持ちまえの要領の良さで高校受験を切りぬけ、なんとか大学に入ってひと月。まだ慣れないなあ、と俺は夜道を歩きながら思う。
高校の五十分授業ですら、魂が飛んで商店街の飯屋あたりを徘徊していた。それなのに、大学の超――長い授業は何なんだろうか?
「人が集中力を高く保てるのは十五分です。大学の教授が知らないんすか」
そうIQが高い教員の順に、片っ端から問いかけたい。だけど、彼らは「国の方針だから仕方ない」というだけだろう。または知的サディストなのかもしれない。自分が勉強好きだからといって、万人がそうだとは思うなよっ。
さらに、TVニュースで百五分の授業を行っている大学もあると聞き、世間には俺より恵まれない子がいるのかと衝撃だ。
そんな解決もしないことを、うだうだうだうだうだうだ考えるのは、今が六時限目を終えた帰り道だからだろう。(もう二十一時近いんですけど……)。スマホの画面を確認して、とぼとぼ歩く。外はすっかり暗くなって、スマホのブルーライトが目に眩しい。
最寄り駅からでて十分。マンションの入り口付近まできた。
ゴミステーションの前を通りすぎ……ようとしたら、女性のすすり泣きが耳に入った。ぐすぐすと悲しげだ。だが、入口や周囲をきょろきょろ見渡しても誰ひとりいない。声は次第に大きくなる。夜の闇を埋めていくように。耳を澄ませて方向をたどると、どうやらゴミステーションから聞こえていた。落ち込んだ会社員が「自分なんてゴミのような存在……」とかやけ酒を飲んで、なかに入り込んだのか。俺は銀の網目をのぞく。
街灯に照らされ、そこにいたのは小さな日本人形だった。顔がこちらに向いていたので目が合ってしまい、思わず「わっ」と声をあげてしまう。明かりをはじく艶のある黒髪で、前がそろえらえているおかっぱ頭。切れ長の瞳で、鼻筋が通っている。陶器のような白い肌をした女性で朱色の着物を着ていた。
見たところ立派な市松人形だ。泣いているという点と、おでこに朱書きで文字の書かれたお札を貼られているという点をのぞけば。
『うわあ。360度、どの角度から見ても呪いの人形じゃん。髪が伸びてきたり、捨てても持ち主のところに帰ってくるやつだ……』
*
小学校の時に川で溺れて以来、俺には変なものが見える。溺死寸前だったからだろう。〝死〟に近づいたので、その世界の住人である幽霊や怪異が分かるようになったのだ。
しかも彼らは、存在を認識する人間に寄りたがる。始終身体が寒いので、温かい人肌が恋しいらしい。冬に日陰より日なたが好ましいように。そうして体温を奪ってポイッ、次の霊感のある人間へGOである。
昔話で、美人の幽霊に憑りつかれて衰弱するものが多くあるが、あれはこういった理由なのだ。
例えば毎日、学校帰りに白いワンピースをきたお姉さんを見るようになった。「綺麗な人だよな」と友人に言うが、彼は「えっ、そんな人見たことない」と言う。まあ、確かに二メートル四十センチはありそうな高身長だ。そんな人間いないだろう。俺は友達に変だと思われたくないので、口を閉ざした。お姉さんのことも知らぬふりをして帰宅する。
だがある日、このスタイルのいいお姉さんに手招きされたのだ。「家においでなさい。お菓子もあるから」と蠱惑的な瞳で見つめられると、「……うん」と口が勝手に動く。今まで存在を知らなかった細道を何本も通って、俺は庭の広い日本家屋についた。
「ここで一緒に遊びましょう。沢山のオモチャもあるわ」
お姉さんは口角を異様に吊りあげて笑う。
「……いや、観たいテレビ番組もあるし。そんな長居できないんだけど」
思っていた距離と違い、一時間は歩かされたことに俺は腹が立っていた。乱暴な言い方で返す。
「ちょっとの時間でいいから」
「どのくらい?」
「千年くらいかな」
「なんでやねん! そんな長生きできるかー。エルフじゃないんだから」
鋭い突っ込みをいれたが、お姉さんは冷めた目で返してきた。えっ、俺が滑ったみたいじゃん。そっちのボケがつまらないから滑ってんねんで。「君とはやってられへん」と吐き捨てて、脱兎のごとく逃げた。何故だか帰路はあっという間だったのを覚えている。歪んだ空間が解けたかのようだった。そして今思えば、あの怪異は本当に千年遊びたかったんだろうなあ。
このように怪異と人間の感性、感覚は相容れないものだ。仲良くしようとしても無駄である。
それに気がついた俺はその後のお化けたちを華麗にスルーしている。もしくは、有効利用するか。
最近だと、趣味の釣りだ。怪異がすり寄ってくる俺には、普通の魚ではなく人面魚がよくつれる。数時間川で粘って、鮎やイワナではなく六匹の人面魚がつれたこともある。それをクーラーボックスに入れる時の虚しさよ。おっさんをクーラーボックスという名の満員電車に詰め込んだようなものだ。やたら呪詛の言葉をはくので阿鼻叫喚となる。
『阿保、ボケ、カスぅ。尻の穴に手ぇ突っ込んで、奥歯をがたがた言わせたろか』
うるせえうるせえ。しかし、俺はこの怪異を有効利用するのだ。最近の食材の値上げは半端ない。魚だってドッキリ番組かと思うほど高値だ。だから人面魚を食べる。焼いてよし、煮てよし、刺身もよし。俺のおススメは煮て食べる調理法だ。砂糖と醬油、みりんでお酒もちょっと入れて。甘党だから砂糖多めで作る。
『殺す気かー。この△$×¥〇、Λ$×¥×めっ! しばきあげっぞ!』
