朝の光は、優しくない。
カーテンの隙間から差し込む白さが、夜の余韻を薄い皮のように剥がしていく。目覚ましより先に目が覚めたのは、眠りが浅かったせいだ。体は休んだはずなのに、芯だけが起き切っていない。喉が渇く。舌の奥に、昨日の涙の塩気がまだ残っている気がした。
起き上がって、足を床につける。冷たい。足裏の冷えが、ぼやけた思考を少しだけ並べ直す。
洗面所の照明をつける。鏡は、もうそこにいる。
私は鏡を正面から見る前に、歯ブラシを口に入れた。泡が増える。口をゆすぐ。水を吐く。蛇口の音がやけに大きい。部屋が静かだからじゃない。私の耳が、まだ過敏なままだ。
顔を上げる。
鏡の中の女は、相変わらず私を知らない顔をしている。目の位置は同じはずなのに、視線の当たり方が違う。輪郭は整っているのに、居場所がない。部屋に置き忘れた新しい家具みたいに、「ある」だけで、まだ馴染んでいない。
昨夜のことが、断片で戻ってくる。
通話が切れたあとの静けさ。
胸の奥の結び目がほどけていく感覚。
涙が、勝手に落ちたこと。
――挑戦したい。
あの言葉は、寝て起きたら消える種類の感情じゃなかった。けれど朝になれば熱は薄まる。薄まるぶん、輪郭だけが残る。夜みたいに勢いで押し切れない。朝は容赦なく、形だけを突きつけてくる。
メイクをする。
下地を伸ばす指が、一瞬止まった。肌の張りが違う。粉の乗りが違う。アイラインを引く角度が、いつもの手癖と噛み合わない。慣れた動作が、この顔では通用しない。小さなズレが、ひとつひとつ不快に残る。
服を選ぶ。
派手にはしない。
でも地味すぎると、顔だけが浮く。
浮くのが怖い。
怖いから無難を取る。
無難を選んだ自分に、少し腹が立つ。
その腹立ちに気づいた瞬間、妙に可笑しくなった。腹が立つということは、まだ「どうでもいい」に落ちていない。どうでもいい、になったら終わりだ。今日はまだ、終わらせたくない。
テーブルの上に、名刺がある。昨夜置いたままの白い紙。黒い文字。紙一枚のくせに、視界の端でずっと主張している。そこに書かれた社名と名前が、私の今日を引っ張っている。
バッグに入れる。折らないように、内ポケットへ差し込む。
それだけの動作なのに、指先が硬くなる。
玄関を出る。鍵をかける。
外の空気は冷えていて、洗剤と排気の匂いが混ざっている。建物の隙間を風が抜け、髪が頬に当たる。肌に触れるものが増えるほど、緊張が立ち上がる。緊張はいつも、思考より先に皮膚から来る。
駅まで歩く。
足裏が地面を叩く音が、いつもよりはっきり聞こえる。歩道のタイルが、やけにきれいに並んでいる。整いすぎているものは、時々落ち着かない。
改札を抜ける。人の流れに飲まれる。
制服、スーツ、私服。誰もが「自分の用事」という透明な壁をまとっている。私はその壁を持っていない気がして、肩がすくむ。すくんだまま、それでも進む。
階段を上がる途中、ガラスに映る自分が視界の端に引っかかる。
知らない輪郭。
整いすぎた線。
その線の中に収まりきらない目。
今の私は、きれいな器だけ先にできて、中身が追いついていない。
ホームに出ると、風が冷たい。遠くでブレーキ音が鳴り、金属の擦れる音が骨のあたりまで響く。私は列に並び、吊り革の位置を確認しながら、呼吸を整えるふりをする。
隣に立った男が、ほんの一瞬こちらを見る。視線が顔で止まり、遅れて逸れる。その遅れが針みたいに刺さる。刺さってから、意味が追いかけてくる。
私は目をそらし、スマートフォンを見るふりをする。画面を眺めても内容は入ってこない。盾にならないのに、盾みたいに持つ。
電車が入ってくる。風が強まり、髪が揺れる。扉が開き、人が流れ込む。私も乗る。車内は暖かい。暖かいのに、指先だけが冷たい。
窓に自分が映る。
車内の光で、肌がなめらかに見える。
そのなめらかさが、急に腹立たしい。
――ここまでしても、まだ怖いのか。
