――ここは、あなたの暮らす時代とさほど変わらぬようでいて、少しばかり事情の異なる世界である。
カクーノ国リソーノ市トーゲン町。
平和ボケした辺境の町にあるこの小さな教会では、懺悔とは名ばかりの呑気な告白が行われるばかりで、告解室はお悩み相談室と化している。
「……なるほど。事情はわかりました」
この教会の神父である私・ルカは28歳。
ソレラシー教の神にお仕えしてまだ3年の若輩者だが、今日も今日とて悩める子羊のために弁舌を振るっていた。
「先日お話されていたこの街の集団お見合いパーティーで知り合った女性に、どこまで踏み込んでいいかわからないというわけですね」
「はい……」
格子窓の向こうで、匿名希望の相談者が力なく頷いた。今週2度目のお悩み相談にやってきた彼のことは、勝手にT.K君と呼んでいる。匿名、希望、だからだ。
王都の会社にお勤めという立派な彼の実家はトーゲン町にあるらしく、帰省のたびにこの教会にも顔を出している。
私は奥手のビジネスパーソンに尋ねた。
「確認ですが、あなたは誠実に彼女と向き合っており、幸せに出来る自信はあるんですよね?」
「っ、もちろんです。年収は1000万エン、王都に持ち家、理解ある職場で育休は3年取得可能です! スゴクタカイ山の頂上からだって叫べるほどの大きな愛があります!」
「この上ない優良物件! よろしい!」
私は椅子から立ち上がり叫んだ。
「では、彼女を抱きなさい!!」
「わかりまし――ええ〜〜っ!? い、いきなり何をおっしゃるんですか……!」
「結婚に一番大事なのは条件でしょう。彼女に今のあなたを拒む理由などないはず。それに愛というものは……深い。時には理屈より先に体感することもあるのでは?」
「っ……わかりました、神父様! 今すぐ夜景が見える素敵な宿を押さえてきます!」
「えっ? あっ、ちょっと待ちなさ――」
T.K君は勢いよく告解室の戸を開け、出ていってしまった。
それも仕方のないことだ、ソレラシー教の聖典には『人の話は最後まで聞くこと』という教えは書かれていないのだから。
(それくらいの強気でいきなさい、という例えのつもりだったのですが……)
「……ま、いいでしょう。これでダメになるなら、運命ではなかったということで」
神よ、彼をいい感じにお導きください。
狭苦しい個室の戸を開けると、この教会で面倒を見ている4歳児・リーナが目の前に立っていた。黄緑色の簡素なワンピースを着て、こげ茶の髪を頭のてっぺんで結んでいるジト目幼女である。
彼女は悩める子羊こと相談者を、この小部屋まで案内する役目を引き受けてくれているのだ。
「しんぷさま。のこりのこひつじ、ぜろひき」
「そうですか、ご苦労様。……では、一服するとしましょう」
告解室の椅子から聖堂へ足を投げ出し、黒の平服のポケットから煙草とマッチを取り出す。火を点け、深く煙を吸い込み細く吐き出すと、東国の山奥に住み悟りを開いたという仙人とやらにでもなった気分だ。
「はぁー……至福の時……。ニコチンとタールのマリアージュが肺胞の最深部にまで沁み渡る……」
ちなみに、この煙草はとある“友人”が個人的にくれるもので、決して寄付金を使い込んでいるわけではないことをここにお断りしておく。
決して広くはない上に古びてはいるが、ここはそれなりに立派な木造の教会だ。聖堂の最奥には、壁にはめ込まれたステンドグラスがある。それは昼過ぎの日差しを虹色に透かし、私の白銀の髪まで染めているのだろう。
そういえば、私の瞳は青いというのに何故すべての景色が青く見えないのだろうか……。
人が高尚な思索をしながら値上がりするばかりの最高級の嗜好品を味わっている時に限って、子どもたちというのはがやがやと集団でやってくるものである。告解室の向かい、聖堂の反対側の壁には彼らの生活棟と繋がる扉があるのだ。
「あー! また吸ってるな、不良神父」
「そこの男児、黙りなさい。労働の後の唯一の愉しみをとやかく言われる筋合いはありませんよ。有害物質を吸い込まないうちに外で遊んできなさい。リーナも行くんですよ。ほら、しっしっ」
手の甲をひらひらと動かし彼らを追い払う仕草を見せると、活発でお調子者の男児がにやりと笑う。
「でもさー、今は煙草やめた方がいいぜ。もうすぐお姉さんが来るから。さっき窓から車が見えたんだ。……しかも、今日はパパも一緒」
「なっ……それを早く言いなさい!」
