バカな男に騙された私が本当の自分を手に入れるまで

 男が立ち上がる。

 椅子の脚が床を擦った。
 きい、と乾いた音が鳴る。その一音を合図に、止まっていた世界が一斉に息を吹き返した。

 BGM。
 周囲の話し声。
 ミルクを泡立てる蒸気音。
 カップ同士が触れ合う、かすかな陶器の音。

 さっきまで遠のいていたすべてが、急に現実の重さを取り戻す。
 私だけが、水の底に置き去りにされたままだ。

「説明したし、もういいだろ」

 男の声は、もう私に向いていない。
 視線は女。外。次の予定。
 話し終えたというより、処理を終えたという言い方だった。

 私は、役目を終えた書類みたいに扱われている。
 確認され、分類され、必要ないと判断され、机の隅に置かれた紙切れ。

 女も立ち上がる。

 上着を羽織る。
 肩に布を通し、袖に腕を通し、裾を整える。
 その一連の動作が、腹立たしいほど滑らかで、無駄がない。

 立つこと、去ること、選ばれること。
 すべてに迷いがない。

 女は最後に、私を見る。
 ほんの一瞬。

 そして、微笑む。

「次はさ」

 声は甘い。
 角がない。だから刺さる。

「自分の値段、考えてから恋した方がいいよ」

 値段。

 言葉が、皮膚の内側に張りつく。
 剥がそうとしても、剥がれない。

 男がドアを開ける。
 外の音と冷気が、一気に流れ込む。

 二人は並んで出ていく。

 女の髪が、男の肩に触れる。
 男の手が、迷いなく女の腰に戻る。

 その距離が、あまりにも自然だった。
 最初から、そこにあるべき形みたいに。

 ドアが閉まる。

 音が断たれ、私は、まだ座っている。

 冷めきったラテ。
 わずかに歪んだ椅子の脚。
 ガラスに映る、輪郭の薄い自分。

 財布。
 枠。
 才能。
 値段。

 言葉が、景色に貼りついて、剥がれない。

 泣きたい。
 でも泣いたら、私の負けが確定する気がして、涙が出ない。

 怒りたい。
 でも怒ったら、この二年間の自分を、
 「見る目がなかった」と、自分で断罪することになる。

 じゃあ、どうする。

 ——分からない。

 頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
 音が多すぎる。
 匂いが甘すぎる。
 照明が明るすぎる。

 世界が、私の感情を無視して続いている。
 それがいちばん辛い。

 周りの人は笑っている。
 カップを持ち上げ、スマホを構え、日常を続けている。

 私だけが、席に取り残されて、
 少しずつ透明になっていく。

 財布。

 財布って、そういうことだ。
 人じゃない。
 中身のある物。
 持ち歩く物。
 必要なときに開いて、用が済んだら閉じる物。

 私はカップに触れる。
 冷たい。

 その冷たさが、今の自分の体温みたいだった。

 息を吸う。
 甘い匂いが肺に入り込み、喉が詰まりそうになる。

 立ち上がろうとする。
 足に力が入らない。

 身体が、重い。
 それなのに、どこか軽い。

 芯だけが抜け落ちて、
 支えを失ったみたいだ。

 鏡を見るみたいに、ガラス越しの自分を見る。

 薄い。
 輪郭が、薄い。
 存在そのものが、薄い。

 ここで「生まれ変わる」とか、
 「作り替える」とか、
 そんな綺麗な決意は出てこない。

 今の私に、そんな強さはない。

 あるのは、ただ一つ。

 ——このまま、ここに居たくない。

 その感覚だけが、喉の奥で熱を持つ。

 私は椅子の背に指をかけ、ゆっくりと立ち上がる。

 椅子の脚が、また床を擦る。
 その音が、自分の弱さみたいで、嫌だった。

 出口へ向かう途中、
 ガラスの外に、駅前の大型ビジョンが見える。

 化粧品の広告。
 笑っている女の顔。
 均一で、眩しくて、完璧な肌。

 その笑顔が、私を見下ろしているように見えて、
 喉の奥が、ひくっと鳴った。

 ……ああ、そうか。

 私、今。

 世界中から、
 「お前は違う」
 って言われている気がする。

 違う。
 違う。
 違う。

 言葉にならないまま、胸の中が黒く濁っていく。
 怒りとも、悲しみとも、恥ともつかない、
 ひどく汚れた感情。

 私はドアを押す。

 外の冷気が、頬に刺さる。
 息が、白くなる。

 駅前の雑踏が、今度ははっきりと聞こえる。
 足音。
 笑い声。
 車の音。

 世界は回っている。
 私の二年間なんて、何の引っかかりにもならない速さで。

 ——どこに行けばいい。

 分からない。

 でも、ここには居られない。

 私は歩き出す。
 早くもない。
 速くもない。

 ただ、止まるのが怖くて、
 足を前に出す。

 ガラスに映る自分が、歩道に沿って流れていく。

 輪郭の薄いまま、
 駅の光に、静かに飲み込まれていった。