藤原志穂、28歳。
泥のように残業にまみれる日々も、画面の向こうで輝く“推し“という光があったから、笑って乗り越えてこられた。
――その光が、音もなく潰えた。
推しグループの解散。
私の世界が死んだ夜、駆け込んだのは終電のホームではなく、場違いなほどお洒落なBARだった。
――――カラン、カラン
聞き慣れたドアベルの音に混じる靴音。
迷いなくやって来たスーツ姿の男性は、無遠慮に隣に座った。
「マスター、いつもの」
「やっと来た、待ちくたびれたわよ」
「で、先に始めてんだろうが、お前は」
そう言ってネクタイを緩める。
たったそれだけなのに、彼の容姿は、ため息が出るほど整っている。
「本当、眼福だわ」
「見物料取っていい?」
「本当、黙ってたらアイドルなのにね、王子は」
あたしが"王子"と呼ぶこの男――
藤垣綾人は、悔しいほどに、好みがドンピシャで。
それもそのはずだ。
彼は、あたしが推しているアイドルによく似ている。
まじまじと見つめてると、じっと見返してきた。
「お前さ…………」
「え?…な…なに?」
あまり見つめられたことがないから、ぴくんと跳ねる鼓動。
彼の双眸に、狼狽してるあたしが映っているのがわかる。それくらいの距離。
「なんかクマ出来てる?」
「……は?」
「気のせいかシワも……」
「本当、マジで、黙って!」
王子と分かっていても、推しに言われたみたいでショックだ。
あたしは見られたくなくて、横を向いた。
それが面白いのか、王子はくつくつと笑う。
マスターが静かに、でも微笑みながら、カクテルを差し出す。
あたしは、夜空を溶かしたような深い青の【ブルームーン】
王子は、透き通った辛口の【ウォッカギブソン】
磨き上げられたカウンターに、ふたつのグラスが鮮やかな影を落とす。
「機嫌直せよ、ほら」
カクテルを持って、ニヤリと笑う。
重厚なカウンター越しに目が合うと、逃げ場がない。
分かってて、やってるんでしょ?
その顔、本当にずるい。
「……うるさいっ」
そう言い返すのが、いっぱいいっぱい。
不覚にも、王子にときめいてしまった――
それがいちばん厄介だ。
隠すようにブルームーンを口に含む。
すみれ色をした、甘く、でも少し苦いこのお酒。
カクテル言葉は『叶わぬ恋』
鑑賞用の王子を見つめながら飲むには、ぴったりだと思っていた。
なのに――
少し呆れた声音で、王子が問いかける。
「お前さ、ほんと俺の顔が好きだよな」
「え?いつも言ってるでしょ、王子は鑑賞用だって」
残業と終電続き、それに追い討ちをかけた、推しのアイドルグループの解散発表。
身も心もフラフラだった。
癒されたくて街を彷徨っていた時に、偶然見つけたBAR【ビーナスベルト】
美味なカクテルに加え、王子ともここで知り合った。
初めて出会った時の衝撃は、今でも忘れない。
推しのアイドルと見間違うほどの造形美。
スーツが霞んで見えるほど眩しかった。
ただ、その直後に、幻想は打ち砕かれたけど。
『人の顔、ジロジロ見んの失礼だろ』
その瞬間、
推しや王子様じゃなくなって、
ただの「現実」になった。
でも、なんだかんだで会話が弾み、気がつくと閉店時間まで一緒にいた。
(解散でショックだったけど、
こんな近くで推しを眺めていられる幸せ……
すごくいい!)
それからというもの、時間を見つけては、美味しいカクテルと彼をツマミに堪能している。
いつだったか、彼に言った言葉。
『鑑賞用としてその顔が好き』
我ながら大胆だなと思う。
けれどその気持ちに嘘はない。
イケメンと恋するなんて釣り合わない。
わざわざ、しんどい想いはしたくない。
不毛な恋じゃなくて、もっとふつうな恋がいい。
――そう、彼は推しと同じで"鑑賞用"。
あれから二週間。
催事関係で、業務が多忙を極め定時で上がれない日々。
特に今日はトラブルがあり、いつも以上に遅くなっている。
「はい、それでは宜しくお願いいたします」
完璧な敬語に、隙のない対応。
会社でのあたしは、いつだって『頼れる先輩』だ。
誰も、夜中にBARでアイドルの解散に泣きべそをかいているなんて思いもしないだろう。
「ありがとうございます!藤原さん!」
「間に合ってよかった...後はお願いしていい?」
「大丈夫です!」
内容の確認だけして、後は後輩に任せた。
時計を見ると、もう23時をまわったところ。
あたしは急いで、帰り支度をする。
(――あーもう!今日に限って残業だなんて…)
外に出ると、すっかり夜が深くなっていた。
あたしはスマホを取り出して、手際よくメッセージを送る。
すると相手からすぐに返信がきた。
――もう着いてる
あたしは駆け足で向かった。
「お疲れさま」
「ごめっ……おま…た……っ……」
デスクワークのツケなのか、はたまた三十路手前からか、ものすごく息が上がってしんどい。
なんとか隣に座ると、王子が呆れ顔で言う。
「もう若くねーんだから、無理すんな」
まだ28歳よっ、失礼にも程がある!
