八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜




「いいお湯だった」

私も温泉に浸かって、汗を思いっきり排出した。
お風呂上がりの朝倉くんが部屋に入ってきた時、どうしても自分の情けない顔を見られたくなかった。すれ違うように部屋を出て、風呂に来たのだ。
だけど、肩までゆっくりと浸かっていたら、気持ちがほぐれた。
風呂上がりに鏡を覗き込めば、そこには柔和な表情の私がいた。
ミネラルウォーターを一気に半分ほど飲む。
「ふー」
気持ちいいため息が漏れた。

(どんな状況だって、楽しんだほうが精神衛生にはいいわよね)

一人、くすりと笑い、飲み残しの水を飲み干した。


気分を戻した私は、鼻歌混じりで部屋に戻った。
扉のドアノブに手をかけて、一瞬、止まる。
朝倉くんを意識したからだ。
手を引いて、胸に手を当てた。

(私は鉄の女よ。誘惑されても上手にいなすのが、年上女ってもの)

大丈夫。心臓も平穏だ。
私は気持ちよくドアノブを引いた。

「いいお湯だったわ」

にこやかに、余裕のある女性を演出しながら部屋に入る。
目に飛び込んできたのは、境界線を無視してベッドの中央に寝そべる朝倉くんだった。

無造作なナチュラルヘアに浴衣姿。
濡れた髪が額に少しかかり、いつもきっちり整えられている会社での姿とは、まるで別人だった。
浴衣の襟元から覗く首筋。
長い脚を投げ出して、気の抜けたように横たわる姿。

本人にはまるでその自覚がない。
無料でフェロモンを大放出。

私は咄嗟に直視を避けた。

(ず、ずるい。その姿……)

「浴衣があって助かりました。危なく、裸でベッドにもぐりこむところでした」

さらりと言ってのける。
朝倉くんは普段通りの会話なのに、私は妙に返事がしづらかった。

「……そ、そうだね」

私は彼の前をすっと横切って、奥にある備え付けのミネラルウォーターを開けて飲んだ。
喉は乾いていない。
だけど、手持ち無沙汰なのが嫌だった。

背中に視線を感じる。
振り返る勇気はない。
やがて、朝倉くんが小さく息を吐いた。

「……瞳子さん」

その声だけで、なぜか背筋が伸びた。
彼はじっと私を見ていたけど、やがてゴロンと仰向けになった。

一気に無音になり、私は気まずくなってしまう。
時計を見たら、二十一時を回っていた。

(疲れているから、ベッドにダイブして眠ってしまいたい)

ちらりと横目でベッドを見る。
ベッドの中央を陣取る朝倉くんに、「そこ空けて」と言う勇気がなくて、仕方なくスツールに座り、外の景色を見ていた。

「瞳子さん」
「は、はい⁉」

動揺で私の肩が揺れる。
振り向くと、朝倉くんが立っていた。
いつの間に起き上がったのだろう。

浴衣姿のまま、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
その歩き方に焦りはない。
なのに、一歩近づかれるたび、私の鼓動だけが勝手に速くなっていく。

「な、何?」

すうっと朝倉くんの手が、私に伸びてくる。
長い指が視界に入った瞬間、身体が勝手に反応した。
もう少しで髪に触れるというところで、私はぐっと身を固くした。

「ふ、触れちゃ、ダメ!」

彼の手が宙で止まった。

「……何でですか?」

静かで低い声。
さっきまでの柔らかな笑顔とは違う、その声に妙な色気が混じっている。
私は彼を見ることができない。

「手は出さない約束だったわよね?」

恥ずかしいくらい、身体をカチコチにしていた。
彼の口から小さな息が漏れた。

「安心してください。何もしません」

その言葉とは裏腹に、その手が再び私へと伸びて──私の髪に触れた。

(あっ)

目をぎゅっとつぶってしまう。

だけど、しゅるっと絡まっていた髪の毛が解けた。

「部屋に入ってきた時から、髪の絡まりが気になっていて」

私は、はっと目を開けて彼を見上げる。

「あっ……なるほど」

間抜けな勘違いに、目も当てられない。
身体中が恥ずかしさで熱くなる。

朝倉くんはそんな私を見て、ほんの少し口元を緩めた。

「これくらいは、いいですよね」
「そうね」

「瞳子さんは、身持ちが硬いですね」

私はつい、ムッとした表情になる。

「雰囲気だけで、男女の関係を持つのは、私は嫌いなの」

鉄の女と言われようと、自分の信念を曲げてまでセックスはしたくないだけだ。

「気を悪くしないでください。僕、瞳子さんのそういうところ、尊敬しているんです」

そう言って、朝倉くんまで隣のスツールに腰を下ろしてきた。
思ったより近い。肩が触れるほどではない。
でも、少し動けば触れてしまいそうな距離だった。

私は膝が当たらないように、そっとずらす。

「……あ、ありがとう」

彼はしばらく顎に手を当てていた。
横顔を見れば、濡れた髪はまだ完全には乾いていない。
そのせいなのか、いつもより大人びて見える。

「男と女というものは、好きでもないのに……雰囲気でそうなることもあるんですか?」

思わず、私は目を瞬かせた。

(朝倉くん、揶揄っているの?)

「そんなの、よく聞く話でしょう」

朝倉くんが真面目な顔で、私をじっと見据えてくる。
その視線から逃げられない。

(もしかして、勘違いされている?)

私は盛大に手を振った。

「私はないわよ。そんな軽率なこと!」

彼は手を膝に置き、しんみりと言う。

「もちろん、信じています。ただ、世の中には、夜に男女でいると愛情がなくとも性欲を満たそうとする人もいるんですね」

わからないふりをしているようには見えなかった。
でも私は、怪訝な目で彼を見る。

(朝倉くんだって、そんな機会、一度や二度あったでしょうに)

もしかしたら、彼は常に愛に満たされていたのかもしれない。

急に胸が冷たくなった。

(私を追いかけなくたって、彼には他にたくさんいるもの)

少しだけ自虐気味に笑ってしまった。

ふと、静かに座る彼に視線を移す。
真面目な顔で私を見つめている。

「瞳子さんの信頼を裏切ることはしません」

ちらりと私の手に視線を落とす。

「正直、僕は瞳子さんが好きですから、触れたいです」

その言葉には、冗談めいた軽さがなかった。
拗ねるような、自制するような切なさが伝わる。

私の胸が締め付けられる。

「でも、僕から絶対に瞳子さんへ手は出さない。約束しましたから」

潤んだ瞳で見つめられると、彼に絡め取られそうだった。
思わず、目をそっと逸らしてしまった。

二人の間に、重い沈黙が流れる。

(こんな状況、私だって初めてだし)

その時、朝倉くんがすっと立ち上がった。
そして、眉を下げて私に小さく笑う。

「二人とも、眠れそうもないですね。お酒をもらいに行きましょう」

ここは小さなペンションだが、一階の奥の部屋には、オーナーの趣味で作られた小さなカウンターバーがあった。

「声をかければ、お酒を作ってくれるそうですよ」

そうか。お酒を飲んで二人で寝てしまえばいい。
私は記憶をなくすような飲み方はしない。

『酔った勢いで致した』にはならない自信があった。

「では、そうしましょうか」

私も二つ返事で賛成した。