誰もが愛する国民的スターは私だけを溺愛する

 翌朝、カーテンの隙間から差し込む容赦ない光に、私は重い瞼を持ち上げた。
 視覚がはっきりするにつれ、そこがリビングではなく自室であることに気づく。

「……あ」

 昨夜の記憶が、濁流のように脳裏を駆け巡った。
 一条さんの前で子供のように泣きじゃくったこと。一条さんが大きな手で、壊れ物を扱うようにずっと頭を撫でてくれていたこと。

(……やってしまった)

 顔から火が出るほどの羞恥心に襲われ、私は布団を頭まで被り直した。

(リビングにいたはずなのに、一条さんが運んでくれたのかな)

 ゆっくりしている暇もなく恐る恐る体を起こし、リビングの扉を細く開ける。

「起きたか」

 低く響く声。そこには既に完璧に身支度を整え、マグカップを手に持つ一条さんが立っていた。

「……あの昨日はありがとうございました。その……見苦しいところを……」

 不意に、一条さんの指先が私の顔に近づいた。

「目、腫れてるぞ」

「えっ」

 私の瞼を一条さんが親指で優しく撫でる。

「現場に着くまでに冷やしておけ」

 冷蔵庫から取り出された保冷剤が、私の頬に押し当てられた。

「つめっ……!」

 肩を跳ねさせた私を、一条さんは至近距離で見つめていた。その瞳にはいつもの冷徹な鋭さはなく、どこか心配するような眼差しだった。

「白石。昨日の言葉、忘れるな」

 念を押すような低い声が、胸の奥に直接届く。

「お前の価値を決めるのは、他の誰でもない。俺だ」

 傲慢なはずのその言葉が、今は何よりも温かく私を支えてくれる。私はようやく、小さく笑みを返した。

「すみません、朝食の準備、すぐにします!」

「いい。今日は俺が用意した」

 一条さんの目線の先を辿る。高級な大理石のカウンターには、少しだけ角が焦げたトーストと、形が不揃いな目玉焼き、それにウィンナーが並んでいる。

「これ、一条さんが……?」

「俺だって、パンぐらいは焼ける」

 そっけない返事だが、フライパンを洗ったばかりなのか、袖口が少し濡れている。

「それと……」

 一条さんは言い置いて、私の行く手を阻むようにカウンターに手を突いた。

「今日から朝食は俺が作る」

「……え?」

 耳を疑った私に、一条さんは微塵も揺るがない瞳で言い放った。

「聞こえなかったのか。今日から朝食は俺が作る。お前は黙って座ってろ」

「いやいや、おかしいです! 私が作るのが仕事で……」

「仕事だなんだと、昨日からそればかりだな」

 一条さんはわずかに眉を寄せると、反論しようと立ち上がりかけた私の腰に腕を回した。

「あ……」

 抗う間もなく、強引にカウンターチェアへと引き戻される。
 至近距離。整いすぎた造形が視界を占拠し、私は呼吸の仕方を忘れた。

「一条さん、さん……?」

「お前はもっと、自分のことを考えろ」

 低く、地を這うような声が耳元で甘く熱を持って響く。

 (ど、どうしたの!?  昨日までのあの氷のような冷徹さはどこへ行った!)

「いいか、白石。今日からの現場では、俺から離れるな」

「……はい? それじゃ仕事になりません」

「俺が、お前を視界に入れておかないと気が済まないんだ」

 一条さんは冷静を装う私の肩に顎を乗せ、鏡越しにじっと私を射抜いた。その瞳には、かつての「邪魔だ」と言わんばかりの冷ややかさは微塵もない。

(昨日の涙で、一条さんの何かのスイッチを粉砕しちゃったの……!?)

