一条さんのマネージャーになって、まだ一週間。たった七日間なのに、体感ではもう一か月は経った気がする。それくらい、毎日が濃くて、重くて、そして容赦がなかった。
日の出前に起きて、朝食を準備し、すぐにスタジオに向かう。
スタジオに入れば一日中走り回り、長時間の撮影が終われば今度は夜のロケ。すべてが終わる頃には日付が変わっていて、事務所に戻って翌日の確認を終える頃には、さすがの私でも足が棒のようになる。
それが、毎日。
マネージャー歴五年。忙しさには慣れているつもりだった。でも、ここまで息つく暇もない現場は初めてだ。正直、私ですらヘトヘトになる。
――そう思うと。
これを当たり前のようにこなしている一条さんは、きっと私以上に大変なのだろう。
少しだけ、尊敬の気持ちが湧いた。
「次、十分後に本番です」
声をかけると、一条さんは短く頷くだけ。余計な言葉はない。けれどその横顔には、もう役の色が滲んでいる。完璧に整えられたメイクと衣装、カメラの前に立つ姿は、私が知っている“生活能力ゼロの同居人”とはまるで別人だった。
今日撮っているのは、連続ドラマ『さよなら、私の片想い』。
一条さんは、ヒロインが長年想い続けてきた幼なじみ役。
優しくて、どこか不器用で、最後まで一条さんはヒロインを想い続ける――いわゆる“報われない男”。
「……あんなやつのところになんか、行くなよ」
低く、切なげな声。
ヒロインを抱きしめる一条さんの腕に、力がこもる。
たったそれだけの仕草なのに、空気が変わった。
モニター越しに、スタッフたちが息を呑むのがわかる。
誰も声を出さない。ただ、その場にいる全員が、画面から目を離せなくなっていた。
(……すごい)
正直、思わず見とれてしまった。
さっきまで無愛想で、皮肉ばかり言っていた人と、同一人物だなんて信じられない。
「カット! オッケーです!」
監督の声で、ようやく現実に引き戻される。張り詰めた空気がほどけ、三十分の休憩が告げられる。
一条さんは自然な動作でヒロイン役の子を離し、柔らかく笑った。
「すみません。苦しくなかったですか?」
「いえ、全然。一条さんの演技がすごくて……本当に物語の中に入ったみたいでした」
「ほんとですか? 俺もそう言ってもらえると嬉しいです。続きも、頑張りましょうね」
そのやり取りも自然で、無駄がない。
相手を気遣いながら、きちんと距離を保つ――完璧な立ち回り。
「……さすがだなぁ」
思わず、独り言みたいに呟いていた。
「白石さん、ちょっといいですか」
遠くから声が飛んでくる。
「はい、すぐ行きます!」
返事をして、私は慌ててその場を後にした。
モニターで最終チェックを済ませ、必要な確認を終える。
次の段取りも問題なし。
それから私は、資料を抱えて一条さんの楽屋へ向かった。
この一週間、一条さんと現場を共にしてわかったことがある。
この人は、驚くほどの完璧主義者だ。
撮影では一切の妥協をしない。
たとえ連日の撮影でどれほど時間がなくても、撮影の日には完璧な役を作り上げてくる。その準備は凄まじい。自分の出番ではない箇所のセリフまで読み込み、使い込まれた台本には、びっしりと付箋が貼られている。
何より驚いたのは、徹底されたキャラ作り。
一条さんは、驚くほど周囲をよく見ている。共演者への配慮はもちろんのこと、機材を運ぶスタッフや、走り回るADの名前まで一人ひとり覚え、いつも「お疲れ様」と、柔らかい微笑みとともに声をかける。
この業界、技術や才能だけでは渡っていけない。多くの人が協力して一つの作品を作る以上、信頼関係こそがすべてだ。たとえ、どれほど芝居が上手くても、傲慢な振る舞いで監督やスタッフに疎まれれば、次は呼ばれない。
しかし、一条さんの周りにはいつも、柔らかな明るい空気が流れている。あの誠実さと自然な気遣いは、誰にでも真似できるものではない。
完璧な仕事への姿勢と、誰に対しても変わらない優しさ。
彼が多くの人に愛され、求められ続ける理由が、この一週間で痛いほどよくわかった。
……本当に、仕事に関しては非の打ちどころがない。
その代わり、私生活は壊滅的だった。
洗濯物は溜まりっぱなし。
冷蔵庫の中は、ミネラルウォーターとエナジードリンクだけ。
ゴミの日? 知らない、という顔をする。
すべてを仕事に振り切った結果なのだろう。
だから私は洗濯をし、掃除をし、食事を整える。本来なら業務外。でも、社長に言われた言葉がある。