鍋のなかで放送禁止用語を叫びながら、暴れまわる。鍋の蓋はしっかり持っていなければならないが、最終的には美味しい煮魚になってくれる。ご飯がすすむオカズだ。難点はまあ、たまに隣人が警察を呼ぶことだろうか。
*
さて、ゴミステーションの前で俺は考える。この呪いの人形をどうしよう。仲良くはできないとして、有効利用できるかな。いや、祟りが面倒くさそう。このままゴミ収集所に運ばれ、火葬されて成仏するのがベストかな。
腕組をして少し考える。そして結論として、【君子危うきに近寄らず】&【触らぬ神に祟りなし】の合わせ技となった。脳内の柔道審判が、『放っておく』の方に高々と右手をかかげたのだ。「ほかの人あたってね」とつぶやいて、踵を返す。
すると、人形が切々と俺に訴えかけてきた。
『そんなこと言わないでー。霊の声が聞こえる人なんてほぼいないんだからあ。君が去ったら、私はお陀仏だよ。助けてえ、かわいそうだと思って。何もしないからあ』
ガラスでできたドールアイが潤んでみえた。キラキラと涙を溜めているかのよう。なんだか、次第に気の毒になってきた。大学に適応できていない俺と、社会に不要とされた日本人形。似た者同士かもしれん。
『可愛がってくれていたおばあちゃんが亡くなったの。そうしたら今まで見舞いにも来なかった遺族が、私を高級品だからって引き取ってさあ。ムカつくから強烈に呪ったら、悪い奴には効果てきめんでね。風邪をひいたら長びいて、家が小火に。車に足の指を踏まれ、子供の受験も失敗。さながら不幸のデパート、けけけっ。……そうしたら、親族間をたらいまわしにされてね。とうとうお札を貼られて、こんなゴミ箱へ。やだやだ、まだ燃えたくないよう』
うーーーん、ギリ悪い奴じゃないのかな。俺は顎に手をあてて熟考する。
「……分かったよ。とりあえず俺の家に一泊しなよ。明日の燃えるゴミの回収を避けよう。それで翌日、持ち主のところに戻って、思うさま呪えばいいんじゃない? まあ、俺の知らん人やし」
そういってゴミステーションの扉をあけて、彼女を抱え上げた。
『ありがとう。私は日本人形の菊乃。あんた名前なんていうの?』
松原聡、と答える。怪異は『聡は私にとって、白馬の王子様だわ』と感謝を表明した。
「日本人形がなんで西洋風の言いかたなの。駕籠にのった殿様とかじゃないんだ」
『あら、人形なんて動けないからTVの映像や音くらいしか楽しみがないのよ。世の中の事は詳しいわよ』
五十センチくらいの日本人形を持つ、夜道の男子大学生の絵面はホラーである。俺は足早にマンションの入り口の扉を開いて、エレベーターへ。
菊乃さんと一緒に部屋へ入って思ったのは、彼女が少し汚れているということだ。蛍光灯の明かりの下でよく見ると、朱色の和服に埃があり艶のある黒髪もごわついていた。……おばあちゃん以外には本当に大事にされなかったらしい。
「ちょっと汚いし、身ぎれいにしようか」
『おま、言いかた! 女性には遠回しに言いなさいよ』
「ごめんごめん。自分、男子校出身でデリケートのない、草一つない荒地で生きてきたもんで。女子と話すことがなかったんだよ。友達が『灰色の青春なんてもんじゃない。これは──漆黒の闇だ』って言ってたんだから」
ローテーブルに人形を置き、スマホで検索する。日本人形 汚れの取り方、と。
そうして筆(小学校時代の書道で使ったやつ)で全身の埃を払い、髪の毛に優しく櫛をとおす。水で湿らせた綿棒で、軽くタッチして顔の汚れを取った。ガーゼでぬぐいもした。一時間程度かけた頃には、新品とは言わないがそれなりにはなった。
「あー、疲れた。俺も風呂入って寝るね」
と声掛けをして洗面所に向かう。菊乃さんの『ありがとう』という言葉を背に受けながら。
2
翌朝は人助けならぬ、人形助けをしたお陰か気持ちよく起きられた。「おはよう」とローテーブルの上の人形に声をかけて、洗面所まで行って顔を洗う。ワンデーのコンタクトを目につける。授業で使う教科書とノートPCを鞄に放りこんだ。
朝食として、からしを付けた納豆をご飯にかけて食べおえる。
「よし。じゃあ俺は大学に行ってくるから、菊さんは持ち主のところに帰りな」
そう言って彼女を持ち上げた。玄関をでたところに置いて「バイバイ。頑張って復讐してきてね」と一言いって、最寄り駅へ歩いていく。……おかしい。一言も言葉を喋らない。昨夜の出来事は幻想だったのだろうか。もしくは俺の神々しいまでの優しさに触れて、怨念が浄化されて成仏したのか。
大学に着いて二号館の大講堂へ。俺は長時間の授業にも辟易しているが、実のところ友達がいないのも悩みだった。高校と違ってクラス編成がない。付属校出身の人も多く、サークル勧誘は明るい雰囲気に入っていけず。隣席の子に話しかけられもしなかった。というか、周りはすでに友達の輪が完成しているような。
今日も一人でマクロ経済の授業を受ける。階段教室の奥の座席だ。ここならば教員も指名してこないし、孤独感も薄れる。消費者物価指数や通貨供給量などの飛びかう講義を、まるで般若心経のようだと思う。舟をこいで眠気に耐えていると、後部の扉が控えめな音をたてて開いた。視線を向けると、瞳の大きい女子が教室内をのぞいていた。忍び足で赤のフレアスカートを揺らしながら入ってきて、二つ隣の席に座る。
「いやあ、間に合わなかった。あと二十分で終わっちゃうね。バイトが長引いちゃって」
はあ、とため息をつき、こちらへ微笑む。三日月のように口角を上げて。俺は背後を振り向くが、誰もいない。どうやら俺に話しかけているようだった。
