種水朝芽は、中学生になっても読んでいた。
ホームルーム前の時間。中休み。昼休み。
放課後も。生徒たちが教室を出ても、ひとりだけ席に座ったまま。
終礼のチャイムが鳴ったことも忘れて、本の世界に集中していた。
さて、クイズ。
何を読んでいるでしょう?
くせっ毛の刈り上げ男子が、朝芽の本を取り上げる。
「『霊力が身につく訓練法』? くっだらねえ」
「返してよ」
懲りずにまた、からかってきた。
あんなことがあったあとでも、近づいてくるとは、思わなかった。
(放っておいてほしいのに)
オカルト本を読む理由。
大切な人を取り戻すため。
あちら側へと踏みこむために、勉強し続けなければならない――。
朝芽には、今は妹がいなかった。五年前まではいた。
名前は夕花。
同じ日に生まれたふたごなのに、夕花はいつも元気がなかった。
急に両耳を押さえたり、吐いたりすることもあった。
何もないところを振り向いたり、指をさしていたりした。
おびえていた。
朝芽は、わけがわからなかった。「何かいる」と言われても、おかしなところがなかったから。
両親は頼りにならなかった。夕花の言っていることを信じず、不気味な子どもだと思われていた。カウンセリングは、受けなかった。変な見栄を張ったせいだろう。
(でも、わたしは夕花を信じる。見えてないものが、見えてるんだ!)
それから朝芽は、調べはじめる。オカルト図鑑。オカルト動画。難しいことはわからなかったけれど、がんばって理解しようとした。
夕花のために。夕花の味方であるために。
けれど、努力は無駄に終わった。
(夕花はいなくなってしまった。遠い親戚のところに行って……)
養子になった。
もう家族ではなくなった。オカルトに詳しい親戚に、夕花は引き取られてしまった。
(くやしい)
止めることはできなかった。ある朝、起きたら、いなかった。となりで寝ていたはずなのに、夕花が布団ごと消えていた。
朝芽は泣いた。両親はなぐさめようと、そのほうがいいと、うそぶいた。
そのほうが夕花は幸せになれる。このまま家族でいたところで、何も助けてあげられない。そのように、なだめていった。
言い返せなかった。実際に何もできなかった。
どれほどオカルトを学んだところで、夕花の気持ちを知ることができない。
何を見て、何を聞いて、何におびえているか知らない。
(わたしには助けられなかった。でも、地響さんだったら、夕花をわかってあげられるかな……?)
夕花を引き取った親戚だ。一度だけ会ったことがある。
叔母の葬式のときだった。このころは、まだ八歳。
男の顔をはじめて見たとき、朝芽は悲鳴を上げそうになった。
顔面が、ゾンビだから。苔のようなアザが、目の周りを覆っていた。親戚たちに煙たがられていた。
だけど瞳は深くやさしく、具合の悪くなった夕花を、安静な場所まで運んでくれた。
式場を出てから何があったか、夕花は元気に戻ってきた。
となりの男……地響志暮に、これまでにない笑顔を見せた。
朝芽には、絶対に見せない安心しきった表情だ。
(この人は、夕花と同じ……)
あれから一ヶ月も経たないうちに、夕花は地響の子になった。
バケツをひっくり返したように、胸がからっぽになっていった。
(終わった)
朝芽は思った。
子ども部屋には、ひとりきり。
ああ、夕花。
おびえて泣いている姿。
抱きしめると、大好きって言ってくれる。
ふたごの半分。
同じ親から、同じ日に生まれて、同じ家で育ったのに。
ふたりはなぜこんなにも、違ってしまったのだろう。
(納得しなきゃ。住む世界が違ってたんだ)
だから、違う家に行った。ふたごは別れた。姉妹でも家族でも、なくなった。
これからは種水夕花でなく、地響夕花として生きていく。
向こうで幸せになれるなら、これでよかったのかもしれない。
張りつめた糸が、切れて、落ちた。朝芽は本棚を見るしかなかった。
オカルト本。どれも夕花を助けるために、学ぼうとしていた本たちだ。
もう勉強はしないで済む。
好きなことを、思いっきりやれる。
おしゃれとか、運動とか、スイーツの食べ歩きだっていい。
終わったんだ。
もういいのに。
(いやだ、いやだ、いやだ!)
首を振る。納得なんて、できるわけない。
離れたくない。
わからないままで、終わりたくない。
夕花の気持ち。見ていた世界。
理解して救うって、決めたんだ。
壁なんてない。あっても壊す。
同じ人間で、家族だから。ふたごだから。
たとえ夕花と違っても。
霊を感じられなくても。
(わたしが夕花を救えれば、また家族に戻れるんだ!)
