5. アンコールはリビングで
「ただいまー」
「おかえり」
家のドアを開けた瞬間、緊張の糸がプツリと切れた。
私はパンプスを脱ぎ捨て、そのまま彼に抱きついた。
「うぅ〜……疲れたぁ……課長のアホ〜……」
「はいはい。よしよし」
彼は私の背中をポンポンと一定のリズムで叩いてくれる。
この大きな手。落ち着く匂い。
私が一番帰りたかった場所。
「……お前、先に風呂入れよ。飯、適当に準備すっから」
「えっ、でも……」
「その顔でキッチン立たれたら飯が不味くなる。いいから行け」
「……うぅ、スパダリかよ……ありがとう」
私は彼の優しさに甘え、お風呂場へと直行した。
シャワーを浴びて部屋着に着替え、リビングに戻る。
すると、テーブルには温め直されたご飯と味噌汁、そしてパックのままの納豆、さらに冷蔵庫にあった余り野菜の浅漬けが並んでいた。
「……お、上がったか」
湊はすでに、外に着ていった例のスウェットから、家専用のさらにゆるいTシャツとハーフパンツに着替えていた。
髪は無造作におろし、完全にオフモードだ。
「いただきます」
一口味噌汁を飲む。
朝よりも味が染みていて、五臓六腑に染み渡る。
「……美味しい。人に温めてもらうご飯って、なんでこんなに美味しいんだろ」
「レンチンしただけだろ。大袈裟だな」
湊は納豆ご飯を豪快にかき込みながら、今日スタジオであった出来事を話してくれた。
私も、後輩がどれだけ必死だったか(そしてコーヒーを奢ってもらう約束をしたこと)を話して笑い合った。
テレビからは、バラエティ番組の笑い声が流れている。
華やかな芸能界の話も、泥臭いオフィスの話も、この食卓の上では等しく「今日のお土産話」になる。
「……あ、そういえば」
湊が思い出したように言った。
「今日、もち麦入りの飯……スタッフに差し入れでもらった弁当より美味かったわ」
「えっ」
「腹持ちも良かったし。……まぁ、ゴムみてぇな食感も悪くねぇかなって」
彼はそっぽを向いて、ボソッと言った。
それが彼なりの精一杯のデレだと気づいて、私は胸が熱くなる。
食後、私たちはソファに並んで座った。
彼が私の肩に頭を預け、私がその柔らかな髪を指で梳く。
テレビの音量は小さく絞られ、部屋には穏やかな静寂が満ちていた。
「……ふふふ〜ん……♪」
不意に、湊の喉の奥から、微かなメロディが漏れた。
とても優しくて、どこか切ない、聴いたことのない旋律。
それは、まるで私の疲れた細胞の一つ一つに染み渡るような、極上のハミングだった。
「……ねぇ、湊」
「ん?」
「その鼻歌、すごくいい曲。……もしかして、新曲?」
私が尋ねると、彼は少し驚いたように目を開け、それから悪戯っぽく口角を上げた。
「……おう。今日、スタジオで録ったばっかのやつ」
「えっ!?」
「まだスタッフと俺しか知らねぇメロディ。……お前が、世界最速の視聴者だな」
彼はそう言うと、私の耳元に顔を寄せ、さっきよりも少しだけはっきりと、そのサビのフレーズを歌ってくれた。
マイクを通さない、吐息混じりの生の声。
数万人の観客を熱狂させる「神の歌声」が、今はたった30センチの距離で、私のためだけに紡がれている。
テレビの中の煌びやかなステージは、もう終わった。
けれど、ここには続きがある。
スポットライトも、歓声もない。あるのは、ヨレヨレのTシャツと、私の体温だけ。
このリビングこそが、彼が素顔で愛を歌う、世界で一番贅沢な特等席なのだ。
「……贅沢だなぁ、私」
「あ? なんか言ったか?」
「ううん。……明日も頑張れる気がするって言ったの」
私は溢れ出しそうな幸福感を噛み締め、彼の手をギュッと握り返した。
「……そりゃよかったな。俺もだ」
彼は私の髪に、ちゅっと口づけを落とすと、また心地よさそうに目を閉じた。
耳元では、優しいハミングが続いている。
私だけのアンコールは、夜が更けるまで終わらない。