「ほら、フランス語の授業でパートナーになったじゃない。松原くんでしょ。細川です、細川」
ぐっと顔を近づけてくる。前髪を後ろにあげて束ねたヘアスタイルで、真ん丸なおでことキリッとした眉毛が彼女の快活さを表していた。
俺の脳内の細いシナプスに電流が流れる。
先週の第二外国語の授業で、会話の練習をした細川さんか。シモン先生が「じゃあ、教えた内容で隣の人と道案内の練習をして。サンジェルマン大通りの教会をガイドするのよ」と無茶ぶりしてきた時の。男子校出身者としては女子と話すのも久方ぶりで、ドギマギしたことを思いだす。あの時の俺はきょどって見えただろうなあ。顔を覚えるのが苦手ですみません。正直、照れちゃって直視できていませんでした。
「も、もちろん覚えてるよ。フランス語で一緒だもんね」
嘘っぽい口調はぬぐえない。彼女は目を細めて疑いの表情を浮かべる。
眠気の飛んだ頭で少し理解ができた授業が終わった。すると細川さんが両手を合わせて、ノートを一日貸してほしいという。彼女の学科の必修科目だから、単位を落とせないそうだ。
俺は心地よく渡した。実のところ(ノートの写メとればいんじゃね)と思ったが、明日も会いたいので黙っておいた。「ああ、構わない」と気取った口調で返す。後でSNSに「キモッ」とか書かれないといいな。
そういう訳で、俺は授業が終わるとスキップして帰路についた。陰キャな、妖怪吸いよせ系男子はとてつもなくチョロいのだ。友達が一人できて、キャンパスライフに暖かい陽がさしてきたように思う。授業が百分と長くても──まあいいや。
3
マンションの家に着くと、なぜか扉が開いていた。確かに鍵をかけたはずだがおかしい。そう思いながら、靴を脱いで洗面台で手洗いして部屋に入る。
『おかえり~』
朗らかな声が静かな室内に響いた。昨夜、聞いた声だ。ローテーブルに日本人形が鎮座していた。
「嘘だろーっ。持ち主のもとに帰るんじゃないの。えっ、俺が新しい持ち主と認識されたってこと? 捨てても戻ってくる場所が俺の家になったのか。いや、そもそもどうやって鍵を開けたんだよ。呪いより怖いよ」
『いやあ、気が変わりまして。命を助けてもらったから、恩返しをしようと思って。このまま何もせずに帰ったら、人形がすたると思うんだよね』
「……結構です。速やかにお帰りください」
『NO! ワタシ帰りません。恩返すマデ』
「急に片言しか喋れないタイプの怪異になるな。胡麻化そうとしてるじゃん」
俺は眉間にしわを寄せる。経験上、妖怪と人間は感覚が違いすぎて共存できないから。しかし、大学生活に希望の光が差し始めた日だった。俺は思考停止になるほど、機嫌が良かった。
「まあ……いいか。人形だから光熱水費はかからんし、エンゲル係数があがるわけでもなし」
経済学部の学生らしい理由で快諾した。「でも恩返ししたら、さっさと帰ってね」と言い添えて。人形は目をぱちくりとさせる。
『あらら、もっとごねると思ったのに。何かいいことでもあったの?』
「やだなあー。そうか、分かっちゃうかあ。聞きたい?」
『なんかムカつくから、聞きたくないけど。喋りたいんでしょ。話しなさいよ』
そう言われて、俺は大学で初めての友人ができた話をする。菊乃さんも妖怪とはいえ女性なので、シャイな自分としてはやりづらいはずなのだが、滑らかに口が回る。不思議なものだ。
『ふーん。そんな可愛らしい女子大生が、君に話しかけてくれたんだ。妖怪吸いよせ系男子だから、トイレの花子さんか何かが外出しただけじゃないの。その子のツラぁ、拝みたいもんだわねえ』
「この呪いの人形め。そんなわけないだろ。ちゃんと血の通った生身の人間だよっ。シトラス系の香水の匂いもしたし」
『あら、花子もいい匂いするのよ。トイレの芳香剤の香りだけどさ。けけけ』
口にガムテープ貼ってやろうかと思いつつも、腹が減ったので相手をやめる。「料理作るから」と言ってキッチンへ。冷蔵庫を開けると、菊乃さんが食材を聞いてきた。俺は「もやし、豆腐、卵、鶏肉とか」とぶっきらぼうに返す。
『よし。どうせ一人暮らしでろくなご飯作ってきていないんだろ。今日は健康にいい料理をレクチャーしてあげる』
「母ちゃんかよ」
『あんたにとったら、ひいばあちゃんくらいの年齢だけど、心は若いから姉ちゃんとお呼び』
「そりゃ、無理あるよ」
お互いに笑ってから、菊乃さんの言うとおりフライパンに胡麻油をしく。もやしを炒めて白米をのせる。じゅうじゅうと油がはぜる音がする。しばらくしたら醤油を入れて、卵を投入。よくかき混ぜて……まんべんなく熱が通ったらできあがり。
チャーハンの山をスプーンで崩すと、白い湯気がでてくる。口に入れると醤油の香ばしさが鼻を抜けた。「こりゃ、うまい」と呟く。
『そうだろ~。安い食材でも、ちょっとした手間をかければヘルシーで美味しい料理ってできるもんよ』
がつがつ食べ終わると、満腹になって大の字で寝転ぶ。『こら、食べてすぐ寝ると牛になるよ』と菊乃さんがお小言をいう。
俺は「やっぱり姉ちゃんじゃなくて、母ちゃんだな」と声をだして笑った。
*
学校の課題を終わらせ、ベッドに入って部屋のライトを消す。すると、菊乃さんが大正時代の恋バナをしだした。俺の大学初めての友人が女性だということで、火がついたらしい。どうせならTVの豆知識で得た現代恋愛を話してほしいのだが。百年前の恋愛事情についてのお話が続く。