『一条は、仕事に関しては天才だ。だが、それ以外は全くもってダメなんだ。だからお前にはマネージャー兼世話係として一条を担当してもらう』
断る間もなく、手渡されたのは引き継ぎの書類だった。
聞けば、前任のマネージャーはあの一条さんの美貌に、あろうことか恋に落ちてしまったらしい。結果、公私混同がたたり、現場は混乱、解任。
つまり、私に白羽の矢が立ったのは、仕事が丁寧だから……という以上に、「一条を男として見ない、鉄の理性を持ち合わせている」と期待されたからだ。
……それが、私の「住み込みマネージャー」という名の、監禁にも似た奉公生活の始まりだった。
仕事は完璧、プライベートは壊滅的。そんなギャップの激しい一条さんとの生活は、一週間経っても「攻略」の糸口さえ見えません。
私は気合いをいれて楽屋のドアをノックする。
――返事はない。
「一条さん、入りますよ?」
そう声をかけて、そっとドアを開けた。
そこには、椅子に腰を下ろし、台本に視線を落とした一条さんの姿があった。
眉をわずかに寄せ、ページに指を走らせながら、何度も同じ箇所を読み返している。
周りの音が、すべて遮断されているみたいだった。
(……すごい集中)
さっきまで、現場であれだけ完璧に演じていたのに。
休憩時間ですら、気を抜く様子はない。
声をかけるのが、少しだけためらわれる。
口を開きかけた、そのとき。
「……何だ」
低く、感情のない声。
顔は上げない。
視線は、台本の文字に落ちたままだった。
「あ、えっと……」
一瞬、言葉に詰まる。
「次の段取りの確認をと思って」
ようやく、一条さんが顔を上げた。
でも、その目には、さっきまで画面越しに見ていた優しさの欠片もない。
「必要ない」
ぴしゃり、と。
まるで扉を閉めるみたいな言い方。
この人は、自分の体さえ「役を動かすための道具」としか思っていない節がある。
私は負けじと口を開く。
「明日の入りは一時間遅くなりました。朝食、何かリクエストありますか?」
台本から視線を動かさない一条さんに、努めて明るく声をかける。
「……いらない。適当にゼリーでも飲んでいく」
「ダメです。明日は撮影時間が長くなると監督が言ってました。倒れられたら困ります」
食い下がると、ようやく一条さんがペンを止めた。
ゆっくりと顔を上げ、冷ややかな、それでいてどこか退屈そうな瞳が私を射抜く。
「お前、勘違いしてないか」
「……はい?」
「社長から何を言われたか知らないが、お前に求めているのは『スケジュール管理』と『現場の円滑な進行』だ。それ以上の“世話”は、俺の集中を削ぐ邪魔でしかない」
(……邪魔だって?)
前のマネージャーがどうだったか知らないが、こっちはプロとして、あんたのその「壊滅的な私生活」を底上げしてやってるってのに。
「……ふーん。邪魔、ですか」
私は手に持っていた資料を、わざとらしく音を立てて閉じた。
顔を上げ、台本に視線を戻そうとする一条さんの前に、ずいと一歩踏み込む。
「悪いですが、一条さん。私は自分の仕事にプライド持ってるんです。あなたが最高の演技をするためのサポートをするのが私の仕事です。現場で倒れて迷惑かける方が、よっぽど制作サイドにとっての『邪魔』じゃないですか?」
一条さんの手が、止まった。
ゆっくりと顔を上げた一条さんの瞳に、明らかな不快感と、それから……少しの笑みが混じる。
「……口の減らないマネージャーだな」
「ええ、社長からも『根性だけはある』ってお墨付きをいただいてますから」
私は不敵に笑ってやった。
一条さんはフンと鼻で笑うと、冷たい声を重ねてくる。
「なら、その根性とやらを言葉じゃなく結果で見せろ。明日の朝、不味い飯が用意されてたら、その時点で解雇を申請する」
「望むところです。明日、完食した空の皿を見るのを楽しみにしてますね」
火花が散るような視線の応酬。
私は挨拶もそこそこに、踵を返して楽屋を飛び出した。
廊下を歩きながら、拳を握りしめる。
なんなの、あの男。ちょっと見直してたのに、あそこまで可愛げがないなんて。
「見てなさいよ、一条。あんたの生活、私が完璧に『管理』してやるんだから!」
私はひとり拳を震わせるのだった。
◆◆◆
翌朝。
日の出前、キッチンで、私は猛然とフライパンを振っていた。
冷蔵庫にあった最低限の食材と、私が昨日の帰り道に意地で買い込んだ厳選素材。
(エナジードリンクに頼り切った一条さんの胃を、強制的に叩き起こしてやるんだから!)