朝芽は勉強をし続ける。
大好きな妹を取り戻すため。
五年が経ち、中学一年生になる。
学校では浮いた存在だけど、本人はそんなの気にしない。
(まぁーた本を読んでやがる)
横目で見ている男子がいる。
矢風陽太郎。クラスメイトだ。
終礼のチャイムが鳴って、生徒たちは帰る準備。部活動に向かう者といる。
陽太郎もバッグを持って、ドアへ歩いているところだ。
ところが座ったままの女子を、目の端へととらえてしまう。
種水朝芽だ。今日も、本を読んでいる。しかも、オカルト本ばかり。
入学したての四月のころは、みんな気になっていた。声をかけていたりした。
都市伝説とか妖怪は、子ども心をくすぐるもの。
「ねえ、朝芽ちゃん――」
ところが、話が合わなかった。
オカルト本を読む理由が、興味とは別のものだからだ。
決意、と言ったらいいだろうか。
原因不明で苦しむ妹を救うため、と話していた。
ふたごの妹には霊感があると。
よくないものが、見えたり聞こえたりしてしまうと。
予想外の答えが返ってきたせいで、クラスのみんなはドン引きだ。
さらには、朝芽を孤立させるような、おろかな男子さえもいた。
(それが、おれだ)
陽太郎だ。
取り憑いたように本を読む朝芽を、蹴り飛ばしたかったのかもしれない。
「霊なんているわけねーじゃねえかよ。おまえの妹、ウソつきだ。かまってほしくてやってるんだろ」
周りに、目を向けてほしかった。ここは学校。おまえは一年三組の生徒。
このクラスは明るくて、みんな、いい人たちばかり。
それなのになぜ朝芽だけが、クラスになじもうとしないのか。
だから、腹が立って言った。
爆弾だったと、すぐにわかった。
朝芽は大きな音を立てる。
陽太郎の胸ぐらをつかむ。
「……するな」
低く、うなるような声。ひたいに青筋が立っている。
「妹を、侮辱するな!」
爆発した。心が焼かれる思いだった。
失敗した。かける言葉を間違えた。ウソつきなんて、言うべきではなかった。
どれほどに、まっすぐなんだ。
叩かれる、と目をつむった。
つかまれた胸ぐらを、放された。
「……もう、いい。放っておいてよ」
「ごめん……」
このまま放っておければ、どんなに楽なことだろう。
クラスのみんなは無視をはじめる。腫れものには、さわりたくない。
陽太郎も、みんなのように、無視ができればいいと思った。
そのほうが、丸く収まる。
本人が望んでいるのだから、関わらなくてもいいじゃないか。
生徒たちがあわただしく、教室から出ていった。
陽太郎も流れにそって、開かれた引き戸をくぐろうとした。
朝芽の席を通り過ぎる。今日も、オカルト本を読んでいる。
周りはいない。ひとりきり。
顔色だって、あまりよくない。
幸せそうには、決して見えない。
(ちっ!)
足を止めて、振り返る。
ええい、当たってくだけろだ。
オカルト本を、取り上げた。
「『霊力が身につく訓練法』? くっだらねえ」
「返してよ」
やはり、気分を損ねてしまう。にらまれる。
(そうじゃない。おれが言いたかったことは……)
声をかけても、口が滑る。
なぜか、朝芽をからかってしまう。
「…………」
気まずい雰囲気をごまかすように、奪った本をもてあそぶ。
ページをめくって、問いかける。
「試したのかよ」
「……は?」
伝わっていないみたいで、朝芽はおでこにしわを寄せる。
信用は、されていない。
無理はない。あんなことがあったばかりだ。
なるべく慎重に、言い直す。
「だから、この訓練法。霊力が身につくってやつ。試したか、って聞いてんだ」
自分の口からあやしげな言葉を、出したことに抵抗があった。恥ずかしかった。
そんなものを信じているのが、陽太郎にはおかしかった。
朝芽は、うんざりして言った。
「試したよ。この本、ぜんぶ。もう、わたしに構わないで。本を返して」
「うわっ、ぜんぶやったのかよ。キッ……じゃなくて、そこまですんの?」
言葉選びをまた間違えて、あわてて訂正しようとした。
朝芽が何かを言いかける前に、陽太郎はまくし立てた。
「そんで、効果はあったのかよ。ぜんぶやって」
「……っ、なかった」
朝芽は、手のひらに目を落とした。
まなざしが、くもっている。
おそらく手には、何もない。
オーラとかパワーとか、見えないのだろう。
(おれは、そんなもの信じないけど)
朝芽は信じる。信じているからこそ、つらい。
「その本が、ウソつきなんだ。おまえは何も悪くない」
「そんなはずない。効果が出たって、みんな言ってる」
(なんだよそれ)
気になった。けれど、話は続けられそう。細い糸ではあるけれど。
「みんなって?」
「インフルエンサー。コラボ動画でよく見る人も、霊が見えたって言っている」
「コラボ動画?」
「うん。別チャンネルの有名人をゲストに招いて、コラボするの。霊能系のチャンネルを、わたしはよく見るんだけど」
朝芽の言葉は自然だった。恥じらいはなく、ふだんの生活に溶けこんでいた。
オカルト動画を、視聴すること。
その動画に招かれたゲストが、本に書いてある方法を試して、「霊が見えた」とリアクションする。
なんとなく、読めてきた。
「まさかそのチャンネル主が、本を書いたんじゃないだろうな」
「ええ、そうよ。とっても有名な霊能者なの。あなたにはわかんないでしょうね」
トゲを含んだ言い方だが、陽太郎はスルーした。
事実、わからないのだから。
「おまえ、それ、だまされてるぞ。ゲストがきっとサクラなんだ」
「……ゲストがサクラ?」
オウム返し。すぐには、意味が出ないようだ。
陽太郎は説明する。オカルト本より大事なことが、ここにあるということを。
現実を、ちゃんと見ろ。
「だから、本を買わせるために、ゲストが演技をしてるんだよ。霊が見えたふりしてさ。その本は真っ赤な大ウソだ」
「そんなはずない! 沌在先生はホンモノよ。そんなはずは……」
否定はしたけど、声がしぼむ。
心が自信をなくしかけている。
「わ、わたしは……、訓練法をぜんぶやった……。でも、霊なんか見えなくて……。そ、そうよ。どこかで手順を間違えたのよ……。それも、ぜんぶ……? 本当にあるの……? そもそもあなたの言うとおり、本がもし大ウソなら……」
(あと、ひと押し)
