扉を押した瞬間、空気が切り替わった。
冷房の冷たさではない。
もっと乾いた、仕事の匂いだ。
消臭剤と紙と、人の体温が混ざり、長く同じ場所に留まったまま攪拌されていない空気。
吸い込んだ途端、喉の奥が小さく鳴る。
音を立てないつもりだったが、身体のほうが先に反応した。
床は磨かれている。
光を跳ね返しすぎない程度に、きちんと手が入っている。
新しくはない。
だが、放置もされていない。
古さを受け入れながら、最低限の秩序だけを維持している床だ。
ここでは、時間も人も、等しく消耗されている。
受付カウンターは正面にあった。
高すぎず、低すぎず。
立つ側と座る側の力関係を、あらかじめ計算した高さ。
ここでは、頭を下げる側と、下げられる側が曖昧にならない。
カウンターの向こうに、女がいる。
最初に目に入ったのは、顔ではなく手だった。
キーボードの上を滑る指。
爪は短く、色はない。
装飾を削ぎ落とした指は、仕事の速度だけを残している。
視線は画面に固定され、こちらを迎え入れる準備はない。
歓迎の気配がないことが、ここでは正しい。
私は一歩、前に出る。
足音は床に吸われ、響かない。
響かない音は、この場所にとって都合がいい。
大きな音は、余計な存在感になる。
「……すみません」
声を出した途端、空間が反応した。
反響ではない。
吸収だ。
言葉が壁や床に吸い込まれ、戻ってこない。
ここでは、言葉は返答を約束されていない。
身体が先に、その仕組みを理解する。
女が顔を上げる。
視線が、私の顔に触れる。
一瞬。
呼吸一回分にも満たない時間。
それでも、十分だった。
輪郭をなぞり、目元で止まり、口元に落ち、すぐに外れる。
表情は動かない。
驚きも、評価も、嫌悪もない。
ただ、確認する。
確認が終われば、もう興味は残らないという速度。
「はい」
声は低く、乾いている。
愛想はないが、無礼でもない。
ここで必要なのは感情ではなく、処理だ。
私はバッグから名刺を取り出す。
紙の端が指に当たる。
わずかな痛みが、今は助けになる。
身体が、ここに存在していると理解できる。
「朝霧さんと……約束をしていて」
言い終わる前に、名刺を差し出す。
差し出すというより、置く。
相手の手に預けるほどの関係性は、まだない。
女は名刺を受け取り、視線を落とす。
印字された文字を、必要な分だけ拾う。
「朝霧、ですね」
名字だけ。
敬称はつかない。
ここでの距離が、その呼び方に滲む。
女は内線に手を伸ばす。
迷いがない。
番号を押す指が速い。
この動作を、何度も繰り返してきた指だ。
「朝霧。……来てる。……うん、“例の”」
――例の。
名前ではない。
肩書きでもない。
その曖昧さが、私を一瞬で「案件」に変える。
個人ではなく、処理対象。
処理される側は、理由を選べない。
受話器の向こうで何か返事があったらしい。
女は短く「はい」と言い、切る。
切ったあと、わずかに息を吐く。
その吐息には、微かな笑いが混じる。
楽しさではない。
疲労と皮肉が混ざったときに出る、癖のようなものだ。
「お掛けになって、お待ちください」
「……はい」
ソファに腰を下ろす。
硬い。
沈まない。
沈まない椅子は、逃がしてくれない。
姿勢が、そのまま露出する。
背筋を伸ばしても、誤魔化しは効かない。
誤魔化しのきかない場所ほど、人は自分の弱さを意識する。
女はもうこちらを見ない。
キーボードの音が再開される。
一定のリズム。
感情の介在しない音。
私は、その音に背中を預けられない。
待っているあいだ、視線の置き場に困る。
壁のポスターを見る。
地方イベント。
舞台。
ラジオ。
どれも派手ではない。
紙の角が、わずかに浮いている。
貼り替えられていないのではない。
貼り替える余裕がないのだと、分かる。
――ここは、余裕のない場所だ。
その事実が、少しだけ私を落ち着かせる。
余裕のない場所は、嘘をつかない。
嘘をつかない代わりに、優しくもしない。
足音が近づく。
その音は、さきほどの自分の足音よりも重く、
床に吸われず、確かに存在を主張していた。
