私は、唇を噛んだ。
噛んだ感触は確かにあるのに、痛みが追いつかない。
それは、心のほうが先に固くなっていたからだ。
「話を聞くだけ」
その言葉は、罠みたいに優しい。
優しい言葉ほど、人を深く引きずり込む。
私は、そういうものに何度も足を取られてきた。
けれど、この数日で、ひとつだけ分かったことがある。
私は、
どこにも引きずり込まれたくないくせに、
自分からどこにも入っていけないまま、
ずっと、何かを待っていた。
何を待っていたのかは分からない。
分からないのに、
「待っていた」という感覚だけが、妙に正しい。
その感覚が、胸の奥でひとつ、静かに息をする。
「……私」
声が震える。
でも、それは怖さからじゃない。
言葉が、ようやく自分の内側と繋がろうとしている震えだ。
受話口の向こうで、相良は急かさない。
「はい」
それだけの返事。
けれど、その一言で、胸の内の緊張が少し緩む。
喋っていい。
間違えてもいい。
そう許可されたような気がした。
「……本当に、話を聞くだけ、ですか」
小さな確認。
小さな防御。
「はい。聞くだけで大丈夫です。
無理に決める必要はありません」
即答だった。
迷いがないのに、押しつけがましくない。
駅前で保っていた、あの距離感と同じだ。
私は目を閉じる。
まぶたの裏に、この数日間の街が浮かぶ。
ガラスに映る知らない顔。
すれ違う人の、長く留まる視線。
それを受け止めきれない自分。
受け止めきれないまま、一日を終わらせる自分。
私は、どこにも行っていない。
顔だけが先に進んで、私はずっと取り残されている。
その置き去りにされ方が、もう耐えられなかった。
そう気づくまでに、数日かかった。
「……いつ、ですか」
口から出たのは、日程を問う言葉だった。
感情じゃない。
でも、それでいい。
今の私は、感情をそのまま扱えるほど、器用じゃない。
相良の声が、わずかに明るくなる。
派手な喜びじゃない。
電球がひとつ点いたくらいの、安心の色。
「ご都合に合わせます。
お仕事終わりでも、休日でも。
短い時間でも構いません」
私は天井を見る。
白いだけの天井。
それだけなのに、不思議と呼吸が楽になる。
日程が決まり、場所が決まる。
必要最低限の言葉だけが、淡々と積み上がっていく。
会話は長くならない。
それは、相良が空気を読んだからじゃない。
彼がまだ、「言葉で相手を動かす技術」を持っていないからだ。
技術がないぶん、余計な飾りがない。
飾りがないから、私は勝手に意味を盛らずに済む。
「それでは、当日。お待ちしております」
「……はい」
通話が切れる音。
画面が暗くなる。
静けさが、部屋に戻ってくる。
換気扇の音だけが続き、
遠くで車の走行音が、波のように揺れている。
私はスマートフォンを膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
何かが劇的に変わったわけじゃない。
電話をした。
話をした。
約束がひとつ、できただけ。
それだけ。
それだけなのに、
胸の奥が、ゆっくりほどけていく。
固く結んでいた紐が、
誰にも触れられない場所で、静かに緩み始める。
音はしない。
音がしないから、少し怖い。
気づいたらほどけていた、という変化が、いちばん怖い。
私は、テーブルの上の名刺を見る。
白い紙。
黒い文字。
人の名前。
朝霧。
駅前で名刺を差し出したときの、
あの不器用な角度が思い出される。
あのとき私は、名刺をただの紙として見ていた。
“世界の入口”だと認めてしまったら、
怖くて触れられなかったからだ。
私は、ずっとそうしてきた。
怖いものを、意味のないものとして扱う。
人を。
言葉を。
チャンスを。
意味を持たせた瞬間、
手が届かないことがはっきりしてしまうから。
でも、今は違う。
意味を持たせないようにしていたはずの名刺が、
音になり、
会話になり、
約束になった。
そこまで来て、ようやく身体が追いつく。
目の奥が熱い。
悲しいわけじゃない。
嬉しいわけでもない。
どちらの言葉も、今の感覚には合わない。