と、声に出せない文句を、差し出された水で流し込む。
王子は、マスターの優しさを見習ったほうがいい。
「ふはっ……お前、前髪ペタンコ」
今度は屈託なく笑うかわいい顔。
心がジェットコースターみたいに揺さぶられる。
気付かれないよう、お馴染みのブルームーンを仰ぐ。
――落ち着けあたし
うん、残業続きで疲れてるだけ
「……おい、大丈夫か?」
「う…ん…だいじょーぶー」
「大丈夫じゃないヤツほど、そういうんだって」
ふわふわ、ふわんふわん。
疲れてるからかな、
いつもよりお酒がまわってる。
王子の顔を眺めていると、急に元カレが浮かんできた。
全然違う風貌だし、好みが違う。
でも確かに元カレと過ごした日々は、楽しいし穏やかだった。
「なんで...フラれたのかなぁー」
「なに唐突に」
「あたしねぇ~実は王子と会う3ヶ月前に、フラれたんだー」
王子は黙ってるけど、あたしは何だか聞いてほしくて続ける。
「ぜんぜん甘えてくれないって……」
初めて会った時、仕事が出来るクールな雰囲気が素敵だと言われた。
その言葉が、いつの間にか呪いみたいに残ってしまった。
本当は、もっと甘えたかった。
弱いところも、泣きたいところもあったのに。
気づけば、それを言えなくなっていた。
離れていった理由は、きっとひとつじゃない。
でも――
どこかで、間違えたのは確かだった。
自嘲めいた呟きに、王子は小さく溜め息をつく。
「クール?どこがだよ」
頬杖つきつつ、ハッと短く笑う。
そして、伸びた指が前髪をさらう。
「推しを熱弁してる、いつものお前はかわいいよ」
――さらりと、かわいいって言わないで
勘違いしそうになるから。
「こんな時だけ……王子みたいな顔しないでよ」
不意の優しさに、我慢していたのが溢れ出す。
「おー泣け泣け」
ぶっきらぼうな言葉と裏腹に、優しく指で拭ってくれる。
それがまた涙を誘うから、困る。
しばらく泣いたら、少し心が軽くなった。
まるで推しに慰めて甘やかしてもらってるみたいに。
「もぅ〜推しが素敵すぎてしんどいっ」
「意味わからん、そういうもん?」
「だって推しは裏切らない!甘い夢だけ見せてくれるでしょ?」
「それでアイドルに沼ったわけか」
合点がいったと王子。
「前からハマってたんだけどね、失恋して寂しくて…気付いたら推してた!」
「……っでも、今度の夏で解散しちゃうんだった…」
今度は違う意味で、涙が溢れた。
王子は、忙しいやつだなと言って、マスターにおかわりを告げると、カウンターに肘をつき、指先でグラスの縁をなぞった。
「……なに?」
不躾な彼の視線が、あまりに執拗になぞってくるから、たまらなくなって聞き返す。
その瞳は、さっきまでの茶化した色は見る影もない。
まるで、暗闇で獲物を見定めている野獣のような――
あたしの瞳、赤くなった鼻の頭。
それから……。
彼の視線が、唇の上でピタリと止まる。
触れられていないのに、視線だけで撫でられているような、熱い錯覚。
「お前さ……自分が今、どんな顔してるか分かってんの?」
聞き馴染みのない低い声が、心臓の奥を直接掴んでくる。
いつもの軽口を叩こうとしたのに、喉がヒリヒリしたみたいに引き攣って、言葉が出てこない。
鑑賞していたのは、あたしの方だったはずなのに。
いつの間にか、
あたしの方が、逃げ場のない檻に閉じ込められているような気がした。
でもそれが不思議と嫌じゃない。
お酒のせいかな。
眠たくなってきたからかな。
思考が鈍くて、いつもより素直になってる。
心の奥の秘め事が、今度は喉を震わせ声になる。
「解散がきて、アイドルは去るけど、
