〜真昼の月と見慣れない制服〜

 1年後。俺も雫も19歳になった。18歳になったら結婚しようと決めていたが、就職活動などで1年延びてしまった。だが、もう今は俺も銀行員として働いているし、雫も読み聞かせのボランティアに励んでいる。2人で生活できている。あの手紙の内容が現実になるんだ。
 桜井家、ダイニング。俺は雫にある紙を差し出した。
「……雫、これ何か分かる?」
俺は雫に問いかけてみる。その紙には茶色い字で『婚姻届』と記載されていた。
「……なんて読むの?」
雫は答えるのを、躊躇っているのか。それとも、本当に読めないのか。読み方を問いかけてきた。俺は別の紙を用意して、婚姻の女偏を取った『昏因』を記した。そして
『昏の読み方、昏睡 因の読み方、原因』
と。ヒントも記した。
「これで分かる?」
俺は雫に渡した。
「昏は、昏睡(こんすい)……因は原因(げんいん)……昏因(こんいん)……昏因……婚姻……これって、婚姻届(こんいんとどけ)!?」
雫は読み方を理解した。
「わざと、知らないフリしたの?」
「いや……本当に分からなかった……」
雫は婚姻届の漢字を初めて知った。ドラマでもよく見るものだと思うのだが。
「これ……本物?」
「いや、いきなり本物に書くのハードルが高いから……ネットからコピーしたもので……練習を」
俺は苦虫を噛み潰したような表情になる。婚姻届に練習なんて必要ないかもしれないけど。けど、本番で緊張して自分の名前を書き間違えてまた新しいのをもらうよりかはマシだと思う。
「書いたよ……」
雫は妻になる人欄に自分の名前を書いた。俺は夫になる人欄に名前を書いた。
「住所どうする? 前住んでたところにする?」
俺は雫が追い出された部屋の住所にしようか聞くと、
「ここでいい……本籍もここで」
雫の提案で、住所も本籍もひだまり荘にした。両親の名前で、雫は躊躇っていた。雫は両親に会いたくないから。俺の両親の名前を見て、雫は呟いた。
「律さんの両親に会ってないかも……」
俺の父の名は、桜井剛(さくらいつよし)、母は(めぐみ)だ。
「結婚の挨拶も予定しているから!」
俺はスマホのカレンダーを雫に見せる。
「律さんの両親に認められるかな? 私は……」
「俺がちゃんと説明するから……安心して!」
俺がそう言うと、雫はコクっと頷く。俺と雫は婚姻届の記入練習を続けた。
 夜、寝室。
「やっぱりベッド狭くない?」
雫が呟く。
「やっぱりもう一個セミシングル買うか?」
「ダブルにしないの?」
雫が毛布を体に巻いて言う。
「置ける広さじゃないでしょ?」
俺の寝室は長方形だ。ダブルベッドを買ったら、部屋半分が埋まってしまう。
「セミダブルベッドもあるんだよ?」
雫が言う。
「貯金が溜まってから考えよう……雫もベッド選びを手伝って欲しい……」
俺がベッドに座って言うと、
「読み聞かせのボランティアに行く服装でいい?」
「それでしか、外を歩けないだろ?」
俺はスマホの画面を見る。あと数分で日付が変わる。
「今のベッドの長さ測ってから……決めよう」
俺は枕を床に置いて寝た。雫は相変わらず、寝る時はYシャツを着て寝ている。もう、寝起きで雫が肌をあらわにした姿でいても驚かなくなった。慣れは恐ろしいものだ。
 数日後、ホームセンター。俺と雫はセミダブルベッドを選びに来た。
「部屋のやつより、大きいやつしかないな……」
「セミシングルしかないの?」
「寝台はセミダブルにして、寝具をセミシングルにしよう……」
俺はスマホで自分のベッドの長さを記したメモ帳を見て、つぶやいた。寝具代だけで高かった。
「両親の結婚報告まであと何日?」
「明後日だな……」
俺も雫も不安だった。雫の服装でガミガミ何か言われたら言い返す勇気がない。俺は中学を卒業して以来、親に会ったことがない。夏休みは帰省するよう言い渡されたが、雫を匿うことになったから行けなかった。反抗期もない。だから、言い返す勇気がない。
「怖い……」
「俺も怖い……」
俺と雫はある意味恐怖に苛まれていた。
 2日後。いよいよ、今日両親に結婚報告をする日が来た。結婚報告は俺の住むひだまり荘じゃなくて、俺の実家で報告する。
「律さんの両親、優しい?」
「一応、優しいよ……」
俺は玄関を開けた。
 桜井家の実家、ダイニング。俺と雫は椅子に座って、緊張した面持ちで両親と向かい合う。雫は俺が選んだ少し大きい黒の前開きパーカーを着せている。
「あのさ、母さん、父さん……今日、大事な話があって来たんだ」
俺はポツポツと話した。両親が(いぶか)しげな表情で顔を見合わせた。
「なんだい、改まって……まさか、また金の話じゃないだろうね」
父の剛が言った。俺は高校在学中に金を要求した覚えはない。一応、メールでは話があるって付けたから。俺は首を横に振った。
「違う! 俺の恋人だ……雫と、結婚する」
俺は雫に手を差し出して、言った。両親は一瞬で血の気が引いた。しばらく、沈黙が続いた。すると
「……何を言っているの、律? 冗談はやめなさい……高校を卒業したばかりで、まともに仕事にも就いていないのに、何を考えているの! それに……」
母、恵の視線が、雫の不自然なパーカー姿に釘付けになった。
「その()、なんでそんな格好してるの?  外で遊んでいたの?」
母の言葉は、雫を傷つけないよう取り繕ってはいたが、その声には困惑と不信がにじんでいた。俺は、母が抱いた疑問を察して、母に向き直って言った。
「……この()、服が着れないんだ」
俺の言葉に、両親の顔から一瞬にして血の気が引いた。母の表情が、困惑から明らかに不安へと変わった。
「律……、雫さん、ごめんね。少し律と二人だけで話したいことがあるんだけど……」
母の言葉は、雫を傷つけないよう取り繕ってはいたが、その声には困惑と不信がにじんでいた。雫は俺の顔をちらりと見て、小さくうなずくと、静かに立ち上がり、別室へと向かった。その背中が、どこか小さく見えた。
雫の姿が見えなくなると、父は険しい顔で俺を睨んだ。
「律、お前はまだ19だろう! 高校も卒業したばかりで、まともに仕事に就いているわけでもないのに、何を考えているんだ! 雫さんを養っていけるのか?」
ーーバンッ!
父は、机を叩く。お茶の入ったコップがグワングワンと揺れる。母はテーブルに置かれた手を固く握りしめ、震える声で言った。
「……律、お母さんは心配なの! その()、服が着られないんでしょう? この先の人生で、どれだけ大変なことが待っているか、あなたは本当に分かっているの?」
俺は、これまでの穏やかな調子を変えず、しかし強い光を宿した目で両親を見据えた。
「分かってるよ! どんな苦労だってするさ! 俺はもう、子供じゃない! 自分で決めたことだ! 雫が抱える問題と、俺が雫を愛してることは、関係ない!」
俺の低い声には、今まで聞いたことのないような強い響きがあった。
「俺は、雫を一人にしない……あいつを一生守るって決めたんだ……それが俺の選んだ道だ!」
俺の言葉は、一言一言に、揺るぎない覚悟と、雫への深い愛情が込められている。その静かな、しかし強い意志の前に、両親は言葉を失い、ただ呆然と息子である俺を見つめるしかなかった。