頭を抱える朝芽を見ながら、陽太郎はこぶしをにぎる。
かわいそうだと、思うけれど。
(おれは、いじわるしたいんじゃない。同じクラスメイトなのに、壁があるのがいやなんだ。それに、このきな臭い話は、こいつにとっていいはずない)
まるで悪い宗教のようだ。信じてしまえば、抜け出せない。
(ひどい顔をしているぜ)
目が赤い。血走っている。目の下には、くまがある。
昨日も夜遅くまで、オカルトの勉強をしたのだろう。参考書ともいえる本が、真実であるかもわからずに。
「そ、そうだわ……!」
何かを思いついたように、陽太郎をまっすぐ見る。
わらにもすがりつくような目。
「お願い! あなたがやってみて。『霊力が身につく訓練法』!」
「……っ!」
本が滑り落ちた。
まさか自分が訓練法を、お願いされるとは思わなかった。
(どうせ成功なんかしない。これで、目が覚めるなら……)
本を拾う。先ほどよりも、重かった。
緊張のせいだろうか。
「ああ、わかった」
あごを引いて、うなずいた。
朝芽へと、本を返す。
「選んでくれ。訓練法……というやつを」
「……うん、決めたわ。これにしましょう」
ページをめくるのが早かった。
何度も読んでいるせいなのか、頭に辞典が入っているようだ。
オカルト辞典。
ページのタイトルは、『冥界の関破り』。
どういったものか、想像がつかない。
「これは、道具がなくてもできるわ。親指、人さし指、中指で、のどをつまみながら、咳を九回。あの世とこの世の関が破れて、死者との声がつながるの」
(げっ、マジか……)
まるで一休さんのようだ。関と咳。言葉遊びはまじないによく使われるので、こういった方法もありそうだ。
たとえば節分。鬼に豆を投げるのは、「魔を滅する」という意味で、魔滅=豆だから。
この『冥界の関破り』も、うさん臭さはあるものの、もしかしたら、もしかしたら、本当にありえるかもしれない。
「おまえは試したんだよな?」
念のために確認する。ぜんぶ試した、と言っていた。
「もちろんやったわ。ダメだった……」
残念そうに、息を吐いた。
陽太郎は胸をなでた。朝芽には、効かなかった。訓練法が大ウソだから。
(そうさ、おれでも変わらない。効かないはずだ。インチキなんだ)
自分に言い聞かせ、気合を入れる。
オカルトを信じていなくても、どこかで臆しているようだ。
「よしっ、やるぞ!」
三本の指で、のどをつまむ。――『冥界の関破り』。
咳を九回、コンコンコンコンコンコンコンコンコン。
咳を止めて、息を吸う。
あの世とこの世を阻む関所が、はたしてこれで破られるのか。
それとも、何も起こらないのか。
(終わったぞ。『冥界の関破り』。何もなければ、おれの勝ちだ)
そう思った瞬間、のどを押さえる。
息ができない。吸おうとしても、吐こうとしても、のどに何かが詰まってみたいで、空気を通すことができない。
「陽太郎くん!」
朝芽が呼ぶ。はじめて名前を呼んでくれた。
「…………ァー」
この世ともならない声が、のどの奥から震え出た。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
か細い声が聞こえてくる。霊のものか、朝芽のものか、陽太郎にはわからなくなってくる。
(おれは、バカだ)
危険信号に気づけなかった。いや、気づかないふりをした。
――やってはいけない。心の奥底で思っていた。
それでも恐怖を遠ざけて、自分が正しいと信じこんだ。
(ああ……、こういうことなのか)
一休さんの詳しい内容を思い出す。
食いっぷりがよくて、なんでも、のどに通してしまう。まるで東海道のように。
お殿様は「刀を飲め」と、一休さんに命令した。なんでも通す、のどならば。
そこで、咳きこんだ一休さん。咳を止めると、「通しません」と言ったのだ。
東海道の関所は止まった。のども、刀を通せない。
お殿様は拍手して、知恵比べの負けを認めた。
こういうお話。
(つまり、咳を止めたから、のどの空気も止まったのか)
呼吸の関所は止められる。死に近づく。
代わりに冥界の関所が開く。
(わたしのせい……?)
陽太郎が、のどを押さえた。
苦しんでいる。訓練法を、やったから。
『冥界の関破り』を。
(どうしてよ! なんで、わたしに効かないの!)
どちらにしても、詰みだった。
本が大ウソだったなら、今までの努力が無駄になる。
本がホンモノだったなら、才能がないと突きつけられる。
霊を感じる才能がゼロ。霊感ゼロ。
本に書かれた訓練法を、すべてやって成果なしだ。
努力ではどうにもならないほどの、特異体質ともいえよう。
(わたしがふつうじゃなかったんだ! わたしのせいだ。訓練法を頼んだから……)
本が「大ウソ」だと言われ、頭の中が冷たくなった。
妹の夕花と自分をつなぐ、細い糸が、切れそうになった。
朝芽は手がかりを探していた。見えるようになるための。
陽太郎に頼んだのは、ウソだと思いたくなかったから。
彼は、前にも「妹がウソつき」だと言ったから。
「陽太郎くん!」
呼びかけるけど、返事がない。
のどを、かきむしっている。あきらかに変だ。
(本にはこんなこと書いてない! 息ができなくなるなんて!)
オカルト動画にも紹介されて、安全のはずだった。
ただこの動画は、他チャンネルとのコラボではなく、チャンネル主の『沌在』が実演していた方法だ。
『冥界の関破り』で、死者の声を引き出すことで、未解決の殺人事件の犯人を当てたという内容で、朝芽の記憶に強烈に残り、試してみたいと思ったのだ。
(夕花はこんなことしなくても、霊の声が聞こえたのかも)
耳を押さえることがあり、夕花はいつもおびえていた。
霊と関わるのは、こういうこと。
目の前に陽太郎がいて、白目をむきかけている。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
自分ではどうすることもできない。
救うどころか、死なせてしまう。
(わたしは、バカだ)
オカルトの知識なんて、役に立たない。
どれだけ勉強したところで、霊感ゼロの体質では、実践のしようがない。
(だって、わたしには何も見えない! 苦しんでいる陽太郎くんだけ!)
