街の中で、光だけが意味もなく鋭い。

家電量販店の入口は、相変わらず眩しすぎた。

夕方だろうと夜だろうと関係なく、白い光が容赦なく溢れてくる。逃げ込むつもりはなかった。ただ、まっすぐ家に帰るだけの力が、もう残っていなかった。

自動ドアが開く。
冷たい空調が、肌をなぞる。

外気と切り離された温度。どこに行っても同じ匂い、同じ明るさ、同じ音楽。感情が入り込む余地のない、均一な空間。人が多いのに、人間の気配が薄い。

私は目的もなく、エスカレーターに乗った。

上の階へ行くほど、生活の匂いが剥がれていく。
白物家電、パソコン、スマートフォン。
暮らしを支えるはずの物ばかりなのに、整然と並ぶほど、人の気配が消えていく。感情を必要としない物たちが、正しく、黙々と並んでいる。

テレビ売り場は、いつ来ても異様だった。

壁一面に並ぶ画面。
同じ番組が、ほんのわずかなズレを伴って流れている。
一人分の声が、何十にも分裂し、遅れて追いかけてくる。
現実が複製されて、薄くなっているみたいだった。

足が、自然と止まった。

理由はない。
ただ、映像の中の男の声が、不思議なほど静かだった。

派手な衣装も、作り込まれたステージもない。
白い背景。簡素な椅子。真正面から据えられたカメラ。

男は、落ち着いた色のシャツを着ていた。
痩せすぎてもいないし、鍛えすぎてもいない体つき。
流行を追っていない髪型。
年齢は三十代前半だろうか。

若さを誇示するでもなく、達観を装うでもない。
ただ、そこに座っている。

画面の端に、名前が表示される。

――相良 恒一。

どこかで聞いたことがある気がした。
有名なのかどうかも、よく分からない。
少なくとも、「今が旬です」と主張する顔ではなかった。

インタビュアーの声が入る。

「学生時代は、かなり辛い時期があったそうですね」

男は一瞬だけ視線を落とし、それから静かに頷いた。

「そうですね」

低く、整えられた声。
感情を煽らない、余計な装飾のない声。

「いじめられてました。
 理由は、今でもよく分かりません」

その言葉は、売り場に流れるには不釣り合いなほど軽かった。
軽く聞こえるのは、きっと何度も噛み砕かれてきた言葉だからだ。

「気づいたら、教室に居場所がなくなっていて。
 行かなくなって。
 最終的には、家からも出られなくなりました」

テレビの光が、男の頬に淡い影を落とす。
笑ってはいない。
でも、苦しそうでもない。

「引きこもってた期間は、長かったですね。
 二十代の前半くらいまで」

私は、無意識に息を止めていた。

引きこもり。
その言葉が、重さも軽さも伴わず、事実として置かれる。

「当時は、
 自分は世界に必要とされてないって、
 本気で思ってました」

その声が、胸の奥に沈む。

必要とされていない。
その感覚を、私は知っている。
形は違う。でも、匂いが似ている。

「今思えば、
 必要かどうかなんて、
 その時点で決まるものじゃなかったんですけど」

男は、わずかに肩をすくめた。

「当時の自分は、
 判断を間違えてました。
 世界は全部、
 ああいう場所だと思い込んでた」

判断を間違えていた。

その言い方が、引っかかった。
被害者だとは言わない。不幸だったとも言わない。
ただ、自分の認識と選択の話をしている。

「部屋にいる時間は、長かったです。
 外に出られなかったから、
 歌を作ってただけです」

救われたとも、音楽が支えだったとも言わない。

「前向きだったわけじゃないですよ。
 それしか、やることがなかった」

その正直さが、妙に現実的で、残酷だった。

私は、自分の手を見る。
指先が、少し冷えている。

――私は、どうだろう。

引きこもっていたわけじゃない。
学校にも、仕事にも行っていた。
恋人だと思っていた人も、いた。

それなのに。
あのカフェを出てからずっと、
世界の外側に押し出されたみたいな感覚が消えない。

「今でも、
 怖くなることはあります」

男は、はっきりと言った。

「全部が順調だと思えたことは、
 一度もないです」

その言葉に、奇妙な安心が混じる。

立ち直った人の声じゃない。
乗り越えた人の声でもない。
揺れながら、今も立っている声だ。

「ただ」

男は、ほんの少し間を置いた。

「過去の自分を、
 可哀想だとは思わなくなりました」

その一文が、私の中で音を立てて何かを動かした。

可哀想。

私は、あのカフェを出てからずっと、
自分を“可哀想な人間”として扱っていた。

騙された。
利用された。
顔がよくないからだ。

そうやって、自分を守ろうとしていた。

でも、この人は。
もっと深い場所にいたはずなのに、
自分を憐れんでいない。

「過去は、消えませんからね」

男は淡々と言う。

「でも、
 どう語るかは、
 自分で決められる」

私は、画面から目を離せなくなっていた。

そのとき、隣で誰かが小さく息を吐いた。

「……この人」

低く、落ち着いた声。

気づくと、私のすぐ横に男が立っていた。
三十代半ばくらい。
スーツでも私服でもない、仕事帰りの中間みたいな格好。

彼は画面を見たまま、言う。

「自分の過去を、
 不幸だったって言ってないでしょ」

私を見ることもなく、ただ映像に向かって。

「それだけで、
 結構すごいと思う」

慰めでも、励ましでもない。
評価ですらない。

ただの観察。

それなのに、今の私には強すぎた。

私は、もう一度テレビを見る。

男の表情は変わらない。
穏やかで、淡々としている。

――この人は、
私よりも辛い経験をしたかもしれない。

でも、それ以上に。

この人は、
自分の人生を、
他人に説明させていない。

その事実が、胸に残る。

私は、まだ何も決めない。
何かを変えようとも思わない。

ただ、
世界が、ほんの少しだけ広がった気がした。

恋愛だけが、
価値を測る場所じゃない。

顔だけが、
人生を決める規則じゃない。

そう言い切る強さはない。
でも、
そうかもしれないと思える余白が、生まれた。

テレビ売り場の白い光の中で、
私は、わずかに息がしやすくなっていた。