ガチャリ、と寝室のドアが開く音がした。
起きてきた一条さんは、寝癖のついた頭でキッチンに立つ私を、信じられないものを見るような目で見つめている。
「……なんだ、これは」
私が突き出したのは、色鮮やかな副菜が並ぶプレートと、炊きたての土鍋ご飯。
「見ての通り、朝食です。まだ寝ぼけているんですか?」
嫌味たっぷりに言い返すと、一条さんのこめかみがピクリと動いた。
「……朝から重い。時間もないんだ。もっとサクッと食べられるものにしろ」
「脳に栄養が行ってないから、そうやって朝から不機嫌なんですよ。ほら、黙って口に運んでください。解雇されたくないんで、死ぬ気で作ったんですから」
私が腕組みをして見守るなか、一条さんは忌々しそうに一口、卵焼きを口に運んだ。
……瞬間。
ほんのわずか、本当にコンマ数秒だけ、一条さんの眉間の皺が緩んだのを私は見逃さなかった。
「……フン。味だけは、前のマネージャーよりマシだな」
「それはどうも。褒め言葉として受け取っておきます」
完食を確認するや否や、私は皿をひったくるように片付け、一条さんをひっ掴んだ。
「はい、三分遅れてます! 出ますよ!」
「……おい、引っ張るな。服がシワになるだろ」
現場に着いてからも、私たちの「戦争」は続いた。
撮影の合間、一条さんが少しでも喉を鳴らせば、指示される前にドリンクを差し出す。
一条さんが次のシーンの解釈で悩む素振りを見せれば、さりげなく過去の類似作品の資料を、デスクの端に置いておく。
「……白石」
「はい、なんですか?」
撮影のセットチェンジ中、パイプ椅子に座った一条さんが、じっと私を見上げてきた。
「お前……昨日の今日で、よくこれだけ準備したな。寝てないだろ。顔色も悪いぞ」
「マネージャーの睡眠時間を心配する暇があったら、セリフの一行でも完璧に頭に入れてください。それが私の寝不足に対する一番の報酬です」
突き放すように言うと、一条さんは一瞬呆然とした後、ふっと短く、鼻で笑った。
それは今まで見た、誰にでも見せる「営業用の笑み」でも、台本通りの「役の笑み」でもなかった。
「……いいだろう。お前がそこまで言うなら、今日のシーン、一発で終わらせてやる」
「当たり前です。押し巻いて、一秒でも早く私を帰らせてください」
バチバチと視線をぶつけ合う。その後すぐ声がかかり撮影が始まった。
宣言通り、その後の撮影は圧巻だった。一条さんの完璧な芝居に現場全体が引き込まれ、予定より一時間も早く「本日の撮影終了」の声が響く。
少し余裕ができた私は一条さんを送り届けると一度事務所に戻る。深夜にもかかわらずフロアにはまだ数人の影があった。
ガサガサと自分のデスクを漁り、明日のロケに必要な備品を鞄に詰め込む。そのわずかな音に反応するように、周囲から低く粘り気のある囁きが漏れ聞こえてきた。
「……また一条さんのところに戻るのかしら。 つきっきりなんて、いいご身分よね」
「前のマネージャーがああだったし、今度もどうせ……ねえ?」
以前よりも、明らかに周囲の風当たりは強くなっている。一条さんという人気俳優の担当になったことで妬む視線が、刃物のように背中に突き刺さる。
ここで弱音を吐けば、あの無責任な噂を肯定することになる。それだけは、死んでも嫌だった。
必要な資料を掴んで立ち上がった瞬間、視界がぐにゃりと反転した。
「っ……」
デスクの角を掴んで、なんとか踏みとどまる。心臓が嫌なリズムで跳ね、冷や汗が背中を伝った。
流石に徹夜は、体にくる。瞼の裏が熱く、思考が霧に包まれたようだった。けれど、私には休んでいる暇はなかった。
「――もっと、がんばらなくちゃ」
自分に言い聞かせるように呟き、私は逃げるように事務所を後にした。
深夜二時。一条さんの住むマンションに辿り着くと、そこには静まり返った闇が広がっていた。
明日の入りは朝5時。移動の段取り、スケジュールと台本の変更点を確認し、栄養バランスを考えた朝食を仕込む。やるべきことは山積みだ。
(……これは、また徹夜だろうな)
重い体を引きずりながら、私は暗いキッチンへと向かった。
とりあえず、コーヒーでも入れよう。そう思った時だった。
視界が暗くなるのを感じた。
突然、足元がふわふわとした感覚に襲われ、平衡感覚が消失する。慌ててキッチンの天板を掴もうとしたが、指先に力が入らない。
(……息が、うまくできない)
急に、酸素が薄くなったような気がした。
