星空の片隅

 夕方には少し早い時間だった。日が落ちきるにはまだ間があり、街は夜景になる前の色をしている。明るさを失いかけ、輪郭だけが黒く沈んでいく。天望デッキへ向かう列は、思ったより静かだった。観光客は多いが、誰もが高い場所へ行く前の、妙に落ち着いた顔をしている。チケットを買い、案内に従って進む。春夏秋冬、四基あるエレベーターの前で、人は自然と振り分けられていく。誰かと誰かが、意図せず同じ列に並ぶ。理由はない。ただ流れが、そうなっただけだ。ガラス越しに見える街は、まだ夜ではない。なのに、足元だけが先に暗くなっていくような感覚があった。
 エレベーターに乗り込むと、箱の中は一気に詰まった。人の香水が入り交じり、誰のものともつかない匂いが漂う。扉が閉まる。わずかな振動とともに、上昇が始まった。中央に立つ男は、割れていた。背筋は伸びている。だが肩には力が入り、首の後ろに薄く汗がにじんでいる。視線は正面の扉に固定されたまま、外れない。後ろは、振り返らない。振り返れば、何かが決まってしまう気がした。速度が落ちる。床が、ふっと浮くような感覚。耳の奥が詰まり、空気が一段、重くなる。
 エレベーターが止まる。その、ほんの一瞬前。男は、扉を見たまま言った。
「……いつまで、追ってくるつもりだ」
 空気が、ひび割れた。
「すいません」
「ごめんなさい」
「ちょっと、話を聞いてもらえますか」
「ん?」
 同時に、複数の声が返る。男は、思わず振り返った。
「……何? 何の話だ」
 扉が開く。円になる。男を中心に、七人が、無意識に距離を取ったまま立っていた。天望デッキに降りたあとも、しばらく誰も動けなかった。
 最初に口を開いたのは、ひとりの男だった。
「あなた、麻薬の売人だな、岩田!」
「……は?」
「名前が出てるんだよ。買ったやつが吐いた」
「人違いです。身に覚えがない」
 警察だった。だが、話はすぐに崩れた。外国人の自白に出てきた名前は「イワタケル」。岩田 希(ける)。目の前の男は、岩 武尊。岩さん、と呼ばれている。読みは同じだった。だが、漢字も、区切りも違った。張り込み中、たまたま売買の現場で、誰かが男を「イワタケル」と呼ぶのを聞いた。それだけだった。
「一週間、尾行してしまった。ほんとに申し訳ない」
 岩さんは、額を押さえた。指先が、汗で湿っている。
「あんたから声をかけられたと思って、つい……人違いだった」
「わかってもらえて、安心しました」
 次に、岩さんは、背中に立っていた人物に向けて言った。二十歳の大学生。息子だった。スイッチ2が、どうしても欲しかった。母親に頼み込み、買ってもらってしまった。遊んでばかりいて、単位を落とし、つい最近、父に強く叱られたばかりだった。
「謝りたくて……」
 父は、何も言えなかった。
「ごめんなさい!」
 警察の男が「端に寄りましょう」と皆を促す。なぜか、岩さんを中心に、順番に話を聞く流れになった。次の男は、面接帰りだった。冷や汗で顔がべたつき、トイレで洗っている間に、バッグを取り違えられた。強面の岩さんに、声をかけられなかった。ただ、後を追った。深く、頭を下げる。
「すみません、すみません」
「あら、わるかったね。申し訳ない」
「こちらこそ、すみません」
 バッグはその場で確認され、無事に戻った。
 次は、女だった。小さい頃、両親は離婚した。出ていった父の背中に、よく似ていた。肩。首。立ち止まる癖。それだけじゃない。自分にも、似ている気がした。確かめられず、ついてきてしまった。誤解だったとわかり、恥ずかしそうに俯く。
 次の女は、カプセルホテルのフロント係だった。毎日、指名手配の写真を見ている。
「そっくりで……職業病です」
「完全に、勘違いでした」
「私の顔、そんなに似ていたんですね」
「はい……その……すみません」
「良いんですよ。誰しも勘違いはあります」
 場の緊張が、少し緩んだ。
 次の男は、探偵だった。依頼はない。仕事でもない。
「ただ……配置が、きれいすぎた。俺には一つの固まりに見えていた」
追う者。追われる者。何かが起きる前の形。
「なにか起きたら止めようと思って。俺の勘は外れだった」
「いや、当たりですよ。とんでもない事件です。私が代表して。本当に仕事の邪魔をしてしまい、すみません」
 同じ光景でも、立つ場所が違えば、見える形は変わる。正しさも疑いも、蜃気楼のようなものだ。
「すいませんばかり出てくるな。日本人だなぁ」
 探偵は笑顔で、周囲を見渡した。海外からの観光客が、無邪気に写真を撮っている。
「皆さん、幸せそうですね」
 最後の男は、肩をすくめた。
「僕は……たまたまです」
 駅を出て、改札を抜け、トイレに寄り、チケットを買い、同じタイミングで、同じ方向に動いただけだった。
「流れが、同じだっただけですかね」
 沈黙のあと、全員が息を吐いた。
「……なんだこれ」
「すごい偶然ですね」
「ほんとですね」
 円が崩れ、距離が縮まる。ガラス越しに、街が広がっている。夜景には少し早い光が、じんわりと目に染みる。
「コーヒー、飲みません?」
「せっかくだし」
「いいですね」
「……お父さん、ごめんなさい」
 岩さんは、肩の力が抜けるのを感じた。追われていたわけでもなく、追っていたわけでもない。ただ、同じ瞬間に、同じ場所にいただけだった。岩さんは、距離を保ってついてくる息子が、どこかで諦めて帰るものだと思っていた。だが、息子は最後まで黙って、背中にいた。
 天望デッキでコーヒーを飲み、自己紹介が始まる。息子には反省させたかった。どこまでついてくるのか、根性を試していた。それで、夜景を見ながら、きちんと話せると思って、ここに寄ってみた。探偵が最後に言った。
「勉強、頑張れよ。お父さんの気持ちを、ちゃんと受け止めろ」
 息子の背中を、ぽん、と叩き、背中で挨拶をして帰っていった。
 岩さんは涙が自然にこぼれ、深く頭を下げていた。子供と長年向き合ってきた日々を思い出していた。