その丁寧さが、余計に怖い。
「事情があるのは分かる」――そう言われた瞬間、胸の奥に張り付いていた緊張が、ほんの一瞬だけ緩む。分かってもらえた気がして。許された気がして。許された気がしたから、言葉が喉の先まで上がってくる。
でも、それは落とし穴だ。
許されたと思った瞬間、人は一番弱い方向へ落ちる。自分を守る言葉を探し始める。事情を並べたくなる。説明したくなる。分かってほしくなる。
――それをやったら、終わる。
私は口を閉じる。閉じたまま、呼吸だけを整える。息を吸う。吐く。吐くとき、喉が少し鳴る。鳴った音が相手に聞こえないか、それだけが気になる。
神崎は、机の上のペットボトルを指で弾いた。
キャップの縁が、こつ、と鳴る。軽い音だ。指先にほとんど力を入れていない。なのに、その音が鳴った瞬間、部屋の空気だけが一段沈む。重力が、急に増したみたいに。
「――ただ」
神崎は、そこで声の温度を下げた。
怒っているわけじゃない。叱っているわけでもない。ただ、余分な熱を抜く。熱が抜けると、言葉は形になる。形になった言葉は、刃になる。
「“直せる”って分かった瞬間に、人生まで直せると思う子がいる」
直せる。人生まで。
言い方がはっきりしている。だから分かりやすい。分かりやすいから、逃げ場がない。私はその言葉を受け止める準備ができていないのに、言葉のほうが先に胸の内側へ踏み込んでくる。
「そういう子は、ここではすぐ折れる」
折れる。
たった三音の言葉なのに、胸の奥で何かがぎしりと鳴る。紙が折れる音じゃない。もっと硬いものが、無理に曲げられる音だ。
黒崎が、書類の端を指で揃え直す。
紙が擦れる。乾いた音。
感情を一切含まない音。
それが、この場所の基準音なんだと、私は遅れて理解する。
言いたくなる。
私はそうじゃない。
直したから強くなったなんて思ってない。
人生が直るなんて思ってない。
言葉は次々に浮かぶ。でも、浮かんだまま口にしない。口にした瞬間、それが「言い訳」になるのが分かっているからだ。言い訳だと思われるのが怖いんじゃない。言い訳を口にした自分を、自分自身が見たくない。
神崎は続ける。淡々と。誰かを裁く口調じゃない。ただ、事実を並べる声だ。
「顔を変えたら、次に何が起きる?」
問いかけるように言って、答えを待たない。
「周りの目が変わる。チャンスが増える。声をかけられる」
机の上に、言葉が一つずつ置かれていく。
「――そこまではいい」
そこまではいい。
その一言で、少しだけ空気が緩む。神崎が初めて「否定しない」側に立ったように聞こえたからだ。救いに聞こえた。だからこそ、余計に危ない。
「でもな」
一拍。
空調の風が、ブラインドをわずかに揺らす。光の筋が、机の端でほんの少しだけずれる。目に見えるほどの変化じゃない。それでも、「時間が進んだ」という感覚だけが、確かに残る。
「その先で、“これだけやったんだから報われるはず”って顔をする子がいる」
報われるはず。
私は、その言葉を心の中で反復する。
報われるはず。
報われるはず。
どこかで、私もそれを握りしめてここまで来た。痛みを我慢した。時間を使った。お金を使った。だから――と。
「報われなかったとき、何に怒ると思う?」
神崎が、こちらを見る。
試す目じゃない。
問い詰める目でもない。
ただ、冷静な目だ。
「世界に怒る。周りに怒る。運に怒る」
淡々と並べられる順番。
「最後に、自分に怒る」
その順番が、あまりに現実的で、喉の奥がひゅっと縮む。それはもう、私が何度も辿った順番だ。騙された夜から、眠れなかった朝から、鏡を見るたびに。
「その怒りは、才能じゃ埋まらない。根性でも埋まらない」
神崎は、そこで言葉を切る。
余計な説明をしない。
だから、言葉が残る。
「だから俺は、“作ったもの”に期待しない」
期待しない。
言い切る。
「作った顔が悪いって言ってるわけじゃない」
前置き。
でも、免罪符には聞こえない。これは刃を握り直す動作だ。
「悪いのは、“これで通るだろ”って顔をすることだ」