吸い込んでも吸い込んでも、肺に空気が入ってこない。浅い呼吸が喉元でつかえ、ヒュッ、と情けない音が漏れる。
息を吐かないと。そう思っていても、体が強張って上手くいかない。
(あれ、これ久しぶりに酷いかも……)
目の前が真っ白になり、足元から力が抜けていく。膝が床にぶつかる衝撃さえ、遠くの出来事のように感じられた。
「おい、白石。まだ起きて……」
リビングに残った明かりに気づいたのか、寝室の重厚なドアが開く音がして、一条さんの声が聞こえた。驚いて駆け寄ってくる気配が、床を通じて伝わってくる。
「――おい、しっかりしろ。白石!」
「……はっ、ひ、……っ」
「これ、過呼吸か?」
低い、落ち着いた声が頭上から降ってきた。
一条さんは瞬時に状況を理解したのか、動揺を見せなかった。私の肩を強い力で掴むと、一条さんの体に抱き寄せられる。
「ゆっくりでいいから、全部吐きだせ。ゆっくりだ」
混乱する私の耳元で、一条さんの声だけが驚くほど冷静に、一定のリズムを刻んでいる。
一条さんは私の背中に大きな手を添え、ゆっくりと、けれど力強くさすり始めた。
「いいか、俺の呼吸に合わせろ。……吐いて、そう、もっと長く」
抱き寄せられた胸板からは一条さんの心臓の音が聞こえる。導かれるように、暴走していた私の鼓動が、少しずつ、形を取り戻していく。
ようやく呼吸が整い、震えが収まってくると、急激な倦怠感が襲ってきた。一条さんは私の肩から手を離さず、けれど少しだけ距離を置いて、私の目を見つめた。
「……落ち着いたな。病院に行くぞ、立てるか?」
「……いえ、大丈夫です。これ、昔からの癖みたいなものなので。迷惑かけて、すみませんでした」
私は自嘲気味に笑って、震える手で資料を拾い上げる。
「おい」
「……すみません。私、明日、の準備を、しなきゃいけなくて」
「白石」
誤魔化そうとしたけれど、一条さんの静かな声がそれを制した。
ゆっくり顔を上げると一条さんが大きく、息を吐いた。
「思ってたんだが、お前を見てると頑張ってるって、より頑張らなくちゃって追い詰められてるように見える」
その言葉が、一番触れられたくない場所に、まっすぐ突き刺さった。私は手を止めたまま、絞り出すように言葉を零した。
「……私、ずっと『七光り』って言われていて」
胸の奥に溜まっていた泥のような感情が、溢れ出して止まらなくなる。
「誰の目にも、私は『親のおかげ』にしか見えていないんです。だから、もっと頑張って、自分がここにいる理由を証明しなきゃいけない。人一倍どころか、誰よりも完璧にこなさないと……」
沈黙が流れた。
深夜の静かなキッチンで、私の吐露した本音が、冷たい空気の中に溶けていく。
いつもならこんなこと話したりしないのに。もしかしたら、自分でも気づかないうちに限界だったのかもしれない。
一条さんは、私の震える背中を冷めた目で見限ることも、軽率に励ますこともしなかった。
「証明、か」
短くそう呟くと、少しだけ視線を和らげた。
「お前が気にするのは勝手だが、俺のマネージャーとしての価値を決めるのは、外の連中じゃない。俺だ」
一条さんは私の手から、握りしめられてクシャクシャになった資料を取り上げた
「……七光り、結構だろ?」
一条さんは、拍子抜けするほどあっけらかんと言い放った。
私は驚いて、一条さんを見上げる。
「使えるもんは、使えばいいんだ」
理不尽な陰口に一人で抗おうとしていた私にとって、それはあまりに予想外の言葉だった。一条さんはそのまま、呆然としている私の体を強引にソファへ横にさせた。
「ちょっ、一条さん――」
「お前が頑張ってんのは、俺が一番よくわかってる」
大きな手のひらが、私の頭に置かれる。
無造作に、けれど慈しむようにゆっくりと髪を撫でられた。その手のひらの熱が、張り詰めていた私の心の糸を、ぷつりと切っていく。
(私がいちばん言って欲しかった言葉をどうしてこの人が……)
視界が急激に滲んで、喉の奥が熱くなった。
必死に堪えようとしても、涙が次から次へと溢れて止まらない。
「……っ、……な、……」
「なんだ、泣いてんのか?」
一条さんは少しだけ意地悪く、けれど柔らかな声で笑った。
私は顔を伏せたまま、掠れた声で必死に反論する。
「……違います。これは、たまたま、気持ちが参ってた時に……優しくされたからで……」
「はいはい、わかったよ」
一条さんは深く追求することなく、ただリズムを刻むように優しく頭を撫で続けた。
「ほら、少しは寝ろよ。明日の朝、お前が寝坊したら俺が困るだろ」