 混乱で思考がショート寸前の私などお構いなしに、一条さんは私の髪を指先で優しく掬い上げた。そのまま、慈しむように、あるいは自身の所有物だと刻印を刻むように唇を寄せる。

「……ほら、冷めるぞ。飲め」

 差し出されたカフェオレの熱さなんて、もう分からない。
 一条さんの視線に焼き尽くされそうで、私は真っ赤な顔のまま、ただ石像のように固まることしかできなかった。

◆◆◆

「……ですから、その資料は先週の時点で修正済みだと、メールでもお送りして……」

「言い訳はいいんだよ! 現に今、ここに最新版がないだろうが! これだから若者は嫌なんだ!」

 制作会社のベテランデスクが、周囲に響き渡るような怒鳴り声を上げる。私のミスではない。先方の確認漏れなのは明白なのに、一条さんのストレスが私に向けられる。

 周りのヒソヒソとした声。悔しさと情けなさで視界が歪む。

「――それ以上は、僕に対する侮辱と受け取ってもいいですか?」

 いつの間にか背後に立っていた一条さんが、私の肩に片手を置き、静かにけれど、どこか威圧感を持って一歩前に出た。

「一条さん……っ」

「一条さん君、これは一条さん女の不手際でね……」

 さっきまで威勢の良かったデスクが、一条さんの射抜くような視線にたじろぐ。一条さんは私の肩を抱き寄せ、自分の方へ引き寄せると、笑みを浮かべた。

「一条さん女が送った修正済みのメール、僕もCCで受領しています。今ここで、あなたのスマホに転送しましょうか?  昨日の午後三時二分です」

「え……あ、いや……」

「確認不足を棚に上げて、僕の専属マネージャーを怒鳴りつける。……現場の士気を下げているのは、どちらの方でしょう。それとも、僕のマネージャーを貶めることで、僕自身に何か不満でもありましたか?」

「そ、そんなわけないじゃないか! すまない、私の勘違いだったようだ」

 デスクが逃げるように去っていく。
 一条さんは一条さんが消えるまでその背中を氷のような目で見送っていたが、姿が見えなくなった瞬間に、肩に置いていた手の力をふっと緩めた。

「……すみません、一条さん。私のせいで、現場の空気が……」

「お前のせいじゃない。あんな奴の言葉に気を留める必要はない」

「……一条さん」

「なんだ」

「……ありがとうございます」

 小声で伝えると、一条さんは視線を台本に落としたまま、口元をわずかに綻ばせた。

 ――それから数時間後。

 カチリ、と玄関の鍵を閉める音が静かな室内に響く。
 
「……久しぶりに明日は完全オフだな」

 深夜、撮影を終えて帰宅したリビング。一条さんはいつもの完璧なセットを崩し、少し乱れた髪のままソファに深く沈み込んだ。

「そうですね。一条さんはゆっくり休んでください」

「白石。明日の予定は?」

「ええと……特にないです。溜まった洗濯と、キッチンの換気扇の掃除でもしようかなって……」

 私が脱ぎ捨てられた一条さんのジャケットをハンガーにかけながら答えると、一条さんはふいっと顔を上げ、不満げに口角を下げた。

「……掃除はまた今度にしろ。明日はスーツを買いに行くからお前も付き合え」

「スーツなら、お店からカタログを取り寄せましょうか? 部屋着のまま選べますよ」

「そうじゃない。……お前を連れて、店に行くんだよ」

 一条さんはソファから立ち上がると、私の手からジャケットを奪い取り、代わりに私の両肩を掴んで自分の方へ向けた。

「お前は一日中埃と戦ってるつもりか?」

「誰のせいでそうなってるんですか」

「……掃除なら、帰ってきてから俺も手伝ってやる。それなら文句ないだろ?」

「一条さんに掃除なんてさせたら、かえって仕事が増えそうです」

 私が苦笑いしながら言うと、一条さんは「……お前なぁ」と呆れたように笑い、そのまま私の額に自分の額をこつんと預けた。

「……あの、一条さん。どうして、急にこんな……」

「……なんだ。お前は、俺に冷たくされる方が好みなのか?」

 一条さんの瞳は少しだけ意地悪く、けれど、優しく笑う。

「いや、ただ嫌われてると思ってたので」

「……嫌いな奴を、わざわざ隣に置く趣味はないな」

 一条さんは私の頬にかかった髪を、指先でゆっくりと耳に掛けた。
 その指先が、ほんの数秒、私の耳たぶに触れたまま止まる。

「とにかく、明日は十時出発だ。……掃除の代わりに、俺に似合う一着を選べ。いいな?」

「……わかりました」

「お前もしっかり寝ろよ」

 一条さんは満足げに私の頭を一度だけ優しく撫でると、寝室へと向かった。
 
 残された私は、一条さんの手が触れていた場所の熱が引かなくて、しばらくの間、リビングで呆然と立ち尽くしていた。

(……いや、待って。やっぱりおかしい。絶対におかしい!)

