事務所の自動扉を抜けた瞬間、空気が切り替わった。
冷たい。
けれど、それは拒絶じゃない。
さっきまで肺の奥に溜まっていた、判断と数字と沈黙の匂いが、一気に外へ押し出される。
夕方の街は、もう帰る顔をしている。
足取りは速く、視線は前。
誰もが今日を終わらせる準備が整った身体で歩いている。
――私だけが、終わりを決められないまま。
人の流れに混じりながら、ほんの少し浮いている感覚があった。
隣を歩く朝霧は、相変わらず半歩前だ。
近づきすぎない。離れすぎない。
守ろうともしないし、突き放しもしない。
あの距離は、最初からずっと変わらない。
歩道のタイルが、靴底に規則正しく返ってくる。
その音が、面談で交わされた言葉を、少しずつ現実に戻していく。
条件。
期間。
結果が出なければ終わる、という当たり前の話。
理解していたはずなのに、胸の奥ではまだ、重たいものが揺れている。
駅前の人混みが見え始めたところで、朝霧が口を開いた。
「……面談のときの話なんですけど」
仕事の声だった。
でも、遮断するような硬さはない。
「市役所、辞めるって言いましたよね」
その一言で、胸の奥が一段沈む。
後悔じゃない。
ただ、逃げ道が言葉として形を持っただけだ。
「……言いました」
思ったより、声は落ち着いていた。
自分でも少し驚く。
「本気ですか」
短い問い。
確認だ。試すでも、責めるでもない。
私は、答えを探すふりをしなかった。
探し始めたら、逃げる理由がいくらでも見つかる。
「……本気になる前提です」
口にした瞬間、胸の奥で何かが定まる。
完成していないからこそ、嘘じゃない言葉だった。
朝霧はすぐに評価を返さない。
歩調を崩さず、視線を前に置いたまま、次を待つ。
「市役所って、安定してますよね」
事実だ。
だから、言葉に棘はない。
「二十四歳で、そこを手放すのって……怖くないですか」
怖い。
それは、否定しようのない感覚だった。
庁舎の光景が脳裏をよぎる。
均一な照明。整えられた言葉。
間違えないことを前提にした毎日。
悪い場所じゃない。
でも、あそこでは私は――
完成したふりをした未完成のまま、年を重ねていく。
「怖いです」
声に、余計な飾りは乗らない。
「でも……戻ったら、多分、私は“何も始めなかった人”になります」
言い切った瞬間、喉の奥が少し痛む。
それでも、言葉は折れなかった。
朝霧が、小さく息を吐く。
「……それで、ですか」
本題に入る合図。
「歌手でも、モデルでも、声の仕事でも、演じる仕事でもなく」
一拍。
「アイドルを選んだ理由」
私は歩調を緩めない。
止まったら、言葉が崩れる気がした。
「未完成だからです」
迷いはなかった。
それは言い訳じゃない。選択だ。
朝霧の視線が、横から私を捉える。
続きを促す、静かな目。
「アイドルって……」
私は、視線を前に置いたまま続ける。
「最初から“出来ていること”を、求められない仕事だと思ってます」
駅前の大型ビジョンが目に入る。
磨かれた笑顔。整えられた輪郭。
あれは完成品だ。
でも、私が立ちたい場所は、そこじゃない。
「未完成であることが前提で、それを隠さず晒す仕事」
胸の奥に、熱が灯る。
衝動じゃない。覚悟に近い熱だ。
「技術が足りないことも、揺れていることも、失敗することも……全部、途中経過として見られる」
朝霧は口を挟まない。
その沈黙が、いちばん誠実だった。
「歌が上手いか、演技が出来るか、スタイルがいいか」
一つずつ、言葉を置く。
「それより先に、“立ち続けられるか”を見られる」
耐久。
逃げないこと。消えないこと。
評価が出なくても、そこにいること。
騙された夜。
消えてしまいたかった朝。
鏡を見られなかった日々。
それでも私は、今、ここを歩いている。
「失敗しても、それ込みで見られる」
声が、少しだけ強くなる。
「誤魔化さなくていい。完成したふりをしなくていい」
朝霧が、静かに言った。
「……相当きついですよ、それ」
「はい」
即答だった。
「きついの、分かってます」
駅の入り口が近づく。
人の流れが、さらに速くなる。
「でも」
私は、ほんの少しだけ顔を上げる。
「いまの私が、嘘をつかずに立てるのは、そこだけだと思いました」
未完成だから、逃げるんじゃない。
未完成だから、晒す。
朝霧はしばらく黙り、やがて短く言った。
「……なるほど」
軽くない言葉だった。
改札の前で、朝霧が足を止める。
「途中で逃げたら、一番きついですよ」
私は、きちんと頷く。
「だから、逃げない前提で来ました」
怖い。
それでも、立っている。
改札の向こうで、電車の音が鳴る。
人の流れは止まらない。
私は、その中へ踏み出す。
未完成のまま――
立ち続けるために。
背中に、さっきまでの部屋の重さが残っている。