盾、という言葉は使わない。
それでも意味は同じだ。
私は、何も言わない。
言えばいい言葉はいくつもある。
私はそんなつもりじゃない、とか。
逃げてきたわけじゃない、とか。
でも、そのどれもが、ここでは「自分を守る言葉」になる。神崎が一番嫌う形だ。
「ここはな、宮坂さん」
名前を呼ばれる。
この顔で。
「“かわいそう”で残れる場所じゃない」
かわいそう。
胸の奥で、反射的に否定が走る。私はかわいそうじゃない。かわいそうでいたくない。かわいそうだと思われたくない。
「“頑張ってる”だけでも残れない」
頑張ってる。
私は頑張った。
でも、それを口にした瞬間、ここでは価値を失う。
「残るのは、結果が出るやつだけ」
言葉が置かれ、空気が張り付く。
張り付いたまま、誰も動かない。
深刻になりすぎる一歩手前。
――そこで。
「社長〜」
間延びした声が、ぽん、と落ちた。
朝霧だった。
肘をつくわけでもなく、姿勢を正すわけでもない。
ただ、思い出したみたいに口を開く。
「それ、例え話ですよね」
軽い。
本当に軽い。
「今の、“いじれる”とか“作る”とか」
語尾がふわっとしている。
深刻さを持ち込まないための話し方だ。
「極端なケースの話」
極端、という言葉で距離を取る。
「ここでやる話じゃないやつ」
神崎が、ゆっくりと朝霧を見る。
怒らない。
驚かない。
「……ああ」
短く息を吐く。
「そうだな」
それだけ。
たった一言で、空気が戻る。
深刻さが一段下がる。
神崎は、話を畳むように言う。
「話が逸れた」
逸れた、と自分で言うことで、矛先を戻す。
「要は、“何ができるか”だ」
黒崎が、すぐに書類を机の中央へ滑らせる。
紙が擦れる音が、現実を呼び戻す。
「条件を確認します」
そこから先は、数字と期限と現実の話だ。
私は、まだ何も言っていない。
それでも、確かなことが一つある。
――誰も私を指していない。
――でも、私だけが耐えている。
その事実が、胸の奥で静かに鳴っていた。
「事情があるのは分かる」――そう言われた瞬間、胸の奥に張り付いていた緊張が、ほんの一瞬だけ緩む。分かってもらえた気がして。許された気がして。許された気がしたから、言葉が喉の先まで上がってくる。
でも、それは落とし穴だ。
許されたと思った瞬間、人は一番弱い方向へ落ちる。自分を守る言葉を探し始める。事情を並べたくなる。説明したくなる。分かってほしくなる。
――それをやったら、終わる。
私は口を閉じる。閉じたまま、呼吸だけを整える。息を吸う。吐く。吐くとき、喉が少し鳴る。鳴った音が相手に聞こえないか、それだけが気になる。
神崎は、机の上のペットボトルを指で弾いた。
キャップの縁が、こつ、と鳴る。軽い音だ。指先にほとんど力を入れていない。なのに、その音が鳴った瞬間、部屋の空気だけが一段沈む。重力が、急に増したみたいに。
「――ただ」
神崎は、そこで声の温度を下げた。
怒っているわけじゃない。叱っているわけでもない。ただ、余分な熱を抜く。熱が抜けると、言葉は形になる。形になった言葉は、刃になる。
「“直せる”って分かった瞬間に、人生まで直せると思う子がいる」
直せる。人生まで。
言い方がはっきりしている。だから分かりやすい。分かりやすいから、逃げ場がない。私はその言葉を受け止める準備ができていないのに、言葉のほうが先に胸の内側へ踏み込んでくる。
「そういう子は、ここではすぐ折れる」
折れる。
たった三音の言葉なのに、胸の奥で何かがぎしりと鳴る。紙が折れる音じゃない。もっと硬いものが、無理に曲げられる音だ。
黒崎が、書類の端を指で揃え直す。
紙が擦れる。乾いた音。
感情を一切含まない音。
それが、この場所の基準音なんだと、私は遅れて理解する。
言いたくなる。
私はそうじゃない。
直したから強くなったなんて思ってない。
人生が直るなんて思ってない。
言葉は次々に浮かぶ。でも、浮かんだまま口にしない。口にした瞬間、それが「言い訳」になるのが分かっているからだ。言い訳だと思われるのが怖いんじゃない。言い訳を口にした自分を、自分自身が見たくない。
