ある世界における21XX年、3月15日。
突如起きた天変地異により、人類はその人口の半数を失う。
残った人間たちは未来に進むため癒しと支えを求め、《《機械》》と共に生きる道を選んだ。
独りの老いた男性がベッドに横たわっていた。髪は白く、顔には幾つもの皺が刻まれている。
彼の閉じられた瞳は、現実よりも過去の遠い記憶を映し出しているのかもしれない。
そんな彼に、呼びかける声があった。何度も何度も、その声は彼の名を呼び続ける。
『……トミオさん』
何度目かで名前を呼ばれた彼――トミオが、その声に反応するかのようにピクリと目元を動かす。うっすらとわずかに目を開け、とても明るい空間だ、と思った。ぼんやりとした視界の中で、穏やかな光が辺りを包み込むように広がる。
(ここは……あの世、か?)
『トミオさん』
先ほどから自分を呼ぶのは誰だろう? 朦朧とした意識の中で聞こえるその声を、その声の主を、トミオは思い出そうとする。馴染みのある言語。聞きなれた発音と口調。この世で誰より大切にしたいと望んでいた人の声。
(ああそうだ、この声は、彼女だ……)
トミオは安堵感を抱きつつも、まだ微睡みを手放すことができない。また重い瞼を閉じる。
「トミオさん……!」
また自分を呼ぶ声がする。しかしその声は少しだけ変わっていた。温かみがなく、無機質な冷やかな音のように聞こえる。それなのに声の主は、妙に高揚したテンションでトミオを呼び続ける。そこには応えてくれるまで諦めないという強い意志や一生懸命さがあった。
(……リエ?)
トミオは昔から朝が苦手だった。そんないつも呆れ顔で起こしてくれていたのがリエだ。彼女は何度起こそうとしてもなかなか起きてくれないトミオに対し、何が何でも起こしてやると必死になる。
(……もう少しだけ、このままで居させて欲しいな)
トミオはそう考え、寝たフリをする。
「……トミーちゃん!」
声の主は少し間を置いてから、何かを思いついたように変化球を投げる。トミオにとっては想定外だった。
(トミーちゃん!? ……トミーって、誰だ?)
トミオの眉がピクリと動く。声の主はこの反応を見逃さない。
「トミーちゃん、朝!……今すぐ起きる!」
それは勝利を確信した朝の挨拶だった。
トミオの動揺した反応が嬉しかったのだろう。声の語尾は少し上がっていた。
(さてはリエのやつ、俺の反応を楽しんでいるな?)
『違うぞ、俺はトミーではなくトミオだ。やり直しを要求する!』
トミオはリエの勝ち誇った顔を確認しようと、勢いよく目を開いた。
-※-
トミオの目が捉えたものは、見慣れた寝室の天井だった。少し開いた窓から流れ込んでくる生ぬるい風。今日は初夏の熱気が少しだけ穏やかなのかもしれない。宙を彷徨う数十年分の年月を刻んだ左手は、小刻みに震えていた。
(夢……!?)
「やっと起きた! おはようございます、トミオさん」
抑揚のない単調な声。穏やかで、静か。人の声を模倣した無機質なこの声を、トミオは知っている。
「おはよう、サツキ」
左側を向く。ベッドサイドに立つのは、トミオのAIドール、サツキ。大きな洗濯カゴを抱えている。そのボディは白い特殊塗料で着色された、軽量合成金属製。トミオ自身が趣味で染めた藍色のエプロンを愛用している。
「今日はイイ太陽! イイ一日の始まり!」
「良い太陽なら洗濯もはかどりそうだね」
「ハイ。だから今日は洗濯を沢山する。だから、トミオさん起きる、着替える、いつもの測定する!」
頭部中央に直径4センチほどの丸く黒いカメラが目のように並ぶ。すらりとした鼻、横に広がる小さな楕円形の穴がある。ユーザーが必要以上に感情移入しないようにと設計の段階で考慮されたデザインだ。サツキは、アゼレウス社製のオーダーメイド式の家庭用AIドール。頭部とボディにある“コア”には、アゼロン・カンパニーと呼ばれる企業が独自に開発した特殊なAIが搭載されている。サツキのカメラアイが、トミオから開いた窓に向けられる。少し強くなった風が、藍染のエプロンの裾を揺らしていた。
「うん、いつもの測定をお願いするよ」
サツキの冷たい手の上に、トミオが右掌を乗せることで始められる毎朝の測定。
「完了……。トミオさん、いい夢、見られた?」
完了を合図に、無言のままトミオがサツキから手を離す。
首をかしげ、トミオを二つの黒いカメラの目が見つめる。
「良い夢か……」
トミオはサツキの言葉に少し、思案する。
「……わからない。ただ、サツキのおかげで目覚めは良かったよ」
穏やかな表情でサラッと告げる。“サツキのおかげ“という点を意図的に強調した。
「ヤッター! これで今日も一日ずっと幸福!」
トミオの言葉にサツキはカメラアイをピンク色に点灯させる。それは子供のように素直な反応だ。トミオは苦笑しながらも、悪い気はしなかった。だが、穏やかな微笑みの奥でサツキをリエと勘違いしてしまったことに、トミオは罪悪感を覚えた。
(サツキはリエの代わりではない。いや、誰もリエの代わりになど、最初からなれはしない……)
サツキは無駄のない動きで家事をこなす。その姿をトミオは無言のまましばらく見守っていたが、愛用の杖を頼りに歩み始める。トミオにとっては重要な朝がゆっくりと始まろうとしていた。
突如起きた天変地異により、人類はその人口の半数を失う。
残った人間たちは未来に進むため癒しと支えを求め、《《機械》》と共に生きる道を選んだ。
独りの老いた男性がベッドに横たわっていた。髪は白く、顔には幾つもの皺が刻まれている。
彼の閉じられた瞳は、現実よりも過去の遠い記憶を映し出しているのかもしれない。
そんな彼に、呼びかける声があった。何度も何度も、その声は彼の名を呼び続ける。
『……トミオさん』
何度目かで名前を呼ばれた彼――トミオが、その声に反応するかのようにピクリと目元を動かす。うっすらとわずかに目を開け、とても明るい空間だ、と思った。ぼんやりとした視界の中で、穏やかな光が辺りを包み込むように広がる。
(ここは……あの世、か?)
