アンコールはリビングで


3. スタジオの貴公子

同時刻、都内某所のレコーディングスタジオ。

防音扉で閉ざされた空間には、ピンと張り詰めた空気が漂っていた。
モニターの前に座るエンジニア、後ろで腕を組むプロデューサーたち。

そしてブースの中、マイクの前に立つ早瀬湊。
今の彼は、今朝味噌汁をすすっていた男とは別人のような顔をしていた。
ヘッドフォンを押さえ、目を閉じて音の世界に没入している。

「……ここ、もうワンテイクいいですか」

彼が静かに言った。その声は、マイクを通さずとも透き通るように美しい。
ピアノの旋律が流れ出し、彼が歌い出す。
その声は、聴く者すべての心を震わせるような、圧倒的な「切なさ」と「色気」を帯びていた。

ブースの外にいるスタッフたちが、思わず息を呑む。
これが、「音楽の神に愛された男」の実力。
一曲歌い終えると、スタジオ内には一瞬の静寂の後、「OKです!」という明るい声が響いた。
彼がヘッドフォンを外し、ふぅーっと長く息を吐く。

「お疲れ様でしたー」

ブースから出てきた彼は、スタッフたちに丁寧に頭を下げた。

「素晴らしいテイクでした、早瀬さん」

「いえ、皆さんのおかげです。……あそこのアレンジ、変えて正解でしたね」
彼は柔らかく微笑んだ。
一人称は「僕」。言葉遣いは完璧な敬語。
どこからどう見ても、品行方正な国民的スターだ。

「早瀬くん、お疲れ様。」

マネージャーの島崎さんがペットボトルの水を渡してくれた。

「ありがとう。……今、何時ですか?」

「18時半を過ぎたところだよ。今日はもう上がりで大丈夫。」

18時半。
彼はふと表情を緩め、スマホの画面をタップした。
昼に来ていた凪からの『残業になるかも』というメッセージ。
それ以降、連絡はない。

(……まだ戦ってんのかよ、あいつ)

眉間にわずかな皺が寄る。
彼は窓の外の夜景を見つめた。
きらびやかな東京の街。この光の一つ一つの下で、凪もまた、誰かのために頭を下げ、働いているのだろう。

「……帰ります」

「え? もう? まだ打ち上げが……」

「すみません、喉のケアをしたいので。……失礼します」

彼は爽やかに、しかし有無を言わせぬ笑顔で断ると、素早く荷物をまとめた。

スイッチをオフにする。
アーティスト「早瀬湊」から、ただの「湊」へ戻る時間だ。

「お疲れ様でした!」

スタッフに見送られ、彼はスタジオを後にした。
その足取りは、心なしか急いでいるように見えた。