八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜




「クズは病気です。また繰り返します」

朝倉くんの声が一段と低くなった。

「朝倉は黙ってろっ!」

龍彦が怒鳴った。

「瞳子は一度の浮気で俺を見捨てるような女じゃないんだ!」

そして私の顔を覗き込む。

「そうだよな、瞳子?」

その顔が、私の知っている龍彦とは別人に見えた。
私は何も言えずに立ち尽くす。

そのとき、朝倉くんが大きく息を吐いた。そして、なぜか野々宮さんに声をかけた。

「野々宮さん。雨森さんは別れないってよ?」

「わ、私がおばさんに負けるわけないでしょう!」

怒りで真っ赤になる野々宮さん。

朝倉くんは、そんな彼女を冷ややかな目で見つめた。

「野々宮さん、可哀想。とんだ当て馬だったね!」

「ふ、ふざけないでよっ!」

プライドを踏みにじられた野々宮さんの怒りが、一気に頂点へ達した。
パンプスを鳴らしながら龍彦に詰め寄る。

「この私を振って、おばさんを選ぶなんて許さない! コンプライアンス室にセクハラで訴えるわよ!」

そう叫び、龍彦の厚い胸板を何度も叩いた。

「それだけはやめてくれっ! 一発で俺の出世が消える!」

「だったら、どうするのよ!」

「綾香、どうにかするから! 少しだけ待ってくれっ!」

その光景を見て、私は呆然としてしまった。
龍彦は、こんなにもだらしなく、どうしようもない人間だったんだ。

なぜ私は、ずっと目を逸らし続けていたのだろう。

自分が育てれば、立派な人間になると思っていたのだろうか。

胸の奥が空っぽになっていく。
私は鼻をすすりながら、顔を上げた。

「龍彦、どれだけバカなのよ……!」

涙が頬を伝っていく。

「こんな若い子に手を出して、どう責任を取るつもりなの?」

「瞳子……」

龍彦が情けない顔で私を見る。

「訴えられたら俺は終わる。三月の異動も消えてしまう。どうか最後のお願いで、大人しく俺と別れてくれないか?」

「……は?」

一瞬、意味が理解できなかった。

浮気したのは、龍彦。
謝るべきなのも、龍彦。

なのに──

「あなたが、私を……振るの?」

手を合わせて、何度も頷かれた。
この顔を作ればって表情で!

あまりにも自己中心的すぎる!

私への謝罪もない。
自分の出世の心配ばっかり。

「冗談じゃないわよっ!」

怒りで血が沸騰しそうだった。

罵倒したい。
裁きたい!

けれど、そんな男のために私の大切なエネルギーを使うなんて、もったいない。

これ以上、私の時間を奪われたくない!

私は龍彦を真っ直ぐ見据えた。

「こっちから願い下げよ! もう二度と顔を見せないで!」

「仕事ならいいよな、な?」

最後まで、自分の利益につながるものは姑息に残そうとする。
龍彦の器は、こんなにも小さかったのだ。

せめて最後くらい、男としてのプライドを見せてほしかった。

「バカ、バカ、バカッ! 職場でも声をかけないで!」

私はそう言い捨てると、駅へ向かって歩き出した。
こんな場所に、一秒たりとも長居したくなかった。

その背後から、朝倉くんの声が聞こえる。

「今後、瞳子さんに近づいたら、僕が許しません」

私は振り返らなかった。

ただ、足を止めずに歩き続けた。



繁華街は、こんな時間でも人で溢れている。

これだけ人通りが多ければ、涙でぐちゃぐちゃになった顔を見られても、きっと誰も気にしない。

むしろ、この場所で大声を上げて泣いてしまいたい。
それくらい、胸が苦しかった。

(辛い……辛いよっ)

正面から歩いてきた人とぶつかりそうになった、そのときだった。

腕を掴まれた。

「えっ?」

そのまま、路地へ連れ込まれる。

もちろん、朝倉くんだった。

「瞳子さん」

「朝倉……くん?」

私の顔を見た彼が、静かに言った。

「遠慮せず、泣いてください」

「……え?」

「僕はいまから電柱になります」

「電柱……?」

「はい。何も見えないし、何も聞こえない、無機質な電柱です」

思わず、涙で濡れた目を瞬かせた。

「……何、それ」

「安心してください。電柱は瞳子さんが泣いている姿を、誰にも見せないためにありますから」

そう言って、朝倉くんは上質なウールのコートを広げた。

そして私ごと、ふわりと包み込む。

ウッディノートの香水が鼻先をくすぐった。

妙な安心感があった。

彼の体温が、冷え切った心に少しずつ熱を分けてくれる。

(……この人は、男なんだ)

初めて、はっきりと朝倉くんを異性として意識した瞬間だった。

(男性に……こんなに優しくしてもらったの、初めてだ)

今まで、誰かを守ることばかり考えていた。

弟のため。
家族のため。
恋人のため。

自分がしっかりしなければ。
自分が我慢すれば。

そう思って、泣くことさえ後回しにしてきた。

けれど今は──。

もう、頑張って崩れないように力んでいることすらできなかった。
朝倉くんのシャツを、ほんの少しだけ握る。

「こ、こんなことをされたら……」

声が震えた。

「泣きたいだけ泣かせてもらおうって、素直に思ってしまうじゃない……」

「はい」

朝倉くんの返事は、とても優しかった。

「遠慮、しないでください」

その言葉に、とうとう堪えていたものが溢れ出した。

「遠慮っ……しないでっ……泣くからっ」

彼が、そっと私を抱きしめる。

温かい。

その腕の中で、私の心が少しずつ絆されていくのがわかった。

今はただの女でいさせて。

額を彼の胸元に当てた。
ぬくもりが優しくて、悔しさや寂しさのドロドロが溶けていくようだった。


牧野瞳子、二十九歳。

本日、部下を叱りに行ったら──浮気した彼氏と別れることになりました。