 頬に残る熱を両手で押さえながら、私は心の中で叫んだ。
 だって、あの一条さん玲央だ。つい昨日までは、仕事以外の会話なんて最低限。一条さんが台本に集中している間は気配を消すのが私の処世術だったはずなのに。

(今朝から、何なの? この急激な距離の詰め方……!)

 ロケ先でさりげなく風よけにされたり、人混みで腕を引かれたり。さっきのだってそうだ。「嫌いな奴を隣に置く趣味はないな」なんて、そんなの、今まで冷たく接してきたことへの免罪符にしては破壊力が強すぎる。

(もしかして、これ……試されてる? 新しいタイプのハラスメント……じゃないよね? それとも、次の役作りの練習台にされてるとか)

 そう自分に言い聞かせても、耳たぶに触れた一条さんの指先の感触が、脳裏に焼き付いて離れない。
 嫌われていると信じ込んでいた分、今の一条さんの「体温」が毒のようにじわじわと回っていく。

(……明日、何着ていけばいいかな)

 自室に戻るなり、私はクローゼットの前で立ち尽くす。
 普段は「マネージャーとして目立ちすぎず、かつ失礼のない服」という基準でしか選んでいない。動きやすさ重視のパンツスーツか、地味な色のセットアップ。

 けれど、明日隣を歩くのはあの、一条さんだ。

(そんな一条さんの隣で、いつものヨレたスラックスなんて履いてたら、公開処刑もいいところだよ……)

 私は片っ端から服を引っ張り出した。
 これは地味すぎる。これは……ちょっと気合が入りすぎている気がして恥ずかしい。

(……なにこれ、私、めちゃくちゃ悩んでるじゃない)

 「練習台かも」なんて疑っていたはずなのに、結局は「一条さんにどう見られるか」を必死に考えている自分に気づいて、鏡の中の真っ赤な顔と目が合った。

 そんなことを考えている時点で、私はもう一条さんの術中にはまっているのかもしれない。

「……もう、なんでもいいや。清潔感さえあれば!」

 半分ヤケクソで、一番無難な、でも少しだけ顔色が明るく見えるラベンダー色のニットと、揺れるラインが綺麗なスカートを選んでベッドに潜り込んだ。

 どうか明日、一条さんがいつも通りに冷たく笑ってくれますように。

 ……じゃないと、私の心臓が一日中、持ちそうにないから。

◆◆◆

「……なぁ、白石。さっきから三歩後ろを歩くの、やめろって、言ってるだろ」

 人混みで賑わう休日の表参道。
 一条さんは足を止め、振り返りざまに私の手首を捕まえて、ぐいと自分の隣に引き寄せた。

(……無理。やっぱり無理。歩けないってば、こんなの!)

 今日の一条さんは、深めのキャスケットに黒縁の伊達メガネ、そして顔の半分を覆うようなマスクという「完璧な変装」をしている。……はずなのに。

 仕立てのいいロングコートから覗く長い脚、ゆったりとした歩き方、そして何より、隠しきれない圧倒的な「華」が、すれ違う人々の視線を次々と奪っていく。

「ほら、また違うこと考えてるだろ」

 一条さんは、サングラス越しでも分かるほど艶っぽい瞳で私を覗き込んだ。

 マスク越しに漏れる低い声は、スタジオで聞くそれよりもさらに深く、私の耳の奥をくすぐる。

(変装の意味、全然ないじゃないですか……!)

