念を押すような言い方。
「……はい」
ひかりも、自分の名刺を出す。
慣れた動作。
でも、渡す指先は、ほんの少しだけ慎重だった。
彼は受け取り、名前を見る。
「神崎ひかりさん」
初めて、フルネームで呼ばれた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
それは、完全に仕事の挨拶だった。
なのに。
名刺をしまうとき、
胸の奥に、小さな音がした。
区切りがついた音。
同時に、
戻れない場所が、ひとつ増えた気もした。
グラスの中身が、ゆっくり減っていく。
今日は、二杯目は頼まなかった。
「当日、よろしくお願いします」
席を立つと、彼が言う。
「はい。
……無理はしないで」
前にも聞いた言葉。
でも今日は、
仕事の合間に落とされたみたいで。
「ありがとうございます」
扉を開ける前、
ひかりは一度だけ、名刺の感触を確かめた。
これは、仕事。
そう思えるうちは、
きっと大丈夫。
夜の空気は、静かで、冷たくて。
それでも、
胸の奥には、はっきりとした灯りが残っていた。