近くに綾人という推しがいるから、
嬉しいし、幸せだよ」
「はぁー……お前さぁ…」
顔を手で覆ってるから、王子の表情は見えない。
それよりも本当に眠たくなってきた。
おかわりしたブルームーンを飲みきって、そろそろ帰ろうかな。
「志穂」
不意に呼ばれた、あたしの名前。
聞き慣れなくて、一瞬、頭が真っ白になる。
手にしていたブルームーンが、強引に彼に奪われ飲み干される。
視界がぐらりと揺れて、気づけば彼に引き寄せられていた。
鼻をくすぐるジンの鋭い香りと、初めて触れる王子の熱い体温。
「俺、お前が思ってるほど、
都合のいい男じゃねえよ」
耳元で囁かれた声は、軽薄さが消え、
重く低く、熱を持っていた。
今まで“鑑賞用”だと思っていた綺麗な造形美が、猛烈な“雄”の気配を纏って迫ってくる。
「……っ、ちょっ、王子……」
「王子はもうナシ」
肩に回された手、ぎゅっと力がこもる。
遠くで、終電を告げるアナウンスが微かに聞こえた気がした。
けれど、彼はあたしを離さない。
「お前、さっき『推しは甘い夢を見せてくれる』って言ったよな」
王子の瞳が、思いもよらない距離であたしを射抜く。
そこにあるのは、推しが見せる嘘の色じゃない。
熱と甘い色味を帯びた、真っ直ぐな
――剥き出しの独占欲
「夢じゃねぇ現実の恋、今から教えてやる。
鑑賞用で済むわけねぇから……覚悟しとけ」
その瞬間、“王子”は、完全に王子じゃなくなった。
ビーナスベルトで囁かれた名前は、もう“鑑賞用”ではいられなかった。
空に浮かぶ嘘の色した三日月が、ゆっくりと夜の深淵へ沈んでいく。
――今夜、あたしの恋が、終電を追い越して走り出した。
泥のように残業にまみれる日々も、画面の向こうで輝く“推し“という光があったから、笑って乗り越えてこられた。
――その光が、音もなく潰えた。
推しグループの解散。
私の世界が死んだ夜、駆け込んだのは終電のホームではなく、場違いなほどお洒落なBARだった。
――――カラン、カラン
聞き慣れたドアベルの音に混じる靴音。
迷いなくやって来たスーツ姿の男性は、無遠慮に隣に座った。
「マスター、いつもの」
「やっと来た、待ちくたびれたわよ」
「で、先に始めてんだろうが、お前は」
そう言ってネクタイを緩める。
たったそれだけなのに、彼の容姿は、ため息が出るほど整っている。
「本当、眼福だわ」
「見物料取っていい?」
「本当、黙ってたらアイドルなのにね、王子は」
あたしが"王子"と呼ぶこの男――
藤垣綾人は、悔しいほどに、好みがドンピシャで。
それもそのはずだ。
彼は、あたしが推しているアイドルによく似ている。
まじまじと見つめてると、じっと見返してきた。
「お前さ…………」
「え?…な…なに?」
あまり見つめられたことがないから、ぴくんと跳ねる鼓動。
彼の双眸に、狼狽してるあたしが映っているのがわかる。それくらいの距離。
「なんかクマ出来てる?」
「……は?」
「気のせいかシワも……」
「本当、マジで、黙って!」
王子と分かっていても、推しに言われたみたいでショックだ。
あたしは見られたくなくて、横を向いた。
それが面白いのか、王子はくつくつと笑う。
マスターが静かに、でも微笑みながら、カクテルを差し出す。
あたしは、夜空を溶かしたような深い青の【ブルームーン】
王子は、透き通った辛口の【ウォッカギブソン】
磨き上げられたカウンターに、ふたつのグラスが鮮やかな影を落とす。
「機嫌直せよ、ほら」
カクテルを持って、ニヤリと笑う。
重厚なカウンター越しに目が合うと、逃げ場がない。
分かってて、やってるんでしょ?