私はただ、
ずっと呼吸を止めていたのだと気づく。
数日だけじゃない。
もっと長い時間。
人生のあちこちで、何度も。
止めて、止めて、
止めたまま平気な顔で暮らしてきた。
止めていた呼吸が、今、戻ってくる。
戻るとき、身体は少し痛む。
涙が、こぼれた。
無理に出したわけじゃない。
目の奥に溜まっていたものが、
重力に従って落ちるだけ。
頬を伝う温度が、思ったより熱い。
私は顔を覆う。
覆っても、涙は指の隙間から落ちる。
肩が、かすかに震える。
泣くつもりはなかった。
泣いたって、過去が消えるわけじゃない。
それでも、涙は止まらない。
この数日、
私は“新しい顔”で街を歩きながら、
ずっと古い自分を置き去りにしてきた。
下を向く自分。
先に謝る自分。
好かれることでしか価値を測れない自分。
選ばれなければ終わりだと思っていた自分。
嫌っていた。
嫌っているのに、捨てられなかった。
だから顔だけを変えた。
顔を変えれば、
古い自分も一緒に消えると思った。
消えなかった。
消えないまま、
街の視線だけが変わった。
視線が変わると、
古い自分は、さらに小さくなる。
小さくなるのに、消えない。
それが、苦しかった。
苦しさを、私は言葉にしなかった。
言葉にしたら、
もっと壊れる気がしたから。
でも今、
それは涙になって出ている。
涙は、言葉より先に正直だ。
何が欲しいのか分からないまま、
身体だけが、答えを出している。
私は、泣きながら笑いそうになる。
たった一本の電話で、
こんなふうになるなんて。
でも、あれは“たった一本”じゃない。
ここ数日、
私の身体に刺さり続けていた視線の針を、
一本だけ抜いた行為だった。
一本抜けただけなのに、血が出る。
それだけ、深く刺さっていたということだ。
私は息を吐く。
吐いた息が、少し震える。
涙が落ち着くころ、
胸の奥に、小さな空白ができる。
空白は、本来なら怖い。
でも今は、少しだけ心地いい。
詰め込みすぎていた場所に、
初めて言葉が落ちてくる。
——挑戦したかったんだ。
声に出す前に、確信が先に来る。
確信は、熱を伴わない。
ただ、事実としてそこにある。
挑戦したかった。
誰かに勝つためじゃない。
誰かを見返すためでもない。
ただ——
この顔で、
何も起きないまま生き続けるのが、怖かった。
怖い。
でも、
怖いと言えるようになったことが、少し嬉しい。
怖いと言えたら、
次にできることが増える。
私は、濡れた頬を手の甲で拭う。
拭っても、少し遅れてまた滲む。
それを、もう止めようとしない。
止めない。
止めない、という選択ができるのが、今夜の私だ。
私は立ち上がり、キッチンへ行く。
さっき使ったコップを洗う。
水の音が、現実をつなぎ留める。
指先が冷たくなり、
頭の奥が、少し冴える。
鏡は見ない。
見るには、まだ早い。
でも、いつか見る。
この顔を、逃げずに見る日が来る。
そう思えるだけで、今は十分だった。
照明を落とし、寝室へ向かう。
ベッドに腰を下ろし、靴下を脱ぐ。
足の裏にシーツの冷たさが触れ、
布が、そっと肌を撫でる。
横になり、天井を見る。
天井は何も言わない。
何も言わないのに、
そこにあるだけで、少し落ち着く。
私は呼吸を確かめる。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
呼吸は、今夜の私の味方だ。
挑戦したかった。
その気持ちに、今日、遅れて気づいた。
遅れて気づくのは、悪いことじゃない。
むしろ、遅れてでも気づけたことが、
私にとっては初めての勝利かもしれない。
勝利、なんて言葉はまだ気恥ずかしい。
でも、気恥ずかしさが残っているうちは、
私はまだ、人間だ。
私は目を閉じる。
涙の熱が、まだ頬に残っている。
その熱が、明日になれば消えるかもしれない。
それでも、約束は残る。
約束があるというだけで、
夜は、少しだけ薄くなる。
息を吐く。
暗闇は、私を押し潰さない。
今夜の私は、
挑戦したいと思った自分を、
否定しなかった。
それだけで、