教室の床へと崩れ落ちた。窓から西日がさしこんだ。
黄昏だ。逢魔が時。
朝芽は目に涙を浮かべて、陽太郎の手を握った。
「しっかりして! 死なないで!」
手が、冷たくなっていった。
顔が、白くなっていった。
もうダメだと、朝芽は思った。
廊下から足音が響き渡る。
人影が、教室に入る。
「どいて!」
少女の声だった。朝芽は突き飛ばされてしまう。
「あ、あなた! 急に何よ!」
「時間がないわ。少し荒っぽくなるけれど」
振り向かずに、少女は答えた。
長い黒髪がきれいだった。背丈は同じくらいのようだ。この子は何者なのだろう。
後ろ姿を見せたまま、陽太郎の学ランを開ける。インナーも、まくり上げる。
引き締まった腹と胸。きれいな肌。
なんて非常識な行動だ。
「ちょっとあなた!」
「黙ってて!」
とがめようとしたが、叱られた。
何か知っているのかもしれない。
本にも動画にも、書かれないこと。
陽太郎の胸骨の中心部へと、両手を添える。
「邪を祓い、身を清めよ。――破《は》っ!」
強く押し当てる。
朝芽は少女との壁を感じる。あちら側だ。
ただの心肺蘇生ではなく、他にも何かをしたのだろう。
「…………ごほっ」
陽太郎が息を返す。失った酸素を取り戻すように、深く呼吸を繰り返す。
「やっ……た」
助かった。陽太郎は生きている。
顔の色が元に戻り、薄く目を開けていった。
「よかったああっ」
安心したら、涙がこぼれる。
陽太郎は、まばたきを何度も繰り返した。
「なんで朝芽が、ふたりいるんだ。おれ、どうなっちまったんだ」
「えっ?」
ふたり。朝芽はひとりしかいない。
(まさか!)
少女へ振り向いた。
まるで鏡に映っているように、同じ顔がそこにあった。
「夕花!」
ふたごの妹だ。見間違えるはずがない。
五年前に別れた夕花。あれから一度も会っていない。
居場所がわからなかったから。両親が教えてくれなかった。
でも、ここに、夕花がいる!
「会いたかった! わたし、夕花を助けるために、オカルトの勉強を続けてるよ! わたしが夕花を守れれば、家族でまた暮らせるから!」
「……っ」
夕花は目を細める。最初は驚いたようにも見えたが、すぐに瞳をかげらせる。
視線を床へ。本がある。『霊力が身につく訓練法』。
「あなたなのね。こんなもの!」
本を手に取り、ページを裂く。
乱雑に。ぐちゃぐちゃに。
取り憑かれたみたいに、一心に。
「ゆ、夕花……?」
「あなたなんでしょ! 他人まで巻きこませて! 勉強しなくてもいいじゃない! 無駄なのよ、こんなもの!」
紙吹雪が、教室に舞った。ほこりも舞った。
西日に反射して、赤く染まる。血の雨のように降り注ぐ。
朝芽は戸惑う。責められた。
オカルトを勉強していたから、陽太郎を巻きこんだ。
自分の力では何もできず、死なせてしまうところだった。
夕花が来ていなかったら――。
「わ……、わたしじゃ、ダメなのかな……。夕花の苦しみをわかりたくて、助けたくて、勉強して……」
「それが無駄だって言ってるの。あなたは、あたしと違うんだから。理解なんてできるわけない。あなたには助けられないし、助ける義理もどこにもないの」
強い口調で、拒絶する。
朝芽へ向ける冷たい目。
せっかく再会できたのに、夕花との壁を突きつけられる。
「忘れなさい。あきらめなさい。あたしに姉はいないのよ。あなたにも、夕花なんて妹はいない」
背中を向けて、歩き出す。黒髪が、揺れている。
廊下へ続くドアの奥には、ゾンビのような青アザの男。
見覚えがある。地響志暮。夕花の今の父親だ。
(行ってしまう! 夕花がまた――)
あのとき朝は、忘れられない。
夕花は、いなくなっていた。
ひとりになった。
寂しかった。くやしかった。どうして救えないのだろう。
どれほど勉強しても、無駄。
だって、霊感がないのだから。
住む世界が、そもそも違う。
「行けないんだ、あちら側に……。わたしと夕花は違うんだ……」
「違わねーよ。勝手に壁を作るんじゃねえ!」
朝芽の近くで、声が響いた。
力強くて、よく通る。
夕花の背中にも、届く。
「おとなしく聞いてりゃ、ごちゃごちゃと。「無駄」とか「できない」って、決めつけんな!」
陽太郎だ。立ち上がる。
肩で大きく息をしている。足元はふらふらだ。
一命を取りとめたとはいえ、歩けるほどの元気はない。
夕花が止まった。鋭い視線を投げていった。
「何? 死にかけてたくせに。懲りたでしょ。その子と引っこんでいなさいよ。オカルトにはもう関わらないで」
「じゃあ、おまえはどうなるんだよ。いつもオカルトに関わって、死にかけた思いをしてるのか? そんなの、朝芽が許さねえよ。なあ、そうだろ?」
確認するように、笑みを投げる。強い微笑み。
味方してくれるなんて、思わなかった。
訓練法のせいで、ひどい目にあって、恨まれていると思っていた。
(わたしも壁を作ってたんだ……。陽太郎くんは、壊してくれた)
夕花を大切にしたい想いは、誰にもわかってもらえない。
そう思いこんでいたけれど、間違いだって気づかされた。
(そうよ、壁は壊せるんだ。夕花とわたしの壁もきっと)
何もできないと言われても、何かできると信じている。信じてきた。
そのための努力をしてきたのだ。思い描く未来のために。
夕花と笑いあって、暮らすために。
「あきらめないよ。夕花だけがつらい思いをしているなんて、許さない」
背筋を伸ばす。前を見すえる。
朝芽の瞳には、夕花が映る。何かを恐れているようすだ。
「やっ、やめて……。こっち来ないで!」
ガタッ。整列された机とイスが、踊るように動き出した。
ガタッ、ゴトッ。小刻みに。
ホームルーム前の時間。中休み。昼休み。
放課後も。生徒たちが教室を出ても、ひとりだけ席に座ったまま。
終礼のチャイムが鳴ったことも忘れて、本の世界に集中していた。
さて、クイズ。
何を読んでいるでしょう?