 街ゆく女性たちが「今の、モデル?」「めちゃくちゃスタイルいい……」とヒソヒソ話す声が聞こえてくる。

 そんな「オフの男」の色気を全身から放っている一条さんの隣で、私は昨夜あんなに悩んで選んだ服が、急にただの布切れのように思えてきて、消えてしまいたかった。

「あの、一条さん。やっぱりもう少し離れて……。バレたら大変ですし、私、なんだか試練を受けてる気分で……

 一条さんは立ち止まり、捕まえていた私の手首を離すと、今度はそれを滑らせて私の手をそっと握り込んだ。

「っ、一条さん!?」

「お前、さっきから『試練』だとかなんの話しだ?」

 一条さんは私の動揺を見透かしたように、マスク越しにふっと笑った。

 そして、人混みの中でも周囲には決して聞こえない、けれど私の心臓には直接響くような熱量で、言葉を継ぐ。

「……一条さん、そんなに私を凝視しないでください。お店の鏡に反射してる自分でも見ててくださいよ」

「自分の顔は見飽きてる。今は、俺の隣で挙動不審になってるお前を見てる方が、よっぽど退屈しない」

「だって、一条さんが『今日は絶対にバレない』って言ったから安心したのに。……みんか一条さんが通り過ぎるたびに首が180度回転してます」

「……それは、俺の変装が甘いんじゃなくて、お前の歩き方が不自然なんだ。犯行現場から逃げる犯人みたいな顔して歩くな」

「そんな顔してません! 私はただ、一条さんの横で『一般人A』になりきろうと必死なんです」

 私がむくれて早歩きをしようとすると、一条さんは私の腕をグイと引いて、自分の歩幅に合わせさせた。

「悪かったからそんなむくれるなよ」

 そう言って、笑う一条さんの目が優しくて、どうも調子が狂う。私は諦めて一条さんの隣を歩くことにした。

「……あ、一条さん。あそこの雑貨屋さんの前にある、あの大きなクマの置物。……一条さんが台本読んどる時の顔にそっくりですよ」

「……は?」

 一条さんが足を止めて、店頭のシュールな表情をしたクマを凝視する。

「お前、あれが俺に見えるのか?  ……どこがだ。目が座ってるところか?」

「いえ、眉間にシワが寄ってるところです。あ、怒りました?」

 一条さんが黙り込んだので、私は「しまった、言いすぎたかも」と顔を覗き込んだ。すると、一条さんは片手で顔を覆い、肩を小刻みに震わせ始めた。

「ふ、はは……っ」

 スタジオで完璧に計算された「微笑み」じゃない。呼吸が苦しそうになるほど、本気でツボに入った時の、子供のような笑い方。

 私は予想外の反応に目を丸くする。

「クマって……っ。俺、あんな顔して仕事してるか?」

 笑いすぎたのか、一条さんは少しだけ目尻に涙を浮かべている。

「……悪いな。お前がそんな風に俺のことを見てるなんて思わなかった。……面白いよ、お前」

「……面白いって、言われるマネージャーもどうなんですか」

「いいんだよ。俺をこんなに笑わせられるのは、お前だけだからな」

 一条さんの笑い声が耳に残るたび、私の心の中の「一条玲央」という人物像が、驚くほど鮮やかな色に塗り替えられていく。

「……ほら、行くぞ。クマに似てる俺に、最高に似合うスーツを選ばせてやる」

「……根に持ってますよね、それ」

 そんなどうでもいいような会話を続けながら入ったのはどこか高そうなお店。
 ずらりと並ぶスーツの放つ気品に圧倒されていると、すぐに熟練の店員がにこやかに歩み寄ってくる。

「いらっしゃいませ。今日はどうなさいましたか?」

「ああ、新しくスーツをと思って」

「今季のトレンドでしたら、こちらなどいかがでしょう」

 店員が自信を持って提示したのは、明るいグレーに繊細なチェック柄が施された、いかにも都会的で華やかな一着だった。

「……お前はどう思う?」

 一条さんはそのスーツをちらりと見ただけで、すぐに隣の私に意見を求めてきた。

「んー、私は……」

(正直、どんなスーツだって一条さんが着れば、関係なくかっこよく見えるんだけど……)