十分だと思えた。
噛んだ感触は確かにあるのに、痛みが追いつかない。
それは、心のほうが先に固くなっていたからだ。
「話を聞くだけ」
その言葉は、罠みたいに優しい。
優しい言葉ほど、人を深く引きずり込む。
私は、そういうものに何度も足を取られてきた。
けれど、この数日で、ひとつだけ分かったことがある。
私は、
どこにも引きずり込まれたくないくせに、
自分からどこにも入っていけないまま、
ずっと、何かを待っていた。
何を待っていたのかは分からない。
分からないのに、
「待っていた」という感覚だけが、妙に正しい。
その感覚が、胸の奥でひとつ、静かに息をする。
「……私」
声が震える。
でも、それは怖さからじゃない。
言葉が、ようやく自分の内側と繋がろうとしている震えだ。
受話口の向こうで、相良は急かさない。
「はい」
それだけの返事。
けれど、その一言で、胸の内の緊張が少し緩む。
喋っていい。
間違えてもいい。
そう許可されたような気がした。
「……本当に、話を聞くだけ、ですか」
小さな確認。
小さな防御。
「はい。聞くだけで大丈夫です。
無理に決める必要はありません」
即答だった。
迷いがないのに、押しつけがましくない。
駅前で保っていた、あの距離感と同じだ。
私は目を閉じる。
まぶたの裏に、この数日間の街が浮かぶ。
ガラスに映る知らない顔。
すれ違う人の、長く留まる視線。
それを受け止めきれない自分。
受け止めきれないまま、一日を終わらせる自分。
私は、どこにも行っていない。
顔だけが先に進んで、私はずっと取り残されている。
その置き去りにされ方が、もう耐えられなかった。
そう気づくまでに、数日かかった。
「……いつ、ですか」
口から出たのは、日程を問う言葉だった。
感情じゃない。
でも、それでいい。
今の私は、感情をそのまま扱えるほど、器用じゃない。
相良の声が、わずかに明るくなる。
派手な喜びじゃない。
電球がひとつ点いたくらいの、安心の色。
「ご都合に合わせます。
お仕事終わりでも、休日でも。
短い時間でも構いません」
私は天井を見る。
白いだけの天井。
それだけなのに、不思議と呼吸が楽になる。
日程が決まり、場所が決まる。
必要最低限の言葉だけが、淡々と積み上がっていく。
会話は長くならない。
それは、相良が空気を読んだからじゃない。
彼がまだ、「言葉で相手を動かす技術」を持っていないからだ。
技術がないぶん、余計な飾りがない。
飾りがないから、私は勝手に意味を盛らずに済む。
「それでは、当日。お待ちしております」
「……はい」
通話が切れる音。
画面が暗くなる。
静けさが、部屋に戻ってくる。
換気扇の音だけが続き、
遠くで車の走行音が、波のように揺れている。
私はスマートフォンを膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
何かが劇的に変わったわけじゃない。
電話をした。
話をした。
約束がひとつ、できただけ。
それだけ。
それだけなのに、
胸の奥が、ゆっくりほどけていく。
固く結んでいた紐が、
誰にも触れられない場所で、静かに緩み始める。
音はしない。
音がしないから、少し怖い。
気づいたらほどけていた、という変化が、いちばん怖い。
私は、テーブルの上の名刺を見る。
白い紙。
黒い文字。
人の名前。
朝霧。
駅前で名刺を差し出したときの、
あの不器用な角度が思い出される。
あのとき私は、名刺をただの紙として見ていた。
“世界の入口”だと認めてしまったら、
怖くて触れられなかったからだ。
私は、ずっとそうしてきた。
怖いものを、意味のないものとして扱う。
人を。
言葉を。
チャンスを。
意味を持たせた瞬間、
手が届かないことがはっきりしてしまうから。
でも、今は違う。
意味を持たせないようにしていたはずの名刺が、
音になり、
会話になり、
約束になった。
そこまで来て、ようやく身体が追いつく。
目の奥が熱い。
悲しいわけじゃない。
嬉しいわけでもない。
どちらの言葉も、今の感覚には合わない。
