アンコールはリビングで

2. 17時25分の悲劇

そして迎えた夕方。
窓の外は、すでに茜色から群青色へとグラデーションを変えていた。
私のラストスパートは続いていた。

(あと少し……これさえ終われば、定時!)

今日は朝、湊と「無理すんな」と言い合った日だ。
なんとしてでも定時で上がり、スーパーに寄って、彼がブーブー文句を言わない程度の(でも健康的な)メインディッシュを作りたい。

「よし、送信完了」

最後の一通を打ち終え、私は小さくガッツポーズをした。
時計の針は17時25分。定時は17時30分。
完璧だ。私は帰り支度を始めようと、カバンに手を伸ばした。
その時だった。

「あー、水沢さん。ちょっといいかな?」

背後から、一番聞きたくない声が掛かった。課長だ。
振り返ると、課長の手には分厚い資料の束。そしてその横には、青ざめた顔をした後輩の女の子が立っている。

「はい、なんでしょう?」

「いやぁ、急で悪いんだけど、明日の会議資料、ここのデータが古いみたいでね。差し替えお願いできないかな?」

課長は悪びれもせず、その束をデスクに置いた。
チラリと時計を見る。定時まであと3分。
この量を今から? データの抽出からやり直し?

「あの、私今日は……」

「ごめんなさい水沢先輩! 私がチェック漏れちゃって……でも今日、どうしても外せない用事があって……」

後輩の子が、泣きそうな目で私を見つめる。
彼女の「用事」が、倍率50倍を勝ち抜いて取れた推しのアイドルのライブだということを、私はランチの時に聞いて知っていた。

(……うっ、その顔はずるい)

私だって帰りたい。私の愛しい「推し」兼「恋人」が待つ家へ。
でも、ここで断ったら、彼女は泣きながらライブを諦めることになるだろう。推し活の重みを知っている身として、それはあまりに忍びない。
私は中堅社員。そして、大人の女だ。

「……分かった。私がやっとくよ」

「えっ、いいんですか!?」

「その代わり、明日の朝イチでコーヒー奢ってね。カフェインレスのやつ」

「はいっ! ありがとうございます! 神様です先輩!!」

後輩は何度も頭を下げ、風のように去っていった。

「……神様、か」

私は一人、苦笑いを漏らした。
私の家には、世間から正真正銘の「神」と崇められている男がいる。
片や、数万人の心を震わせる「音楽の神」。
片や、後輩の残業を肩代わりする「都合のいい神」。
同じ「神様」でも、随分とニュアンスが違うものだ。

「……ま、こっちの神様も悪くないか」

残されたのは私と、無慈悲なデータの山。
私は一つ大きなため息をつき、再びパソコンのマウスを握り直した。

(……ごめん湊。1時間、いや、意地でも45分で終わらせる!)

私は「彼女モード」への切り替えを諦め、再び「戦う会社員」の顔に戻った。