夏帆は逸る気持ちを抑えながら帰宅した。玄関に入るとすでにいい匂いが漂っていた。
(この匂い……洋食だ)
リビングの扉を開けると、奥に見えるキッチンに成瀬が立っているのが見えた。
「夏帆さん。おかえりなさい」
「ただいまかえりました」
成瀬からそんな挨拶が聞けるだけでも幸せを感じてしまう。バックを置いて手を洗い迷わずキッチンへと向かった。夏帆はエプロンに手をかけ「手伝います」と成瀬に声をかけた。「ありがとうございます」と成瀬もすっとスペースを開けてくれた。
「今日はアクアパッツァに挑戦ですよ」
「それ、私も好きですっ」
「よかった。以前、夏帆さんが作ってくれたそいの塩焼きが美味しくて。それを使ってみたくなって」
「白身魚だからきっと合いますね!」
思わず夏帆の声も弾んでしまう。
鍋にはすでに火がかかっていた。台の上にはそい、ムール貝、ミニトマト、ブラックオリーブなどの食材が並んでいた。そしてその横には見慣れなお香草がいくつかあった。
「これ、なんですか」
夏帆は思わず覗き込んでしまう。
「イタリアンパセリ、ローズマリー、タイムです。実家のプランターに咲いていたなって懐かしくなりましたよ」
そういう成瀬の顔は柔らかい笑顔。きっと料理上手で優しい母親だったのだろうと簡単に想像できた。
「香りもいいですね。このまま使うの?」
「少し刻みましょうか」
「じゃあ私がやりますねっ」
夏帆が包丁で香草を切っている横で、成瀬がムール貝を投入したらスープが手に跳ね返ってしまった。「あつっ」と成瀬が跳ねるように短くつぶやくと、それに夏帆が驚いてしまい指先を切ってしまった。
(あっ、やってしまた――)
「夏帆さんっ! 大丈夫ですかっ⁈」
夏帆よりも早く成瀬が反応した。そして急いでキッキンペーパーを手にすると、夏帆の手をとり傷口にクルリと巻き付けた。刹那、大接近するも成瀬のてきぱきした動きに夏帆はあっけにとられてしまう。そして成瀬は無言で指を圧迫して止血を試みてくれた。
(えっと……距離、近いですけど……)
客観的にみると男女が手を握り合っているようだ。この距離の近さに夏帆はうまく呼吸すらできない。成瀬は無言のまま夏帆の手を見つめている。
そして呟くようにいった。
「女性の手って小さいな」
これは無意識に出たらしい。成瀬は慌てて夏帆の手を離した。
「す、すみませんっ。ずっと握ってしまって」
あの成瀬が取り乱すのも珍しい。夏帆は頬を染めて頭を振った。
「いいえ! あの……保健係りみたいで頼もしかったです」
夏帆が本音で答えると成瀬は声を出して笑ってくれた。そして再び夏帆の手を取った。
「そんなに深い傷じゃないみたいですね。なんとか止血はできてる。よかった……」
成瀬は夏帆の傷の具合を確認し安堵した。夏帆はそんな成瀬の手の温かさが嬉しくて「もう少しだけこのままで」と願ってしまった。そして二人の手はどちらから離すわけでもなく、触れ合ったままになってしまった。
(成瀬さん。こ、これはなんの時間でしょうか)
成瀬も目を合わせるわけでもなく、ただ夏帆の手を離さずにいた。夏帆は嬉しかったが一人で緊張が大きくなってしまう。そして、この沈黙に勝つことができなかった。
「ば、絆創膏を貼ってきますねっ!」
裏返った声で夏帆の緊張はばれただろうか。ここで成瀬はようやく夏帆の手を離した。
「そうですね」
夏帆はリビングにある救急箱を取りに行った。そして夏帆は成瀬の行動の意味を考えてしまった。成瀬に小さいと言われた手を広げてみた。
(成瀬さんの彼女は小さい手をしてないのかな。それとも、最近は触れてないからそう感じたのかな)
そうなると成瀬のお付き合いしている女性がいるのかが無性に気になってしまう。触れてくれた夏帆の手にはまだ成瀬の体温の記憶が残っていた。
※
成瀬特製のアクアパッツァが完成した。部屋中に香草とガーリックと海鮮がミックスされた匂いが漂った。
「美味しいー! 味付けも米の炊き具合もばっちりです!」
一口食べた夏帆が目をまん丸にして賞賛した。
「動画レシピのおかげだな」
そういう成瀬も自分が作った料理を口にしながらニコニコだった。
「そいういえば、成瀬さんのお部屋が綺麗すぎて掃除する必要がなかったんですよ。成瀬さんってなんでもできるんですね。逆に苦手なものってなんですか?」
「注射がダメです。特に血を見てしまうと貧血を起こしちゃって」
「へー意外ですね」
「採血されるのをじっと見ていたら、急に目の前が暗くなってきて。針が刺さったままだったから『今は倒れないで―』って焦っている看護師さんの顔が今でも忘れられないな」
そう言って成瀬はくすくす笑った。
「たしかに、さすがの看護師さんもそれは焦るね」
夏帆も想像してしてしまい口に手をあて笑ってしまった。ひとしきり笑い終わったあとスッと二人の間に無音が流れた。夏帆は成瀬と目が合っているが言葉を発さない。何かを期待して成瀬を見つめているのでなかった。この空間がものすごく有難くて嬉しくてたまらなくなったのだ。成瀬がそんな夏帆をみて小首をかしげた。
「夏帆さん?」
「あ……ごめんなさい。こうやって誰かと食事ができるのが、嬉しいです。父が仕事で遅い日は一人で食べていました。だからいつも憧れていたんです」
「何に?」
「家族そろって食べる食卓に」
夏帆の告白を聞いた成瀬は目を開いた。しかしすぐに目を細め優しい眼差しになる。
「奇遇ですね。僕もそういう願望を持っています」
「成瀬さんも?」
夏帆は成瀬も同じ理想を持っていたとわかり嬉しくなる。しかし次の瞬間、成瀬は軽く俯いてしまう。
「なかなか難しいのが現実ですが……」
切ない表情で呟いた。いつもの成瀬とは違う雰囲気に夏帆は戸惑った。会話を紡げずにいた。それに成瀬が気が付き話を変えてきた。
「そういえば、夏帆さんはお酒は飲みますか?」
「お酒は飲みますよ」
「冷蔵庫の中にあるお酒を参考にして買い足したんです。一緒に飲みましょうか」
「はいっ」
夏帆の喜ぶ声を聞くてから、成瀬は立ち上がり冷蔵庫の扉を開いた。夏帆は食卓を見渡した。夕食はほど食べ終えていた。だから成瀬にこう提案してみた。
「二階のベランダで飲みませんか。景色がものすごく綺麗なんです」
夏帆はお気に入りのお酒のみスポットを成瀬に勧めた。
