「端っこを通って奥に腰を掛けてください」
なにせ古いベランダだ。体格の良い成瀬が普通に歩いたら底が抜けるかもしれない。夏帆が慎重に伝えると成瀬はひょいっと軽い身のこなしで渡っていった。
(さすが成瀬さん、器用に渡るわ)
その後を夏帆が続いた。ベストポジションに二人で座るには狭かった。仕方なしにお互いの身体の一部がくっつきそうな距離感になる。
(崩れるよりはいいよね)
夏帆はギリギリまで成瀬に近づき腰を下ろした。そんな成瀬との距離は肘がくっつくかどうかの微妙なライン。当然、夏帆の胸は否応なしに跳ねだしてしまった。しかし成瀬といえば、「ここからの眺め、最高ですね」ベランダから見える景色に心打たれている様子だった。
成瀬は自分に緊張などしないのかとちょっと悲しかったけど、夜景を見えればそれは仕方ないと思えた。夏帆の自宅から見える夕焼けの陸奥湾も最高だが、夜は市内のネオンが楽しめる。そのネオンは『夜のアゲハチョウ』と例えられ、アゲハが羽を広げているように見えた。
「私たちの街が誇る絶景の一つです」
夏帆も何度見ても飽きがこない風景にうっとりした。そしてお互いの手に持っていたビールを開けた。成瀬が夏帆にビールを傾ける。
「美しい夜景に乾杯」
「乾杯」
二人で缶ビールを鳴らした。
「市内のネオンも綺麗だけど海もいいな」
成瀬が遠い目で湾を見つめていた。
「夜の海は何も見えないけど…」
「仕事以外で眺める海は穏やかでいい」
「仕事中に見る海と違いがあるものなの?」
「夜間のフライトは常に緊張感があるから、こうやってお酒を飲みながら眺めているとリラックスできるかな」
「なるほど」
成瀬はビールを一口飲むと大きく深呼吸していた。本当にリラックスしていることがわかる。ヘリのパイロットの成瀬にとって、慢心が一番怖いことを知っている。搭乗する時は常に初心忘れず緊張感をもつことを意識している。それゆえ精神的に疲れるのだ。普段は隠し持っている疲労をここから見える景色が丁寧に癒してくれているように感じていた。
その時、夏帆は満足そうに景色に酔いしれる成瀬の横顔をみていた。邪魔はしたくはないけど、さきほどの成瀬の悲しそうな顔の理由が知りたくなった。しばらく時間を置いた後、夏帆は切り出した。
「成瀬さん。一つ、聞いてもいい?」
「なんですか」
「さっき、私が家族で囲む食卓が恋しいって話をしたら成瀬さんは悲しい顔をしました。どうしてかなと思って」
夏帆は深い意味は持たずに聞いたつもりだった。しかし質問された成瀬は夏帆の顔を見るなり、ふっと表情がなくなった。そして少し考えるように目を逸らした。
「うまく伝わらないと思いますが”いつかは立ちはだかる壁”なんだと思って」
「どういう意味?」
夏帆が頭をかしげて聞き返した。成瀬はじっと黙って次にふっと笑った。
「あれは独り言だった。夏帆さんは気にしないで」
そんな返しをされて夏帆はキョトンとしてしまう。”立ちはだかる壁”だなんて夏帆には成瀬が何を例えたのか全くわからなかった。何か触れてはいけないことに踏み込んでしまったかと考えてしまう。しかし、そんな夏帆に今度は成瀬が質問してきた。
「俺からも一つ、聞いてもいい?」
成瀬は夏帆を覗き込むように見た。
「な、なんでしょう…」
夏帆が身構え緊張気味に返した。
「付き合っている人はいる?」
「へっ…」
変な声色を出して夏帆の頬が一瞬で赤く染まってしまった。あの成瀬がいきなり夏帆の交際相手について訊ねてくるとは思いもしなかった。
(わ、私にちょっとくらいは興味ある?)
