バカな男に騙された私が本当の自分を手に入れるまで

怖いのは、失敗することじゃない。
失敗は、もともと私の側にある。

怖いのは、試されることだ。

私という人間が、値札みたいに扱われること。
役に立つか、立たないか。
並べるか、外すか。

その視線に耐えられるほど、私は強くない。

強くないのに、行く。
行くと決めた瞬間から、胃が縮む。
縮んだ胃が、勝手に涙を押し出そうとする。

電車が揺れ、胸の奥で固まっていた記憶が擦れる。
浮かび上がるのは、あの言葉だ。

――財布。
――不細工と付き合うわけない。
――利用してただけ。

思い出したくない。
なのに、思い出す。

思い出すほど、腹が立つ。
腹が立つほど、悔しい。
悔しさが、目の奥に滲む。

私は顔を背け、窓の外を見るふりをする。
景色が流れていく。
流れていくのに、自分の中だけが引っかかる。

ハンカチを取り出し、目頭を軽く押さえる。
強く押さえない。
強くすると、溢れることを知っているからだ。

涙は、見せたくない。

弱いと思われたくないから、だけじゃない。
いまの涙は、この顔の上に乗ると、妙に無防備に見える。
無防備になるのが、怖い。
無防備になった瞬間、誰かが踏み込んでくる気がする。

踏み込まれるのは、もう嫌だ。

駅に着く。
降りる。
人の波に押される。

改札へ向かう通路には広告が並び、笑顔が並ぶ。
きらめく衣装。
均一な白い歯。
揃いすぎた輪郭。

私は広告を見ない。
見れば比較が始まる。
比較が始まれば、足が止まる。
足が止まれば、今日が元に戻ってしまう。

地上に出る。
排気の匂いが濃い。
ビルの谷間を抜ける風が冷たい。

歩道の速度は速い。
迷う人間は、置いていかれる。

私は置いていかれないために歩く。
歩きながら、バッグの中の名刺を確かめるように指が動く。
そこにある。
それだけで、少しだけ背筋が伸びる。

ビルの前に立つ。
住所を確認する。

エントランスのガラス扉は厚く、冷たい光を返している。
中は見えるのに、気持ちが追いつかない。

透明な壁は厄介だ。
見えるから想像してしまう。
想像するから、怖くなる。

私は一度、息を吐く。
吐いた息が、見えた気がした。

扉に手をかける。
冷たい。

その冷たさが、助けになる。
余計な感情を、一瞬だけ止めてくれる。

扉を押す。

ここは、笑顔の練習場じゃない。
歓迎される場所でもない。

判断される場所だ。

それを分かっている。
分かっているのに、足が前へ出る。

名刺を取り出し、握り直す。
紙が湿っている。
汗だ。

涙は乾いたのに、汗は今から出る。

昨夜のことがよぎる。
電話が切れたあとの静けさ。
泣いて、泣いて、最後に残った言葉。

――挑戦したかったんだ。

その言葉は、もう熱じゃない。
胸に打ち込まれた釘みたいに、そこにある。
痛い。
でも、抜けない。

抜けないから、立っていられる。

受付のカウンターの向こうで、人の気配が動く。
視線が、こちらを捉える。

私は息を吸う。
口を開く準備をする。

声を出すのは、いつだって怖い。
けれど、声を出さなければ、私はまた透明になる。

透明にならないために、ここまで来た。

だから。

「……すみません」

声が出る。
小さく、かすれて、頼りない。

それでも、確かに私の声だ。

その瞬間、
さっきまでの涙の滲みが、別の形に変わる。

悔しさでも、恥ずかしさでもない。

――始まってしまう、という予感。

甘いものはない。
優しい保証もない。

でも、逃げる場所もいらない。

私は、自分の名前を言うために、もう一度息を吸った。

中の空気は、外と違う。
乾いていて、整っている。

磨かれた床。
落ち着いた照明。
受付の位置。

香りじゃない。
消臭と紙と、人の体温が混ざった、働く場所の匂い。

足を踏み入れた瞬間、
喉の奥が、きゅっと鳴った。

――ここからだ。

そう思っただけで、
胸の奥が、静かに震えていた。