そのぶっきらぼうな言い回しが、今は何よりも心地よかった。
静まり返った深夜、二人きりのリビングで、冷たかったはずの境界線が、少しずつ、熱を持って溶け始めていた。
日の出前に起きて、朝食を準備し、すぐにスタジオに向かう。
スタジオに入れば一日中走り回り、長時間の撮影が終われば今度は夜のロケ。すべてが終わる頃には日付が変わっていて、事務所に戻って翌日の確認を終える頃には、さすがの私でも足が棒のようになる。
それが、毎日。
マネージャー歴五年。忙しさには慣れているつもりだった。でも、ここまで息つく暇もない現場は初めてだ。正直、私ですらヘトヘトになる。
――そう思うと。
これを当たり前のようにこなしている一条さんは、きっと私以上に大変なのだろう。
少しだけ、尊敬の気持ちが湧いた。
「次、十分後に本番です」
声をかけると、一条さんは短く頷くだけ。余計な言葉はない。けれどその横顔には、もう役の色が滲んでいる。完璧に整えられたメイクと衣装、カメラの前に立つ姿は、私が知っている“生活能力ゼロの同居人”とはまるで別人だった。
今日撮っているのは、連続ドラマ『さよなら、私の片想い』。
一条さんは、ヒロインが長年想い続けてきた幼なじみ役。
優しくて、どこか不器用で、最後まで一条さんはヒロインを想い続ける――いわゆる“報われない男”。
「……あんなやつのところになんか、行くなよ」
低く、切なげな声。
ヒロインを抱きしめる一条さんの腕に、力がこもる。
たったそれだけの仕草なのに、空気が変わった。
モニター越しに、スタッフたちが息を呑むのがわかる。
誰も声を出さない。ただ、その場にいる全員が、画面から目を離せなくなっていた。
(……すごい)
正直、思わず見とれてしまった。
さっきまで無愛想で、皮肉ばかり言っていた人と、同一人物だなんて信じられない。
「カット! オッケーです!」
監督の声で、ようやく現実に引き戻される。張り詰めた空気がほどけ、三十分の休憩が告げられる。
一条さんは自然な動作でヒロイン役の子を離し、柔らかく笑った。
「すみません。苦しくなかったですか?」
「いえ、全然。一条さんの演技がすごくて……本当に物語の中に入ったみたいでした」
「ほんとですか? 俺もそう言ってもらえると嬉しいです。続きも、頑張りましょうね」
そのやり取りも自然で、無駄がない。
相手を気遣いながら、きちんと距離を保つ――完璧な立ち回り。
「……さすがだなぁ」
思わず、独り言みたいに呟いていた。
「白石さん、ちょっといいですか」
遠くから声が飛んでくる。
「はい、すぐ行きます!」
返事をして、私は慌ててその場を後にした。
モニターで最終チェックを済ませ、必要な確認を終える。
次の段取りも問題なし。
それから私は、資料を抱えて一条さんの楽屋へ向かった。
この一週間、一条さんと現場を共にしてわかったことがある。
この人は、驚くほどの完璧主義者だ。
撮影では一切の妥協をしない。
たとえ連日の撮影でどれほど時間がなくても、撮影の日には完璧な役を作り上げてくる。その準備は凄まじい。自分の出番ではない箇所のセリフまで読み込み、使い込まれた台本には、びっしりと付箋が貼られている。
何より驚いたのは、徹底されたキャラ作り。
一条さんは、驚くほど周囲をよく見ている。共演者への配慮はもちろんのこと、機材を運ぶスタッフや、走り回るADの名前まで一人ひとり覚え、いつも「お疲れ様」と、柔らかい微笑みとともに声をかける。
この業界、技術や才能だけでは渡っていけない。多くの人が協力して一つの作品を作る以上、信頼関係こそがすべてだ。たとえ、どれほど芝居が上手くても、傲慢な振る舞いで監督やスタッフに疎まれれば、次は呼ばれない。
しかし、一条さんの周りにはいつも、柔らかな明るい空気が流れている。あの誠実さと自然な気遣いは、誰にでも真似できるものではない。
完璧な仕事への姿勢と、誰に対しても変わらない優しさ。
彼が多くの人に愛され、求められ続ける理由が、この一週間で痛いほどよくわかった。
……本当に、仕事に関しては非の打ちどころがない。
その代わり、私生活は壊滅的だった。
洗濯物は溜まりっぱなし。
冷蔵庫の中は、ミネラルウォーターとエナジードリンクだけ。
ゴミの日? 知らない、という顔をする。
すべてを仕事に振り切った結果なのだろう。
だから私は洗濯をし、掃除をし、食事を整える。本来なら業務外。でも、社長に言われた言葉がある。