 そんな本音を飲み込んで、私は改めて店内を見渡した。

 華やかな柄もいいけれど、一条さんの持つストイックなまでの美しさを引き立てるには。

「私は……黒色の無地の方が、一条さんには合うんじゃないかなって」

 ふと目に留まった、隅の棚に置かれた漆黒の生地。光の加減でわずかに艶を放つ、飾り気のない、けれど上質な一着。私はそれを手に取り、一条さんの隣に並べてみた。

「じゃあ、これにしよう」

「えっ、即決ですか!? せっかくですから、もっと流行りのものとか、色々着てみた方が……」

「いい。お前が選んだものがいいんだ」

 あまりに迷いのない返事に、私が面食らっていると、やり取りを見守っていた店員が感銘を受けたように深く頷いた。

「……お客様、大変素晴らしい審美眼をお持ちですね。こちらは最高級のウールを使用しておりまして、お客様のような洗練された体躯の方にこそ、その真価を発揮いたします」

 店員は、まるで芸術品を扱うような手つきでその黒いスーツを広げた。

「ああ、ではこちらを購入させていただこう」

「かしこまりました。お直しが上がりましたら、すぐにご連絡差し上げます」

 店員さんの丁寧な見送りを受けながら、一条さんがカードで会計を済ませている隙に、私はカウンターに置かれた伝票の数字を、盗み見るようにして視界に入れた。

(……ひっ……!?)

 思わず声が出そうになった。
 桁が一つ、いや、私の感覚からすれば二つは違う。スーツ、一着にこれだけの金額を、あんな「コンビニでおにぎりを買う」みたいな気軽さで決済してしまうなんて。

(これがトップ俳優の住む世界なのね……)

「……一条さん、私、先に外で待ってますね!」

 あまりの金銭感覚の差と、店内に充満する「選ばれし者」にしか許されないような高級な香りに、胃のあたりがキュウッとなった。あんな空間に一秒でも長くいたら、緊張でお腹が痛くなってしまう。

 逃げるように店を出て、表参道の冷たい空気を大きく吸い込む。

「ふぅ……。あんなの、心臓に悪いわ……」

 そして、辺りを見渡した時だった。

「……(たける)

 人混みの中でその顔を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。

 向こうもこちらに気づき、わざとらしく足を止める。隣には、いかにも「かわいらしい」といった雰囲気の若い女性が、健の腕にべったりと寄り添っていた。

「あ、結衣じゃん。久しぶり」

「……えぇ、久しぶり」

 気まずい。よりによって、あんな振られ方をした元カレに、こんな場所で会うなんて。

「ねぇ健、この人お友達?」

「あー、うん、まあそんな感じ。……結衣、こっちは俺の彼女の美優」

「どうもぉ、美優です」

 彼女が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。健は鼻を高くして、私の反応を楽しむように言葉を続けた。

 この子があの美優。健が毎晩連絡を取り合い浮気していた相手。

「美優はホント可愛くてさ、素直で、マジで最高の彼女なんだよな。どっかの誰かさんみたいに、仕事ばっかりで可愛げがない奴とは大違いっていうかさ」

(……なに、それ。わざわざ今、言うこと?)

 健がこんなにデリカシーのない男だったなんて。

 「もーやだぁ、健ったらぁ」と甘える彼女の横で、健は私を憐れむように見下ろした。

「お前も、少しは美優を見習ったらどうだ? そんなんだと彼氏もできないだろ……じゃあな、頑張れよ。し
・ご・と」

 コートのポケットの中で、爪が食い込むほど拳を握りしめた。言い返したいのに、喉の奥が詰まって声が出ない。

 視界が滲みそうになった、そのとき。

「――待たせたな、結衣」

 背後から響いたのは、凛としていて、それでいて深く甘い響きを持つ声。

 一条さんが、流れるような動作で私の隣に立ち、当然のようにその長い腕を私の肩に回した。

「えっ……」

「結衣の知り合いか?」

 一条さんはサングラスを少しだけずらし、健を真っ向から見据えた。

 ただそこに立っているだけなのに、周囲の空気が一瞬で劇場のように華やぐ。健の着ている安っぽい派手な服や、これ見よがしに腕を組んでいた下品な仕草が、一条さんの圧倒的な洗練さを前にして、みるみるうちに惨めなほど「浮いて」いくのがわかった。

