透明な私にくれた色

 東京の景色と空は無機質で色がない。
 ビルが密集している都会はどこか冷たく、祖父母の家がある沖縄の青い海も心地よい風も幻のように思えた。
「今日からこのクラスでお世話になる一ノ瀬葉月です」
 何回この口から出ただろう、変わらない自己紹介。
 黒板の前に立つ私は、自分ではないと思うほど声はひどく冷めていた。
 クラス中から注がれる視線が痛いくらいに怖い。転校生という名に対する好奇心、無関心、意味不明な敵意。混ざり合った何とも言えない雰囲気。
 逃げ出すように指定された窓際の一番後ろに逃げ出すように急ぐ。
 休み時間になっても、前を向くことはできない。
 机に寝たフリをして、髪で視線を遮る。イヤホンから流れる推しの音楽を大音量で聞く。
 誰も寄ってこないように。
 一刻でも早く記憶から去るように。
 半年か一年も経てば、また親の都合でひっそりと姿を消す。
 だったら初日から透明人間的な存在の方がずっといい。
 放課後、窓の外はテレビの予報通り雨が降り注ぐ。
 校庭の地面を激しく叩く雨音が、イヤホンの音を掻き消していく。
 傘を忘れてしまい、昇降口でただ眺めるように立ち尽くしていた。
 ずぶ濡れでも良いから歩いて行こうかな。溶けいっても助けは来ないのだから。
「このまま帰る気か。コスパ最悪だと思うけど」
 背後から低くて、何かを手放すかのような切ない声。振り返ると下駄箱に背をつけた一人の男子生徒。
 アイドル並みの整ったかっこいい顔。彼は異常な速さで手元にある文庫を読んでいる。
「あの、どなたですか」
「桜沢碧、お前の斜め前の席。酷く濡れると低体温になる。分かるだろう。明日欠席すると遅れを戻すに時間が掛かる」
 彼は傘立てに置いてあるビニール傘を差し出した。
「でも桜沢くんは?」
「フード被るから。お前のイヤホンうるさすぎ」
 それだけ言うと、早足で雨の中へと走り去っていった。
 夢でも見たかと思っていると、後ろからまた足音がきこえてくる。
「碧に先越されちゃったか。あいつ態度はすげぇ悪いけど、困っている子を放っておけないやつなんだよ」
 稚い笑顔を浮かべて、私の顔を覗き込んだ。
「一ノ瀬さんだったよね?その傘明日返してあげて。碧なりの最初の挨拶だからさ。俺は朝野日向」
 手を振りながら校門へ歩いていく。
 手元にある、どこでもあるビニール傘。
 予期せぬ出会いと繋がりが物語を始めてしまった。
 妙に生温い匂いと空気がした。
 翌日。昨日とは見違えるほどに、橙色の夕焼けが校舎を照らしている。
 私は水滴が残らずに拭き取ったあの傘を持ち、校舎の1番奥にある図書室へ向かった。
 朝のホームルーム後に返そうと思ったけど、女子の視線が怖くて、近づいていいのか分からなかった。
 扉を開くと、大好きな本の匂いが漂う。
 思っていたより人がいて、自習や読書して、自由に過ごしている。
 辺りを見渡しているとカウンター越しから優しい声が聞こえてきた。
「はじめてましてだね。司書の野崎慎です。」
 眼鏡をかけた若いお兄さんが穏やかな笑顔で出迎えてくれた。
「はじめまして、桜沢くんに傘を返しに」
「彼はよく来ているよ。本当に本が大好きな子でね」
 その言葉に、(私も本好きなんです)と心で唱え、窓際の席へと向かった。
「桜沢くん」
 彼は相変わらず顔を上げずに本を読んでいる。
「適当に置いといて」
「昨日はありがとう」
「礼はいらない」
 傘を机横にかけようとした瞬間、手に持っていたスケッチブックから床に散らばってしまった。拾い上げようとすると、先に手を伸ばして拾う。
「綺麗な風景、海好きなのか」
 私が思い出を頼りに描いている風景画を見ながら、少しだけ顔を上げた
「俺の故郷を思い出す。海でも違う」
 目の奥がふっと柔らかくなった気がした。
「碧!」
 元気な声が響き渡り、もう一人の見慣れない女子と入ってくる。
「静かに。ここ図書室だよ」と野崎さんが優しく注意を促す。
「ごめんなさい。一ノ瀬さん?私、宮田流奈と言います。学級委員長なんだけど、配布物を渡すを忘れ、、、ってあれ、碧君とお話ししていたの?」
 流奈の明るさは、緊張していた気持ちを解きほぐしてくれる。
「昨日借りた傘を返しに」
「珍しいじゃん。傘貸したんだ」
 高いテンションで、目の前を見つめている。
「うるさい、集中できない」
 目線を落としながら本を読み進めているが、口元はかなり緩んでいた。
「もし良かったら、私がバイトしているまどか書房に遊びに来ない?碧と日向も来るんだよ。」
「えっと」
「急だったよね。無理はしなくて良いからね」
「ねぇ、一ノ瀬さん。本には人を繋ぐ縁や力がある。君にあった本もここに来れば処方してあげるよ」
 図書室の窓は、橙色の夕焼けに照らされている。
 東京の景色には似合わないだろうと想像してしまう。
 ここは暖かい雰囲気が漂っている気がした。
「じゃあ、明日遊びに行かせてもらうかな」
 小さな声でそう答えると、彼女は嬉しいそうな笑みを顔面全体に浮かべた。
 碧の本を捲る速度は、気がつけばゆっくりと遅くなっていた。
 私の世界はほんの僅かに色を塗られて始めている、そんな気がした。