『一条は、仕事に関しては天才だ。だが、それ以外は全くもってダメなんだ。だからお前にはマネージャー兼世話係として一条を担当してもらう』
断る間もなく、手渡されたのは引き継ぎの書類だった。
聞けば、前任のマネージャーはあの一条さんの美貌に、あろうことか恋に落ちてしまったらしい。結果、公私混同がたたり、現場は混乱、解任。
つまり、私に白羽の矢が立ったのは、仕事が丁寧だから……という以上に、「一条を男として見ない、鉄の理性を持ち合わせている」と期待されたからだ。
……それが、私の「住み込みマネージャー」という名の、監禁にも似た奉公生活の始まりだった。
仕事は完璧、プライベートは壊滅的。そんなギャップの激しい一条さんとの生活は、一週間経っても「攻略」の糸口さえ見えません。
私は気合いをいれて楽屋のドアをノックする。
――返事はない。
「一条さん、入りますよ?」
そう声をかけて、そっとドアを開けた。
そこには、椅子に腰を下ろし、台本に視線を落とした一条さんの姿があった。
眉をわずかに寄せ、ページに指を走らせながら、何度も同じ箇所を読み返している。
周りの音が、すべて遮断されているみたいだった。
(……すごい集中)
さっきまで、現場であれだけ完璧に演じていたのに。
休憩時間ですら、気を抜く様子はない。
声をかけるのが、少しだけためらわれる。
口を開きかけた、そのとき。
「……何だ」
低く、感情のない声。
顔は上げない。
視線は、台本の文字に落ちたままだった。
「あ、えっと……」
一瞬、言葉に詰まる。
「次の段取りの確認をと思って」
ようやく、一条さんが顔を上げた。
でも、その目には、さっきまで画面越しに見ていた優しさの欠片もない。
「必要ない」
ぴしゃり、と。
まるで扉を閉めるみたいな言い方。
この人は、自分の体さえ「役を動かすための道具」としか思っていない節がある。
私は負けじと口を開く。
「明日の入りは一時間遅くなりました。朝食、何かリクエストありますか?」
台本から視線を動かさない一条さんに、努めて明るく声をかける。
「……いらない。適当にゼリーでも飲んでいく」
「ダメです。明日は撮影時間が長くなると監督が言ってました。倒れられたら困ります」
食い下がると、ようやく一条さんがペンを止めた。
ゆっくりと顔を上げ、冷ややかな、それでいてどこか退屈そうな瞳が私を射抜く。
「お前、勘違いしてないか」
「……はい?」
「社長から何を言われたか知らないが、お前に求めているのは『スケジュール管理』と『現場の円滑な進行』だ。それ以上の“世話”は、俺の集中を削ぐ邪魔でしかない」
(……邪魔だって?)
前のマネージャーがどうだったか知らないが、こっちはプロとして、あんたのその「壊滅的な私生活」を底上げしてやってるってのに。
「……ふーん。邪魔、ですか」
私は手に持っていた資料を、わざとらしく音を立てて閉じた。
顔を上げ、台本に視線を戻そうとする一条さんの前に、ずいと一歩踏み込む。
「悪いですが、一条さん。私は自分の仕事にプライド持ってるんです。あなたが最高の演技をするためのサポートをするのが私の仕事です。現場で倒れて迷惑かける方が、よっぽど制作サイドにとっての『邪魔』じゃないですか?」
一条さんの手が、止まった。
ゆっくりと顔を上げた一条さんの瞳に、明らかな不快感と、それから……少しの笑みが混じる。
「……口の減らないマネージャーだな」
「ええ、社長からも『根性だけはある』ってお墨付きをいただいてますから」
私は不敵に笑ってやった。
一条さんはフンと鼻で笑うと、冷たい声を重ねてくる。
「なら、その根性とやらを言葉じゃなく結果で見せろ。明日の朝、不味い飯が用意されてたら、その時点で解雇を申請する」
「望むところです。明日、完食した空の皿を見るのを楽しみにしてますね」
火花が散るような視線の応酬。
私は挨拶もそこそこに、踵を返して楽屋を飛び出した。
廊下を歩きながら、拳を握りしめる。
なんなの、あの男。ちょっと見直してたのに、あそこまで可愛げがないなんて。
「見てなさいよ、一条。あんたの生活、私が完璧に『管理』してやるんだから!」
私はひとり拳を震わせるのだった。
◆◆◆
翌朝。
日の出前、キッチンで、私は猛然とフライパンを振っていた。
冷蔵庫にあった最低限の食材と、私が昨日の帰り道に意地で買い込んだ厳選素材。
(エナジードリンクに頼り切った一条さんの胃を、強制的に叩き起こしてやるんだから!)