「あ……あ……」

 健が言葉を失っていると、隣にいた彼女が突然大きく口を開けて固まった。

「えっ……嘘、待って。もしかして、いち……!?」

 彼女が悲鳴を上げようとした瞬間、一条さんは色っぽく人差し指を自分の唇に当てた。

「シー……。今はプライベートなので、内緒にしてくださいね」

 その、とろけるようなファンサービス用の微笑みに、彼女は顔を真っ赤にして「うんうん!」と激しく首を振った。

「あ、あの! 握手、握手してもいいですか!?」

「ああ、もちろん」

 一条さんは爽やかに微笑んで彼女の手を取った。健の存在なんて、もはや背景の街灯と同レベルにしか扱っていない。

「ドラマ見てます! ずっとファンで、お仕事頑張ってください!」

「ありがとうございます」

 テレビの中そのままの、非の打ち所がない完璧な微笑み。

 一方、健はといえば、自分の彼女が目の前の男に完全に骨抜きにされている姿を、ただただ情けなく口を半開きにして見守るしかなかった。先ほどまでの「彼女自慢」が、ブーメランのように自分を打ちのめしている。

「結衣、行こうか。予約の時間に遅れる」

 一条さんは、これ以上ないほど優しく私の肩を抱き寄せた。

 私は、自分の中にあったモヤモヤが晴れていくようなスカッとした気分を感じながら、一条さんの極上の演技に便乗することにした。

「そうね。……ごめんなさい健、私たち先に行くわ」

 私は去り際、呆然と立ち尽くす元カレに向かって、今日一番の冷ややかな微笑みを投げかけた。

「健、あなたも彼女さんに愛想を尽かされないように気をつけなさいよ。……あなたより素敵な人なんて、この街にはたくさん溢れてるんだから」

 それだけ言い残して、私は一条さんのエスコートに身を預け、颯爽と歩き出した。

 背後で美優さんが「ねえ健! 今の人、本物だよ!?」と騒いでいる声が聞こえてくる。

 しばらく歩き、角を曲がって一条さんらの姿が見えなくなったところで、一条さんがふっと肩の力を抜いた。

「……今ので、少しはスカッとしたか?」

 さっきより、ずっと柔らかい声。

 私は小さく笑った。

「はい、おかげで言いたいこと、言えました」

 一条さんは満足げに頷く。

「なら、よかった」

 胸の中に溜まっていた、泥のような重たい気持ちが、今は驚くほどすっきりとしている。
 代わりに残ったのは、静かで、あたたかい鼓動だけだった。

「じゃあ、行くか」

「え? 買い物はもう終わったはずじゃ……」

 そう言うと、一条さんはわずかに口元を緩めた。

「ああ。買い物に付き合わせた礼だ。店を予約してあるんだ」

「ちょ、ちょっと待ってください。私、そんなつもりで来たわけじゃ……」

「知ってる」

 即答だった。

「だから俺の気分だ。付き合え」

 低くて落ち着いた声。命令口調なのに、不思議と圧はない。

 それどころか。

「それとも――俺と二人きりは嫌か?」

 覗き込むような、少しだけ意地悪な視線。試されていると分かっていても、顔が熱くなるのを止められない。

「そ、そんなことは……」

 言葉に詰まった私を見て、一条さんは満足げに小さく笑った。

「なら決まりだ。行くぞ」

 そう言って、自然な動きで私の手首を取る。

 その指先が、思ったよりも優しくて、私は抗うことができなかった。

 連れてこられたのは、外観からして明らかに高級とわかる店だった。

 落ち着いた石造りのエントランス。控えめなのに上質な照明。
 扉の前には、黒いスーツを着たスタッフが立っている。

「あの、一条さん。ここ、見るからに高そうですけど……」

「いいから入れ」

 重厚な扉の先には、都会の喧騒を忘れさせるような静謐な空間が広がっていた。

「お待ちしておりました、一条様」

 そう言って案内されたのは、廊下の突き当たりにある個室。
 静かに扉を閉めると、室内には途端に、二人きりの沈黙が降りてきた。

「……座れよ。そんなに突っ立ってると『無理やり連れてこられた』って顔に見えるぞ」

 一条さんは慣れた仕草で上着を脱ぎ、対面の席を指差す。

 その所作一つひとつが洗練されていて、この場の空気に馴染みすぎている。

(……場違いすぎる)