カーテンの隙間から差し込む白さが、夜の余韻を薄い皮のように剥がしていく。目覚ましより先に目が覚めたのは、眠りが浅かったせいだ。体は休んだはずなのに、芯だけが起き切っていない。喉が渇く。舌の奥に、昨日の涙の塩気がまだ残っている気がした。
起き上がって、足を床につける。冷たい。足裏の冷えが、ぼやけた思考を少しだけ並べ直す。
洗面所の照明をつける。鏡は、もうそこにいる。
私は鏡を正面から見る前に、歯ブラシを口に入れた。泡が増える。口をゆすぐ。水を吐く。蛇口の音がやけに大きい。部屋が静かだからじゃない。私の耳が、まだ過敏なままだ。
顔を上げる。
鏡の中の女は、相変わらず私を知らない顔をしている。目の位置は同じはずなのに、視線の当たり方が違う。輪郭は整っているのに、居場所がない。部屋に置き忘れた新しい家具みたいに、「ある」だけで、まだ馴染んでいない。
昨夜のことが、断片で戻ってくる。
通話が切れたあとの静けさ。
胸の奥の結び目がほどけていく感覚。
涙が、勝手に落ちたこと。
――挑戦したい。
あの言葉は、寝て起きたら消える種類の感情じゃなかった。けれど朝になれば熱は薄まる。薄まるぶん、輪郭だけが残る。夜みたいに勢いで押し切れない。朝は容赦なく、形だけを突きつけてくる。
メイクをする。
下地を伸ばす指が、一瞬止まった。肌の張りが違う。粉の乗りが違う。アイラインを引く角度が、いつもの手癖と噛み合わない。慣れた動作が、この顔では通用しない。小さなズレが、ひとつひとつ不快に残る。
服を選ぶ。
派手にはしない。
でも地味すぎると、顔だけが浮く。
浮くのが怖い。
怖いから無難を取る。
無難を選んだ自分に、少し腹が立つ。
その腹立ちに気づいた瞬間、妙に可笑しくなった。腹が立つということは、まだ「どうでもいい」に落ちていない。どうでもいい、になったら終わりだ。今日はまだ、終わらせたくない。
テーブルの上に、名刺がある。昨夜置いたままの白い紙。黒い文字。紙一枚のくせに、視界の端でずっと主張している。そこに書かれた社名と名前が、私の今日を引っ張っている。
バッグに入れる。折らないように、内ポケットへ差し込む。
それだけの動作なのに、指先が硬くなる。
玄関を出る。鍵をかける。
外の空気は冷えていて、洗剤と排気の匂いが混ざっている。建物の隙間を風が抜け、髪が頬に当たる。肌に触れるものが増えるほど、緊張が立ち上がる。緊張はいつも、思考より先に皮膚から来る。
駅まで歩く。
足裏が地面を叩く音が、いつもよりはっきり聞こえる。歩道のタイルが、やけにきれいに並んでいる。整いすぎているものは、時々落ち着かない。
改札を抜ける。人の流れに飲まれる。
制服、スーツ、私服。誰もが「自分の用事」という透明な壁をまとっている。私はその壁を持っていない気がして、肩がすくむ。すくんだまま、それでも進む。
階段を上がる途中、ガラスに映る自分が視界の端に引っかかる。
知らない輪郭。
整いすぎた線。
その線の中に収まりきらない目。
今の私は、きれいな器だけ先にできて、中身が追いついていない。
ホームに出ると、風が冷たい。遠くでブレーキ音が鳴り、金属の擦れる音が骨のあたりまで響く。私は列に並び、吊り革の位置を確認しながら、呼吸を整えるふりをする。
隣に立った男が、ほんの一瞬こちらを見る。視線が顔で止まり、遅れて逸れる。その遅れが針みたいに刺さる。刺さってから、意味が追いかけてくる。
私は目をそらし、スマートフォンを見るふりをする。画面を眺めても内容は入ってこない。盾にならないのに、盾みたいに持つ。
電車が入ってくる。風が強まり、髪が揺れる。扉が開き、人が流れ込む。私も乗る。車内は暖かい。暖かいのに、指先だけが冷たい。
窓に自分が映る。
車内の光で、肌がなめらかに見える。
そのなめらかさが、急に腹立たしい。
――ここまでしても、まだ怖いのか。