「お見合いが普通だったのが、自由恋愛が始まって……」という壮大な序章が終わるころ、俺の瞼は重くなっていた。文通相手の手紙が情熱的に読みあげられるあたりで、その声がヒーリングミュージックに。しばらくして俺の意識は溶けて、夜に沈んでいった。
4
翌日の昼、俺は学生食堂にきた。細川さんから『お昼にノートを返す』とメッセージをもらったのだ。二百八十円の具なしカレーをお盆にのせて、人混みを見渡す。
白い長テーブルの端に彼女がいたのを見つけた。手を振られたので、振りかえしてそちらへ向かう。昼の陽光が細川さんの手のひらを照らしていた。
近づいて分かったのだが、彼女は他に女子二人と一緒だった。てっきり彼女一人きりだと思っていたので、俺は固まる。男子高出身者が複数の女子と談笑なんて、逆立ちで42.195キロを踏破するようなものである。つまり不可能だ。
かといって手にはお盆があるし、ノートも受け取らないといけない……と逡巡していると、細川さんが「まあ、座んなさいよ」と隣席をぽんと叩く。仕方なしにお盆をテーブル上に置いて座る。
「ありがとう。助かったよー」
彼女がノートと、お礼のチョコ菓子を渡してきた。それをカバンに入れて「うん」と一言だけ返す。友人二人はガールズグループの歌声やスタイルなどについて話し合っている。それに割り込んで細川さんが「この人松原聡くん、マクロ経済学の授業で一緒なんだよ」と紹介してくれた。頷いて挨拶する俺を一瞥して、「そうなんだあ」と白熱している話に戻っていく。その後は細川さんが時折、話を振ってくれるが女子たちを前に緊張して気の利いた話はできない。「そう」とか「うん」とかで話を切ってしまう。だって韓国のアイドルについてとか、コスメについてなんて欠片も知らないんだもの。ただ急いでカレーを食べる人間と化した。熱い辛い、熱い辛い。水、水。でもさっさとこの場を去りたい。
舌の感覚が麻痺を感じていると、隣にまた女子学生が座ってきた。いや和服を着ているし、学生じゃないのかも。
「こんにちはー。聡の姉です。私もこの大学に通っているの」
と一人っ子の俺の姉を語る人物は──朱色の着物がにあう菊乃さんだった。艶やかな黒髪のおかっぱを揺らして、爽やかな表情だ。
(そういえば、鶴の恩返しで、鶴は人間になったんだっけ。見事な化けっぷりだ)と俺は目をむいて、偽の姉を見る。
「松原くん、こんな綺麗なお姉さんいたんだあ。何年生なんですか?」
「大学院の二年よ。近代の経済史を専攻してるの」
細川さんの質問に間髪入れずに、でたらめを返す。そこからの会話の主導権は菊乃さんのものだった。TV鑑賞で培ったのであろう名司会者ぶりを発揮し、流行りの俳優、ゴシップ、食べ物、人生相談まで盛り上げる。時折、男性の意見も聞きたいねと、会話のボールを俺に回すことも忘れない。おかげで俺もすっかり細川さんたちと打ち解けて話すことができた。
陰キャの俺からしたら異種族と思われる、派手な女子大生も興味を持ってさまざま話してみれば、多少の共通点もあるものだ。
昼時間が終わって、皆がそれぞれの教室へ移動しようとすると、
「じゃ私は研究テーマの相談を教授にしにいかないといけないから」
そう言って、菊乃さんは颯爽と帰っていった。
「素敵なお姉さんだね。なんで和服姿なのか不思議だけと、着こなしが格好いい。まるでお人形さんみたい。またお話したいな」
食堂の出口で細川さんに手を振って別れる。次に、細川さんとまた会える講義が待ち遠しい。
*
その日の授業が終わり、足取り軽く俺はマンションに帰ってきた。玄関をあけて部屋に入り、すぐに声をあげる。
「菊乃さん、今日はどうもありがとう! おかげで友達が増えたよ」
だが俺の言葉は床に落ちていき、元気な返事はない。しんと室内は静まり返っている。左右に首を振って菊乃さんを探すが、どこにも見当たらない。彼女を拾うまでは日常だった環境が寂しく思える。
ローテーブルの上に置手紙があったので、拾い上げた。
松原聡 殿
お世話になりました。今日は細川さんと楽しくお喋りできましたね。百二十パーセント、私のおかげだと思っています。聡が楽しい大学生活を送れそうで、姉としては嬉しい限り。これであなたへの恩返しは終了しました。
この後は持ち主のもとへ帰り、復讐の炎を嬉々として燃やそうと思います。もうね、大炎上になると思うよ。ニュースを観ておいてください。姉の活躍が映ることでしょう。
とはいえ聡の霊感の強さは、生きていくうちで支障になることがあるかもしれません。でもあなたの精神のタフさは人間離れしています。きっと乗り越えて一生を送るでしょう。頑張ってね。
それではまた会う日まで。と言っても広い日本。現世で会うことはもうないだろうなあ。だから聡が死後の世界にきたら、また遊びましょうね。 姉より
「……何が姉ちゃんだよ、血は繋がっていないだろうが。しかも死後の世界って。縁起でもない」
俺は達筆な字で書かれた手紙を綺麗に折る。よく喋る日本人形の姿を思いだす。仲良くできる妖怪もいるのかも、なんて初めて思えた相手だったなあ。本当に帰っちゃったんだな……。
俺は折りたたんだ手紙を丁寧に小物入れにしまった。何故だか、目頭に熱さを感じながら。
〈 了 〉
高校の五十分授業ですら、魂が飛んで商店街の飯屋あたりを徘徊していた。それなのに、大学の超――長い授業は何なんだろうか?
