「よしっ。成瀬さんが帰ってくるまでに掃除を終わらせちゃいましょう」
夏帆は腕まくりをして気合を入れた。掃除機、ワイパー、雑巾をかかえた夏帆は成瀬の部屋の前に立っていた。思い返せば、夏帆が父親以外の部屋に入るのはこれが初めてだ。男性ならではのベッドやパジャマが抜け殻になっているというのは想定内だが、男性雑誌やDVD、妖しいグッツでもあったらどうしようかと考えてしまっていた。
(私は掃除をするだけだから何を見ても知らないふりをするわ!)
謎の宣言をしながら夏帆はドアノブに手をかけ一気に入室した。そして目に飛び込んできた光景に目を見開いた。
「え……すごい……」
成瀬の部屋を見渡した夏帆は呆然と立ち尽くしてしまった。それはなぜって、
1、ベッドの足元には四隅がズレなく折りたたまれた掛物。
2、店の陳列棚に置かれている服のようにたたまれた寝巻。
3、拾うゴミが落ちてない。
4、折り畳みのデスクの上には化粧水、歯ブラシセット、小物たちが綺麗に一列に並んでいる。
5、ハンガーラックに掛けられた官服や作業着には皺ひとつない。
だからだ。
成瀬には出勤前に声をかけたので部屋の掃除をする時間はなかった。ということはこの状態が成瀬の平常運転ということだ。布団の掛物なんて旅館級のたたみ方だ。整理整頓好きの夏帆もさすがに普段からこの状態は保てない。
テーブルの横には持ち込んだアイロンや、その横には手で当ててアイロンができるパットまで用意されていた。成瀬がスマートに見えるのはいつも丁寧に整えているからだとわかった。
「私の出番……ないじゃないの」
夏帆は掃除機を抱えたまま動けなかった。
(イケメンで性格もよくて身の回りのことも自分で出来て。成瀬さん、パーフェクトヒューマン?)
※
「そんなの防大生なら朝めし前でしょう」
真希が人差し指を立てながらドヤ顔で言った。
「あれが普通にできちゃうの?」
夏帆が目を丸くして驚いた。昨日の異様に綺麗な成瀬の部屋の件を夏帆は真希に報告していた。
今は園児の休み時間。この時間を利用して夏帆たちは、お便り帳に保護者へのコメントを記入していた。この作業も慣れたもので会話しながら進めるのもお手のものだ。
「防大はさ、幹部自衛官となるべき資質を磨く場だから、寮で厳しく規則正しい生活を送ってるのよ」
「シーツのたたみ方も教えてもらえるの?」
「あのね、そんなレベルじゃないの。朝は六時にラッパ音で起こされて、十分以内にベッドメイキングして着替えて、学生舎前に集合するの。その間にチェックが入ってベッドメイキングを適当にやった者はやりなおし。それが毎日。否応なしに綺麗にたためるようになるわけよ」
「でも大学生なんでしょう? ずいぶん厳しい環境なのね」
「夏帆は甘いね。防大を卒業して幹部学校に一年間入校するの。そこを修了したらあの若さで幹部なのよ? 心身ともに鍛錬しておかないと現場でやっていけないの」
「すごい世界なんだね……」
夏帆の知らない世界だった。成瀬はいつも平常心で穏やかで苦労というものを感じない。あの落ち着きようは試練を乗り越えてきたから身についてものだろう。成瀬のことを考えながら夏帆は順調に作業を終えた連絡帳をタワーに重ねていった。
「しかもパイロットの適正があった成瀬さんはエリート中のエリート。人物良しで出世確実。女子に人気があるのは当然なのよ」
「そうなんだね。真希が自衛官に入れ込んだ理由がよくわかったわ」
「夏帆だって、もう成瀬さんの魅力に気がついてるでしょう?」
真希はいやらし目をして夏帆の脇を突いてきた。
「や、やめてよ。私はそんな簡単には――」
「簡単には?」
「……恋には落ちないというか……」
夏帆が照れながら俯いた。
「素直じゃないなー。せっかくの期限付きの同居なのに」
「で、でも、素敵な人だなとは思っているよ」
夏帆もようやく真希の前で自分の素直な気持ちを認めた。それを聞いた真希は嬉しそうに反応した。そして夏帆の耳元に近づいて言った。
「同じ屋根の下。始まりはセックスからでもいいかもね♡」
「なっ、なに言ってるのよっ」
「夏帆は可愛いし性格もいいから成瀬さんだってその気になるって」
「真希、完全に私で遊んでいるね」
夏帆が顔を赤らめて頬を膨らまして怒った。
「夏帆先生ー、なんでお顔が赤いの?」