くせっ毛の刈り上げ男子が、朝芽の本を取り上げる。
「『霊力が身につく訓練法』? くっだらねえ」
「返してよ」
懲りずにまた、からかってきた。
あんなことがあったあとでも、近づいてくるとは、思わなかった。
(放っておいてほしいのに)
オカルト本を読む理由。
大切な人を取り戻すため。
あちら側へと踏みこむために、勉強し続けなければならない――。
朝芽には、今は妹がいなかった。五年前まではいた。
名前は夕花。
同じ日に生まれたふたごなのに、夕花はいつも元気がなかった。
急に両耳を押さえたり、吐いたりすることもあった。
何もないところを振り向いたり、指をさしていたりした。
おびえていた。
朝芽は、わけがわからなかった。「何かいる」と言われても、おかしなところがなかったから。
両親は頼りにならなかった。夕花の言っていることを信じず、不気味な子どもだと思われていた。カウンセリングは、受けなかった。変な見栄を張ったせいだろう。
(でも、わたしは夕花を信じる。見えてないものが、見えてるんだ!)
それから朝芽は、調べはじめる。オカルト図鑑。オカルト動画。難しいことはわからなかったけれど、がんばって理解しようとした。
夕花のために。夕花の味方であるために。
けれど、努力は無駄に終わった。
(夕花はいなくなってしまった。遠い親戚のところに行って……)
養子になった。
もう家族ではなくなった。オカルトに詳しい親戚に、夕花は引き取られてしまった。
(くやしい)
止めることはできなかった。ある朝、起きたら、いなかった。となりで寝ていたはずなのに、夕花が布団ごと消えていた。
朝芽は泣いた。両親はなぐさめようと、そのほうがいいと、うそぶいた。
そのほうが夕花は幸せになれる。このまま家族でいたところで、何も助けてあげられない。そのように、なだめていった。
言い返せなかった。実際に何もできなかった。
どれほどオカルトを学んだところで、夕花の気持ちを知ることができない。
何を見て、何を聞いて、何におびえているか知らない。
(わたしには助けられなかった。でも、地響さんだったら、夕花をわかってあげられるかな……?)
夕花を引き取った親戚だ。一度だけ会ったことがある。
叔母の葬式のときだった。このころは、まだ八歳。
男の顔をはじめて見たとき、朝芽は悲鳴を上げそうになった。
顔面が、ゾンビだから。苔のようなアザが、目の周りを覆っていた。親戚たちに煙たがられていた。
だけど瞳は深くやさしく、具合の悪くなった夕花を、安静な場所まで運んでくれた。
式場を出てから何があったか、夕花は元気に戻ってきた。
となりの男……地響志暮に、これまでにない笑顔を見せた。
朝芽には、絶対に見せない安心しきった表情だ。
(この人は、夕花と同じ……)
あれから一ヶ月も経たないうちに、夕花は地響の子になった。
バケツをひっくり返したように、胸がからっぽになっていった。
(終わった)
朝芽は思った。
子ども部屋には、ひとりきり。
ああ、夕花。
おびえて泣いている姿。
抱きしめると、大好きって言ってくれる。
ふたごの半分。
同じ親から、同じ日に生まれて、同じ家で育ったのに。
ふたりはなぜこんなにも、違ってしまったのだろう。
(納得しなきゃ。住む世界が違ってたんだ)
だから、違う家に行った。ふたごは別れた。姉妹でも家族でも、なくなった。
これからは種水夕花でなく、地響夕花として生きていく。
向こうで幸せになれるなら、これでよかったのかもしれない。
張りつめた糸が、切れて、落ちた。朝芽は本棚を見るしかなかった。
オカルト本。どれも夕花を助けるために、学ぼうとしていた本たちだ。
もう勉強はしないで済む。
好きなことを、思いっきりやれる。
おしゃれとか、運動とか、スイーツの食べ歩きだっていい。
終わったんだ。
もういいのに。
(いやだ、いやだ、いやだ!)
首を振る。納得なんて、できるわけない。
離れたくない。
わからないままで、終わりたくない。
夕花の気持ち。見ていた世界。
理解して救うって、決めたんだ。
壁なんてない。あっても壊す。
同じ人間で、家族だから。ふたごだから。
たとえ夕花と違っても。
霊を感じられなくても。
(わたしが夕花を救えれば、また家族に戻れるんだ!)