「人が集中力を高く保てるのは十五分です。大学の教授が知らないんすか」
そうIQが高い教員の順に、片っ端から問いかけたい。だけど、彼らは「国の方針だから仕方ない」というだけだろう。または知的サディストなのかもしれない。自分が勉強好きだからといって、万人がそうだとは思うなよっ。
さらに、TVニュースで百五分の授業を行っている大学もあると聞き、世間には俺より恵まれない子がいるのかと衝撃だ。
そんな解決もしないことを、うだうだうだうだうだうだ考えるのは、今が六時限目を終えた帰り道だからだろう。(もう二十一時近いんですけど……)。スマホの画面を確認して、とぼとぼ歩く。外はすっかり暗くなって、スマホのブルーライトが目に眩しい。
最寄り駅からでて十分。マンションの入り口付近まできた。
ゴミステーションの前を通りすぎ……ようとしたら、女性のすすり泣きが耳に入った。ぐすぐすと悲しげだ。だが、入口や周囲をきょろきょろ見渡しても誰ひとりいない。声は次第に大きくなる。夜の闇を埋めていくように。耳を澄ませて方向をたどると、どうやらゴミステーションから聞こえていた。落ち込んだ会社員が「自分なんてゴミのような存在……」とかやけ酒を飲んで、なかに入り込んだのか。俺は銀の網目をのぞく。
街灯に照らされ、そこにいたのは小さな日本人形だった。顔がこちらに向いていたので目が合ってしまい、思わず「わっ」と声をあげてしまう。明かりをはじく艶のある黒髪で、前がそろえらえているおかっぱ頭。切れ長の瞳で、鼻筋が通っている。陶器のような白い肌をした女性で朱色の着物を着ていた。
見たところ立派な市松人形だ。泣いているという点と、おでこに朱書きで文字の書かれたお札を貼られているという点をのぞけば。
『うわあ。360度、どの角度から見ても呪いの人形じゃん。髪が伸びてきたり、捨てても持ち主のところに帰ってくるやつだ……』
*
小学校の時に川で溺れて以来、俺には変なものが見える。溺死寸前だったからだろう。〝死〟に近づいたので、その世界の住人である幽霊や怪異が分かるようになったのだ。
しかも彼らは、存在を認識する人間に寄りたがる。始終身体が寒いので、温かい人肌が恋しいらしい。冬に日陰より日なたが好ましいように。そうして体温を奪ってポイッ、次の霊感のある人間へGOである。
昔話で、美人の幽霊に憑りつかれて衰弱するものが多くあるが、あれはこういった理由なのだ。
例えば毎日、学校帰りに白いワンピースをきたお姉さんを見るようになった。「綺麗な人だよな」と友人に言うが、彼は「えっ、そんな人見たことない」と言う。まあ、確かに二メートル四十センチはありそうな高身長だ。そんな人間いないだろう。俺は友達に変だと思われたくないので、口を閉ざした。お姉さんのことも知らぬふりをして帰宅する。
だがある日、このスタイルのいいお姉さんに手招きされたのだ。「家においでなさい。お菓子もあるから」と蠱惑的な瞳で見つめられると、「……うん」と口が勝手に動く。今まで存在を知らなかった細道を何本も通って、俺は庭の広い日本家屋についた。
「ここで一緒に遊びましょう。沢山のオモチャもあるわ」
お姉さんは口角を異様に吊りあげて笑う。
「……いや、観たいテレビ番組もあるし。そんな長居できないんだけど」
思っていた距離と違い、一時間は歩かされたことに俺は腹が立っていた。乱暴な言い方で返す。
「ちょっとの時間でいいから」
「どのくらい?」
「千年くらいかな」
「なんでやねん! そんな長生きできるかー。エルフじゃないんだから」
鋭い突っ込みをいれたが、お姉さんは冷めた目で返してきた。えっ、俺が滑ったみたいじゃん。そっちのボケがつまらないから滑ってんねんで。「君とはやってられへん」と吐き捨てて、脱兎のごとく逃げた。何故だか帰路はあっという間だったのを覚えている。歪んだ空間が解けたかのようだった。そして今思えば、あの怪異は本当に千年遊びたかったんだろうなあ。
このように怪異と人間の感性、感覚は相容れないものだ。仲良くしようとしても無駄である。
それに気がついた俺はその後のお化けたちを華麗にスルーしている。もしくは、有効利用するか。
最近だと、趣味の釣りだ。怪異がすり寄ってくる俺には、普通の魚ではなく人面魚がよくつれる。数時間川で粘って、鮎やイワナではなく六匹の人面魚がつれたこともある。それをクーラーボックスに入れる時の虚しさよ。おっさんをクーラーボックスという名の満員電車に詰め込んだようなものだ。やたら呪詛の言葉をはくので阿鼻叫喚となる。
『阿保、ボケ、カスぅ。尻の穴に手ぇ突っ込んで、奥歯をがたがた言わせたろか』
うるせえうるせえ。しかし、俺はこの怪異を有効利用するのだ。最近の食材の値上げは半端ない。魚だってドッキリ番組かと思うほど高値だ。だから人面魚を食べる。焼いてよし、煮てよし、刺身もよし。俺のおススメは煮て食べる調理法だ。砂糖と醬油、みりんでお酒もちょっと入れて。甘党だから砂糖多めで作る。
『殺す気かー。この△$×¥〇、Λ$×¥×めっ! しばきあげっぞ!』
鍋のなかで放送禁止用語を叫びながら、暴れまわる。鍋の蓋はしっかり持っていなければならないが、最終的には美味しい煮魚になってくれる。ご飯がすすむオカズだ。難点はまあ、たまに隣人が警察を呼ぶことだろうか。