まだ長い煙草を慌てて携帯灰皿に突っ込み、近寄ってきた子どもたちの肩を掴んで順次Uターンさせる。
「窓を開けるんですよ、窓を! ほら煙を出して!」
「貸しだからなー、神父様」
手分けして教会の両側にある窓という窓を開け、脱いだ平服でパタパタと煙を追いやる。……ご安心ください、もちろん下には着ています。
そして、祭壇の裏に置いていた石鹸の香りが残る予備のものに着替えた時、ちょうど正面の大扉が開いてひとりの女性が現れた。
女神か、天使か、もしくはその両方を足して2で割り聖母風に仕上げたかのような慈愛に満ちた笑顔を浮かべている彼女は、アンナ・エーレンベルク嬢。
私が神父になる前――5年ほど前から新たにこの地の領主となられ、教会に多額の寄付をしてくださっているエーレンベルク家のお嬢様だ。
年は、確か20歳になられたばかりのはずである。艶のある長い小麦色の髪に合う、薄紫のワンピースをお召しになっていた。
アンナ嬢は私へと近付き、にこりと微笑む。
「ご機嫌よう、神父様」
「ごっ、ゴッゴゴゴゴ機嫌麗シュウゴザイマス、アンナ嬢」
アンナ嬢の前では、私の発汗機能は乱れ、動悸と息切れが発現し、頬は紅潮した挙句、言語機能にまで支障をきたす。
今回は彼女のほうから歩み寄ってくださったが、もしこちらから向かうことになっていれば、右手と右足が同時に前へ出ること請け合いである。
……つまり、私は、その……どうしようもないほどに彼女のことが………………好きなのだ。
「ほ、本日ハ、ドノヨウナゴ用件デ……?」
T.K君には恋愛上級者ぶって話していたが、このザマである。
口から出る言葉のすべてがカタコトになる私の背後で、子どもたちがこらえきれなくなったようにブフーッと吹き出した。
(……後で覚えておきなさい)
「フンッ!!」
私は自分の頬にバチンと平手打ちを食らわせ気合を入れた。これでやっと人間らしく振舞える。
「し、神父様、私と話しているといつも頬をぶたれますよね。それってどういう……?」
「お気になさらず、これも神からの試練なのです」
「は、はあ……」
じんじん痛む頬の下に隠れた表情筋を強制的に働かせ笑顔を作る。
すると彼女は気を取り直し、提げていたバスケットにかかる布を取って、たくさんの小袋を見せてくれた。
「神父様。今日はクッキーを作ってきたんです」
「てっ、てててて手作りクッキーですか!?」
「はい。もし美味しく出来ていたら、今度のバザーにお出ししようかと思って。ぜひ子どもたちと一緒に味見してください」
私は賞状の授与のごとくバスケットを両手で受け取り、一歩退いて頭を下げたまま叫んだ。
「ありがとうございます!!」
「ふふ。そんな、大げさですよ」
鈴を転がすような笑い声が聞こえ、私は顔を上げる。その声音と笑顔に、時さえ止まった気がした。
20歳という年齢になっても彼女がどこにも嫁いでいないのは、このような慈善事業に力を入れておられるからだろう。
(立派な心掛けだが……ご家族はどう思われているのか)
不意に、開け放たれたままの扉から立派な仕立てのスーツの紳士が現れた。
「アンナ、そろそろ行かなくては次の予定に遅れてしまう。シュヴァルツ家の方々をお待たせするわけにはいかない」
「……はい、お父様」
立派な髭をたくわえた口元に上品な笑みを浮かべているこちらの御仁は、アンナ嬢のお父君であるエーレンベルク卿だ。
(シュヴァルツ家……この辺りでは聞いたことのないお名前ですね)
記憶の中の住民名簿を漁っていると、エーレンベルク卿が「では神父様、失礼」と会釈くださり、アンナ嬢を促す。
「失礼いたします、神父様。また今度クッキーの感想を聞かせてくださいね」
「勿論です。必ず」
優雅に手を振ってくれた華奢な背中を見送った後も、彼女の残像が見える気がしてしばらく扉を見つめていた。
やがて幻さえも消え去ると、祭壇に置いたバスケットに向き直る。子どもたちもわらわらと集まってきた。
「お前たち、よく味わって食べるんですよ。もぐもぐごっくんと3秒で雑に食べないように」
「わかってるって」
「ああそれと、アンナ嬢とソレラシー教の神にお祈りしてからですよ」
「はいはい」
「『はい』は1回!」
私は、愛しい方の手作りクッキーをまずは目で味わうことにした。
これは小麦粉とバターと砂糖と膨らし粉を混ぜオーブンで焼いたものであり、科学的に説明できる光源などは混入されていない。にも拘わらず、何故こんなにも輝いて見えるのか?