『トミオさん』
先ほどから自分を呼ぶのは誰だろう? 朦朧とした意識の中で聞こえるその声を、その声の主を、トミオは思い出そうとする。馴染みのある言語。聞きなれた発音と口調。この世で誰より大切にしたいと望んでいた人の声。
(ああそうだ、この声は、彼女だ……)
トミオは安堵感を抱きつつも、まだ微睡みを手放すことができない。また重い瞼を閉じる。
「トミオさん……!」
また自分を呼ぶ声がする。しかしその声は少しだけ変わっていた。温かみがなく、無機質な冷やかな音のように聞こえる。それなのに声の主は、妙に高揚したテンションでトミオを呼び続ける。そこには応えてくれるまで諦めないという強い意志や一生懸命さがあった。
(……リエ?)
トミオは昔から朝が苦手だった。そんないつも呆れ顔で起こしてくれていたのがリエだ。彼女は何度起こそうとしてもなかなか起きてくれないトミオに対し、何が何でも起こしてやると必死になる。
(……もう少しだけ、このままで居させて欲しいな)
トミオはそう考え、寝たフリをする。
「……トミーちゃん!」
声の主は少し間を置いてから、何かを思いついたように変化球を投げる。トミオにとっては想定外だった。
(トミーちゃん!? ……トミーって、誰だ?)
トミオの眉がピクリと動く。声の主はこの反応を見逃さない。
「トミーちゃん、朝!……今すぐ起きる!」
それは勝利を確信した朝の挨拶だった。
トミオの動揺した反応が嬉しかったのだろう。声の語尾は少し上がっていた。
(さてはリエのやつ、俺の反応を楽しんでいるな?)
『違うぞ、俺はトミーではなくトミオだ。やり直しを要求する!』
トミオはリエの勝ち誇った顔を確認しようと、勢いよく目を開いた。
-※-
トミオの目が捉えたものは、見慣れた寝室の天井だった。少し開いた窓から流れ込んでくる生ぬるい風。今日は初夏の熱気が少しだけ穏やかなのかもしれない。宙を彷徨う数十年分の年月を刻んだ左手は、小刻みに震えていた。
(夢……!?)
「やっと起きた! おはようございます、トミオさん」
抑揚のない単調な声。穏やかで、静か。人の声を模倣した無機質なこの声を、トミオは知っている。
「おはよう、サツキ」
左側を向く。ベッドサイドに立つのは、トミオのAIドール、サツキ。大きな洗濯カゴを抱えている。そのボディは白い特殊塗料で着色された、軽量合成金属製。トミオ自身が趣味で染めた藍色のエプロンを愛用している。
「今日はイイ太陽! イイ一日の始まり!」
「良い太陽なら洗濯もはかどりそうだね」
「ハイ。だから今日は洗濯を沢山する。だから、トミオさん起きる、着替える、いつもの測定する!」
頭部中央に直径4センチほどの丸く黒いカメラが目のように並ぶ。すらりとした鼻、横に広がる小さな楕円形の穴がある。ユーザーが必要以上に感情移入しないようにと設計の段階で考慮されたデザインだ。サツキは、アゼレウス社製のオーダーメイド式の家庭用AIドール。頭部とボディにある“コア”には、アゼロン・カンパニーと呼ばれる企業が独自に開発した特殊なAIが搭載されている。サツキのカメラアイが、トミオから開いた窓に向けられる。少し強くなった風が、藍染のエプロンの裾を揺らしていた。
「うん、いつもの測定をお願いするよ」
サツキの冷たい手の上に、トミオが右掌を乗せることで始められる毎朝の測定。
「完了……。トミオさん、いい夢、見られた?」
完了を合図に、無言のままトミオがサツキから手を離す。
首をかしげ、トミオを二つの黒いカメラの目が見つめる。
「良い夢か……」
トミオはサツキの言葉に少し、思案する。
「……わからない。ただ、サツキのおかげで目覚めは良かったよ」
穏やかな表情でサラッと告げる。“サツキのおかげ“という点を意図的に強調した。
「ヤッター! これで今日も一日ずっと幸福!」
トミオの言葉にサツキはカメラアイをピンク色に点灯させる。それは子供のように素直な反応だ。トミオは苦笑しながらも、悪い気はしなかった。だが、穏やかな微笑みの奥でサツキをリエと勘違いしてしまったことに、トミオは罪悪感を覚えた。
(サツキはリエの代わりではない。いや、誰もリエの代わりになど、最初からなれはしない……)
サツキは無駄のない動きで家事をこなす。その姿をトミオは無言のまましばらく見守っていたが、愛用の杖を頼りに歩み始める。トミオにとっては重要な朝がゆっくりと始まろうとしていた。