*
さて、ゴミステーションの前で俺は考える。この呪いの人形をどうしよう。仲良くはできないとして、有効利用できるかな。いや、祟りが面倒くさそう。このままゴミ収集所に運ばれ、火葬されて成仏するのがベストかな。
腕組をして少し考える。そして結論として、【君子危うきに近寄らず】&【触らぬ神に祟りなし】の合わせ技となった。脳内の柔道審判が、『放っておく』の方に高々と右手をかかげたのだ。「ほかの人あたってね」とつぶやいて、踵を返す。
すると、人形が切々と俺に訴えかけてきた。
『そんなこと言わないでー。霊の声が聞こえる人なんてほぼいないんだからあ。君が去ったら、私はお陀仏だよ。助けてえ、かわいそうだと思って。何もしないからあ』
ガラスでできたドールアイが潤んでみえた。キラキラと涙を溜めているかのよう。なんだか、次第に気の毒になってきた。大学に適応できていない俺と、社会に不要とされた日本人形。似た者同士かもしれん。
『可愛がってくれていたおばあちゃんが亡くなったの。そうしたら今まで見舞いにも来なかった遺族が、私を高級品だからって引き取ってさあ。ムカつくから強烈に呪ったら、悪い奴には効果てきめんでね。風邪をひいたら長びいて、家が小火に。車に足の指を踏まれ、子供の受験も失敗。さながら不幸のデパート、けけけっ。……そうしたら、親族間をたらいまわしにされてね。とうとうお札を貼られて、こんなゴミ箱へ。やだやだ、まだ燃えたくないよう』
うーーーん、ギリ悪い奴じゃないのかな。俺は顎に手をあてて熟考する。
「……分かったよ。とりあえず俺の家に一泊しなよ。明日の燃えるゴミの回収を避けよう。それで翌日、持ち主のところに戻って、思うさま呪えばいいんじゃない? まあ、俺の知らん人やし」
そういってゴミステーションの扉をあけて、彼女を抱え上げた。
『ありがとう。私は日本人形の菊乃。あんた名前なんていうの?』
松原聡、と答える。怪異は『聡は私にとって、白馬の王子様だわ』と感謝を表明した。
「日本人形がなんで西洋風の言いかたなの。駕籠にのった殿様とかじゃないんだ」
『あら、人形なんて動けないからTVの映像や音くらいしか楽しみがないのよ。世の中の事は詳しいわよ』
五十センチくらいの日本人形を持つ、夜道の男子大学生の絵面はホラーである。俺は足早にマンションの入り口の扉を開いて、エレベーターへ。
菊乃さんと一緒に部屋へ入って思ったのは、彼女が少し汚れているということだ。蛍光灯の明かりの下でよく見ると、朱色の和服に埃があり艶のある黒髪もごわついていた。……おばあちゃん以外には本当に大事にされなかったらしい。
「ちょっと汚いし、身ぎれいにしようか」
『おま、言いかた! 女性には遠回しに言いなさいよ』
「ごめんごめん。自分、男子校出身でデリケートのない、草一つない荒地で生きてきたもんで。女子と話すことがなかったんだよ。友達が『灰色の青春なんてもんじゃない。これは──漆黒の闇だ』って言ってたんだから」
ローテーブルに人形を置き、スマホで検索する。日本人形 汚れの取り方、と。
そうして筆(小学校時代の書道で使ったやつ)で全身の埃を払い、髪の毛に優しく櫛をとおす。水で湿らせた綿棒で、軽くタッチして顔の汚れを取った。ガーゼでぬぐいもした。一時間程度かけた頃には、新品とは言わないがそれなりにはなった。
「あー、疲れた。俺も風呂入って寝るね」
と声掛けをして洗面所に向かう。菊乃さんの『ありがとう』という言葉を背に受けながら。
2
翌朝は人助けならぬ、人形助けをしたお陰か気持ちよく起きられた。「おはよう」とローテーブルの上の人形に声をかけて、洗面所まで行って顔を洗う。ワンデーのコンタクトを目につける。授業で使う教科書とノートPCを鞄に放りこんだ。
朝食として、からしを付けた納豆をご飯にかけて食べおえる。
「よし。じゃあ俺は大学に行ってくるから、菊さんは持ち主のところに帰りな」
そう言って彼女を持ち上げた。玄関をでたところに置いて「バイバイ。頑張って復讐してきてね」と一言いって、最寄り駅へ歩いていく。……おかしい。一言も言葉を喋らない。昨夜の出来事は幻想だったのだろうか。もしくは俺の神々しいまでの優しさに触れて、怨念が浄化されて成仏したのか。
大学に着いて二号館の大講堂へ。俺は長時間の授業にも辟易しているが、実のところ友達がいないのも悩みだった。高校と違ってクラス編成がない。付属校出身の人も多く、サークル勧誘は明るい雰囲気に入っていけず。隣席の子に話しかけられもしなかった。というか、周りはすでに友達の輪が完成しているような。
今日も一人でマクロ経済の授業を受ける。階段教室の奥の座席だ。ここならば教員も指名してこないし、孤独感も薄れる。消費者物価指数や通貨供給量などの飛びかう講義を、まるで般若心経のようだと思う。舟をこいで眠気に耐えていると、後部の扉が控えめな音をたてて開いた。視線を向けると、瞳の大きい女子が教室内をのぞいていた。忍び足で赤のフレアスカートを揺らしながら入ってきて、二つ隣の席に座る。
「いやあ、間に合わなかった。あと二十分で終わっちゃうね。バイトが長引いちゃって」
はあ、とため息をつき、こちらへ微笑む。三日月のように口角を上げて。俺は背後を振り向くが、誰もいない。どうやら俺に話しかけているようだった。