 お洒落なんてろくにしていない自分の格好と、店の設えを見比べて、いたたまれない気持ちになる。

「……こんなにちゃんとしたお店なら、先に言ってくれればよかったのに」

 俯き加減に呟くと、ふっと頭上から低い笑い声が降ってきた。

「事前に言えば、お前は来なかっただろ」

「そんなこと……」

「安心しろ。ここは俺たちだけだ、誰も邪魔しない」

(だから緊張してるんですよ!)

 運ばれてきた料理は、どれも一皿ごとに芸術品のような美しさだった。

「……っ、おいしい……」

 思わず小さく呟くと、一条さんがわずかに口元を緩めた。

 緊張で強張っていたはずの胃が、そのあまりの幸福感に、すうっと解けていくのがわかった。

 グラスの氷が小さく音を立てる。

 そのとき、ふと視線を感じた。

「……なんですか?」

「いや」

 一条さんはフォークを置き、淡く笑う。

「美味そうに食べるな、と思って」

「だって、実際美味しいですし?」

「口にあったのならよかった。ワインでも飲むか?」

 不意に、一条さんが手元のリストに目を落としながら問いかけてきた。

「いえ、私は……運転があるので、遠慮しておきます。どうぞ、一条さんは飲んでください」

 当然の理由として口にすると、一条さんはリストから視線を上げる。

「タクシーを呼べばいいだろ。車は他にもたくさんある。明日は別ので現場に行けばいい」

「駐車してる間にもお金かかってますし、もったいないですよ」

「……お前、酒は弱いのか?」

 不意打ちのような質問に、思わず言葉が詰まる。

「そ、そういうわけじゃ……人並みには飲めますけど」

「なら、問題ないな。一人で飲むのは味気ない」

 そして、一条さんの圧に負け運ばれてきたのは、宝石のように澄んだルビー色の赤ワイン。グラスが置かれると同時に、芳醇な葡萄の香りが個室の空気を一気に塗り替えていく。

「……あの、一条さん。本当にいいんですか?」

「何がだ。……ほら、持て」

 促されるままにグラスを手に取ると、細い脚の部分で、一条さんと私の指先がわずかに触れ合った。

「今日は付き合ってくれた礼だと言っただろ。変な遠慮は捨てろ」

 カチリ、と硬質な音を立ててグラスが重なる。

「……じゃあ、いただきます」

 おそる恐る口に含んだワインは、驚くほど滑らかに喉を通り、芳醇な香りを鼻腔に残した。

「おいしい……」

 思わず感嘆が漏れる。グラスに揺れる深い紅を眺めながら、ふと、最後にこうして誰かとゆっくりお酒を飲んだのはいつだっただろうか、と考える。

(……健は、お酒弱かったからな)