答えはそう、アンナ嬢が作ったからである。
口に入れると、彼女の微笑みのような優しい甘さが舌の上に広がった。
「うっ……なんて甘美な味わいなのでしょう……ああ、アンナ嬢……」
「うわ、また神父様が泣いてる……」
「こういうの『じょうちょ不安定』って言うんだぜ」
生意気な子どもたちの会話を聞き流した私は、自分の手元のクッキーを平らげた後、目を閉じて両手を組み、神への食後の祈りを終えた。
その後、彼女がいるであろう方角を予想して――
(アンナ嬢、感謝いたします。それと、今日もこっそりお慕いしております……)
このように、神にお伝えしたのと同様の謝意と……個人的な感情を述べる。
まぶたを開けると、教会の壁に書かれたいくつかの掟のうち、導きのようにとあるひとつが目に留まる。
――『聖職に就く者よ、汝、恋情に溺れるべからず』
(……どこにおわすかもわからぬ神よ、ご安心ください。決して、この場所を投げ出すようなことはいたしません)
周りを見ると、子どもたちが私の真似をして目を閉じ、祈りを捧げている。それは、この世の何よりも神聖な光景だ。
この景色が、まだ俗世の欲にまみれた未熟者の浮かれた心を何度でも正してくれる。
彼らはみな、両親や親族を不慮の事故や病気で失った身寄りのない子どもたちだ。いかにこの町が平和といっても、避けられない不幸というものも存在する。
それを目の当たりにする度にこの若輩者は立ち止まりそうになるが、なんとか日々の歩みを進めているのだ。
(ですから、この想いは胸の中だけにしまっておきます。…………ごくたまに口からこぼれ出たり、頭の中で妄想を繰り広げることがあるかもしれませんが、それはまあ、寛大な御心でお許しください)
人が人を想う心を止めることは、誰にも出来はしない。万能な神であればご存じのことだ。だからこそ、これまでも見逃してきてくださったのだろう。
(この想いは彼女に告げぬ限り、罪ではない。そうでしょう?)
カクーノ国リソーノ市トーゲン町。
平和ボケした辺境の町にあるこの小さな教会では、懺悔とは名ばかりの呑気な告白が行われるばかりで、告解室はお悩み相談室と化している。
「……なるほど。事情はわかりました」
この教会の神父である私・ルカは28歳。
ソレラシー教の神にお仕えしてまだ3年の若輩者だが、今日も今日とて悩める子羊のために弁舌を振るっていた。
「先日お話されていたこの街の集団お見合いパーティーで知り合った女性に、どこまで踏み込んでいいかわからないというわけですね」
「はい……」
格子窓の向こうで、匿名希望の相談者が力なく頷いた。今週2度目のお悩み相談にやってきた彼のことは、勝手にT.K君と呼んでいる。匿名、希望、だからだ。
王都の会社にお勤めという立派な彼の実家はトーゲン町にあるらしく、帰省のたびにこの教会にも顔を出している。
私は奥手のビジネスパーソンに尋ねた。
「確認ですが、あなたは誠実に彼女と向き合っており、幸せに出来る自信はあるんですよね?」
「っ、もちろんです。年収は1000万エン、王都に持ち家、理解ある職場で育休は3年取得可能です! スゴクタカイ山の頂上からだって叫べるほどの大きな愛があります!」
「この上ない優良物件! よろしい!」
私は椅子から立ち上がり叫んだ。
「では、彼女を抱きなさい!!」
「わかりまし――ええ〜〜っ!? い、いきなり何をおっしゃるんですか……!」
「結婚に一番大事なのは条件でしょう。彼女に今のあなたを拒む理由などないはず。それに愛というものは……深い。時には理屈より先に体感することもあるのでは?」
「っ……わかりました、神父様! 今すぐ夜景が見える素敵な宿を押さえてきます!」
「えっ? あっ、ちょっと待ちなさ――」
T.K君は勢いよく告解室の戸を開け、出ていってしまった。
それも仕方のないことだ、ソレラシー教の聖典には『人の話は最後まで聞くこと』という教えは書かれていないのだから。
(それくらいの強気でいきなさい、という例えのつもりだったのですが……)
「……ま、いいでしょう。これでダメになるなら、運命ではなかったということで」
神よ、彼をいい感じにお導きください。