「ただいまー」
「おかえり」
家のドアを開けた瞬間、緊張の糸がプツリと切れた。
私はパンプスを脱ぎ捨て、そのまま彼に抱きついた。
「うぅ〜……疲れたぁ……課長のアホ〜……」
「はいはい。よしよし」
彼は私の背中をポンポンと一定のリズムで叩いてくれる。
この大きな手。落ち着く匂い。
私が一番帰りたかった場所。
「……お前、先に風呂入れよ。飯、適当に準備すっから」
「えっ、でも……」
「その顔でキッチン立たれたら飯が不味くなる。いいから行け」
「……うぅ、スパダリかよ……ありがとう」
私は彼の優しさに甘え、お風呂場へと直行した。
シャワーを浴びて部屋着に着替え、リビングに戻る。
すると、テーブルには温め直されたご飯と味噌汁、そしてパックのままの納豆、さらに冷蔵庫にあった余り野菜の浅漬けが並んでいた。
「……お、上がったか」
湊はすでに、外に着ていった例のスウェットから、家専用のさらにゆるいTシャツとハーフパンツに着替えていた。
髪は無造作におろし、完全にオフモードだ。
「いただきます」
一口味噌汁を飲む。
朝よりも味が染みていて、五臓六腑に染み渡る。
「……美味しい。人に温めてもらうご飯って、なんでこんなに美味しいんだろ」
「レンチンしただけだろ。大袈裟だな」
湊は納豆ご飯を豪快にかき込みながら、今日スタジオであった出来事を話してくれた。
私も、後輩がどれだけ必死だったか(そしてコーヒーを奢ってもらう約束をしたこと)を話して笑い合った。
テレビからは、バラエティ番組の笑い声が流れている。
華やかな芸能界の話も、泥臭いオフィスの話も、この食卓の上では等しく「今日のお土産話」になる。
「……あ、そういえば」
湊が思い出したように言った。
「今日、もち麦入りの飯……スタッフに差し入れでもらった弁当より美味かったわ」
「えっ」
「腹持ちも良かったし。……まぁ、ゴムみてぇな食感も悪くねぇかなって」
彼はそっぽを向いて、ボソッと言った。
それが彼なりの精一杯のデレだと気づいて、私は胸が熱くなる。
食後、私たちはソファに並んで座った。
彼が私の肩に頭を預け、私がその柔らかな髪を指で梳く。
テレビの音量は小さく絞られ、部屋には穏やかな静寂が満ちていた。
「……ふふふ〜ん……♪」
不意に、湊の喉の奥から、微かなメロディが漏れた。
とても優しくて、どこか切ない、聴いたことのない旋律。
それは、まるで私の疲れた細胞の一つ一つに染み渡るような、極上のハミングだった。
「……ねぇ、湊」
「ん?」
「その鼻歌、すごくいい曲。……もしかして、新曲?」
私が尋ねると、彼は少し驚いたように目を開け、それから悪戯っぽく口角を上げた。
「……おう。今日、スタジオで録ったばっかのやつ」
「えっ!?」
「まだスタッフと俺しか知らねぇメロディ。……お前が、世界最速の視聴者だな」
彼はそう言うと、私の耳元に顔を寄せ、さっきよりも少しだけはっきりと、そのサビのフレーズを歌ってくれた。
マイクを通さない、吐息混じりの生の声。
数万人の観客を熱狂させる「神の歌声」が、今はたった30センチの距離で、私のためだけに紡がれている。
テレビの中の煌びやかなステージは、もう終わった。
けれど、ここには続きがある。
スポットライトも、歓声もない。あるのは、ヨレヨレのTシャツと、私の体温だけ。
このリビングこそが、彼が素顔で愛を歌う、世界で一番贅沢な特等席なのだ。
「……贅沢だなぁ、私」
「あ? なんか言ったか?」
「ううん。……明日も頑張れる気がするって言ったの」
私は溢れ出しそうな幸福感を噛み締め、彼の手をギュッと握り返した。
「……そりゃよかったな。俺もだ」
彼は私の髪に、ちゅっと口づけを落とすと、また心地よさそうに目を閉じた。
耳元では、優しいハミングが続いている。
私だけのアンコールは、夜が更けるまで終わらない。