 健と一緒にいるときは、いつもソフトドリンクか、彼に合わせた軽いカクテルばかりだった。一緒にワインを嗜むなんて、想像もできなかったことだ。

「……あいつのこと、考えてるのか」

 不意に投げかけられた低い声に、肩が跳ねる。見透かしたような一条さんの瞳が、私を捉えて離さない。

「えっ……。あ、いえ、ちょっと思い出してただけで……」

「……まだ、好きなのか?」

 わずかに声音が低くなった気がした。その問いに、私は慌てて首を振る。

「違います。未練なんて、全然……。ただ、あんまり良くない別れ方だったので、つい」

「なら、いい」

 そう言って、一条さんはふっと表情を和らげ、優しく微笑んだ。

 けれど、その直後。一条さんが細めた瞳に宿ったのは、射抜くような、熱を帯びた視線。

「どうした? ……顔が赤いぞ」

「それは……ワインのせいです」

 そう答えるのが精一杯だった。

 一条さんに見つめられているだけで、心臓の音が耳元まで響いてくる。このままでは視線だけで溶かされてしまいそうで、私は逃げるように、残りのワインを一気に飲み干した。

「……はは、そんなに急いで飲んだら、ますます回るぞ」

 そう会話してから気づけば、グラスはもう何杯目かわからない。

 身体がぽかぽかして、思考がふわふわしている。

「それで……仕事ばっかだからって振られて……」

 自分でも止まらない。

「素直になれないのは、もうしょうがなくないですか……!」

 テーブルに突っ伏しそうになりながら訴えると、隣から呆れた声が落ちてきた。

「お前、完全に酔ってんな」

「そんなことないです……まだまだ飲めますよ……」

「その台詞がもう酔ってる証拠だ」

 くす、と笑う気配。

 でもその手は、私のグラスをそっと取り上げた。

「あっ、返してください」

「素直になれないのは相手に問題があるんじゃないか」

「……え?」

 顔を上げると、一条さんがまっすぐこちらを見ていた。

 予想外の言葉に、回らない頭で一条さんを見上げる。

「俺なら、そんな不器用なお前を丸ごと受け入れてやるのにな」

 低くて心地よい声が、耳から脳に直接溶け込んでくる。

「お前は十分、魅力的だ」

 息が止まる。

「仕事を本気でやれるのは強さだ。誰にでも出来ることじゃない」

 その声は低くて穏やかで、でも揺らがない。

「……でも、可愛げないって」

「くだらない」

 即答だった。少しだけ眉を寄せる。

 心臓がどくんと鳴る。

「俺なら、お前を甘やかしてやる」

 ふっと、目元が和らぐ。

「頑張っただけ、ちゃんと報われるって思わせてやる」

 酔っているはずなのに、その言葉だけははっきり届く。

「……お前が必死に頑張ってくれてるから、俺は助かってるんだ」

 不意に、一条さんが吐き出したのは、あまりに直球な感謝の言葉だった。

「……ほんと、ですか……?」

「ああ。俺が嘘を吐くように見えるか?」

「……はい。見えます」

 即答すると、一条さんは意外そうに眉を上げた。私は酔った勢いに任せて、ずっと胸に引っかかっていたトゲを口にする。

「だって……一条さん、初めて会ったとき言ったじゃないですか。『女は嫌いだ』って。私のことが嫌いだから、あんな嘘ついてまで、遠ざけようとしたんでしょ?」

 私の不満げな視線を受け止めて、一条さんは一瞬だけ虚を突かれたような顔をした。けれどすぐに、その唇にふっと危うい弧が描かれる。

「ああ、あの時のことか。……あれは別に、嘘じゃないぞ」

「……え?」

「女が嫌いなのは本当だ」

 心臓が、ひやりと冷える。

 けれど次の言葉は、思っていたのと違った。

「でも、お前は別だ」

 静かに、はっきりと。

「……?」

「お前は、ほかのやつとは違う」

 指先が、私の頬に触れる。

 熱を確かめるみたいに、ゆっくり。

「まぁ、最初は悪かった」

 ぽつりと落ちた声。

「けど、今はお前がマネージャーでよかったって思ってる」

 静かで、飾り気もなくて。

 だからこそ、嘘じゃないとわかる声だった。

 それは――

 マネージャーとして、いちばん欲しかった言葉だった。

 女としてじゃない。

 特別だからでもない。

 “仕事相手として選ばれている”という証。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 視界が少し滲むのを感じて、慌てて下を向いた。

「……そうですか」

 それだけ返すのが精一杯だった。

 泣きそうになるなんて、格好悪い。

 必死に息を整える。

 すると、くっと小さな笑い声が落ちた。

「お前って、意外と泣き虫だよな」

「泣いてなんていません」

 すぐに顔を上げる。

 強がりの反射。

 一条さんはじっと私を見て、それから少しだけ目を細めた。

「そうか」

 指先が、目尻のあたりに触れる。

 心臓が、うるさい。

 酔いのせいか、言葉のせいか。

「じゃあこれは、ワインのせいだな」

 困ったように笑うその顔が、やけに優しくて。

 ――こんなの、反則だ。