神崎は続ける。淡々と。誰かを裁く口調じゃない。ただ、事実を並べる声だ。
「顔を変えたら、次に何が起きる?」
問いかけるように言って、答えを待たない。
「周りの目が変わる。チャンスが増える。声をかけられる」
机の上に、言葉が一つずつ置かれていく。
「――そこまではいい」
そこまではいい。
その一言で、少しだけ空気が緩む。神崎が初めて「否定しない」側に立ったように聞こえたからだ。救いに聞こえた。だからこそ、余計に危ない。
「でもな」
一拍。
空調の風が、ブラインドをわずかに揺らす。光の筋が、机の端でほんの少しだけずれる。目に見えるほどの変化じゃない。それでも、「時間が進んだ」という感覚だけが、確かに残る。
「その先で、“これだけやったんだから報われるはず”って顔をする子がいる」
報われるはず。
私は、その言葉を心の中で反復する。
報われるはず。
報われるはず。
どこかで、私もそれを握りしめてここまで来た。痛みを我慢した。時間を使った。お金を使った。だから――と。
「報われなかったとき、何に怒ると思う?」
神崎が、こちらを見る。
試す目じゃない。
問い詰める目でもない。
ただ、冷静な目だ。
「世界に怒る。周りに怒る。運に怒る」
淡々と並べられる順番。
「最後に、自分に怒る」
その順番が、あまりに現実的で、喉の奥がひゅっと縮む。それはもう、私が何度も辿った順番だ。騙された夜から、眠れなかった朝から、鏡を見るたびに。
「その怒りは、才能じゃ埋まらない。根性でも埋まらない」
神崎は、そこで言葉を切る。
余計な説明をしない。
だから、言葉が残る。
「だから俺は、“作ったもの”に期待しない」
期待しない。
言い切る。
「作った顔が悪いって言ってるわけじゃない」
前置き。
でも、免罪符には聞こえない。これは刃を握り直す動作だ。
「悪いのは、“これで通るだろ”って顔をすることだ」
盾、という言葉は使わない。
それでも意味は同じだ。
私は、何も言わない。
言えばいい言葉はいくつもある。
私はそんなつもりじゃない、とか。
逃げてきたわけじゃない、とか。
でも、そのどれもが、ここでは「自分を守る言葉」になる。神崎が一番嫌う形だ。
「ここはな、宮坂さん」
名前を呼ばれる。
この顔で。
「“かわいそう”で残れる場所じゃない」
かわいそう。
胸の奥で、反射的に否定が走る。私はかわいそうじゃない。かわいそうでいたくない。かわいそうだと思われたくない。
「“頑張ってる”だけでも残れない」
頑張ってる。
私は頑張った。
でも、それを口にした瞬間、ここでは価値を失う。
「残るのは、結果が出るやつだけ」
言葉が置かれ、空気が張り付く。
張り付いたまま、誰も動かない。
深刻になりすぎる一歩手前。
――そこで。
「社長〜」
間延びした声が、ぽん、と落ちた。
朝霧だった。
肘をつくわけでもなく、姿勢を正すわけでもない。
ただ、思い出したみたいに口を開く。
「それ、例え話ですよね」
軽い。
本当に軽い。
「今の、“いじれる”とか“作る”とか」
語尾がふわっとしている。
深刻さを持ち込まないための話し方だ。
「極端なケースの話」
極端、という言葉で距離を取る。
「ここでやる話じゃないやつ」
神崎が、ゆっくりと朝霧を見る。
怒らない。
驚かない。
「……ああ」
短く息を吐く。
「そうだな」
それだけ。
たった一言で、空気が戻る。
深刻さが一段下がる。
神崎は、話を畳むように言う。
「話が逸れた」
逸れた、と自分で言うことで、矛先を戻す。
「要は、“何ができるか”だ」
黒崎が、すぐに書類を机の中央へ滑らせる。
紙が擦れる音が、現実を呼び戻す。
「条件を確認します」
そこから先は、数字と期限と現実の話だ。
私は、まだ何も言っていない。
それでも、確かなことが一つある。
――誰も私を指していない。
――でも、私だけが耐えている。
その事実が、胸の奥で静かに鳴っていた。