「ほら、フランス語の授業でパートナーになったじゃない。松原くんでしょ。細川です、細川」
ぐっと顔を近づけてくる。前髪を後ろにあげて束ねたヘアスタイルで、真ん丸なおでことキリッとした眉毛が彼女の快活さを表していた。
俺の脳内の細いシナプスに電流が流れる。
先週の第二外国語の授業で、会話の練習をした細川さんか。シモン先生が「じゃあ、教えた内容で隣の人と道案内の練習をして。サンジェルマン大通りの教会をガイドするのよ」と無茶ぶりしてきた時の。男子校出身者としては女子と話すのも久方ぶりで、ドギマギしたことを思いだす。あの時の俺はきょどって見えただろうなあ。顔を覚えるのが苦手ですみません。正直、照れちゃって直視できていませんでした。
「も、もちろん覚えてるよ。フランス語で一緒だもんね」
嘘っぽい口調はぬぐえない。彼女は目を細めて疑いの表情を浮かべる。
眠気の飛んだ頭で少し理解ができた授業が終わった。すると細川さんが両手を合わせて、ノートを一日貸してほしいという。彼女の学科の必修科目だから、単位を落とせないそうだ。
俺は心地よく渡した。実のところ(ノートの写メとればいんじゃね)と思ったが、明日も会いたいので黙っておいた。「ああ、構わない」と気取った口調で返す。後でSNSに「キモッ」とか書かれないといいな。
そういう訳で、俺は授業が終わるとスキップして帰路についた。陰キャな、妖怪吸いよせ系男子はとてつもなくチョロいのだ。友達が一人できて、キャンパスライフに暖かい陽がさしてきたように思う。授業が百分と長くても──まあいいや。
3
マンションの家に着くと、なぜか扉が開いていた。確かに鍵をかけたはずだがおかしい。そう思いながら、靴を脱いで洗面台で手洗いして部屋に入る。
『おかえり~』
朗らかな声が静かな室内に響いた。昨夜、聞いた声だ。ローテーブルに日本人形が鎮座していた。
「嘘だろーっ。持ち主のもとに帰るんじゃないの。えっ、俺が新しい持ち主と認識されたってこと? 捨てても戻ってくる場所が俺の家になったのか。いや、そもそもどうやって鍵を開けたんだよ。呪いより怖いよ」
『いやあ、気が変わりまして。命を助けてもらったから、恩返しをしようと思って。このまま何もせずに帰ったら、人形がすたると思うんだよね』
「……結構です。速やかにお帰りください」
『NO! ワタシ帰りません。恩返すマデ』
「急に片言しか喋れないタイプの怪異になるな。胡麻化そうとしてるじゃん」
俺は眉間にしわを寄せる。経験上、妖怪と人間は感覚が違いすぎて共存できないから。しかし、大学生活に希望の光が差し始めた日だった。俺は思考停止になるほど、機嫌が良かった。
「まあ……いいか。人形だから光熱水費はかからんし、エンゲル係数があがるわけでもなし」
経済学部の学生らしい理由で快諾した。「でも恩返ししたら、さっさと帰ってね」と言い添えて。人形は目をぱちくりとさせる。
『あらら、もっとごねると思ったのに。何かいいことでもあったの?』
「やだなあー。そうか、分かっちゃうかあ。聞きたい?」
『なんかムカつくから、聞きたくないけど。喋りたいんでしょ。話しなさいよ』
そう言われて、俺は大学で初めての友人ができた話をする。菊乃さんも妖怪とはいえ女性なので、シャイな自分としてはやりづらいはずなのだが、滑らかに口が回る。不思議なものだ。
『ふーん。そんな可愛らしい女子大生が、君に話しかけてくれたんだ。妖怪吸いよせ系男子だから、トイレの花子さんか何かが外出しただけじゃないの。その子のツラぁ、拝みたいもんだわねえ』
「この呪いの人形め。そんなわけないだろ。ちゃんと血の通った生身の人間だよっ。シトラス系の香水の匂いもしたし」
『あら、花子もいい匂いするのよ。トイレの芳香剤の香りだけどさ。けけけ』
口にガムテープ貼ってやろうかと思いつつも、腹が減ったので相手をやめる。「料理作るから」と言ってキッチンへ。冷蔵庫を開けると、菊乃さんが食材を聞いてきた。俺は「もやし、豆腐、卵、鶏肉とか」とぶっきらぼうに返す。
『よし。どうせ一人暮らしでろくなご飯作ってきていないんだろ。今日は健康にいい料理をレクチャーしてあげる』
「母ちゃんかよ」
『あんたにとったら、ひいばあちゃんくらいの年齢だけど、心は若いから姉ちゃんとお呼び』
「そりゃ、無理あるよ」
お互いに笑ってから、菊乃さんの言うとおりフライパンに胡麻油をしく。もやしを炒めて白米をのせる。じゅうじゅうと油がはぜる音がする。しばらくしたら醤油を入れて、卵を投入。よくかき混ぜて……まんべんなく熱が通ったらできあがり。
チャーハンの山をスプーンで崩すと、白い湯気がでてくる。口に入れると醤油の香ばしさが鼻を抜けた。「こりゃ、うまい」と呟く。
『そうだろ~。安い食材でも、ちょっとした手間をかければヘルシーで美味しい料理ってできるもんよ』
がつがつ食べ終わると、満腹になって大の字で寝転ぶ。『こら、食べてすぐ寝ると牛になるよ』と菊乃さんがお小言をいう。
俺は「やっぱり姉ちゃんじゃなくて、母ちゃんだな」と声をだして笑った。
*
学校の課題を終わらせ、ベッドに入って部屋のライトを消す。すると、菊乃さんが大正時代の恋バナをしだした。俺の大学初めての友人が女性だということで、火がついたらしい。どうせならTVの豆知識で得た現代恋愛を話してほしいのだが。百年前の恋愛事情についてのお話が続く。