朝芽は勉強をし続ける。
大好きな妹を取り戻すため。
五年が経ち、中学一年生になる。
学校では浮いた存在だけど、本人はそんなの気にしない。
(まぁーた本を読んでやがる)
横目で見ている男子がいる。
矢風陽太郎。クラスメイトだ。
終礼のチャイムが鳴って、生徒たちは帰る準備。部活動に向かう者といる。
陽太郎もバッグを持って、ドアへ歩いているところだ。
ところが座ったままの女子を、目の端へととらえてしまう。
種水朝芽だ。今日も、本を読んでいる。しかも、オカルト本ばかり。
入学したての四月のころは、みんな気になっていた。声をかけていたりした。
都市伝説とか妖怪は、子ども心をくすぐるもの。
「ねえ、朝芽ちゃん――」
ところが、話が合わなかった。
オカルト本を読む理由が、興味とは別のものだからだ。
決意、と言ったらいいだろうか。
原因不明で苦しむ妹を救うため、と話していた。
ふたごの妹には霊感があると。
よくないものが、見えたり聞こえたりしてしまうと。
予想外の答えが返ってきたせいで、クラスのみんなはドン引きだ。
さらには、朝芽を孤立させるような、おろかな男子さえもいた。
(それが、おれだ)
陽太郎だ。
取り憑いたように本を読む朝芽を、蹴り飛ばしたかったのかもしれない。
「霊なんているわけねーじゃねえかよ。おまえの妹、ウソつきだ。かまってほしくてやってるんだろ」
周りに、目を向けてほしかった。ここは学校。おまえは一年三組の生徒。
このクラスは明るくて、みんな、いい人たちばかり。
それなのになぜ朝芽だけが、クラスになじもうとしないのか。
だから、腹が立って言った。
爆弾だったと、すぐにわかった。
朝芽は大きな音を立てる。
陽太郎の胸ぐらをつかむ。
「……するな」
低く、うなるような声。ひたいに青筋が立っている。
「妹を、侮辱するな!」
爆発した。心が焼かれる思いだった。
失敗した。かける言葉を間違えた。ウソつきなんて、言うべきではなかった。
どれほどに、まっすぐなんだ。
叩かれる、と目をつむった。
つかまれた胸ぐらを、放された。
「……もう、いい。放っておいてよ」
「ごめん……」
このまま放っておければ、どんなに楽なことだろう。
クラスのみんなは無視をはじめる。腫れものには、さわりたくない。
陽太郎も、みんなのように、無視ができればいいと思った。
そのほうが、丸く収まる。
本人が望んでいるのだから、関わらなくてもいいじゃないか。
生徒たちがあわただしく、教室から出ていった。
陽太郎も流れにそって、開かれた引き戸をくぐろうとした。
朝芽の席を通り過ぎる。今日も、オカルト本を読んでいる。
周りはいない。ひとりきり。
顔色だって、あまりよくない。
幸せそうには、決して見えない。
(ちっ!)
足を止めて、振り返る。
ええい、当たってくだけろだ。
オカルト本を、取り上げた。
「『霊力が身につく訓練法』? くっだらねえ」
「返してよ」
やはり、気分を損ねてしまう。にらまれる。
(そうじゃない。おれが言いたかったことは……)
声をかけても、口が滑る。
なぜか、朝芽をからかってしまう。
「…………」
気まずい雰囲気をごまかすように、奪った本をもてあそぶ。
ページをめくって、問いかける。
「試したのかよ」
「……は?」
伝わっていないみたいで、朝芽はおでこにしわを寄せる。
信用は、されていない。
無理はない。あんなことがあったばかりだ。
なるべく慎重に、言い直す。
「だから、この訓練法。霊力が身につくってやつ。試したか、って聞いてんだ」
自分の口からあやしげな言葉を、出したことに抵抗があった。恥ずかしかった。
そんなものを信じているのが、陽太郎にはおかしかった。
朝芽は、うんざりして言った。
「試したよ。この本、ぜんぶ。もう、わたしに構わないで。本を返して」
「うわっ、ぜんぶやったのかよ。キッ……じゃなくて、そこまですんの?」
言葉選びをまた間違えて、あわてて訂正しようとした。
朝芽が何かを言いかける前に、陽太郎はまくし立てた。
「そんで、効果はあったのかよ。ぜんぶやって」
「……っ、なかった」
朝芽は、手のひらに目を落とした。
まなざしが、くもっている。
おそらく手には、何もない。
オーラとかパワーとか、見えないのだろう。
(おれは、そんなもの信じないけど)
朝芽は信じる。信じているからこそ、つらい。
「その本が、ウソつきなんだ。おまえは何も悪くない」
「そんなはずない。効果が出たって、みんな言ってる」
(なんだよそれ)
気になった。けれど、話は続けられそう。細い糸ではあるけれど。
「みんなって?」
「インフルエンサー。コラボ動画でよく見る人も、霊が見えたって言っている」
「コラボ動画?」
「うん。別チャンネルの有名人をゲストに招いて、コラボするの。霊能系のチャンネルを、わたしはよく見るんだけど」
朝芽の言葉は自然だった。恥じらいはなく、ふだんの生活に溶けこんでいた。
オカルト動画を、視聴すること。
その動画に招かれたゲストが、本に書いてある方法を試して、「霊が見えた」とリアクションする。
なんとなく、読めてきた。
「まさかそのチャンネル主が、本を書いたんじゃないだろうな」
「ええ、そうよ。とっても有名な霊能者なの。あなたにはわかんないでしょうね」
トゲを含んだ言い方だが、陽太郎はスルーした。
事実、わからないのだから。
「おまえ、それ、だまされてるぞ。ゲストがきっとサクラなんだ」
「……ゲストがサクラ?」
オウム返し。すぐには、意味が出ないようだ。
陽太郎は説明する。オカルト本より大事なことが、ここにあるということを。
現実を、ちゃんと見ろ。
「だから、本を買わせるために、ゲストが演技をしてるんだよ。霊が見えたふりしてさ。その本は真っ赤な大ウソだ」
「そんなはずない! 沌在先生はホンモノよ。そんなはずは……」
否定はしたけど、声がしぼむ。
心が自信をなくしかけている。
「わ、わたしは……、訓練法をぜんぶやった……。でも、霊なんか見えなくて……。そ、そうよ。どこかで手順を間違えたのよ……。それも、ぜんぶ……? 本当にあるの……? そもそもあなたの言うとおり、本がもし大ウソなら……」
(あと、ひと押し)