その顔、本当にずるい。
「……うるさいっ」
そう言い返すのが、いっぱいいっぱい。
不覚にも、王子にときめいてしまった――
それがいちばん厄介だ。
隠すようにブルームーンを口に含む。
すみれ色をした、甘く、でも少し苦いこのお酒。
カクテル言葉は『叶わぬ恋』
鑑賞用の王子を見つめながら飲むには、ぴったりだと思っていた。
なのに――
少し呆れた声音で、王子が問いかける。
「お前さ、ほんと俺の顔が好きだよな」
「え?いつも言ってるでしょ、王子は鑑賞用だって」
残業と終電続き、それに追い討ちをかけた、推しのアイドルグループの解散発表。
身も心もフラフラだった。
癒されたくて街を彷徨っていた時に、偶然見つけたBAR【ビーナスベルト】
美味なカクテルに加え、王子ともここで知り合った。
初めて出会った時の衝撃は、今でも忘れない。
推しのアイドルと見間違うほどの造形美。
スーツが霞んで見えるほど眩しかった。
ただ、その直後に、幻想は打ち砕かれたけど。
『人の顔、ジロジロ見んの失礼だろ』
その瞬間、
推しや王子様じゃなくなって、
ただの「現実」になった。
でも、なんだかんだで会話が弾み、気がつくと閉店時間まで一緒にいた。
(解散でショックだったけど、
こんな近くで推しを眺めていられる幸せ……
すごくいい!)
それからというもの、時間を見つけては、美味しいカクテルと彼をツマミに堪能している。
いつだったか、彼に言った言葉。
『鑑賞用としてその顔が好き』
我ながら大胆だなと思う。
けれどその気持ちに嘘はない。
イケメンと恋するなんて釣り合わない。
わざわざ、しんどい想いはしたくない。
不毛な恋じゃなくて、もっとふつうな恋がいい。
――そう、彼は推しと同じで"鑑賞用"。
あれから二週間。
催事関係で、業務が多忙を極め定時で上がれない日々。
特に今日はトラブルがあり、いつも以上に遅くなっている。
「はい、それでは宜しくお願いいたします」
完璧な敬語に、隙のない対応。
会社でのあたしは、いつだって『頼れる先輩』だ。
誰も、夜中にBARでアイドルの解散に泣きべそをかいているなんて思いもしないだろう。
「ありがとうございます!藤原さん!」
「間に合ってよかった...後はお願いしていい?」
「大丈夫です!」
内容の確認だけして、後は後輩に任せた。
時計を見ると、もう23時をまわったところ。
あたしは急いで、帰り支度をする。
(――あーもう!今日に限って残業だなんて…)
外に出ると、すっかり夜が深くなっていた。
あたしはスマホを取り出して、手際よくメッセージを送る。
すると相手からすぐに返信がきた。
――もう着いてる
あたしは駆け足で向かった。
「お疲れさま」
「ごめっ……おま…た……っ……」
デスクワークのツケなのか、はたまた三十路手前からか、ものすごく息が上がってしんどい。
なんとか隣に座ると、王子が呆れ顔で言う。
「もう若くねーんだから、無理すんな」
まだ28歳よっ、失礼にも程がある!
と、声に出せない文句を、差し出された水で流し込む。
王子は、マスターの優しさを見習ったほうがいい。
「ふはっ……お前、前髪ペタンコ」
今度は屈託なく笑うかわいい顔。
心がジェットコースターみたいに揺さぶられる。
気付かれないよう、お馴染みのブルームーンを仰ぐ。
――落ち着けあたし
うん、残業続きで疲れてるだけ
「……おい、大丈夫か?」
「う…ん…だいじょーぶー」
「大丈夫じゃないヤツほど、そういうんだって」
ふわふわ、ふわんふわん。
疲れてるからかな、
いつもよりお酒がまわってる。
王子の顔を眺めていると、急に元カレが浮かんできた。
全然違う風貌だし、好みが違う。
でも確かに元カレと過ごした日々は、楽しいし穏やかだった。
「なんで...フラれたのかなぁー」
「なに唐突に」
「あたしねぇ~実は王子と会う3ヶ月前に、フラれたんだー」
王子は黙ってるけど、あたしは何だか聞いてほしくて続ける。
「ぜんぜん甘えてくれないって……」
初めて会った時、仕事が出来るクールな雰囲気が素敵だと言われた。
その言葉が、いつの間にか呪いみたいに残ってしまった。