でも、それはもう、私を押し戻す重さじゃなかった。
冷たい。
けれど、それは拒絶じゃない。
さっきまで肺の奥に溜まっていた、判断と数字と沈黙の匂いが、一気に外へ押し出される。
夕方の街は、もう帰る顔をしている。
足取りは速く、視線は前。
誰もが今日を終わらせる準備が整った身体で歩いている。
――私だけが、終わりを決められないまま。
人の流れに混じりながら、ほんの少し浮いている感覚があった。
隣を歩く朝霧は、相変わらず半歩前だ。
近づきすぎない。離れすぎない。
守ろうともしないし、突き放しもしない。
あの距離は、最初からずっと変わらない。
歩道のタイルが、靴底に規則正しく返ってくる。
その音が、面談で交わされた言葉を、少しずつ現実に戻していく。
条件。
期間。
結果が出なければ終わる、という当たり前の話。
理解していたはずなのに、胸の奥ではまだ、重たいものが揺れている。
駅前の人混みが見え始めたところで、朝霧が口を開いた。
「……面談のときの話なんですけど」
仕事の声だった。
でも、遮断するような硬さはない。
「市役所、辞めるって言いましたよね」
その一言で、胸の奥が一段沈む。
後悔じゃない。
ただ、逃げ道が言葉として形を持っただけだ。
「……言いました」
思ったより、声は落ち着いていた。
自分でも少し驚く。
「本気ですか」
短い問い。
確認だ。試すでも、責めるでもない。
私は、答えを探すふりをしなかった。
探し始めたら、逃げる理由がいくらでも見つかる。
「……本気になる前提です」
口にした瞬間、胸の奥で何かが定まる。
完成していないからこそ、嘘じゃない言葉だった。
朝霧はすぐに評価を返さない。
歩調を崩さず、視線を前に置いたまま、次を待つ。
「市役所って、安定してますよね」
事実だ。
だから、言葉に棘はない。
「二十四歳で、そこを手放すのって……怖くないですか」
怖い。
それは、否定しようのない感覚だった。
庁舎の光景が脳裏をよぎる。
均一な照明。整えられた言葉。
間違えないことを前提にした毎日。
悪い場所じゃない。
でも、あそこでは私は――
完成したふりをした未完成のまま、年を重ねていく。
「怖いです」
声に、余計な飾りは乗らない。
「でも……戻ったら、多分、私は“何も始めなかった人”になります」
言い切った瞬間、喉の奥が少し痛む。
それでも、言葉は折れなかった。
朝霧が、小さく息を吐く。
「……それで、ですか」
本題に入る合図。
「歌手でも、モデルでも、声の仕事でも、演じる仕事でもなく」
一拍。
「アイドルを選んだ理由」
私は歩調を緩めない。
止まったら、言葉が崩れる気がした。
「未完成だからです」
迷いはなかった。
それは言い訳じゃない。選択だ。
朝霧の視線が、横から私を捉える。
続きを促す、静かな目。
「アイドルって……」
私は、視線を前に置いたまま続ける。
「最初から“出来ていること”を、求められない仕事だと思ってます」
駅前の大型ビジョンが目に入る。
磨かれた笑顔。整えられた輪郭。
あれは完成品だ。
でも、私が立ちたい場所は、そこじゃない。
「未完成であることが前提で、それを隠さず晒す仕事」
胸の奥に、熱が灯る。
衝動じゃない。覚悟に近い熱だ。
「技術が足りないことも、揺れていることも、失敗することも……全部、途中経過として見られる」
朝霧は口を挟まない。
その沈黙が、いちばん誠実だった。
「歌が上手いか、演技が出来るか、スタイルがいいか」
一つずつ、言葉を置く。
「それより先に、“立ち続けられるか”を見られる」
耐久。
逃げないこと。消えないこと。
評価が出なくても、そこにいること。
騙された夜。
消えてしまいたかった朝。
鏡を見られなかった日々。
それでも私は、今、ここを歩いている。
「失敗しても、それ込みで見られる」
声が、少しだけ強くなる。
「誤魔化さなくていい。完成したふりをしなくていい」
朝霧が、静かに言った。
「……相当きついですよ、それ」
「はい」
即答だった。
「きついの、分かってます」
駅の入り口が近づく。
人の流れが、さらに速くなる。
「でも」
私は、ほんの少しだけ顔を上げる。
「いまの私が、嘘をつかずに立てるのは、そこだけだと思いました」
未完成だから、逃げるんじゃない。
未完成だから、晒す。
朝霧はしばらく黙り、やがて短く言った。
「……なるほど」
軽くない言葉だった。
改札の前で、朝霧が足を止める。
「途中で逃げたら、一番きついですよ」
私は、きちんと頷く。
「だから、逃げない前提で来ました」
怖い。
それでも、立っている。
改札の向こうで、電車の音が鳴る。
人の流れは止まらない。
私は、その中へ踏み出す。
未完成のまま――
立ち続けるために。
背中に、さっきまでの部屋の重さが残っている。
でも、それはもう、私を押し戻す重さじゃなかった。