園児のカズくんにばっちり見られて、不思議そうな顔で質問されてしまった。
さすがの真希も慌てた。
「カ、カズくん、なんでもないよー。あっちで先生とブロックで遊ぼうか」
「うん、遊ぶ!」
真希はカズくんに手を引かれて行ってしまった。
(真希の考えはいつも暴走してるのよね)
真希のとんでもない提案のせいで、耳まで真っ赤になった夏帆はホッとした。たとえ色気で迫っても成瀬はのってはこないだろう。数日間だけの同居だが夏帆にはそれがわかった。先日もようやく出番が来た可愛いパジャマを着てみたが、すれ違った成瀬の視線は見事になかった。可愛いといってもミルキーグリーンのゆるふわTシャツにホットパンツだったのだが。
(私って色気がないのかな。いや、ここは成瀬さんは誠実な人ということにしよう)
「夏帆先生ー。次はねぶた祭りの練習しますから準備してください」
副園長の小峰先生が伝えに来た。夏帆は「はーい」と返事を返し、記入し終えた連絡帳を束にして揃え置いた。
「真希先生、職員室に法被を取ってきますね」
「よろしくー」
夏帆は一階へと下りて行った。現在十一時。すでの園の給食室から美味しい出汁の匂いが漂っていた。
「こんにちは。夏帆せんせー」
ちょうど昇降口前を歩いていた時、訪問者が夏帆に挨拶をしてきた。それは夏帆のクラスの佐藤誠くんのママ、佐藤カスミであった。
彼女は元カレの前原亮介が二股をかけていた女性。そして、亮介の現在の彼女だ。突然の登場に夏帆の胸に針でチクンと刺したような痛みが走った。やはり一度傷ついた心はまだまだ反応してしまう。しかし夏帆はいつもの顔を作り対応に努めた。
「誠くんママ、こんな時間にどうされたんですか?」
誠くんママはポロシャツを着こみ、軍手を装着した手には野菜が詰められた段ボールを抱えていた。薄茶の艶やかなロングヘアーをひとつにまとめて見た目も綺麗なママだ。
「野菜がたくさんとれてさ、おすそ分けに来たんだ。今日の給食には間に合わないけどいいよね?」
「いつもありがとうございます。新鮮お野菜ですね!」
段ボールの外に飛び出した大きなキュウリをみて夏帆も驚いた。誠くんママは昇降口からすぐの給食室の前に段ボールを置いた。そして首にかけていたタオルで汗をきゅっと拭った。
「誠くんママ、農協にお勤めですよね。今日はお休みですか?」
「ううん。これから市と会合があるの。いい野菜がとれるのにアピール下手だからさ、そこをテコ入れしていってくる」
くっきりとした強い意志のある瞳でそう言った。はっきりとした凛とした女性。自分の人生を楽しんでやるといった気概が見える。
「誠くんママが交渉したら、きっとうまくいきますよ」
「はは。私って口がうまいからね」
「違いますよ。ポリシーがあって誰よりも情熱をお持ちですからね!」
夏帆は誠くんママを魅力ある人だと思っている。だからこそ幸せになってほしくて、静かに身を引いたのだ。
「夏帆先生ー。法被はまだ?」
遅い夏帆を呼びにタイミングよく真希が声をかけてくれた。
「夏帆先生、仕事中だったね。私も帰るわ」
「お気をつけて」
「あ、そうだ。私、園のねぶたの実行係りになってるんだ。当日、彼氏を連れていくかもしれない。よろしくねっ」
「えっ⁉」
(亮介を誘うの?)
誠くんママはニコリと笑い颯爽と昇降口を去っていった。夏帆は衝撃の伝言に頭が真っ白になる。誠くんママだと気がづいた真希が夏帆に駆け寄った。夏帆は表情を曇らせ黙ったままだった。誠くんママの車が発進するのを見届けて真希が口を開いた。
「誠くんママと何の話をしていたの?」
「園の祭りに彼氏を連れてくるって……」
夏帆が口ごもりながら言うと、真希は眉間を寄せ不快な顔になった。
「彼氏って……亮介? 冗談でしょう? 関係者以外は来園禁止なんだから!
「……」
何やら思い詰めている夏帆に真希は大きく溜息を放った。
「夏帆は全く悪くない。悪いのは全部、亮介なんだから後ろめたさを感じる必要なし!」
「うん…。わかってる」
「じゃあ、気持ちを切り替えて! さあ、子供たちが待ってる。法被、持っていこう」
「うん。そうだね」
真希はそうやっていつも夏帆の心中を察して前を向かせてくれる。夏帆もそれがわかっているから、なんとか気持ちを切り替えた。