ガチャリ、と寝室のドアが開く音がした。
起きてきた一条さんは、寝癖のついた頭でキッチンに立つ私を、信じられないものを見るような目で見つめている。
「……なんだ、これは」
私が突き出したのは、色鮮やかな副菜が並ぶプレートと、炊きたての土鍋ご飯。
「見ての通り、朝食です。まだ寝ぼけているんですか?」
嫌味たっぷりに言い返すと、一条さんのこめかみがピクリと動いた。
「……朝から重い。時間もないんだ。もっとサクッと食べられるものにしろ」
「脳に栄養が行ってないから、そうやって朝から不機嫌なんですよ。ほら、黙って口に運んでください。解雇されたくないんで、死ぬ気で作ったんですから」
私が腕組みをして見守るなか、一条さんは忌々しそうに一口、卵焼きを口に運んだ。
……瞬間。
ほんのわずか、本当にコンマ数秒だけ、一条さんの眉間の皺が緩んだのを私は見逃さなかった。
「……フン。味だけは、前のマネージャーよりマシだな」
「それはどうも。褒め言葉として受け取っておきます」
完食を確認するや否や、私は皿をひったくるように片付け、一条さんをひっ掴んだ。
「はい、三分遅れてます! 出ますよ!」
「……おい、引っ張るな。服がシワになるだろ」
現場に着いてからも、私たちの「戦争」は続いた。
撮影の合間、一条さんが少しでも喉を鳴らせば、指示される前にドリンクを差し出す。
一条さんが次のシーンの解釈で悩む素振りを見せれば、さりげなく過去の類似作品の資料を、デスクの端に置いておく。
「……白石」
「はい、なんですか?」
撮影のセットチェンジ中、パイプ椅子に座った一条さんが、じっと私を見上げてきた。
「お前……昨日の今日で、よくこれだけ準備したな。寝てないだろ。顔色も悪いぞ」
「マネージャーの睡眠時間を心配する暇があったら、セリフの一行でも完璧に頭に入れてください。それが私の寝不足に対する一番の報酬です」
突き放すように言うと、一条さんは一瞬呆然とした後、ふっと短く、鼻で笑った。
それは今まで見た、誰にでも見せる「営業用の笑み」でも、台本通りの「役の笑み」でもなかった。
「……いいだろう。お前がそこまで言うなら、今日のシーン、一発で終わらせてやる」
「当たり前です。押し巻いて、一秒でも早く私を帰らせてください」
バチバチと視線をぶつけ合う。その後すぐ声がかかり撮影が始まった。
宣言通り、その後の撮影は圧巻だった。一条さんの完璧な芝居に現場全体が引き込まれ、予定より一時間も早く「本日の撮影終了」の声が響く。
少し余裕ができた私は一条さんを送り届けると一度事務所に戻る。深夜にもかかわらずフロアにはまだ数人の影があった。
ガサガサと自分のデスクを漁り、明日のロケに必要な備品を鞄に詰め込む。そのわずかな音に反応するように、周囲から低く粘り気のある囁きが漏れ聞こえてきた。
「……また一条さんのところに戻るのかしら。 つきっきりなんて、いいご身分よね」
「前のマネージャーがああだったし、今度もどうせ……ねえ?」
以前よりも、明らかに周囲の風当たりは強くなっている。一条さんという人気俳優の担当になったことで妬む視線が、刃物のように背中に突き刺さる。
ここで弱音を吐けば、あの無責任な噂を肯定することになる。それだけは、死んでも嫌だった。
必要な資料を掴んで立ち上がった瞬間、視界がぐにゃりと反転した。
「っ……」
デスクの角を掴んで、なんとか踏みとどまる。心臓が嫌なリズムで跳ね、冷や汗が背中を伝った。
流石に徹夜は、体にくる。瞼の裏が熱く、思考が霧に包まれたようだった。けれど、私には休んでいる暇はなかった。
「――もっと、がんばらなくちゃ」
自分に言い聞かせるように呟き、私は逃げるように事務所を後にした。
深夜二時。一条さんの住むマンションに辿り着くと、そこには静まり返った闇が広がっていた。
明日の入りは朝5時。移動の段取り、スケジュールと台本の変更点を確認し、栄養バランスを考えた朝食を仕込む。やるべきことは山積みだ。
(……これは、また徹夜だろうな)
重い体を引きずりながら、私は暗いキッチンへと向かった。
とりあえず、コーヒーでも入れよう。そう思った時だった。
視界が暗くなるのを感じた。
突然、足元がふわふわとした感覚に襲われ、平衡感覚が消失する。慌ててキッチンの天板を掴もうとしたが、指先に力が入らない。
(……息が、うまくできない)
急に、酸素が薄くなったような気がした。
吸い込んでも吸い込んでも、肺に空気が入ってこない。浅い呼吸が喉元でつかえ、ヒュッ、と情けない音が漏れる。
