八年越しの初恋、回収します。〜私のトリコになった部下に、八年前から溺愛されています〜




居室に戻ると、すでに終業時間が迫っていた。

「もう、こんな時間だったのね」

資料室に籠もっていたせいで、時間の感覚がすっかりなくなっていた。
デスクに着くと、朝倉くんはさっそく今回の案件について資料を提示してくれた。

「今回の案件は、お客様からお声がけをいただきまして……」
「お客様から?」
「はい。以前、僕が担当したお客様からのご紹介で――」

そのとき、朝倉くんのスマホが鳴った。
着信画面を確認した彼が、私を見る。
顧客からの電話だとわかったので、私は「電話に出て」と目で合図を送った。

「はい……ああ、黒川さんですね。どうなさいましたか?」

朝倉くんは私に背を向け、電話に出た。
その間、私は目の前の資料に視線を落とす。
数字を追いながら、思わず感心してしまう。

(確かに……これは大きな案件になりそうね)

顧客情報も、取引内容も、細かく整理されている。
新人とは思えないほど、資料の作り方も手慣れていた。
しばらくして、通話を終えた朝倉くんが振り返った。

「瞳子さん、すみません」
「ううん。顧客からなら仕方ないわ」
「今から仕事で外に出ます。とりあえず、この資料に目を通していただければ顧客情報は掴めますので。詳細はまた明日にお話しします」
「わかったわ。確認しておくわね」
「ありがとうございます」

朝倉くんが嬉しそうに笑った。
きっと、また優良案件なのだろう。
彼にとってはこういう仕事も日常のことなのかもしれない。
私はそれほど気に留めることもなく、資料を閉じた。

「気をつけてね」
「はい。では、行ってきます」
「いってらっしゃい」

朝倉くんは軽く頭を下げると、足取りも軽く居室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は資料にもう一度目を落とした。

(本当に、仕事ができるのね……)

そんな感想を抱いただけだった。



「牧野さん、まだ帰らないんですか?」
声をかけられて顔を上げると、水谷くんがコートを羽織りながら立っていた。
「あら、水谷くん。もう帰るの?」
「はい。今日はもう上がろうかなと。牧野さんも遅くまで大変ですね」
時計を見る。
すでに二十時を回っていた。

「残務を整理したら帰るわ。先に上がっていいわよ」
「はい。お疲れさまでした」
「お疲れさま」

水谷くんを見送ったあと、私は残っていたメールの最終チェックを始めた。
一通ずつ内容を確認し、必要なものには返信をする。
ようやくすべてを終え、パソコンの電源を落とした。

「ふう……」

背もたれに身体を預けた、そのときだった。
スマホが鳴った。
画面を見る。

「……朝倉くんだ」

こんな時間に何だろう。
もしかして、さっきの案件のことだろうか。

「もしもし。朝倉くん、どうしたの?」
「瞳子さん、こんな時間にすみません」
「ええ。それはいいけど……」

電話の向こうから聞こえる声は、いつもより少し弱々しい。

「仕事は無事に終了したのですが……」
「何かあったの?」

心臓が、どきりと脈打つ。
まさか、仕事で何かトラブルがあったのだろうか。

「実は……」

朝倉くんが、少し間を置いた。

「瞳子さんに打たれた脛の痛みがひどくて、動けなくなりました」

「…………」

「迎えに来てもらえますか?」

ふっと、心臓が平常に戻った。

「…………なぜ?」

思わず、低い声が出てしまった。

「足が痛いからです」
「それは聞いたわ」

さっきまで仕事のトラブルを心配していた自分が、なんだか馬鹿らしくなってくる。

「でも、朝倉くん。あなた、さっき普通に歩いて出ていったわよね?」
「はい」
「しかも、ずいぶん足取りが軽かったように見えたけど?」
「……そうでしたか?」
「そうでした」

私は即答した。
電話の向こうで、朝倉くんが黙る。

「……でも、痛みます」
「本当に?」
「はい」

少し間を置いて、彼が続けた。

「どうしても、来てほしいんです」

私はスマホを持つ手を変えた。
そして、一つ息をつく。

「……あのね、朝倉くん」
「はい」

「こういう手を使って、女性を呼び出すのはよくないわ。あなたらしくないわよ?」

「……」

「さっきのことなら、もう謝ったでしょう? それに、あなた自身も大したことはないって言っていたじゃない」

我ながら、もっともな言い分だと思う。
けれど朝倉くんは、少しも怯まなかった。

「僕と約束しましたよね」
「約束?」
「傷が痛んだら、瞳子さんが手当てをしてくれるって」
「……」

確かに言った……ような気もする。
だけど、あの場の流れで、つい口にしてしまった言葉だ。

「だから、来てくれると信じて待ちます」
「困るわ、朝倉くん……」
「瞳子さんは、僕を裏切りません」

呆れるほどの私への信頼感。
先ほど、手を握られても強く叱らなかった。
あのとき、うやむやに対応してしまった私にも責任があるのかもしれない。

(調子づかせちゃったのよね……)

私は小さく息を吐いた。

「……わかったわ。傷を見に行く」
「本当ですか?」
「ええ。でも、手当てをしたらすぐ帰るからね」
「はい」

「それで、今どこにいるの?」
「繁華街の道元坂です」
「道元坂……?」

聞き覚えのある地名に、嫌な予感がする。

「はい。痛くて、道端に座り込んでいます」
「…………」

私は思わず、おでこを抱えた。
道元坂──。
そこは、有名なラブホテル街だ。

(そんな場所に、この時間に、上司を呼び出すとは……)

なんて大胆不敵なの!
私は軽く見られているのだろうか。

いや、きっと本人に悪気はない。
でも、この傾向はよくない。
部下と上司の距離感として、明らかに一線を越えかけている。

私はぐっと顔を上げた。

「なら、今から行くから待っていなさい!」
「はいっ!」

電話の向こうから、途端に元気な声が返ってきた。

「……本当に痛いのかしら」
「痛いです!」

即答だった。

「わかったわよ。そこで大人しく待っていなさい」
「はい。瞳子さんを待っています」

私は電話を切った。
そしてコートを着込み、バッグを手に取る。

「まったく……」

小さく呟きながら、足早に職場を出た。
向かう先は、朝倉くんのいる道元坂。

もちろん今回は、彼を思いっきり叱るために。