狭苦しい個室の戸を開けると、この教会で面倒を見ている4歳児・リーナが目の前に立っていた。黄緑色の簡素なワンピースを着て、こげ茶の髪を頭のてっぺんで結んでいるジト目幼女である。
彼女は悩める子羊こと相談者を、この小部屋まで案内する役目を引き受けてくれているのだ。
「しんぷさま。のこりのこひつじ、ぜろひき」
「そうですか、ご苦労様。……では、一服するとしましょう」
告解室の椅子から聖堂へ足を投げ出し、黒の平服のポケットから煙草とマッチを取り出す。火を点け、深く煙を吸い込み細く吐き出すと、東国の山奥に住み悟りを開いたという仙人とやらにでもなった気分だ。
「はぁー……至福の時……。ニコチンとタールのマリアージュが肺胞の最深部にまで沁み渡る……」
ちなみに、この煙草はとある“友人”が個人的にくれるもので、決して寄付金を使い込んでいるわけではないことをここにお断りしておく。
決して広くはない上に古びてはいるが、ここはそれなりに立派な木造の教会だ。聖堂の最奥には、壁にはめ込まれたステンドグラスがある。それは昼過ぎの日差しを虹色に透かし、私の白銀の髪まで染めているのだろう。
そういえば、私の瞳は青いというのに何故すべての景色が青く見えないのだろうか……。
人が高尚な思索をしながら値上がりするばかりの最高級の嗜好品を味わっている時に限って、子どもたちというのはがやがやと集団でやってくるものである。告解室の向かい、聖堂の反対側の壁には彼らの生活棟と繋がる扉があるのだ。
「あー! また吸ってるな、不良神父」
「そこの男児、黙りなさい。労働の後の唯一の愉しみをとやかく言われる筋合いはありませんよ。有害物質を吸い込まないうちに外で遊んできなさい。リーナも行くんですよ。ほら、しっしっ」
手の甲をひらひらと動かし彼らを追い払う仕草を見せると、活発でお調子者の男児がにやりと笑う。
「でもさー、今は煙草やめた方がいいぜ。もうすぐお姉さんが来るから。さっき窓から車が見えたんだ。……しかも、今日はパパも一緒」
「なっ……それを早く言いなさい!」
まだ長い煙草を慌てて携帯灰皿に突っ込み、近寄ってきた子どもたちの肩を掴んで順次Uターンさせる。
「窓を開けるんですよ、窓を! ほら煙を出して!」
「貸しだからなー、神父様」
手分けして教会の両側にある窓という窓を開け、脱いだ平服でパタパタと煙を追いやる。……ご安心ください、もちろん下には着ています。
そして、祭壇の裏に置いていた石鹸の香りが残る予備のものに着替えた時、ちょうど正面の大扉が開いてひとりの女性が現れた。
女神か、天使か、もしくはその両方を足して2で割り聖母風に仕上げたかのような慈愛に満ちた笑顔を浮かべている彼女は、アンナ・エーレンベルク嬢。
私が神父になる前――5年ほど前から新たにこの地の領主となられ、教会に多額の寄付をしてくださっているエーレンベルク家のお嬢様だ。
年は、確か20歳になられたばかりのはずである。艶のある長い小麦色の髪に合う、薄紫のワンピースをお召しになっていた。
アンナ嬢は私へと近付き、にこりと微笑む。
「ご機嫌よう、神父様」
「ごっ、ゴッゴゴゴゴ機嫌麗シュウゴザイマス、アンナ嬢」
アンナ嬢の前では、私の発汗機能は乱れ、動悸と息切れが発現し、頬は紅潮した挙句、言語機能にまで支障をきたす。
今回は彼女のほうから歩み寄ってくださったが、もしこちらから向かうことになっていれば、右手と右足が同時に前へ出ること請け合いである。
……つまり、私は、その……どうしようもないほどに彼女のことが………………好きなのだ。
「ほ、本日ハ、ドノヨウナゴ用件デ……?」
T.K君には恋愛上級者ぶって話していたが、このザマである。
口から出る言葉のすべてがカタコトになる私の背後で、子どもたちがこらえきれなくなったようにブフーッと吹き出した。
(……後で覚えておきなさい)
「フンッ!!」
私は自分の頬にバチンと平手打ちを食らわせ気合を入れた。これでやっと人間らしく振舞える。
「し、神父様、私と話しているといつも頬をぶたれますよね。それってどういう……?」
「お気になさらず、これも神からの試練なのです」
「は、はあ……」
じんじん痛む頬の下に隠れた表情筋を強制的に働かせ笑顔を作る。
