〜真昼の月と見慣れない制服〜

 夜11時。雫を児童養護施設に預けて1時間が経った。今頃、雫は送迎車の中でビクビク震えているのだろうか。でも、仕方がないんだ。法律で俺は雫の監護者になれない。そして、匿うのも法律が許してくれない。児童養護施設が今の雫にとっては最善の安全で安心できる場所なんだ。けど、やはり、寂しさはある。こんな静かな時はいつぶりだろうか。何もない無音の時間。虚無の時間。物音一つもない。まるでカドベヤ。何もしない。何も考えていない。俺はいつの間にか寝てしまった。
 朝7時。目が覚めた。窓から差し込む朝日がいつもより弱く感じる。ベッドの横には誰もいない。そうだ。雫は今、児童養護施設にいるんだ。俺はベッドから降りて顔を洗い、朝食を作る。いつも通り、皿を2枚出す。
「そうだった……雫はいないか……」
俺は皿を1枚戻す。次はパンを2枚取り出す。また、雫のいないことを思い出し、1枚戻す。パンをトースターで焼いている途中にウインナーと卵焼きを作る。卵を2個取り出して、雫がいないことを思い出し、1個しまう。ウインナーも6本取り出し、雫がいないことを思い出し、3本しまう。朝食を作り、ダイニングテーブルに並べる。牛乳とカフェオレを冷蔵庫から出して、ガラス製のコップを2つ用意する。雫がいないことを思い出し1つしまう。
「いただきます」
雫からの『いただきます』を聞かないと食事が進まない。食べ物を飲み込むのに数分かかった。食べ終わっても、食器を洗う気になれなかった。俺は牛乳とカフェオレをしまった。いつもなら雫が片付けてくれていた。俺はため息をつく。幸せが逃げたような倦怠感が出てきた。学校に行く支度をした。
「行ってきます」
雫からの『行ってらっしゃい』がない。俺は登校した。
 緑ヶ丘総合高校1年次クラス。俺は暗いオーラを放って指定席についた。
「律! おはよう!」
「……」
翔太が返事をするが、俺は応答しない。今元気(これが翔太の普通)な翔太に返事する気力がない。授業が始まっても何一つ頭に入らない。まだ暑い夏だが、夏休みは終わった。セミの鳴き声が聞こえない。ペンを走らす音と先生が説明している声しか聞こえない。虚無を感じる。
 午後5時。俺は下校する。死んだ魚の目で下校する。なんでこんなに虚無なんだ。雫がいないからか。家に帰ったらテレビでも点けよう。なんか音があれば少しは寂しさも無くなるはずだ。
 ひだまり荘、桜井家。俺は家に帰ってテレビを点ける。だが、民放はすべてニュースしかしていなかった。教育テレビを見ても、面白くない。俺はソファに寝転がる。なんか落ち着かない。けど、動く気になれない。雫の『おかえり』がないんじゃ『ただいま』を言う気すらならない。テレビの音を聞いたら逆に気分が悪くなった。俺はテレビを消す。
「麦茶でも飲むか……」
俺は冷蔵庫から麦茶を出す。机にはカフェオレ(牛乳割)で残ったコップが置いてあった。食器を洗う気がないからこのままだ。俺はコップの中身を水だけで流して、コップと麦茶を入れて一口飲む。味が無い水道水を飲んでいるみたいだ。
「今日も8時からバイトか……」
俺は課題をやる気がない。バイトに行く気もない。雫がいない部屋。静かな空間。無音、虚無。そんな言葉しかない。
 夜8時。ひだまり荘前のコンビニエンスストア。
ーーピッ! ピッ!
俺は今、客の買った商品のバーコードをスキャンしている。
「早くしろよ!」
客が俺にクレームをつける。俺はそんな言葉なんて耳に届いていない。すると
ーーピッピッ!
同じ商品を2回スキャンしてしまった。
「おいお前! 同じ商品2回スキャンしたろ! 戻れ!」
エリアマネージャーに怒られた。俺はレジから去った。
 店員の休憩室。
「おい律……お前、今日なんか変だぞ?」
「……」
俺は何も言う気がない。
「なんかあったのか?」
エリアマネージャーが死んだ魚の目をした俺に言う。
「おい、聞こえてるのか?」
エリアマネージャーが俺の目の前で手を上下に動かしたり、両手で叩いて大きな音を鳴らすが、反応もない。
「疲れてるなら帰って休んで来い」
エリアマネージャーは、俺が疲れていると判断した。俺はロッカーから、封筒を取り出した。バイトを辞める辞表みたいなものを置いて去った。エリアマネージャーは驚いていた。
 夜9時半。帰ってきた部屋は暗く静かだった。雫が電気を点けて待っていたのに。でも、もうここに雫はいない。雫は児童養護施設の個室で何を思っているだろうか。俺の写真抱いて泣いているだろうか。俺の心配しているだろうか。そんな思考しか頭に浮かばない。頭の中は雫の心配で一杯だ。
 律の寝室。俺は着替えることもなくベッドに横たわる。半分空けている。雫はいないのに。ベッドのもう半分に手を置く。まだ温もりがある。まだ雫の体温が残っている。この温もりは消えないようにしないといけない。でも、もう数日経てば消えてしまう。また虚無感が俺を襲う。何も考えていない。やることが見いだせない。俺は今まで何をしていた。楽しそうに過ごした日々が突然楽しくなくなった。楽しかった存在がなくなった。それは、誰だった。答えはたった1つ。雫だ。俺のあの日々が楽しいと感じたのは雫という刺激があったから。雫のために俺は最善を尽くした。自分の体なんて二の次で雫に、衣食住を与えた。心身症を患ってはいたけど俺のYシャツだけは、症状は出ない。3食食べていた。俺の部屋だけど半ば安心して暮らせていた。俺の楽しさの糧になったのは雫という存在だったんだ。俺はベッドから落ちた。そして月明かりの照らす窓に手だけで移動する。窓の外を見る。車が1台も走っていない。すると、自然と目から涙が出た。その涙は突然の大雨の予兆みたいにまた1粒また1粒と出てきて、大雨の本降りみたいに俺は大泣きしてしまった。
「うわあぁぁぁぁー!」
もはや、どう表現したら良いのか分からない。うまく言葉にできない。ただ、今泣いているのは、今ここに雫がいないこと。ただそれだけだ。何か一つが欠けている。パズルの残り1つのパーツがない。それは雫。俺の人生のパーツ。俺の人生楽しかったのは雫がいたから。たったの数ヶ月は俺にとっては長い数ヶ月だ。雫のいない人生なんて考えられない。俺は何も音のしない部屋で存分に泣いた。泣いて泣いて泣きじゃくった。体の水分が全部涙となって出ていった。