男が、ようやく本題を口にした。
「お前さ。彼女じゃない」
——それでも、ここではまだ接続は切らない。
男は間を置かない。
切り口だけを、変える。
「“枠”が違う」
枠。
女が、空中に見えない線を引く仕草をする。
指は細く、動きは滑らかで、爪の形まで整っている。
何もかもが過不足なく整っていて、それが余計に腹立たしい。
「こういうのってさ、あるの」
女が、楽しそうに言う。
「本命、彼女、遊び……それ以外」
“それ以外”。
男が、笑いながら続けた。
「分かりやすく言うと——」
そこで一瞬だけ、視線が外に流れる。
ガラスの向こうを通り過ぎる学生の集団。
高い笑い声。無防備な背中。
世界は何も変わっていない。
その“いつも通り”が、今の私だけを置き去りにする。
男は視線を戻し、何でもないことのように言った。
「財布」
音が消えた。
周囲の話し声も、BGMも、ミルクを泡立てる蒸気音も、すべてが薄く遠ざかる。
残るのは、その単語だけだった。
財布。
財布。財布。財布。
言葉が、私の中で何度も反響する。
意味は理解できる。
理解できるのに、身体がそれを受け取るまでに時間がかかる。
男は続ける。
仕様を説明するみたいな口調で。
「飯代。プレゼント。交通費。
呼べば来る。文句言わない。顔色変えない。
……便利」
便利。
女が、小さく頷いた。
「うん、便利だよね」
悪意を隠そうともしない。
わざと、日常会話みたいな温度で言う。
それがいちばん残酷だと、分かっている言い方。
私は息を吸う。
カフェの空気は甘い。
シロップとコーヒー豆の匂いが混ざって、肺の奥まで入り込む。
吐くとき、喉がきゅっと狭くなる。
泣くわけじゃない。まだ。
泣くより先に、脳が必死に状況を整理しようとしてしまう。
財布。
——過去の断片が、勝手につながっていく。
急な呼び出し。
待ち合わせに遅れても謝らない。
人前で手を繋がれない。
写真を撮らない。
クリスマス前だけ機嫌がいい。
「今日は奢って」と言われたときの、あの笑い方。
全部、財布の扱いだ。
そう思った瞬間、胸の奥が熱を持つ。
怒りなのか、恥なのか、名前のつかない熱。
女が、首を傾げる。
「ねえ」
声が優しいのが、腹立たしい。
「薄々、分かってたでしょ?」
分かってた。
分かってた気がする。
分かってた“つもり”だった。
でも。
“分かってた”と言ってしまったら、
この二年間の自分を、全部自分で踏み潰すことになる。
……いや。
もう、踏み潰れているのかもしれない。
男が、飽きたように言う。
「お前さ、変に期待してただろ」
期待。
期待って、なんだ。
私はただ、
隣に立っていい場所が欲しかっただけだ。
女が笑う。
「期待っていうか、思い込みだよね」
そして、決定打みたいに言う。
「その顔でさ、“彼女枠”って思えるの、逆に才能だと思う」
才能。
男が、得意げに重ねる。
「顔は才能だろ」
女が頷く。
「うん。努力じゃ埋まらない」
言葉が、体の中に溜まっていく。
吐き出せない。
飲み込めない。
胃の奥に、硬い塊ができて、
それがじわじわと膨らんでいく。
私は何か言おうとする。
口を開く。
でも、言葉が出ない。
「ひどい」
「やめて」
「そんなつもりじゃない」
全部、ここでは弱い。
弱い言葉は、口にした瞬間に自分を惨めにする。
男は、私の沈黙を勝利として処理する顔をした。
「ほら、そうやって黙る」
指先でテーブルを叩く。
トントン。
そのリズムが、私の心臓とずれていく。
「都合いいんだよ、お前」
女が、少しだけ身を乗り出す。
香水の匂いが届く。
甘くて、冷たい匂い。
「ねえ、言っとくけど」
女は笑っているのに、目だけが笑っていない。
「私、悪いことしてる気、全然ないから」
それが、いちばん怖い。
正しさの顔をした悪意。
「だって、現実じゃん?」
現実。
その言葉が、