息を吐かないと。そう思っていても、体が強張って上手くいかない。
(あれ、これ久しぶりに酷いかも……)
目の前が真っ白になり、足元から力が抜けていく。膝が床にぶつかる衝撃さえ、遠くの出来事のように感じられた。
「おい、白石。まだ起きて……」
リビングに残った明かりに気づいたのか、寝室の重厚なドアが開く音がして、一条さんの声が聞こえた。驚いて駆け寄ってくる気配が、床を通じて伝わってくる。
「――おい、しっかりしろ。白石!」
「……はっ、ひ、……っ」
「これ、過呼吸か?」
低い、落ち着いた声が頭上から降ってきた。
一条さんは瞬時に状況を理解したのか、動揺を見せなかった。私の肩を強い力で掴むと、一条さんの体に抱き寄せられる。
「ゆっくりでいいから、全部吐きだせ。ゆっくりだ」
混乱する私の耳元で、一条さんの声だけが驚くほど冷静に、一定のリズムを刻んでいる。
一条さんは私の背中に大きな手を添え、ゆっくりと、けれど力強くさすり始めた。
「いいか、俺の呼吸に合わせろ。……吐いて、そう、もっと長く」
抱き寄せられた胸板からは一条さんの心臓の音が聞こえる。導かれるように、暴走していた私の鼓動が、少しずつ、形を取り戻していく。
ようやく呼吸が整い、震えが収まってくると、急激な倦怠感が襲ってきた。一条さんは私の肩から手を離さず、けれど少しだけ距離を置いて、私の目を見つめた。
「……落ち着いたな。病院に行くぞ、立てるか?」
「……いえ、大丈夫です。これ、昔からの癖みたいなものなので。迷惑かけて、すみませんでした」
私は自嘲気味に笑って、震える手で資料を拾い上げる。
「おい」
「……すみません。私、明日、の準備を、しなきゃいけなくて」
「白石」
誤魔化そうとしたけれど、一条さんの静かな声がそれを制した。
ゆっくり顔を上げると一条さんが大きく、息を吐いた。
「思ってたんだが、お前を見てると頑張ってるって、より頑張らなくちゃって追い詰められてるように見える」
その言葉が、一番触れられたくない場所に、まっすぐ突き刺さった。私は手を止めたまま、絞り出すように言葉を零した。
「……私、ずっと『七光り』って言われていて」
胸の奥に溜まっていた泥のような感情が、溢れ出して止まらなくなる。
「誰の目にも、私は『親のおかげ』にしか見えていないんです。だから、もっと頑張って、自分がここにいる理由を証明しなきゃいけない。人一倍どころか、誰よりも完璧にこなさないと……」
沈黙が流れた。
深夜の静かなキッチンで、私の吐露した本音が、冷たい空気の中に溶けていく。
いつもならこんなこと話したりしないのに。もしかしたら、自分でも気づかないうちに限界だったのかもしれない。
一条さんは、私の震える背中を冷めた目で見限ることも、軽率に励ますこともしなかった。
「証明、か」
短くそう呟くと、少しだけ視線を和らげた。
「お前が気にするのは勝手だが、俺のマネージャーとしての価値を決めるのは、外の連中じゃない。俺だ」
一条さんは私の手から、握りしめられてクシャクシャになった資料を取り上げた
「……七光り、結構だろ?」
一条さんは、拍子抜けするほどあっけらかんと言い放った。
私は驚いて、一条さんを見上げる。
「使えるもんは、使えばいいんだ」
理不尽な陰口に一人で抗おうとしていた私にとって、それはあまりに予想外の言葉だった。一条さんはそのまま、呆然としている私の体を強引にソファへ横にさせた。
「ちょっ、一条さん――」
「お前が頑張ってんのは、俺が一番よくわかってる」
大きな手のひらが、私の頭に置かれる。
無造作に、けれど慈しむようにゆっくりと髪を撫でられた。その手のひらの熱が、張り詰めていた私の心の糸を、ぷつりと切っていく。
(私がいちばん言って欲しかった言葉をどうしてこの人が……)
視界が急激に滲んで、喉の奥が熱くなった。
必死に堪えようとしても、涙が次から次へと溢れて止まらない。
「……っ、……な、……」
「なんだ、泣いてんのか?」
一条さんは少しだけ意地悪く、けれど柔らかな声で笑った。
私は顔を伏せたまま、掠れた声で必死に反論する。
「……違います。これは、たまたま、気持ちが参ってた時に……優しくされたからで……」
「はいはい、わかったよ」
一条さんは深く追求することなく、ただリズムを刻むように優しく頭を撫で続けた。
「ほら、少しは寝ろよ。明日の朝、お前が寝坊したら俺が困るだろ」
そのぶっきらぼうな言い回しが、今は何よりも心地よかった。
静まり返った深夜、二人きりのリビングで、冷たかったはずの境界線が、少しずつ、熱を持って溶け始めていた。