冷房の冷たさではない。
もっと乾いた、仕事の匂いだ。
消臭剤と紙と、人の体温が混ざり、長く同じ場所に留まったまま攪拌されていない空気。
吸い込んだ途端、喉の奥が小さく鳴る。
音を立てないつもりだったが、身体のほうが先に反応した。
床は磨かれている。
光を跳ね返しすぎない程度に、きちんと手が入っている。
新しくはない。
だが、放置もされていない。
古さを受け入れながら、最低限の秩序だけを維持している床だ。
ここでは、時間も人も、等しく消耗されている。
受付カウンターは正面にあった。
高すぎず、低すぎず。
立つ側と座る側の力関係を、あらかじめ計算した高さ。
ここでは、頭を下げる側と、下げられる側が曖昧にならない。
カウンターの向こうに、女がいる。
最初に目に入ったのは、顔ではなく手だった。
キーボードの上を滑る指。
爪は短く、色はない。
装飾を削ぎ落とした指は、仕事の速度だけを残している。
視線は画面に固定され、こちらを迎え入れる準備はない。
歓迎の気配がないことが、ここでは正しい。
私は一歩、前に出る。
足音は床に吸われ、響かない。
響かない音は、この場所にとって都合がいい。
大きな音は、余計な存在感になる。
「……すみません」
声を出した途端、空間が反応した。
反響ではない。
吸収だ。
言葉が壁や床に吸い込まれ、戻ってこない。
ここでは、言葉は返答を約束されていない。
身体が先に、その仕組みを理解する。
女が顔を上げる。
視線が、私の顔に触れる。
一瞬。
呼吸一回分にも満たない時間。
それでも、十分だった。
輪郭をなぞり、目元で止まり、口元に落ち、すぐに外れる。
表情は動かない。
驚きも、評価も、嫌悪もない。
ただ、確認する。
確認が終われば、もう興味は残らないという速度。
「はい」
声は低く、乾いている。
愛想はないが、無礼でもない。
ここで必要なのは感情ではなく、処理だ。
私はバッグから名刺を取り出す。
紙の端が指に当たる。
わずかな痛みが、今は助けになる。
身体が、ここに存在していると理解できる。
「朝霧さんと……約束をしていて」
言い終わる前に、名刺を差し出す。
差し出すというより、置く。
相手の手に預けるほどの関係性は、まだない。
女は名刺を受け取り、視線を落とす。
印字された文字を、必要な分だけ拾う。
「朝霧、ですね」
名字だけ。
敬称はつかない。
ここでの距離が、その呼び方に滲む。
女は内線に手を伸ばす。
迷いがない。
番号を押す指が速い。
この動作を、何度も繰り返してきた指だ。
「朝霧。……来てる。……うん、“例の”」
――例の。
名前ではない。
肩書きでもない。
その曖昧さが、私を一瞬で「案件」に変える。
個人ではなく、処理対象。
処理される側は、理由を選べない。
受話器の向こうで何か返事があったらしい。
女は短く「はい」と言い、切る。
切ったあと、わずかに息を吐く。
その吐息には、微かな笑いが混じる。
楽しさではない。
疲労と皮肉が混ざったときに出る、癖のようなものだ。
「お掛けになって、お待ちください」
「……はい」
ソファに腰を下ろす。
硬い。
沈まない。
沈まない椅子は、逃がしてくれない。
姿勢が、そのまま露出する。
背筋を伸ばしても、誤魔化しは効かない。
誤魔化しのきかない場所ほど、人は自分の弱さを意識する。
女はもうこちらを見ない。
キーボードの音が再開される。
一定のリズム。
感情の介在しない音。
私は、その音に背中を預けられない。
待っているあいだ、視線の置き場に困る。
壁のポスターを見る。
地方イベント。
舞台。
ラジオ。
どれも派手ではない。
紙の角が、わずかに浮いている。
貼り替えられていないのではない。
貼り替える余裕がないのだと、分かる。
――ここは、余裕のない場所だ。
その事実が、少しだけ私を落ち着かせる。
余裕のない場所は、嘘をつかない。
嘘をつかない代わりに、優しくもしない。
足音が近づく。
その音は、さきほどの自分の足音よりも重く、
床に吸われず、確かに存在を主張していた。