「お見合いが普通だったのが、自由恋愛が始まって……」という壮大な序章が終わるころ、俺の瞼は重くなっていた。文通相手の手紙が情熱的に読みあげられるあたりで、その声がヒーリングミュージックに。しばらくして俺の意識は溶けて、夜に沈んでいった。
4
翌日の昼、俺は学生食堂にきた。細川さんから『お昼にノートを返す』とメッセージをもらったのだ。二百八十円の具なしカレーをお盆にのせて、人混みを見渡す。
白い長テーブルの端に彼女がいたのを見つけた。手を振られたので、振りかえしてそちらへ向かう。昼の陽光が細川さんの手のひらを照らしていた。
近づいて分かったのだが、彼女は他に女子二人と一緒だった。てっきり彼女一人きりだと思っていたので、俺は固まる。男子高出身者が複数の女子と談笑なんて、逆立ちで42.195キロを踏破するようなものである。つまり不可能だ。
かといって手にはお盆があるし、ノートも受け取らないといけない……と逡巡していると、細川さんが「まあ、座んなさいよ」と隣席をぽんと叩く。仕方なしにお盆をテーブル上に置いて座る。
「ありがとう。助かったよー」
彼女がノートと、お礼のチョコ菓子を渡してきた。それをカバンに入れて「うん」と一言だけ返す。友人二人はガールズグループの歌声やスタイルなどについて話し合っている。それに割り込んで細川さんが「この人松原聡くん、マクロ経済学の授業で一緒なんだよ」と紹介してくれた。頷いて挨拶する俺を一瞥して、「そうなんだあ」と白熱している話に戻っていく。その後は細川さんが時折、話を振ってくれるが女子たちを前に緊張して気の利いた話はできない。「そう」とか「うん」とかで話を切ってしまう。だって韓国のアイドルについてとか、コスメについてなんて欠片も知らないんだもの。ただ急いでカレーを食べる人間と化した。熱い辛い、熱い辛い。水、水。でもさっさとこの場を去りたい。
舌の感覚が麻痺を感じていると、隣にまた女子学生が座ってきた。いや和服を着ているし、学生じゃないのかも。
「こんにちはー。聡の姉です。私もこの大学に通っているの」
と一人っ子の俺の姉を語る人物は──朱色の着物がにあう菊乃さんだった。艶やかな黒髪のおかっぱを揺らして、爽やかな表情だ。
(そういえば、鶴の恩返しで、鶴は人間になったんだっけ。見事な化けっぷりだ)と俺は目をむいて、偽の姉を見る。
「松原くん、こんな綺麗なお姉さんいたんだあ。何年生なんですか?」
「大学院の二年よ。近代の経済史を専攻してるの」
細川さんの質問に間髪入れずに、でたらめを返す。そこからの会話の主導権は菊乃さんのものだった。TV鑑賞で培ったのであろう名司会者ぶりを発揮し、流行りの俳優、ゴシップ、食べ物、人生相談まで盛り上げる。時折、男性の意見も聞きたいねと、会話のボールを俺に回すことも忘れない。おかげで俺もすっかり細川さんたちと打ち解けて話すことができた。
陰キャの俺からしたら異種族と思われる、派手な女子大生も興味を持ってさまざま話してみれば、多少の共通点もあるものだ。
昼時間が終わって、皆がそれぞれの教室へ移動しようとすると、
「じゃ私は研究テーマの相談を教授にしにいかないといけないから」
そう言って、菊乃さんは颯爽と帰っていった。
「素敵なお姉さんだね。なんで和服姿なのか不思議だけと、着こなしが格好いい。まるでお人形さんみたい。またお話したいな」
食堂の出口で細川さんに手を振って別れる。次に、細川さんとまた会える講義が待ち遠しい。
*
その日の授業が終わり、足取り軽く俺はマンションに帰ってきた。玄関をあけて部屋に入り、すぐに声をあげる。
「菊乃さん、今日はどうもありがとう! おかげで友達が増えたよ」
だが俺の言葉は床に落ちていき、元気な返事はない。しんと室内は静まり返っている。左右に首を振って菊乃さんを探すが、どこにも見当たらない。彼女を拾うまでは日常だった環境が寂しく思える。
ローテーブルの上に置手紙があったので、拾い上げた。
松原聡 殿
お世話になりました。今日は細川さんと楽しくお喋りできましたね。百二十パーセント、私のおかげだと思っています。聡が楽しい大学生活を送れそうで、姉としては嬉しい限り。これであなたへの恩返しは終了しました。
この後は持ち主のもとへ帰り、復讐の炎を嬉々として燃やそうと思います。もうね、大炎上になると思うよ。ニュースを観ておいてください。姉の活躍が映ることでしょう。
とはいえ聡の霊感の強さは、生きていくうちで支障になることがあるかもしれません。でもあなたの精神のタフさは人間離れしています。きっと乗り越えて一生を送るでしょう。頑張ってね。
それではまた会う日まで。と言っても広い日本。現世で会うことはもうないだろうなあ。だから聡が死後の世界にきたら、また遊びましょうね。 姉より
「……何が姉ちゃんだよ、血は繋がっていないだろうが。しかも死後の世界って。縁起でもない」
俺は達筆な字で書かれた手紙を綺麗に折る。よく喋る日本人形の姿を思いだす。仲良くできる妖怪もいるのかも、なんて初めて思えた相手だったなあ。本当に帰っちゃったんだな……。
俺は折りたたんだ手紙を丁寧に小物入れにしまった。何故だか、目頭に熱さを感じながら。
〈 了 〉

