彼は、私の前にそっとグラスを置いた。
「どうぞ」
淡い色のカクテル。名前は告げられなかった。
でも、不思議と聞こうとは思わなかった。
一口含むと、ほんのりとした甘さのあとに、静かな苦味が残る。
強くない。けれど、誤魔化しもない味。
「……おいしい」
それだけ言うと、彼は軽く頷いた。
「よかった」
それ以上、言葉は続かない。
でも沈黙が重くならない。
グラスを傾けるたび、店の音が少しずつ近づいてくる。
氷の音、グラスの触れ合う音、遠くで流れるジャズ。
「お仕事帰りですか」
不意に、彼がそう聞いた。
「……はい。結婚式場で働いてます」
「じゃあ、今日は“祝福する側”ですね」
胸の奥が、少しだけ揺れた。
「そう、ですね」
それ以上は話さなかった。
彼も、それ以上は聞かなかった。
気づけば、グラスは空になっていた。
底に残った氷が、からん、と小さく音を立てた。
もう一杯頼む理由も、帰らない理由も、特にない。
それでも、席を立つのが惜しくて、私は無意識にバッグの中を探っていた。
指先に、柔らかい感触。
取り出したのは、白いハンカチだった。
「……それ」
彼の声は、控えめだった。