本当は、もっと甘えたかった。
弱いところも、泣きたいところもあったのに。
気づけば、それを言えなくなっていた。
離れていった理由は、きっとひとつじゃない。
でも――
どこかで、間違えたのは確かだった。
自嘲めいた呟きに、王子は小さく溜め息をつく。
「クール?どこがだよ」
頬杖つきつつ、ハッと短く笑う。
そして、伸びた指が前髪をさらう。
「推しを熱弁してる、いつものお前はかわいいよ」
――さらりと、かわいいって言わないで
勘違いしそうになるから。
「こんな時だけ……王子みたいな顔しないでよ」
不意の優しさに、我慢していたのが溢れ出す。
「おー泣け泣け」
ぶっきらぼうな言葉と裏腹に、優しく指で拭ってくれる。
それがまた涙を誘うから、困る。
しばらく泣いたら、少し心が軽くなった。
まるで推しに慰めて甘やかしてもらってるみたいに。
「もぅ〜推しが素敵すぎてしんどいっ」
「意味わからん、そういうもん?」
「だって推しは裏切らない!甘い夢だけ見せてくれるでしょ?」
「それでアイドルに沼ったわけか」
合点がいったと王子。
「前からハマってたんだけどね、失恋して寂しくて…気付いたら推してた!」
「……っでも、今度の夏で解散しちゃうんだった…」
今度は違う意味で、涙が溢れた。
王子は、忙しいやつだなと言って、マスターにおかわりを告げると、カウンターに肘をつき、指先でグラスの縁をなぞった。
「……なに?」
不躾な彼の視線が、あまりに執拗になぞってくるから、たまらなくなって聞き返す。
その瞳は、さっきまでの茶化した色は見る影もない。
まるで、暗闇で獲物を見定めている野獣のような――
あたしの瞳、赤くなった鼻の頭。
それから……。
彼の視線が、唇の上でピタリと止まる。
触れられていないのに、視線だけで撫でられているような、熱い錯覚。
「お前さ……自分が今、どんな顔してるか分かってんの?」
聞き馴染みのない低い声が、心臓の奥を直接掴んでくる。
いつもの軽口を叩こうとしたのに、喉がヒリヒリしたみたいに引き攣って、言葉が出てこない。
鑑賞していたのは、あたしの方だったはずなのに。
いつの間にか、
あたしの方が、逃げ場のない檻に閉じ込められているような気がした。
でもそれが不思議と嫌じゃない。
お酒のせいかな。
眠たくなってきたからかな。
思考が鈍くて、いつもより素直になってる。
心の奥の秘め事が、今度は喉を震わせ声になる。
「解散がきて、アイドルは去るけど、
近くに綾人という推しがいるから、
嬉しいし、幸せだよ」
「はぁー……お前さぁ…」
顔を手で覆ってるから、王子の表情は見えない。
それよりも本当に眠たくなってきた。
おかわりしたブルームーンを飲みきって、そろそろ帰ろうかな。
「志穂」
不意に呼ばれた、あたしの名前。
聞き慣れなくて、一瞬、頭が真っ白になる。
手にしていたブルームーンが、強引に彼に奪われ飲み干される。
視界がぐらりと揺れて、気づけば彼に引き寄せられていた。
鼻をくすぐるジンの鋭い香りと、初めて触れる王子の熱い体温。
「俺、お前が思ってるほど、
都合のいい男じゃねえよ」
耳元で囁かれた声は、軽薄さが消え、
重く低く、熱を持っていた。
今まで“鑑賞用”だと思っていた綺麗な造形美が、猛烈な“雄”の気配を纏って迫ってくる。
「……っ、ちょっ、王子……」
「王子はもうナシ」
肩に回された手、ぎゅっと力がこもる。
遠くで、終電を告げるアナウンスが微かに聞こえた気がした。
けれど、彼はあたしを離さない。
「お前、さっき『推しは甘い夢を見せてくれる』って言ったよな」
王子の瞳が、思いもよらない距離であたしを射抜く。
そこにあるのは、推しが見せる嘘の色じゃない。
熱と甘い色味を帯びた、真っ直ぐな
――剥き出しの独占欲
「夢じゃねぇ現実の恋、今から教えてやる。
鑑賞用で済むわけねぇから……覚悟しとけ」
その瞬間、“王子”は、完全に王子じゃなくなった。
ビーナスベルトで囁かれた名前は、もう“鑑賞用”ではいられなかった。
空に浮かぶ嘘の色した三日月が、ゆっくりと夜の深淵へ沈んでいく。
――今夜、あたしの恋が、終電を追い越して走り出した。