私はただ、
ずっと呼吸を止めていたのだと気づく。
数日だけじゃない。
もっと長い時間。
人生のあちこちで、何度も。
止めて、止めて、
止めたまま平気な顔で暮らしてきた。
止めていた呼吸が、今、戻ってくる。
戻るとき、身体は少し痛む。
涙が、こぼれた。
無理に出したわけじゃない。
目の奥に溜まっていたものが、
重力に従って落ちるだけ。
頬を伝う温度が、思ったより熱い。
私は顔を覆う。
覆っても、涙は指の隙間から落ちる。
肩が、かすかに震える。
泣くつもりはなかった。
泣いたって、過去が消えるわけじゃない。
それでも、涙は止まらない。
この数日、
私は“新しい顔”で街を歩きながら、
ずっと古い自分を置き去りにしてきた。
下を向く自分。
先に謝る自分。
好かれることでしか価値を測れない自分。
選ばれなければ終わりだと思っていた自分。
嫌っていた。
嫌っているのに、捨てられなかった。
だから顔だけを変えた。
顔を変えれば、
古い自分も一緒に消えると思った。
消えなかった。
消えないまま、
街の視線だけが変わった。
視線が変わると、
古い自分は、さらに小さくなる。
小さくなるのに、消えない。
それが、苦しかった。
苦しさを、私は言葉にしなかった。
言葉にしたら、
もっと壊れる気がしたから。
でも今、
それは涙になって出ている。
涙は、言葉より先に正直だ。
何が欲しいのか分からないまま、
身体だけが、答えを出している。
私は、泣きながら笑いそうになる。
たった一本の電話で、
こんなふうになるなんて。
でも、あれは“たった一本”じゃない。
ここ数日、
私の身体に刺さり続けていた視線の針を、
一本だけ抜いた行為だった。
一本抜けただけなのに、血が出る。
それだけ、深く刺さっていたということだ。
私は息を吐く。
吐いた息が、少し震える。
涙が落ち着くころ、
胸の奥に、小さな空白ができる。
空白は、本来なら怖い。
でも今は、少しだけ心地いい。
詰め込みすぎていた場所に、
初めて言葉が落ちてくる。
——挑戦したかったんだ。
声に出す前に、確信が先に来る。
確信は、熱を伴わない。
ただ、事実としてそこにある。
挑戦したかった。
誰かに勝つためじゃない。
誰かを見返すためでもない。
ただ——
この顔で、
何も起きないまま生き続けるのが、怖かった。
怖い。
でも、
怖いと言えるようになったことが、少し嬉しい。
怖いと言えたら、
次にできることが増える。
私は、濡れた頬を手の甲で拭う。
拭っても、少し遅れてまた滲む。
それを、もう止めようとしない。
止めない。
止めない、という選択ができるのが、今夜の私だ。
私は立ち上がり、キッチンへ行く。
さっき使ったコップを洗う。
水の音が、現実をつなぎ留める。
指先が冷たくなり、
頭の奥が、少し冴える。
鏡は見ない。
見るには、まだ早い。
でも、いつか見る。
この顔を、逃げずに見る日が来る。
そう思えるだけで、今は十分だった。
照明を落とし、寝室へ向かう。
ベッドに腰を下ろし、靴下を脱ぐ。
足の裏にシーツの冷たさが触れ、
布が、そっと肌を撫でる。
横になり、天井を見る。
天井は何も言わない。
何も言わないのに、
そこにあるだけで、少し落ち着く。
私は呼吸を確かめる。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
呼吸は、今夜の私の味方だ。
挑戦したかった。
その気持ちに、今日、遅れて気づいた。
遅れて気づくのは、悪いことじゃない。
むしろ、遅れてでも気づけたことが、
私にとっては初めての勝利かもしれない。
勝利、なんて言葉はまだ気恥ずかしい。
でも、気恥ずかしさが残っているうちは、
私はまだ、人間だ。
私は目を閉じる。
涙の熱が、まだ頬に残っている。
その熱が、明日になれば消えるかもしれない。
それでも、約束は残る。
約束があるというだけで、
夜は、少しだけ薄くなる。
息を吐く。
暗闇は、私を押し潰さない。
今夜の私は、
挑戦したいと思った自分を、
否定しなかった。
それだけで、
十分だと思えた。