すると彼女は気を取り直し、提げていたバスケットにかかる布を取って、たくさんの小袋を見せてくれた。
「神父様。今日はクッキーを作ってきたんです」
「てっ、てててて手作りクッキーですか!?」
「はい。もし美味しく出来ていたら、今度のバザーにお出ししようかと思って。ぜひ子どもたちと一緒に味見してください」
私は賞状の授与のごとくバスケットを両手で受け取り、一歩退いて頭を下げたまま叫んだ。
「ありがとうございます!!」
「ふふ。そんな、大げさですよ」
鈴を転がすような笑い声が聞こえ、私は顔を上げる。その声音と笑顔に、時さえ止まった気がした。
20歳という年齢になっても彼女がどこにも嫁いでいないのは、このような慈善事業に力を入れておられるからだろう。
(立派な心掛けだが……ご家族はどう思われているのか)
不意に、開け放たれたままの扉から立派な仕立てのスーツの紳士が現れた。
「アンナ、そろそろ行かなくては次の予定に遅れてしまう。シュヴァルツ家の方々をお待たせするわけにはいかない」
「……はい、お父様」
立派な髭をたくわえた口元に上品な笑みを浮かべているこちらの御仁は、アンナ嬢のお父君であるエーレンベルク卿だ。
(シュヴァルツ家……この辺りでは聞いたことのないお名前ですね)
記憶の中の住民名簿を漁っていると、エーレンベルク卿が「では神父様、失礼」と会釈くださり、アンナ嬢を促す。
「失礼いたします、神父様。また今度クッキーの感想を聞かせてくださいね」
「勿論です。必ず」
優雅に手を振ってくれた華奢な背中を見送った後も、彼女の残像が見える気がしてしばらく扉を見つめていた。
やがて幻さえも消え去ると、祭壇に置いたバスケットに向き直る。子どもたちもわらわらと集まってきた。
「お前たち、よく味わって食べるんですよ。もぐもぐごっくんと3秒で雑に食べないように」
「わかってるって」
「ああそれと、アンナ嬢とソレラシー教の神にお祈りしてからですよ」
「はいはい」
「『はい』は1回!」
私は、愛しい方の手作りクッキーをまずは目で味わうことにした。
これは小麦粉とバターと砂糖と膨らし粉を混ぜオーブンで焼いたものであり、科学的に説明できる光源などは混入されていない。にも拘わらず、何故こんなにも輝いて見えるのか?
答えはそう、アンナ嬢が作ったからである。
口に入れると、彼女の微笑みのような優しい甘さが舌の上に広がった。
「うっ……なんて甘美な味わいなのでしょう……ああ、アンナ嬢……」
「うわ、また神父様が泣いてる……」
「こういうの『じょうちょ不安定』って言うんだぜ」
生意気な子どもたちの会話を聞き流した私は、自分の手元のクッキーを平らげた後、目を閉じて両手を組み、神への食後の祈りを終えた。
その後、彼女がいるであろう方角を予想して――
(アンナ嬢、感謝いたします。それと、今日もこっそりお慕いしております……)
このように、神にお伝えしたのと同様の謝意と……個人的な感情を述べる。
まぶたを開けると、教会の壁に書かれたいくつかの掟のうち、導きのようにとあるひとつが目に留まる。
――『聖職に就く者よ、汝、恋情に溺れるべからず』
(……どこにおわすかもわからぬ神よ、ご安心ください。決して、この場所を投げ出すようなことはいたしません)
周りを見ると、子どもたちが私の真似をして目を閉じ、祈りを捧げている。それは、この世の何よりも神聖な光景だ。
この景色が、まだ俗世の欲にまみれた未熟者の浮かれた心を何度でも正してくれる。
彼らはみな、両親や親族を不慮の事故や病気で失った身寄りのない子どもたちだ。いかにこの町が平和といっても、避けられない不幸というものも存在する。
それを目の当たりにする度にこの若輩者は立ち止まりそうになるが、なんとか日々の歩みを進めているのだ。
(ですから、この想いは胸の中だけにしまっておきます。…………ごくたまに口からこぼれ出たり、頭の中で妄想を繰り広げることがあるかもしれませんが、それはまあ、寛大な御心でお許しください)
人が人を想う心を止めることは、誰にも出来はしない。万能な神であればご存じのことだ。だからこそ、これまでも見逃してきてくださったのだろう。
(この想いは彼女に告げぬ限り、罪ではない。そうでしょう?)



