朝六時
奇跡的に目覚ましが鳴った。酒に酔ってもきちんとセットした自分を褒めながら夏帆は重い瞼を開けた。頭の芯に重だるさを感じながら一階に降りると、すでに父親が朝食の準備をしていた。
「おはよう。お父さん、珍しいね。早起きして朝食作りなんて」
「夏帆、昨日頼んだだろう。今日から朝食は三十分早めてくれって」
「えっ聞いてないよ?」
「おまえ、酒でも飲んでたのか? えらい深く眠って返事すらしなかったぞ」
「わ、私だってそんな日もあるよ……」
夏帆は居心地が悪くなり洗面所に向かおうした。その夏帆の背中に向かって父親がありえない言葉をかけてくる。
「成瀬がいるからな」
夏帆は足を止めて、父の言葉を心中で復唱する。
『成瀬がいるからな?』
夏帆は重だるい頭を抱えた。たいした二日酔いでもないのに聞き間違いがひどすぎるなと。寝にし成瀬のことを考えたけど空耳がすぎるぞと一人笑った。そしてヨレヨレの”気合いだ”Tを着たまま、洗面所の扉を開いてしまった。
そこには父親ではない誰かが屈みながら洗顔していたのだ。夏帆は「ひゃっ」と声を出して驚いてしまった。その人はさっと洗い流しタオルで顔の雫を抑えながら振り向いた。
「夏帆さん、おはようございます。体調は大丈夫ですか?」
「えっ、えっ、誰?」
急に見知らぬ人物が現れて夏帆の毛が逆立った。しかし顔を覆っていたタオルが剥がされた時、それが誰なのかはっきりと認識できた。
エリートヘリパイの成瀬だと。
成瀬さん―――?
だとしとも、
なぜ、
うちにいるの?
夏帆は衝撃が大きくて声を出すことができなかった。
(夢で会えたらと願ったから叶ったの?)
いや、これは夢の続きかもしれないと夏帆は頬をつねってみた。
(普通に痛い……ということは、目の前にいるのは)
「ほ、本物の……成瀬さん?」
呆然とする夏帆の言葉に成瀬は思わず眉を下げ小さく笑った。
「どこかにわたしの偽物でもいましたか?」
そこへ父親がやってきた。
「夏帆。こちらは成瀬柊慈さんだ」
「し、知ってる…」
あまりにもありえない状況に、まだ現実のことなのかと戸惑っていた。
「なんで夏帆が成瀬を知ってるんだ?」
「昨日の基地の体験搭乗で夏帆さんが、わたしの担当したヘリに乗っていたんですよ」
成瀬が戸惑う夏帆にそう助け舟を出した。父親も驚いた表情をみせたものの、それならと話をすすめる。
「成瀬が乗っている護衛艦のライフラインが故障して船で生活ができなくなってな。うちの部屋が余ってるから来いよって成瀬に声かけたんだよ」
自衛隊艦艇勤務の者たちには船の中に居室が与えられており、基本はそこで生活をしていた。成瀬はその護衛艦に搭載されている哨戒ヘリのパイロットだったのだ。その船のライフラインが故障とならば仕方はないのだが。しかし部屋を貸すなんて大事なことをさらっと伝えてくる父親に夏帆は文句を言いたくなる。しかし今は成瀬の手前、大人しくしようと決めた。
「そ、そうだったんですね。成瀬さん、大変でしたね」
「船で生活できなかったので井沢さんに声をかけてもらって助かりました。でも、夏帆さんは急なことで驚かれましたよね。すみませんでした」
洗顔したての爽快感あふれる笑顔で言われると、夏帆はまっすぐ成瀬に視線を送れない。
「そ、そんなことないですよ。うちは部屋も余っているので大歓迎です」
大人な対応をする夏帆だが内心は心臓バクバクの状態だ。
(こんな偶然ってある? 昨日、出会った人と家の洗面所で再会するなんて!)
混乱していた夏帆だったがあることに気が付き、一気に現実に引き戻された。
(このヨレヨレシャツ! これは見られたくないよっ)
”気合いだ”Tシャツに羞恥心を覚えた夏帆は胸の前で腕を交差させた。
「夏帆さん、ここ使いますか?」
「あ、はい」
赤くなる頬を見られないように、夏帆はくるりとタオルの棚と向き合った。そして背伸びしてタオルに手を伸ばした。その背後から成瀬の腕が伸びてきて「どうぞ」と爽やかな笑顔と共に成瀬がタオルを渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
夢でならと願った人と朝からこんなやりとりをする自分が信じられない。緊張で夏帆は鼻下に小汗をかいてしまう。
「井沢さん、今日は早めに出ます。昨日の仕事の残務があるので」
脱衣所を出た成瀬は父にそう伝えた。そして着替えをするために階段を上って行った。夏帆は寝癖を直しながらも耳はしっかり成瀬の足音を追っていた。
パタンー…
戸が閉まる音で成瀬に貸している部屋の位置がわかった。それは夏帆の隣の部屋だった。
(私、なにも知らずに呑気に寝ていたっ! 変な寝言いわなかったかな)
あたふたしながら身なりをセットしたら、次はリビングに置いてあるカーディガンを羽織りにいった。もちろんこのTシャツを見られないために。
成瀬が二階から降りてきた。父親に続いて夏帆も玄関に向かう。夏帆が玄関に到着した時、成瀬は後ろ姿で官帽をきゅっと被ったところだった。成瀬がゆっくりと夏帆たちに振り向いた。夏帆が成瀬の白制服姿を見るのは初めてだ。スタイルの良い成瀬の白制服姿はスマートで、映画スターのような雰囲気さえ醸し出ていた。もちろん、夏帆はなにも言えずに見惚れていた。
「では、いってまいります」
玄関扉を開き朝日に包まれた成瀬は微笑みながら挨拶をした。
「気をつけてな」
父親がそう言って普通に送り出してくれた。夏帆は朝から素敵なものを見てしまい、しばらくその余韻に呆けたままだった。
そして思った。
成瀬が制服に着替えたら―――
誰もが恋に落ちる、と。