頭を抱える朝芽を見ながら、陽太郎はこぶしをにぎる。
かわいそうだと、思うけれど。
(おれは、いじわるしたいんじゃない。同じクラスメイトなのに、壁があるのがいやなんだ。それに、このきな臭い話は、こいつにとっていいはずない)
まるで悪い宗教のようだ。信じてしまえば、抜け出せない。
(ひどい顔をしているぜ)
目が赤い。血走っている。目の下には、くまがある。
昨日も夜遅くまで、オカルトの勉強をしたのだろう。参考書ともいえる本が、真実であるかもわからずに。
「そ、そうだわ……!」
何かを思いついたように、陽太郎をまっすぐ見る。
わらにもすがりつくような目。
「お願い! あなたがやってみて。『霊力が身につく訓練法』!」
「……っ!」
本が滑り落ちた。
まさか自分が訓練法を、お願いされるとは思わなかった。
(どうせ成功なんかしない。これで、目が覚めるなら……)
本を拾う。先ほどよりも、重かった。
緊張のせいだろうか。
「ああ、わかった」
あごを引いて、うなずいた。
朝芽へと、本を返す。
「選んでくれ。訓練法……というやつを」
「……うん、決めたわ。これにしましょう」
ページをめくるのが早かった。
何度も読んでいるせいなのか、頭に辞典が入っているようだ。
オカルト辞典。
ページのタイトルは、『冥界の関破り』。
どういったものか、想像がつかない。
「これは、道具がなくてもできるわ。親指、人さし指、中指で、のどをつまみながら、咳を九回。あの世とこの世の関が破れて、死者との声がつながるの」
(げっ、マジか……)
まるで一休さんのようだ。関と咳。言葉遊びはまじないによく使われるので、こういった方法もありそうだ。
たとえば節分。鬼に豆を投げるのは、「魔を滅する」という意味で、魔滅=豆だから。
この『冥界の関破り』も、うさん臭さはあるものの、もしかしたら、もしかしたら、本当にありえるかもしれない。
「おまえは試したんだよな?」
念のために確認する。ぜんぶ試した、と言っていた。
「もちろんやったわ。ダメだった……」
残念そうに、息を吐いた。
陽太郎は胸をなでた。朝芽には、効かなかった。訓練法が大ウソだから。
(そうさ、おれでも変わらない。効かないはずだ。インチキなんだ)
自分に言い聞かせ、気合を入れる。
オカルトを信じていなくても、どこかで臆しているようだ。
「よしっ、やるぞ!」
三本の指で、のどをつまむ。――『冥界の関破り』。
咳を九回、コンコンコンコンコンコンコンコンコン。
咳を止めて、息を吸う。
あの世とこの世を阻む関所が、はたしてこれで破られるのか。
それとも、何も起こらないのか。
(終わったぞ。『冥界の関破り』。何もなければ、おれの勝ちだ)
そう思った瞬間、のどを押さえる。
息ができない。吸おうとしても、吐こうとしても、のどに何かが詰まってみたいで、空気を通すことができない。
「陽太郎くん!」
朝芽が呼ぶ。はじめて名前を呼んでくれた。
「…………ァー」
この世ともならない声が、のどの奥から震え出た。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
か細い声が聞こえてくる。霊のものか、朝芽のものか、陽太郎にはわからなくなってくる。
(おれは、バカだ)
危険信号に気づけなかった。いや、気づかないふりをした。
――やってはいけない。心の奥底で思っていた。
それでも恐怖を遠ざけて、自分が正しいと信じこんだ。
(ああ……、こういうことなのか)
一休さんの詳しい内容を思い出す。
食いっぷりがよくて、なんでも、のどに通してしまう。まるで東海道のように。
お殿様は「刀を飲め」と、一休さんに命令した。なんでも通す、のどならば。
そこで、咳きこんだ一休さん。咳を止めると、「通しません」と言ったのだ。
東海道の関所は止まった。のども、刀を通せない。
お殿様は拍手して、知恵比べの負けを認めた。
こういうお話。
(つまり、咳を止めたから、のどの空気も止まったのか)
呼吸の関所は止められる。死に近づく。
代わりに冥界の関所が開く。
(わたしのせい……?)
陽太郎が、のどを押さえた。
苦しんでいる。訓練法を、やったから。
『冥界の関破り』を。
(どうしてよ! なんで、わたしに効かないの!)
どちらにしても、詰みだった。
本が大ウソだったなら、今までの努力が無駄になる。
本がホンモノだったなら、才能がないと突きつけられる。
霊を感じる才能がゼロ。霊感ゼロ。
本に書かれた訓練法を、すべてやって成果なしだ。
努力ではどうにもならないほどの、特異体質ともいえよう。
(わたしがふつうじゃなかったんだ! わたしのせいだ。訓練法を頼んだから……)
本が「大ウソ」だと言われ、頭の中が冷たくなった。
妹の夕花と自分をつなぐ、細い糸が、切れそうになった。
朝芽は手がかりを探していた。見えるようになるための。
陽太郎に頼んだのは、ウソだと思いたくなかったから。
彼は、前にも「妹がウソつき」だと言ったから。
「陽太郎くん!」
呼びかけるけど、返事がない。
のどを、かきむしっている。あきらかに変だ。
(本にはこんなこと書いてない! 息ができなくなるなんて!)
オカルト動画にも紹介されて、安全のはずだった。
ただこの動画は、他チャンネルとのコラボではなく、チャンネル主の『沌在』が実演していた方法だ。
『冥界の関破り』で、死者の声を引き出すことで、未解決の殺人事件の犯人を当てたという内容で、朝芽の記憶に強烈に残り、試してみたいと思ったのだ。
(夕花はこんなことしなくても、霊の声が聞こえたのかも)
耳を押さえることがあり、夕花はいつもおびえていた。
霊と関わるのは、こういうこと。
目の前に陽太郎がいて、白目をむきかけている。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
自分ではどうすることもできない。
救うどころか、死なせてしまう。
(わたしは、バカだ)
オカルトの知識なんて、役に立たない。
どれだけ勉強したところで、霊感ゼロの体質では、実践のしようがない。
(だって、わたしには何も見えない! 苦しんでいる陽太郎くんだけ!)