私の逃げ場を、静かに塞いだ。
「お前さ。彼女じゃない」
——それでも、ここではまだ接続は切らない。
男は間を置かない。
切り口だけを、変える。
「“枠”が違う」
枠。
女が、空中に見えない線を引く仕草をする。
指は細く、動きは滑らかで、爪の形まで整っている。
何もかもが過不足なく整っていて、それが余計に腹立たしい。
「こういうのってさ、あるの」
女が、楽しそうに言う。
「本命、彼女、遊び……それ以外」
“それ以外”。
男が、笑いながら続けた。
「分かりやすく言うと——」
そこで一瞬だけ、視線が外に流れる。
ガラスの向こうを通り過ぎる学生の集団。
高い笑い声。無防備な背中。
世界は何も変わっていない。
その“いつも通り”が、今の私だけを置き去りにする。
男は視線を戻し、何でもないことのように言った。
「財布」
音が消えた。
周囲の話し声も、BGMも、ミルクを泡立てる蒸気音も、すべてが薄く遠ざかる。
残るのは、その単語だけだった。
財布。
財布。財布。財布。
言葉が、私の中で何度も反響する。
意味は理解できる。
理解できるのに、身体がそれを受け取るまでに時間がかかる。
男は続ける。
仕様を説明するみたいな口調で。
「飯代。プレゼント。交通費。
呼べば来る。文句言わない。顔色変えない。
……便利」
便利。
女が、小さく頷いた。
「うん、便利だよね」
悪意を隠そうともしない。
わざと、日常会話みたいな温度で言う。
それがいちばん残酷だと、分かっている言い方。
私は息を吸う。
カフェの空気は甘い。
シロップとコーヒー豆の匂いが混ざって、肺の奥まで入り込む。
吐くとき、喉がきゅっと狭くなる。
泣くわけじゃない。まだ。
泣くより先に、脳が必死に状況を整理しようとしてしまう。
財布。
——過去の断片が、勝手につながっていく。
急な呼び出し。
待ち合わせに遅れても謝らない。
人前で手を繋がれない。
写真を撮らない。
クリスマス前だけ機嫌がいい。
「今日は奢って」と言われたときの、あの笑い方。
全部、財布の扱いだ。
そう思った瞬間、胸の奥が熱を持つ。
怒りなのか、恥なのか、名前のつかない熱。
女が、首を傾げる。
「ねえ」
声が優しいのが、腹立たしい。
「薄々、分かってたでしょ?」
分かってた。
分かってた気がする。
分かってた“つもり”だった。
でも。
“分かってた”と言ってしまったら、
この二年間の自分を、全部自分で踏み潰すことになる。
……いや。
もう、踏み潰れているのかもしれない。
男が、飽きたように言う。
「お前さ、変に期待してただろ」
期待。
期待って、なんだ。
私はただ、
隣に立っていい場所が欲しかっただけだ。
女が笑う。
「期待っていうか、思い込みだよね」
そして、決定打みたいに言う。
「その顔でさ、“彼女枠”って思えるの、逆に才能だと思う」
才能。
男が、得意げに重ねる。
「顔は才能だろ」
女が頷く。
「うん。努力じゃ埋まらない」
言葉が、体の中に溜まっていく。
吐き出せない。
飲み込めない。
胃の奥に、硬い塊ができて、
それがじわじわと膨らんでいく。
私は何か言おうとする。
口を開く。
でも、言葉が出ない。
「ひどい」
「やめて」
「そんなつもりじゃない」
全部、ここでは弱い。
弱い言葉は、口にした瞬間に自分を惨めにする。
男は、私の沈黙を勝利として処理する顔をした。
「ほら、そうやって黙る」
指先でテーブルを叩く。
トントン。
そのリズムが、私の心臓とずれていく。
「都合いいんだよ、お前」
女が、少しだけ身を乗り出す。
香水の匂いが届く。
甘くて、冷たい匂い。
「ねえ、言っとくけど」
女は笑っているのに、目だけが笑っていない。
「私、悪いことしてる気、全然ないから」
それが、いちばん怖い。
正しさの顔をした悪意。
「だって、現実じゃん?」
現実。
その言葉が、
私の逃げ場を、静かに塞いだ。