顔色がばれない夜でよかったと夏帆は本気で思ってしまう。
「……最近、別れまして……」
「ならよかった」
なぜか成瀬はにっこりと笑った。どういうことなのかと夏帆は戸惑った。
「な、なんでそんな質問したの?」
「井沢さんがねぶたに行こうと誘ってくれた時、夏帆さんが戸惑っているように見えて。もしかして恋人と一緒に行きたかったのかなと思っていたから」
あれは成瀬と一緒にいけることへの喜びで戸惑っていたのだ。今、ここでそれを伝えたいけど夏帆にそんな度胸はなかった。頬を染めたまま何も言い返せず、ただビール缶を両手で持っていた。成瀬がまたまた夏帆を覗き込んだ。
「では気兼ねなく、一緒に見に行ける」
「……うん」
「初めてのねぶた、楽しみになってきたな」
(ねぶたが楽しみなんだよね。いや、それでいいんだ。一緒に行けることが幸せなんだもん)
夏帆も俯きながら成瀬を見て微笑み返した。例え自分の思いを伝えることが出来なくても、こうやって成瀬と過ごせる時間があるだけで十分幸せだと感じていた。
夏の湿った陸風が二人を包んで海に戻ってゆく。心地よい真夏の夜風。夏帆は一口飲んで夜空を見上げた。
(船よ直らないでおくれ。まだまだ成瀬さんと同居を楽しみたいの)
期限付きの同居とわかっているからこそ、この一秒だって幸せをかみしめいたい。夏帆は強くそう願った。
「追加のお酒、持ってこようか?」
夏帆が成瀬にそう声をかけた。綺麗な夜景を眺めながら、二人で居心地の良いまったりした時間を過ごした。さすがに缶ビールが空になってしまった。
「大丈夫」
成瀬は微笑みながら頭を軽く振った。そして夏帆にとっては残念なことを言われてしまう。
「そろそろ中に入ろうか」
「……」
正直、夏帆は成瀬とこの時間をもっと楽しみたかったので心は沈んでしまった。
(成瀬さんは私が隣だとつまらないかな。もっと一緒にいたい! なんて言ったら成瀬さんどうするかな)
ちらっと成瀬を見て、わがままを言ってみようと挑戦しかけた。でも結局いつもの夏帆に戻ってしまう。
(冷静になれ! 夜景とアルコールが私の脳みそを大胆にさせているっ)
我に返った夏帆は、ほてりで赤くなった頬を両手で押さえた。
「夏帆さん?」
隣では成瀬がそれを不思議そうな顔で見つめていた。夏帆は一人で勝手に恥ずかしくなってしまう。不自然に足を踏ん張り、その場に立ち上がろうとした。
「じゃあ、そろそろ中に入りまー
夏帆がそういいながら立ち上がると、突然片足がガクンっと沈みバランスを失ってしまった。
「―うわっ!」
「夏帆さんっ⁉」
成瀬の声と共に夏帆の両腕が宙に浮いた。しかもバランスを崩したのが右足だったから、成瀬のいる方へと体制を崩してしまった。
(嘘っ、床、崩れる? )
成瀬を巻き込んで崩れたらどうしようと刹那、夏帆の頭によぎった。
ダンッ―――
それなりに大きな音が周囲に響いた。夏帆が足元を覗くと、自分が踏み込んだ場所だけが崩れたとわかり安堵した。しかし顔を上げると、倒れ込んだ夏帆の両腕をしっかりと支えていた成瀬と顔を突き合わせていた。
ちょっと踏み出したら成瀬と鼻先がくっつくのではないかと思われる距離―――。
(こ、この距離は……う、動けない)
「支えてくれてありがとう」といえば済むはずなのに、成瀬の真っすぐな瞳と高まる鼓動のせいで、夏帆は魔法にかけられたように動けなくなる。
(な、成瀬さん。ど、どうしたの?)
成瀬の方も声を発するでもなく、夏帆の両腕をつかんだまま見つめてくる。その表情からは成瀬の感情は読めなかった。ただ嫌悪を感じることはない。むしろ成瀬自身も夏帆と同じく、この後の行動に戸惑っているようにも感じた。
「あ、あの…」
夏帆が先に声をかける。すると成瀬は瞳を揺らして、夏帆の腕をさらに強く掴んだ。夏帆の鼓動が最高潮に舞い上がる。
「成瀬さん…」
夏帆は甘美な未経験に呼吸さえうまくできない。しかも成瀬の視線がゆっくりと夏帆の唇に移ってきた。
(…もしかして…キス…?)
それならと覚悟を決めて夏帆がまぶたを閉じようとしたときだった。成瀬の瞳がふっと外され、同時に夏帆の腕から成瀬の体温がなくなった。
「大丈夫でしたか?」
「え? …ええ…」
(い、今のなんだったの?)
夏帆は動揺して状況の理解が追いつかない。成瀬は床を足でトントンと踏み鳴らした。
「どうやら夏帆さんが踏んだ板だけ緩んでいたらしいですね」
成瀬はいつもの笑顔に戻っていた。キスを期待してしまっただけに、夏帆の膨らんだ気持ちはシュルシュルしぼんだ。
「そ、そうみたいですね。成瀬さんがケガしなくてよかったです……」
成瀬があまりにも普通に接するので、夏帆も何事もなかったように返すしかなかった。
「では、気を付けておりましょうか」
「え、ええ…」
(成瀬さんっ私をドキドキさせないで!)
成瀬に好意を寄せる夏帆は成瀬のやる事にいちいちその意味を問いたくなってしまうのだから。
(今日は夜景見て楽しんでくれたから、それでよしとしよう)
夏帆もそう思うことにした。そして二人はでベランダを後にした。一階に降りるとちょうど父親が帰ってきていた。
「お父さん。帰ってたんだ」
「ああ、今帰ってきたところだ」
「……そう」
なんだか父親の態度がよそよそしく感じた。夏帆はどうしたのかと思ったがあることが脳裏をよぎった。さきほどのベランダは玄関がある庭から丸見えなのだ。しかも不可抗力とはいえあの距離で見つめ合っていた二人。
(もしかして、見られた?)
遠目でみれば男女の睦事にもみえなくない体勢だった。しかし父親はいつも通り晩酌の準備をしていた。
「成瀬、一緒に飲まないか。明日は休みだろう?」
「はい。では少しだけ」
晩酌の相手に成瀬を指名していた。
「夏帆、つまみだせるか。飯は食ったんだけど、やっぱり小腹が減るな」
いつもの調子の父親に戻っていた。夏帆は安心して「はいはい。了解しました」と返して、竹輪と紫蘇と梅干しでつまみを作ることにしたのだった。