教室の床へと崩れ落ちた。窓から西日がさしこんだ。
黄昏だ。逢魔が時。
朝芽は目に涙を浮かべて、陽太郎の手を握った。
「しっかりして! 死なないで!」
手が、冷たくなっていった。
顔が、白くなっていった。
もうダメだと、朝芽は思った。
廊下から足音が響き渡る。
人影が、教室に入る。
「どいて!」
少女の声だった。朝芽は突き飛ばされてしまう。
「あ、あなた! 急に何よ!」
「時間がないわ。少し荒っぽくなるけれど」
振り向かずに、少女は答えた。
長い黒髪がきれいだった。背丈は同じくらいのようだ。この子は何者なのだろう。
後ろ姿を見せたまま、陽太郎の学ランを開ける。インナーも、まくり上げる。
引き締まった腹と胸。きれいな肌。
なんて非常識な行動だ。
「ちょっとあなた!」
「黙ってて!」
とがめようとしたが、叱られた。
何か知っているのかもしれない。
本にも動画にも、書かれないこと。
陽太郎の胸骨の中心部へと、両手を添える。
「邪を祓い、身を清めよ。――破《は》っ!」
強く押し当てる。
朝芽は少女との壁を感じる。あちら側だ。
ただの心肺蘇生ではなく、他にも何かをしたのだろう。
「…………ごほっ」
陽太郎が息を返す。失った酸素を取り戻すように、深く呼吸を繰り返す。
「やっ……た」
助かった。陽太郎は生きている。
顔の色が元に戻り、薄く目を開けていった。
「よかったああっ」
安心したら、涙がこぼれる。
陽太郎は、まばたきを何度も繰り返した。
「なんで朝芽が、ふたりいるんだ。おれ、どうなっちまったんだ」
「えっ?」
ふたり。朝芽はひとりしかいない。
(まさか!)
少女へ振り向いた。
まるで鏡に映っているように、同じ顔がそこにあった。
「夕花!」
ふたごの妹だ。見間違えるはずがない。
五年前に別れた夕花。あれから一度も会っていない。
居場所がわからなかったから。両親が教えてくれなかった。
でも、ここに、夕花がいる!
「会いたかった! わたし、夕花を助けるために、オカルトの勉強を続けてるよ! わたしが夕花を守れれば、家族でまた暮らせるから!」
「……っ」
夕花は目を細める。最初は驚いたようにも見えたが、すぐに瞳をかげらせる。
視線を床へ。本がある。『霊力が身につく訓練法』。
「あなたなのね。こんなもの!」
本を手に取り、ページを裂く。
乱雑に。ぐちゃぐちゃに。
取り憑かれたみたいに、一心に。
「ゆ、夕花……?」
「あなたなんでしょ! 他人まで巻きこませて! 勉強しなくてもいいじゃない! 無駄なのよ、こんなもの!」
紙吹雪が、教室に舞った。ほこりも舞った。
西日に反射して、赤く染まる。血の雨のように降り注ぐ。
朝芽は戸惑う。責められた。
オカルトを勉強していたから、陽太郎を巻きこんだ。
自分の力では何もできず、死なせてしまうところだった。
夕花が来ていなかったら――。
「わ……、わたしじゃ、ダメなのかな……。夕花の苦しみをわかりたくて、助けたくて、勉強して……」
「それが無駄だって言ってるの。あなたは、あたしと違うんだから。理解なんてできるわけない。あなたには助けられないし、助ける義理もどこにもないの」
強い口調で、拒絶する。
朝芽へ向ける冷たい目。
せっかく再会できたのに、夕花との壁を突きつけられる。
「忘れなさい。あきらめなさい。あたしに姉はいないのよ。あなたにも、夕花なんて妹はいない」
背中を向けて、歩き出す。黒髪が、揺れている。
廊下へ続くドアの奥には、ゾンビのような青アザの男。
見覚えがある。地響志暮。夕花の今の父親だ。
(行ってしまう! 夕花がまた――)
あのとき朝は、忘れられない。
夕花は、いなくなっていた。
ひとりになった。
寂しかった。くやしかった。どうして救えないのだろう。
どれほど勉強しても、無駄。
だって、霊感がないのだから。
住む世界が、そもそも違う。
「行けないんだ、あちら側に……。わたしと夕花は違うんだ……」
「違わねーよ。勝手に壁を作るんじゃねえ!」
朝芽の近くで、声が響いた。
力強くて、よく通る。
夕花の背中にも、届く。
「おとなしく聞いてりゃ、ごちゃごちゃと。「無駄」とか「できない」って、決めつけんな!」
陽太郎だ。立ち上がる。
肩で大きく息をしている。足元はふらふらだ。
一命を取りとめたとはいえ、歩けるほどの元気はない。
夕花が止まった。鋭い視線を投げていった。
「何? 死にかけてたくせに。懲りたでしょ。その子と引っこんでいなさいよ。オカルトにはもう関わらないで」
「じゃあ、おまえはどうなるんだよ。いつもオカルトに関わって、死にかけた思いをしてるのか? そんなの、朝芽が許さねえよ。なあ、そうだろ?」
確認するように、笑みを投げる。強い微笑み。
味方してくれるなんて、思わなかった。
訓練法のせいで、ひどい目にあって、恨まれていると思っていた。
(わたしも壁を作ってたんだ……。陽太郎くんは、壊してくれた)
夕花を大切にしたい想いは、誰にもわかってもらえない。
そう思いこんでいたけれど、間違いだって気づかされた。
(そうよ、壁は壊せるんだ。夕花とわたしの壁もきっと)
何もできないと言われても、何かできると信じている。信じてきた。
そのための努力をしてきたのだ。思い描く未来のために。
夕花と笑いあって、暮らすために。
「あきらめないよ。夕花だけがつらい思いをしているなんて、許さない」
背筋を伸ばす。前を見すえる。
朝芽の瞳には、夕花が映る。何かを恐れているようすだ。
「やっ、やめて……。こっち来ないで!」
ガタッ。整列された机とイスが、踊るように動き出した。
ガタッ、ゴトッ。小刻みに。
